III 6月(2)-6
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田中は陽美の部屋へと無心になって歩いた。
陽美の地図によると、次の目印は小さなたばこ屋さんと缶ジュースの自動販売機がある狭い交差点だが、しばらくは道なりに行けばよかったのである。
加藤との約束は月曜日のことだから今日はもう考えなくていい。
それはとうに田中の頭から消えていた。
土曜日の午後とは言っても、商店街を離れれば人通りはほとんどない。
田中は左手で紙袋を胸に抱くようにして快調に歩を進めた。
静かで穏やかな陽気に恵まれた日であった。
心なしか気分も良くなってきたような気がした。
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やがて、田中は妙な気持ちを感じ始めた。
若干歩調を緩め、目前の景色を見回してみた。
まだ遠くなってない記憶がぼやけた景色を徐々に浮かべてきた。
田中の心の森の奥の湖はきれいに澄みわたり、魚は快調に動けるらしかった。
「こりゃあ、公園に行く道じゃねえか」
田中は立ち止まって陽美の地図を黒いジーンズの右うしろのポケットから取り出した。
このまま行けば公園のある一角に出るのは間違いない。
しかし、陽美の地図に公園は省略されていた。
(それでさっきまで気がつかんかったわけか、オレは)
田中は息をふうっと吐くと、地図を四つ折りにしてもとに戻し、元のペースで歩きだした。
── 小野さんの表情は、私が傍から見てもかなりかわいそうに思えました。
月曜まで引っ込んでいるはずの加藤がひょっこり頭の中に出てきた。
加藤の顔ではなくそのセリフの声とニュアンスを、田中はいつになくしっかり覚えていた。
(いくらヒデカズのセリフとはいえ、恵子についてのことだからか?)
今度恵子に行き会ったらどんなことを言えばいいのだろうか。
漠然と考えているうちに、田中の目には例の公園が遠くに見えてきた。
ふと気がつけば、小さなたばこ屋さんと自販機は田中のすぐ傍にあった。
危うく通り過ぎてしまいそうになっていたのである。
田中は陽美の地図に公園がないわけが理解できた。
これらは公園よりもずいぶん手前にあるからだ。
自販機は赤い外装のコカ・コーラ系のものだった。
田中の足はそこで止まってしまった。
同時に、恵子に続いて公園を歩いていた場面が頭に浮かんできた。
田中の心の森の奥にある湖の魚は仕事を着実にこなしていた。
* * *
── 田中くん、すごく優しい目をしてる。
恵子にそう言われて、田中はたじろいでしまった。
自分自身のイメージにそぐわない言葉だと感じていた。
── さっき小さい子たちが遊んでいるのを見てたときね、私は田中くんの表情を覗いてみたの。
恵子が自分の様子を見ていたなんて、田中はすっかりノー・マークだった。
(裏をかかれちまったようだ)
田中の頭には「負け」という言葉が浮かんでいた。
予想外の反応をした恵子にやられた。
田中はそう思った。
その感覚は、田中に高校時代の試合の一場面を連想させた。
とてもよく似た感覚だったのだ。
* * *
ゴール・キーパーである田中に向けて攻め込んできた敵が左右別々に走り込んできた。
スライディング・タックルで味方から奪われたボールがすぐにパスで回されたのだった。
トラップをほとんどしない素早さだった。
ボールを奪われたのはひとつ下の後輩だった。
この試合がその後輩のデビュー戦だったはずだ。
味方のディフェンス・ラインは裏をかかれた形になった。
高城が猛烈にセンターから向かって左側の敵へ懸命に追ってくるのが田中に見えていたが、どうも間に合いそうにない。
ふたりの敵はさらに短いパスをクロスでつなぎながら、ゴールに近づいてくる。
その背後から高城とは逆側へ三人目の敵が駆け込んできた。
背番号は10だった。
三人になった敵は田中の正面でシュート体制に入ったようだった。
誰が打ってくるにせよ、この距離では田中が圧倒的に不利だった。
高城は先にいた右側のひとりをどうにかマークすることができたが、スピードを上げてやってきた背番号10の前に絶妙なパスが出された。
(来るぞ)
田中はそう感じて賭けに出た。
高城がどうにもできなかったひとりは田中から見て右側、左サイドに走っていた。
味方のディフェンスが必死に戻ってくるのが見えた。
田中の前に躍り出た背番号10はペナルティー・エリア内に入り今にもシュートを打とうとしているようだった。
田中は全力疾走で前に出た。
敵との距離を詰めるほどシュートの角度は狭められる。
さっきまでの位置にいるよりはその方がまだゴールを守れる可能性が高い。
田中はそう判断したのだった。
田中の目に映っている背番号10は田中の突進が急速だったためか体勢を崩した。
シュートがすぐに打たれることはなく、ややうしろへ短いドリブルをして持ち直した背番号10は今度こそ決定的なタイミングをうかがっているように見えた。
田中は自分の勘に賭けた。
その賭けに勝つことだけを考えて、シュートを打とうとしている敵との距離をぐんぐん縮めた。
左サイドに展開しているもうひとりの敵が「左ガラ空きだ」と声を出した。
確かにそちらにパスを出されたら田中にはなす術がなかった。
ただ相手のシュートが外れることに期待するだけになってしまう。
田中の目に相手が右足でシュートを打とうとしているのが見えた。
あるいはパスを出すつもりだろうか?
どっちにしろこれなら左サイド方向にボールが来る。
田中は相手との距離をますます縮めながら意識を左サイド方向に集中した。
瞬時に自分の体を少し左に傾けた。
これも咄嗟の賭けだった。
シュートのコース次第では田中の顔面にボールが来てもやむを得ない。
顔でボールを受けてもゴールされなければそれがいちばんなのだと田中はこれ以上ないほど理解していた。
お互いの動きから、最悪の場合交錯もありうると田中は覚悟して相手の目前に迫っていた。
そのとき、相手の右足がスリップしつつもボールのわずか手前で止まり、突っ込むように左足が前へ出たのが見えた。
田中は相手と接触することはなかった。
相手の体はバランスを崩し尻餅をついたまま動かず、田中の体は左方向に傾きながらスライディングしていた。
高城が「あっ」と叫んだのが分かった。
相手の左足から打たれたシュートはゆっくりと田中の頭上を越えて、ゴールポストの端へと向かって行った。
田中の顔に土がかかった。
相手の蹴り足のせいに違いなかった。
(足の力をうまく抜いて、スパイクをグランドにぶっつけながら打ちやがったのか)
田中はスライディングした状態から体を反転させ、ボールの行先を見た。
ボールは田中がもはや追いつけないのを知っているかのようにのんびり転がり、ポストの内側でゴール・ラインを通過するとネットに当たって止まった。
(やられちまった)
田中は動かなくなったボールを見ていた。
負けを認めるしかなかった。
相手の方が冷静だったと、田中は思った。
田中は立ち上がろうとせず、グランドに大の字になって空を見ていた。
かつて自分がフォワードをしていたときに同じような場面があった。
田中の目にはいくつかの雲が横切っていくさまが映っていたが、見えていたのは頭の中の記憶だった。
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そのときの田中は、相手キーパーの右脇の下を狙って左足でシュートを打った。
コントロール優先の、力を抜いたシュートだった。
田中は狙いどおりのシュートが打てた。
ボールは相手キーパーの右脇の下を抜けゴールポストの右側へ、田中から見れば向かって左側へと飛んだ。
田中はキーパーとの接触をかわしてスライディングしながらボールの行方を目で追った。
このまままっすぐ行けば、決まる。
田中のその考えは正しかった。
ところが、田中のシュートはわずかに回転がかかっていた。
(力の抜き方が足りなかったか……)
ボールはネットを揺らすことなくポストから逸れてゴール・ラインの外へ出て行った。
*
(二重に負けたな、オレは)
高城がやって来て、田中へ両手を差し出していた。
田中は回想をやめて高城の手を取り、起き上がった。
チームメイトは一様にがっかりしていた。
ボールを奪われた後輩は膝をついたままうずくまっていた。
ゴールを決めた相手は直ちに立ち上がり、大声で喜びながらさっさと自陣へ帰っていた。
立ち上がった田中が頭やユニフォームについた土をぱたぱたと叩き落としていると、高城の声がした。
「まんまと切り返された。ごめん」
「オレも止められずにスマン」
「泥まみれだな」
「キーパーは泥まみれでかまわん」
「背番号1がすげえことになってるぞ」
「は?」
高城に言われてみると、背中がやけに冷たい気がした。
「今日はあっちいし、オレもけっこう動いてっからな」
田中はそう言ってごまかしたが、高城は無言のままニヤッとすると自分のポジションに戻ろうとした。
高城には冷や汗がバレたかもしれん、と田中は思った。
「あいつには気にすんなって言っといてくれ。まだ終わりじゃねえぞ、ってな」
部長の田中は副部長の高城に、まだ膝をついたままうずくまっている後輩への声がけを頼んだ。
「当たり前だ、任せとけ」
高城は田中へ右手を挙げてみせた。




