III 6月(2)-5
加藤はコンビニで買い物をしたものが入った袋を持ったままの左手でメガネを取り、右手では目頭をハンカチで拭っていた。
拭い終えると、満面の笑みを崩さない加藤は見るからに嬉しそうだった。
(なんだそのおおげさな反応は?)
「田中くん、もう大丈夫なんですか? 元気なんですか? 私が誰だか分かりますか?」
矢継ぎ早に質問が連続したので、田中はすぐにうんざりしてしまった。
「オレは怪我人でも病人でもないのだが」
「そうなんですか! よかった。それはホンッッットオーに、よかった」
(だからその反応はなんだよ、ヒデカズ?)
田中は疑問に思ったものの、口には出さなかった。
加藤が必修で欠席続きだった田中を真剣に心配していたのが充分にうかがえたからだった。
田中は何はともあれ加藤に礼と詫びを言うことにした。
「心配かけちまったみたいで、スマンな。それと危ない目にも遭わせちまって……」
「いいえ、田中くんがお元気なんだと分かりましたから、それでもう十二分ですよ。でもよかった。会えたし、声を聞けたし、元気そうだし」
加藤は田中の言葉を最後まで聞かずに言った。
(ヒデカズらしいってこったな)
田中はそう思った。
それはそうとして、おおげさな態度を取られるのは田中の性に合わなかった。
「ヒデカズの想像の中のオレはいったいどうなってたんだよ? 何も、そんな感激させるようなことをオレはしとらんのだが」
「田中くんが元気でいてくれるなら、もうそれだけで私も元気が出てくるんですよ」
(なんじゃそりゃ)
「でも、田中くんの欠席でいちばん憔悴していたのは間違いなく小野さんですよ」
「は?」
「小野さんの表情は、私が傍から見てもかなりかわいそうに思えました」
(そんなに、か?)
田中は自分が想像していたよりもずっとはるかに、恵子が心配してくれたのかもしれないと思った。
(やっちまったのか、オレは?)
「ですから、その……」
「ん?」
「私がこんなことを言うのは差し出がましいと思うのですが、小野さんには優しくしてあげてください」
加藤は恥ずかしそうに下を向いて、そわそわしながら静かに言った。
田中は加藤の言葉に衝撃に近い感動を覚えた。
(話題がアイドルやらラブコメ……だったか、そんなのばっかのヒデカズが、こんなセリフを言うとは!)
田中はますます恵子に申し訳ないと思うのだった。
「ところで今日はどうしたのですか? 一見したところ、サークルか何かの集まりでもあるのでしょうか?」
加藤はテレビのチャンネルを変えたかのように、あっさりと田中がよく知っている様子に戻っていた。
(やっぱりヒデカズだな……)
田中がそう思いかけていると、加藤はすぐに言葉を続けた。
「講義がない土曜日にこんなふうに行き会えるなんて、やはり田中くんは私にとって特別な人ですよ」
(まったくもってオレが口を挟むヒマがねえぞ)
田中はそう思いながら加藤の言葉を確実に否定した。
「イヤ、それは違う」
「はい?」
「そんなことよりもだ、オレが休んでる間は大丈夫だったか?」
田中は加藤にこの間の無事を確認してみた。
「え? 何がですか? 私の健康ですか? それならおかげさまでご覧のとおり元気です」
(そんなことが聞きたかったんじゃないのだが)
田中は「言葉が足りなかったのだろう」と自省した。
ただ、加藤の返事はいつもの数倍は活きがよかったので、田中はとりあえずヨシとした。
(元気で何よりだ、ヒデカズは)
田中の心配は加藤の健康よりも手荷物にあったが、加藤自身は一切気にしていないように見えた。
「私は学校の図書館でちょっと調べものをしていまして、おなかがすいたので買い出しに出てきたところなのです」
加藤はそう言うと、買ってきたばかりのコンビニのおにぎりをふたつ、ビニール袋から出して田中に見せた。
コンビニの袋は田中が持っている紙袋より大きく、他にも何か入っていた。
「それとですね、これは」
「分かった、邪魔して悪かったな」
加藤はその何かを見せてくれそうだったが、田中は止めた。
そうしなければいつまでも話が続きそうに思えたからだ。
「田中くんが邪魔だなんて、そんなことあるはずないですよ」
加藤の返事は田中のひとことから一瞬の間も置かずに素早く放たれた。
「むしろ私の方が田中くんを邪魔してしまったようで、申し訳ありません」
加藤は身体が直角になるくらいまで頭を下げたので、田中は思わず一歩うしろへ退いた。
「オイオイオイ、オイ。そんなおおげさなのは……」
「そうだ、もしよかったらですが」
加藤は何か思いついたらしく勢いよく頭を戻して言った。
田中はまたも最後まで言えなかった。
「田中くんがお昼をまだ食べてないなら、一緒にどこかで食べませんか? 実はお話したいこともありますし」
「は?」
「コンビニで買ったものは夜にでも食べられますし、なんなら3号館の学食にでも行きませんか? 土曜日でも何かしら食べられるはずですし」
加藤はそう言うや否や学校の方へと歩きだしたので、田中は慌てて止めた。
「ちょっと待てヒデカズ」
「あ、私は歩くペースが速かったでしょうか? どうもすみません」
加藤は田中へと向き直ると深々と頭を下げた。
直角になるほどではなかったが、田中は加藤の態度にまた慌てることになった。
「あのなあ、さっきからおおげさなことすんなよ。ヒデカズはオレに謝ることはねえし、オトコはそう簡単に頭を下げるもんじゃねえとオレは思うぞ」
「田中くん……」
加藤はハッとした表情で前屈みのまま顔を上げた。
田中は加藤の眼差しが自分へまっすぐに届いていることに気づいた。
(なんでそんなうるうるしてんだよ、ヒデカズ)
「田中くんはやはり私のいちばん大切な親友です」
「はあ」
「いつだって私のことをとても気遣ってくれて……」
(イヤ、そんなつもりはないのだが)
「田中くん、またお願いばかりで恐縮ではありますが、相談に乗っていただけないでしょうか?」
加藤は姿勢を直立に戻し、強い口調ではっきりと言った。
「どうかお願いします、相談に乗ってください」
加藤は先ほどよりも深く頭を下げた。
直角以上だと田中は見てとった。
(だからな、ヒデカズ……)
「できれば、その、今すぐにでも」
(話があるってのはつまり、相談があるってことだったか)
田中は加藤が本気なのだと分かった。
(それはそうとヒデカズってヤツは)
田中は今度は強めにこう言った。
「おおげさなことは今すぐよせ。オレはヒデカズにそこまでしてもらうほどのヤツじゃねえぞ」
「ですが田中くんの貴重な時間を割いていただくわけですし、私の頭なぞいくら下げたところで田中くんには……」
加藤はまた前屈みのまま顔を上げた格好で熱っぽく言った。
(そろそろオレはしんどくなってきたぞ)
田中は1秒でも0.1秒でも0.001秒でも早く加藤から離れたくなった。
いくらなんでもやりすぎだと思ったのだ。
「相談に乗るのはまったくかまわんのだが、おおげさなのはイカン。それにこんな道端でするような話じゃなかろう」
田中は人が行き交う中で何も気にしていないらしい加藤に軽く釘を刺してみた。
「いえ、私は何も恥ずかしいことはありません。だからそんなに心配していただかなくても大丈夫です」
(心配なんかしてねえぞ)
「むしろ街の皆さんに田中くんがどれほど素晴らしい人なのかお伝えしたいほどです」
「ヒデカズ、うるさい」
田中はまともに釘を刺さなくてはダメだと感じた。
(この男は思い立つとガンガン行きやがるから油断がならんのだ)
田中はすっぱりと言うことにした。
「いいか、よく聞けよヒデカズ」
「はい」
加藤は再度直立不動になった。
コンビニの袋が傾こうが脚にぶつかろうが、一向に意に介さないようだった。
(ったく、仕方のねえヤツだ)
田中は陽美からの注文の品が入った紙袋を右手に持ち替え、左手で顔の上半分をを押さえそうになった。
(……と、そんな場合じゃねえよ)
気を取り直すと田中はこう言った。
「今日のところはだな、オレは用事があって忙しいのだ。だからヒデカズの話を聞くのは週明けにしてくれ」
「これは失礼しました。私が慌ててしまったばかりに田中くんの予定のことまで頭が回っていませんでした。申し訳……」
「よせ、ヒデカズ」
「はい?」
田中は加藤が頭を下げかけたのですかさず止めた。
加藤はまたしても前屈みのまま、顔だけ上げて田中を見た。
「あのなあ、そんな簡単に頭を下げちゃイカン。この程度でそこまで頭を下げちまうとだな、もっと大切な話があるときには地面に頭がメリ込まねばならんぞ」
田中は自分の考えを正直に言った。
「分かりました、田中くん」
加藤は姿勢を直立不動に戻すと真顔になった。
コンビニの袋は揺れっぱなしであった。
「分かってくれりゃあそれでヨシなんだが」
「無礼な私を許してくださった上に、週明けの月曜日の昼休みに3号館の学食で話を聞いていただけるなんて」
(オレはそこまで言っとらんぞ)
「田中くんの人としての大きさにいつも感動するばかりです」
加藤がやけに積極的なのと、月曜日にこれと言った用事はないはずなので、田中は加藤の希望に応じることにした。
田中は紙袋を左手に持ち替えながら言った。
「分かった。じゃあそんときにな」
「本当ですか! いいんですか!?」
田中は自分にまっすぐに向けられた加藤の瞳がキラキラと輝いているような気がした。
「じゃあ、オレは先を急ぐからこれで」
そう言い残すと、田中は右手を軽く上げて狭い交差点へ向かおうとした。
振り返るつもりはなかった。
これ以上加藤のペースに合わせてはいけないと感じていた。
「田中くん」
加藤の大きな声は田中の脚を止めるのに充分すぎるほど響いた。
往来を行き交う人たちの視線がいくつか自分へと向けられている。
田中はそう感じながら、やむを得ず半身で振り向いた。
間髪入れず加藤が言った。
「月曜日にまた3号館の学食で」
田中は無言のままあらためて右手を軽く上げて見せると、今度は早足で立ち去った。
狭い交差点を左へ曲がるまで、加藤の「ありがとうございます」「よろしくお願いします」「田中くん……」と言った声が聞こえていたが、田中は背中で受け止めるだけにした。
(まったく、おおげさなヤツだ)
田中は左折後、数メートル先で立ち止まった。
(ヒデカズめ、すっかり道順が頭から抜けちまったじゃねえか)
フーッと息を吐くと、田中は黒いジーンズの右うしろのポケットから地図を取り出して広げた。
(学校からだと25分くらいだったよな)
田中は自分の進むべき道を確かめると、ロスした分を走って取り返そうかと思った。
地図を元に戻すと、左手に持った紙袋が目に映った。
田中は勢いよく歩きだした。
(ハルちゃんを待たせてちゃイカンが、オレが汗だくになってもイカン)
陽美の顔が田中の脳裏に浮かんできた。
その表情は田中がいちばん好きな笑顔だった。
田中は自分がずいぶん積極的に目的地へ向かっていることに気がついてなかった。