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Desafinado(調子はずれ)  作者: カワヤマソラヒト
27/61

III 6月(2)-4

      *


 田中は輸入食品店での買い物を終えると、店外に出るやいなや大きくため息をついた。


(なんでオレはこんなことに……)


 自業自得なのは分かっていたが田中はついそう思わずにはいられなかった。

 陽美に頼まれることがなければ、田中は輸入食品店に入るようなことはまず考えられなかった。

 自分としてはなんの用事も考えつかないからだ。

 もちろん、田中だって食品や日用品の買い物はする。

 かと言って、わざわざ輸入食品店に来なくては手に入らないものなど必要はないし、もともと頭にそうした選択肢すらなかった。

 良い方向に考えれば陽美のおかげで新たな経験を積めたことになる。

 だから、今はさっぱり想像ができないがこれもきっと自分にとってプラスになる。

 なるはずだ。

 そう思うように意識を持っていこうとしたものの、田中の表情は無意識のまま顔をしかめたままだった。


(ハルちゃんに頼まれたのはたったの三つだけなのに、ずいぶん苦労しちまった)


      *


── 三つほど買い物をお願いしたいのです。もちろんお金は精算するから、申し訳ないのですが立て替えておいてくれる?

「おお、とりあえず財布にはそこそこ金はあるから大丈夫だと思うが」


 そう言いながら、田中は黒いジーンズの左うしろのポケットからふたつ折りにした財布を取り出した。

 5千円札が1枚と千円札が6枚ほど入っているのを確認すると、小銭は敢えて確認しなかった。


── さすがマアくん、頼りになるなあ。三つぐらいならメモをとる必要もないだろうし。

「当然だ」


 田中は調子に乗ってそう答えてしまった。


── まず、クミンでしょ。

「クミン? なんじゃそりゃ?」

── あれ? 知らないかな、マアくんは。

「スマンがそのとおりだ」

── そんな、謝ることじゃないのに。クミンていうのはスパイスの名前なのだ。

「スパイス? ああ、カレーだからか」

── 正解。あとでちょっと足したくなるかもしれないから用意しておきたいのです。

「エスビーのゴールデン・カレーがあればいいんじゃねえのか?」

── ふっふっふ。

「な、なんだよ」

── エスビーが定番だった時代もありましたな。昔はそれで満足できたこともあった。認めよう。しかしだねマアくん。

「は?」

── マアくんが気がつかなかっただけで、実は少しずつ進化してきたのだよ。ルーだってね、たった1種類だけということは何年も前からないのです。

「なんだって」

── 驚いたようだね、マアくん。

「お、おお」

── サトミンは分かってくれてたのよ。タカくんはマアくんと変わらないけど。

「兄貴はそうだろうが、聡美は分かってたのか」


 田中はちょっとだけ妹に感心した。


── そして今回も、です。

「ん?」

── さらにいくつかのスパイスを追加しつつ、進化を続けているのだよ。

「分かった」


 田中は陽美の話が長引くのを恐れてひと区切り入れた。


「分かったが、念のために確認するぞ。クミン、だよな?」

── そのとおり。


 田中は心の中で「クミン」という3文字を反芻した。


(油断すると「区民」にしちまいそうだからな)


 田中はカタカナで覚えようと心がけた。


── それとね、あのお店は自家製のガラム・マサラを売っているので、それもお願いしたいのです。

「スマン、もう一度言ってくれ。皿がどうしたって?」

── マアくん、お皿は関係ないのだよ。

「は?」

── ガラム・マサラもスパイス。でもね、いくつもの種類が混ぜてあるのだ。カレー粉もそうなんだけどね。

「はあ」

── コーヒーのブレンドみたいにね、ブランドやお店によって個性があるのですよ。

「はあ」

── 覚えにくかったら「マサラ」の3文字だけでいいから、お店の人に訊いてね。

「お、おお……」


 田中は自分の不甲斐なさを恥じた。

 そしてしみじみと思った。


(知らねえってのは、おっかねえもんだ)


 メモを取ったところで陽美にバレなければ問題ないと思いつつも、そうすることはできなかった。

 自分が言ってしまった「当然だ」のひとことを嘘にしたくなかったのである。

 田中は心の中で「マサラ」という3文字も反芻した。


(どうしても「皿」の字が浮かんでくるのだが)


 田中はこれもカタカナでと心がけた。


── もうひとつは紅茶を。

「紅茶か、そいつはよかった」


 田中はつい本音を漏らした。

 紅茶なら自分だって知っていると思ったからだ。


── そろそろ無くなりそうなので、フォートナム・アンド・メイソンのロイヤル・ブレンドが欲しいのです、缶入りの。

「ちょっと待ってくれ」


 田中は陽美の口からカタカナが大量に出てきたので慌ててしまった。

 紅茶だからと油断していたのでショックは倍増していた。


「もうちょっと簡単に言ってほしいのだが、ダメか?」


 受話器越しに陽美が笑いをこらえている様子が伝わってきた。


「オレのことはよく分かってるだろうから、無理に笑いをこらえなくてもいいのだが」

── ごめん、意地悪しちゃったかな?


 陽美は悪びれる様子もなく言った。


── マアくん、メモしていいんだぞ。

(うわ、バレてやがる)


 相手が陽美では仕方がないと田中は思った。

 勝てる相手ではないのだ。


(だがな、自分の言葉を撤回するってのは、ハルちゃんにじゃなくて自分に「負け」を認めることになっちまう)


 田中はとにかく「もう一度言ってくれ」と陽美に頼んだ。


── ではこうしよう。深緑色の缶に入った紅茶を買ってきて。できれば「ブレンド」って名前がついているものを。


 田中はハードルが急に低くなったように感じた。

 同時に、陽美はすっかりお見通しに違いないと確信した。


── もしも何かの場合は電話してくれるとおねえさんは嬉しいな。

(これは助け舟ってヤツか)


 陽美の役に立ちたいし、頼りにしてもらいたいという気持ちが田中にはある。


(いつまでも世話になってばかりではイカンというのに、まだまだってことかよ)


      *


「クミンにガラム・マサラに、深緑の缶の紅茶はロイヤル・ブレンド。これでヨシだろうが」


 田中は紙袋の中を覗いてひとつひとつ確かめた。

 店員に訊いたからとはいえ、難題をクリアできたはずだ。

 緑の缶の紅茶に「ブレンド」はいくつかあったが、「ロイヤル」と聞いた気がするし。

 缶の色が濃いし。

 レジに向かう前に多少の不安はあったが公衆電話を使う気はなかった。

 田中は自分を信じたのだった。


(間違ってたら素直に謝るだけだ)


 田中は駅前の通りに戻ると、黒いジーンズの右うしろのポケットから例の四つ折りにした地図を取り出した。

 これから向かう目的地を再確認するためだった。


(学校の敷地を囲んでる道に出る前に、左へ曲がりゃあいいってこったな)


 陽美謹製の地図を元に戻すと、田中は元気に歩きだした。

 歩き慣れてる道なのにいつもとは全然違っているように感じられる。

 田中はそれが不思議であった。

 おまけにうっかり「不思議」に釣られて佐野幸美を思い出してしまった。


(この世界が不思議で満ちているとまでは思わんのだが)


 田中はボソリと独りごちた。


「不思議なことがあるのは認める」


 佐野の説を全面的に認めたのではないから、自分は「負け」ではないと田中は判断した。

 ただ、佐野が幾分自分よりも優勢になったとは思えた。


(つまらんことはさておき、だ。今は普通に学校へ向かって進めばいい)


 田中は雑念を振り払って歩くことに集中した。

 普段は通過するばかりのコンビニが左前方に見えてきた。

 今日もまた通り過ぎるが、直進ではなくその先の狭い交差点を左折する。

 代わり映えしない景色の中でいつもとは違うことが着々と進行していく。


(せっかく佐野と出くわさずにすんでたってのに、思い出しちまうとは)


 田中はそう思った。

 雑念は次々に湧いてきた。

 何故か落ち着かないのだった。

 こんなふうに何かしら思ってしまうのは自分のイメージに合わない。


(オレ自身のイメージはもう全滅かもしれん)


 足取りはしっかりしていた田中だったが、そんなことまでぼんやりと頭に浮かべていた。

 コンビニに差しかかり通過する直前、田中は出入口の自動ドアを抜けて外に出てきた人にぶつかりそうになった。

 反射的に田中の体が動いたのでお互い無事であったが、田中は危うく左手に持った紙袋を落としそうになった。

 前のめりになった田中はそのまま通り過ぎずに立ち止まった。

 相手に謝罪すべきだと思ったのである。


(オレがボケてたからイカンのだ)


 振り返って顔を上げると、田中の前には満面の笑みを湛えた男がいた。


「田中くんじゃないですか」

「ん?」


 田中の右手は顔の上半分を押さえようとしかけたが、田中はその動きをどうにか自制した。


「ヒデカズかよ」

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