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Desafinado(調子はずれ)  作者: カワヤマソラヒト
26/61

III 6月(2)-3

      *


 田中正彦は無意識に呟いていた。


「まさか土曜なのに学校のそばまで行くことになるとはな」


 いつもの駅でいつものようにパスケースに入れた定期券を改札で駅員さんにさらりと見せて、駅のホームを抜けた。

 いつものようにラフな服装で、黒いジーンズの右うしろのポケットには陽美がいた「地図」を四つ折りで突っ込んであった。

 いつものようにこのまま道なりに直進して行けばやがて学校の正門へ至る。

 だが今の田中は学校に用事はない。

 駅前の商店街の一隅にオープンしていた輸入食品のお店を目指し、狭い交差点を右へ曲がるところだった。


      *


―― 私はちゃんとマアくんに言われたとおりにしたんだから、マアくんも私の言うことを聞いてよね。

「は?」


 自室を出る前に田中は予告どおり自分から陽美へ電話をかけ直した。

 かっちりと30分経ったのを時計で確認してからのことだった。

 田中が陽美の番号をプッシュすると、ひとつ目のコール音が終わらないうちに受話器を取る音がした。

 田中が「ハルちゃん」と言い出す間もなく、「お」、「そ」、「い」という3文字が陽美の声で聞こえてきた。

 カタカナではなく、ひらがなだと田中は感じていた。


―― 31分43秒も経ってる。と言ってるうちにもうすぐ32分。

「ん?」

―― 「30分」って言ったの、マアくんなのに。

「はあ?」


 田中は陽美の番号をプッシュする直前まで、実はおよそ5分ほど時計を見ていた。

 いわゆるにらめっこ状態だった。

 自分から「30分くらい」と言い出しただけに、しっかりと時間の経過を確かめてから、わざと間を置いて発信したのである。

 田中の「30分くらい」は陽美より長めであった。


(ハルちゃん、そんなにせっかちにならんでもよかろうに)


 自分では万全を期したつもりの田中だったから一度はそう思った。

 それでも、陽美が真摯に電話が来るのを心待ちにしていたことはとてもよく伝わってきた。

 

「29分経ったときには電話の前で正座してたくらいなのに」

(ホントかよ)


 そう思ってみたものの、田中は陽美ならやりかねないと思い直した。


「そこまで真剣に考えてたとは正直なところ思わんかった。ゴメン、ハルちゃん」

―― いえいえ、素直にそう言ってくれるのがマアくんだって、よく知ってるから。


 陽美の声が明るく聞こえたので田中は安心した。

 そのすぐあとに陽美が言ったのが「マアくんもちゃんと私の言うことを聞いてよね」だった。


―― ほら、よく言うでしょ、「ひと」という漢字は「支えあっているから」とか、「お互いさま」っていう意味で使う言葉で……。


 なんだか話がすり変わっているような気がしつつも、田中は陽美の言葉が続くのを待った。

 しかし、陽美は黙り込んだままになってしまった。


「なんだよ、どうかしたかハルちゃん?」

―― 恐ろしいことにです。おねえさんともあろう者が、日本語を度忘れしてしまったのだ。

「はあ? ちゃんとしゃべってんじゃん」

―― ありゃ? 言い方が悪かったかしら。その、ね。似たような言い方を繰り返してできてる言葉だったはずなのに、途中で詰まっちゃったみたいで出てこないのです。

「なんのこっちゃ」

―― だから、「お互いさま」っていう意味で……「目には目を」?

「ハルちゃん、オレをどうする気だ」

―― 「やられたらやり返す」っていう意味じゃないから違うよなあ、んー。


 陽美はまたしばらく黙り込んでしまった。

 沈黙を器用に埋められるほどの話術を田中が持っているわけがない。

 広瀬ならきっとうまいこと会話をつなぐことができるのだろうが、「モノミユサン」さえ知らなかった自分にはきつい。

 田中はそう考えながら、陽美には聞こえないように口元から受話器を離して唸っていた。


(どうすりゃいいんだ、オレは?)

―― 分かった! 思い出したよマアくん!


 突如耳元で音割れしそうな大声が聞こえたので、田中はびっくりした。


―― 「持ちつ持たれつ」、だよ。ね?

「ね?」


 何がどう「ね?」なのか、田中はピンとこなかった。


―― あ、私の話を軽く聞き流してたでしょ。

「イヤ、それはないぞ」


 田中は慌てて否定した。


「オレもだな、オレなりにハルちゃんから出なくて困ってる言葉を考えて」

―― 私から「出なくて困ってる」って言われると別のことをイメージしちゃうぞ、マアくん。

「ん?」


 陽美の声は田中をたしなめているように聞こえたが、田中はこれもピンとこなかった。


―― でも、そう答えてくれたんだから聞き流してなかったのは分かったよ。

「お、おお。そりゃよかった」


 田中は陽美のペースにうまく乗れないでいたが、とりあえずは話が丸く収まったので、30分くらい前に気になったことを確認してみた。


「しっかり髪を乾かして着替えたんだろうな?」

── 気になる?

「なるに決まってんだろう。風邪なんかひかれちゃイヤだからな」


 自分がちょっと前までダウンしてたからなおさらだが、そんなことを言ってしまうと話がまずい方向に行くに決まっている。

 田中は口を滑らせないように注意した。


── 優しいなあ、マアくん。おねえさんは嬉しいです。


 陽美に合わせているとまた本題が遠くなりそうだと感じた田中は、自分から話を促した。


「で、オレに何の用なんだハルちゃん?」

── お、しっかりしてるねえマアくん。感心感心。

(話が進まねえ)


 陽美のペースに恐れをなした田中は自分から切り出した。


「……でだな、送ってくれた手紙のことなんだが」

── そうそう、そのことなのよね、肝心なのは。


 陽美の明るい声が聞こえたので、田中は少し安心した。

 怒られるかもしれないと思っていたが、時間を置いたことは有効だったようだ。


── あまり考えないで思いつきのままに描いちゃったから、気になってたのよ。


 陽美の口調がキリッとした様子に変わったので、田中は気を引き締めた。


── 今日のマアくんは、アルバイトはお休み?

「おお、そのとおりだが。それが」

── ナイス・タイミング!


 田中を遮るように陽美の声が弾んだ。


── じゃあマアくん、これからまで来て。

「は? ここってのは、ハルちゃんの部屋にか?」

── もちろん、そのとおり。

「オレはハルちゃんの部屋がどこなのか知らんのだが」

── 地図があるでしょう、マアくんの手元に。

「ん? オレの手元にだって?」


 田中は自分の手元を見た。

 左手は受話器を持っている。

 右手はプッシュ以来出番がなくて暇になっていた。


── もう、やっぱりマアくんは「おとぼけさん」なんだから。

(また「おとぼけさん」かよ)

── 手紙を見たから電話してくれたクセに。


 手紙と言われて、田中はやっとピンときた。

 テーブルの上に置いたままの手紙へ、田中は右手を伸ばした。


「……てことはだな、この便箋に書いてあるヤツが?」


 田中はここで陽美の意図が分かった。


── マアくんが来たことないのは分かってるから、私が心を込めてサラッと描いた特製の地図を見ながら来てね。

「心を込めて、サラッと? 描けんのかよ」

── 私はできるのだ。


 陽美は笑いながらそう言っていると田中は分かった。

 あまり考えないでとか、思いつきのまま描いたとか言われたような気もしたが、蒸し返すのはやめておいた。


(ハルちゃん、機嫌がいいんだな)


 田中は自分の機嫌もよくなっていくのを感じた。


── 私の記憶によるとですね、真ん中辺りにサラッとあるのがうちの大学で、駅は上りの最寄り駅。


 田中は陽美特製の地図を確認した。

 陽美に言われてみると、田中はなんとなく見当がついてきた。


── マアくんならこれだけ説明すればもう私の部屋まで来られるよね。

「この地図が正しければな」

── おっと、そのひとことはこのおねえさんへの挑発かしら?

(そんな面倒なことをする気は絶対に起こらん)


 ただ「負け」が増えていくだけだ。

 田中はそう思ったが声にしなかった。

 陽美は挑発というニュアンスにこだわらなかった。


── 夕方までになら、来られるでしょう? 学校から徒歩25分だとしても。


 徒歩25分。

 これは前に聞いたことがあると田中は気がついた。


(学食でハルちゃんに捕まったときだったな)


 田中は陽美特製の地図にあらためて目をやった。

 駅は遠く離れ、バス停はひとつも描かれてない。


── ごちそうするから、必ず来るのよ。マアくんの大好きなおねえさんのカレーライスだぞ!


 田中は思わずビクリとした。

 つい反応してしまったのである。

「大好き」なのはおねえさん、つまり陽美なのか、あるいは陽美が作るカレーなのか、または……。


(どっちも、だ。否定できん)


 田中の心の森の奥の湖で魚が跳ねた。

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