III 6月(1)-1
田中正彦はこれまで、おおよそ三年に一度くらいの割合で寝込むことがあった。
原因はシンプルなもので、過労から身体の抵抗力が落ち、発熱してしばし寝込むのであった。
寝込んでいる間は余計なことはできなかった。
半端なガス欠ではなく空っぽな感じだったからおとなしくしているしかなかったのである。
すると、うまい具合に三日程度で元気に復活できた。
田中は寝込んだときのことは他の記憶よりもよく覚えていた。
幼少の頃は違うはずだが、覚えている限りでは心の中で「やっちまったあ」とつぶやいていたのである。
中学生のときは、サッカー部に全力を尽くすあまり2年生の春先にエネルギーが切れてころっと寝込んだ。
1年生の頃からレギュラーのフォワードだったのでよく走り回りよく倒されていたから、自分で思った以上に消耗していたのだった。
陽美に看病をしてもらったことを覚えている。
小学生のときは、夏休みに遊び倒したのが原因だった。
宿題をほとんどやっていないのに「やっちまったあ」とつぶやいた自分がおかしかったが、田中にはそのとき笑う元気がなかった。
もうろうとしている田中を見て兄が笑っていた場面を覚えている。
同時に、看病してくれた母のそばで陽美が心配そうな表情でいたのも覚えている。
妹がその場にいなかったのはまだ幼かったからだろう。
別の部屋で昼寝でもしていたのかもしれない。
妹と思われる泣き声が聞こえると、母は田中のそばを離れた。
兄はいつの間にかいなかった。
みんなを代表したかのように深刻な表情をした陽美が田中のそばに残っていた。
* * *
田中が前回寝込んだのは高3のときだった。
自分の代の部活が一段落し、部長の役を後輩に託し、受験勉強へと主眼を移してからほどなくのことだった。
進学を希望したものの、本格的に受験勉強を始めたのが遅かった田中は、遅れていると感じた分を取り戻すべく頑張った。
しかし、加減が分からずやる気は暴走し、オーバー・ヒートしてしまった。
この事実を耳にした陽美は、以後田中の受験勉強の監督に就任したのであった。
大学での勉強に支障がないのかと田中が心配になるくらい、陽美はちょくちょく監督の責任を果たしに来てくれた。
その都度、「これは宿題ね」と最低限ここまではやっておくようにという課題が出された。
この方法は非常に有効だった、と田中は後日しみじみと陽美に感謝することになった。
*
授業中に寝ていても出席を欠かすことはなかった田中が、入学以来初めて病欠した(と、1年のときからクラスメイトだった杉山が話した)ので、クラスではちょっとした話題になったらしい。
何故そのことを田中が知っているかと言うと、お下げ髪でメガネをかけた委員長が数枚のプリントを持ってお見舞いにやって来て、田中が休んでいる間の出来事を教えてくれたからだった。
幸いなことに、陽美は大学生になってから実家を出ており不在だったので、田中は冷やかされることもなくおとなしくしていられた。
女の子である委員長が母に案内されて自分の部屋にやってきても、田中は冷静にしていた。
動揺するような理由もなかった。
委員長という立場上仕方なく来てくれたのだろうと思ったし、委員長はどう見てもどう考えても委員長なのだった。
*
それでも、田中は当時つきあっていた彼女である弘美から、あとになって冷やかされることになった。
── 私以外の女の子を部屋に入れるなんて。
── オレの妹も、従姉も、いちおう女の子なのだが。
── 私の言いたいことが分かっているくせに、そんなこと言って……。
── イヤ、別に深い意味はないからな。
── 田中くんの部屋は、私にとって思い出の部屋でもあるんだけど?
── ん?
── とぼけちゃうの? 大切な思い出なのに?
クラスが違う弘美に、委員長がお見舞いに来たことはどういうルートで伝わったのか、田中には謎だった。
女子のネットワークとはそんなものだろうと考えただけで、田中は深く追求しなかった。
*
── 具合はどうですか、田中くん。
部屋に来た委員長にまずそう訊かれた田中は、この日が連続三日欠席したうちの三日目だったので割と元気だった。
── おお、明日は行けると思っているのだが。
田中は小さなテーブルを挟んで委員長と向かい合っていた。
ベッドにいるのはイカンと思ったのである。
でも着替える暇はなかったので、パジャマのままでいるのは許してもらうことにした。
テーブルには母が用意してくれたオレンジ・ジュースの入ったコップがふたつあった。
母は部屋を出る際にニヤリとしながら「ごゆっくり」と言い残した。
委員長は正座をしたまま頭を下げていたが、田中は「なんじゃそりゃ」と母に言い返した。
*
弘美が田中の部屋にいた日、母は留守だった。
田中はそのことを思い出した。
心の森の奥にある湖にいる魚はこれには協力的だった。
ただし、どうして留守だったのかは思い出せなかった。
自分が弘美を部屋に誘ったのか、あるいは弘美が部屋に来たいと言ったのか、そのことも思い出せなかった。
魚はまるで知らんぷりを決め込んだかのように非協力的だった。
その日にはもっと強烈なことがたくさんあったからかもしれない。
*
顔をしかめていた田中に、委員長は微笑みながら「よかった」と言った。
田中が委員長の笑顔をまともに見たのはこのときが初めてだった。
レンズの奥にある目がずいぶん大きいと思った。
委員長が正座でいるのに気づいた田中は、「かまわんから足を崩してくれ」と言った。
委員長は「ありがとう」と答えるともじもじしていた。
田中がもじもじの理由を足がしびれたからだと誤解していると、委員長はもじもじしつつも学生鞄から数枚のプリントを取り出して田中に渡した。
数学の課題、保健だより、何度目かの進路調査用紙、その他であった。
田中は委員長のカバンがきれいでピカピカとしたツヤがはっきり分かることに感動していた。
渡してもらったばかりのプリントのことは眼中になかった。
── 進路調査はいちおう明日が締切です。
委員長の声で田中の意識はプリントに戻った。
田中は手にした数枚から進路調査用紙を見つけていちばん上にした。
── もし田中くんの調子が悪いようなら、できれば書いてもらったものを私が預かってくるようにって、先生に言われたけど……大丈夫、かな。
── 明日でかまわんなら自分で出すとするが。
田中はそう言ってから「いろいろ面倒をかけてスマン」と委員長に伝え、軽く頭を下げた。
── えっ!
委員長は両手で自分の頬を押さえていた。
どういうわけかものすごくびっくりしているように、田中には見えた。
そんなに驚かなくてもよかろうにと田中は思った。
* * *
田中はまだベッドで寝転がっていた。
カーテンの外はまだ暗くて静かだった。
ずいぶんうとうとしてはいたものの、うまく眠れない。
この分だとおそらく数日後にはころっと寝込んでしまうだろう。
そう予想できたからか、田中はぼんやりしながら、まだそう遠くにはなっていない過去をたどっていた。
(それからどんな会話をして委員長が帰ったのかはもう分からんな)
田中は思った。
よく覚えているのは、委員長の目が大きく見えたことと、ものすごくびっくりしたように頬を押さえた委員長の表情だった。
誰かがあんなにびっくりした様子を見たのは何度もあることではない。
そう思いかけて、田中は4月に似たような場面があったことに気づいた。
(バスの中で恵子に会ったときもあんな感じだったが、どうしてなのかさっぱり分からん)
女子の習性のひとつだったりするのだろうか。
田中は考えてみた。
委員長と恵子を除くと、田中の知っている女の子や元女の子に同様のアクションをした人は思い当たらなかった。
(女のことはよく分からんが、習性ってわけじゃねえな)
田中はもっと考えてみた。
次に浮かんできたのは、もしかすると自分の表情が原因ではないかという推測だった。
ろくに笑顔も浮かべられないのでひどく無愛想に見えるだろうということは自分でも承知している。
最近でも恵子を含む約三人の女子に繰り返し言われていることだ。
どうにか改善しなくてはと思う一方で、この先も何度となく言われるに違いないとも田中は思っていた。
(サッカー部で現役だった頃は、フォワードでもキーパーでも、オレのこの面はよかったらしいのだがな)




