I 4月(2)
*
田中正彦は教室を出ると、左に土井、右に広瀬を従えているような気持ちで三人の真ん中にいた。
自然とそんな配置になっていた。
(自分で真ん中に来ようと思ったわけではないから、とりあえず失礼ってことはないか。気をつけなくてはイカンが、まだ初日だしな)
田中はそんなことを考えながら、ふたりと一緒に正門に向けてのんびり歩いていた。
まだ15時にもなってなかったので、自分たちと同じように正門に向かっているのはおそらく一年、自分たちと擦れ違ってどこかへ向かっているのは先輩方なのだろうと想像した。
「うまい具合にこの三人で相部屋だね」
広瀬が左側のふたりに向かって言った。
「おお、あらためてよろしく頼む」
田中はまず広瀬の方を向き、次いで土井の方を向いて言った。
(真ん中だとこんな場合に面倒だったか)
田中は正面に向き直ると、無意識に顔をしかめていた。
「そんなこと言って、イヤそうな顔をしてるように見えたけど」
広瀬はおかしそうに田中に言った。
「ん? そんなつもりはないのだが、なんでだ?」
「ぼくには田中のしかめっ面が見えたからね」
「オレ、そんな顔してたか?」
「うん、してたよ」
広瀬は笑いながら言うと、土井に話を振った。
「土井にもそう見えたんじゃない?」
「ボクか、ボクはちょっと考えごとをして下を向いていたから分からなかった。ごめん」
「土井、別にそこは謝らんでいいとこだぞ。広瀬みたいに遠慮なく突っ込んでくることもなく、オレはありがたい」
土井は田中に返事をせず、また下を向いていた。
黒い袋状のショルダーバッグを肩にかけている左腕の肘から先を左右に揺らしている。
田中は土井の動作よりもバッグに目を向けていた。
バッグ本体とベルトは頑丈に縫いつけてあるようだった。
バッグとはいえ、土井のものと自分の青いバッグとでは共通点は何もないと思った。
(しかし、まだ何やら考えてんのか? 土井はなんかヘンだな、面白そうなヤツだとは思うが)
広瀬についてはこう思った。
(広瀬は鋭いんだな。きっと頭のいいヤツなんだろう)
正門に着くと、広瀬がこう言った。
「ぼくはまだこの辺りの地理に疎いから、明日の集合場所になってる第2グラウンドまで行ってみようと思ってるけど、田中と土井はどうする?」
「うわ、グラウンドだと? 第2? そんなことになってんのか?」
田中は広瀬に疑問を連発した。
「田中はさっきもらったプリント読まなかったの? ちゃんと書いてあったじゃない。概略だけど地図もあったし」
広瀬はそう答えると、肩にかけている茶色いバッグからプリントを取り出して田中に見せた。
田中はプリントよりも広瀬のバッグに興味を持った。
「広瀬のその鞄、ベルトがはずせんのか?」
「うん、はずせる」
「けっこう厚くて、年季が入ってるようだが」
「ああ、擦れて白っぽくなってるところもあるからね」
広瀬はなおも補足して言った。
「実は親父のお下がりのブリーフケースで、いちおう革製だよ」
(ブリーフケースという単語は知っているが、これが実物なのか)
田中は広瀬のバッグに感心していた。
「ボクもついて行っていいかな?」
顔を上げた土井はバッグに無関心な様子で言った。
「もちろんいいよ。田中はどうする?」
広瀬が田中に言うと、田中はちょっと焦って広瀬のプリントに目をやってから、返答した。
「概略図はちっとも分からんから、オレも行く」
*
広瀬のおかげで危機を未然に防げた田中は、広瀬についての個人的な評価をさらに上げた。
土井に対しては評価の材料が少なすぎるので保留していた。
(ん? 待てよ。さっき初めて会ったばかりのヤツに対して、こんなこと考えてんのは失礼じゃないのか)
つるんでいればそのうちイヤでも分かってくるもんだ。
田中は男連中については常々そう思ってきた。
中学、高校と過ごしてきての経験則だったから、このことは間違っていないと実感できていた。
ところが、時折不安を感じることもあった。
自分が相手について思ったり感じたりしているということは、相手も自分について考えをめぐらせているだろう。
例えばさっきの土井は何か考えごとをしていると言った。
その内容は、オレこと田中はどんなヤツなのか考えていたのかもしれない。
広瀬はおかしそうな目でオレを見ていた。
広瀬はオレをそんなヤツだと思っているかもしれない。
(まあ、今から気にすることでもねえか。お互いこれからどんどん印象は変わるだろうしな)
再び広瀬の提案で、第2グラウンドから正門へ戻ってみることになった。
「位置関係をおさらいしておけば、もう迷わないよ」
広瀬が言った。
「確かに。広瀬は頭の回転が速いな」
土井が応えた。
自分が広瀬に対して感じていたことを土井も同じように感じていたのだと分かって、田中は土井に親しみを覚えた。
「土井」
「なんだ、田中」
土井が砕けた口調で返してくれて、田中はより親しみを感じた。
「その調子でもっと話してくれ。遠慮はナシだ」
「ああ、もしかして、田中はボクの様子がおかしく見えたのか」
「ん? 率直に言うと、実は少しな」
「そうか。悪かったな、心配してくれて」
「心配って言うかだな、オレは土井の様子を見ていてだよ、どことなく調子が悪そうに見えたりだな」
「へえー。田中って、見かけによらず優しいんだね」
広瀬が田中と土井の会話に混ざってきた。
田中は絶句した。
冗談だとしても、誉められるのには慣れてなかった。
「これで位置関係もばっちりよく分かったね」
「おお、広瀬のおかげだ。サンクス」
満足げな広瀬に、絶句のことはもう忘れたとばかりに田中は礼を言った。
「ボクも田中の言うとおりだと思う。ありがとう、広瀬」
土井も田中に続いた。
「じゃあ、これで解散かな?」
「なるほど。準備もあるもんな。了解」
広瀬の言葉に土井が返した。
*
正門に戻ると、土井は左へ、広瀬は田中と同じく右へと歩を進めた。
土井は下り方面、田中と広瀬は上り方面の電車に乗るのだった。
駅に向かいながら田中は広瀬に訊いた。
「広瀬はどこに住んでんだ?」
「ぼくはふたつ先のM駅で乗り換えて、ひとつ目のE駅で降りるんだけど」
「ひとり暮らしなのか?」
「実家だよ」
「なら、金があんまりかからなくていいな」
田中は乗り換えなしで、さらに先の各停しか停まらないS駅が最寄り駅だと広瀬に伝えた。
「ま、オレは予算の都合で駅から20分くらい歩くのだが」
「ぼくは10分くらいだよ」
広瀬はそう言ってから、田中に訊き返した。
「ところで、田中はひとり暮らしなの?」
「おお。実家から二時間かけて通うのはオレでもしんどいからな」
* * *
人生における信じられない幸運のひとつで合格できたのだと断定した田中は、その晩両親に結果を報告するとすぐに自分の意志を伝えた。
「こっから通うのはしんどい。通いやすいところに部屋を借りてひとり暮らしをしたい」
自分の三つ上には兄がいて、四つ下には妹がいる。
共働きの両親が苦労をしている様子に気づかないほど自分は鈍いわけではない。
そのことを承知の上でひとり暮らしをするのだから、必要な予算はできるだけ自分でなんとかしたい。
田中はひそかにそう決めていた。
(兄貴はとっくに自立している。オレにだってできるはずだ)
── それならまず、必要な分は仕送りをしてやる。
父親はそう言ってくれたが、田中は難色を示した。
自分で決めたことに反するからだった。
「ありがたいんだけど、自分の生活費は自分でなんとかしたい」
田中は父親に返した。
── その心がけは立派だが、当座はどうにもならないだろう。いいからまずは受け取っておけ。使わずにすむなら貯金すればいい。
父親の言うとおりだった。
(まだまだオレはガキだ)
田中は反省した。
(ヨシと決めたにせよ、それにはどうしたらいいのかちっとも考えてねえじゃん)
田中はかつて兄に言われたことをふと思い出した。
── 正彦、焦って決めてもいいことなんかないぞ。
たぶん中学に入った頃のことだった。
兄の助言があったからだと思いたくはないが、田中は自分なりに熟考してサッカー部に入った。
(成長してねえなあ……)
結局、部屋を借りるとき家賃の立て替えをしてもらった上に、初年度の学費も出してもらった。
いずれ全部返すつもりではいたが、自分には確かに先立つものがなかった。
── 何かあった場合には援助してやる。おまえひとりぐらいどうにでもなるもんだ。なんなら、全部借金だと思っていろ。利息はいらんから、あとで返せ。
それならいいか、と田中は思った。
直接お礼の言葉を口にするのは恥ずかしかったので言わなかったが、父親の申し出はすごくありがたかったし、何も言わずに父親の隣で微笑んでくれている母親にも感謝した。
「時間はかかると思うけど必ず返す」
田中正彦は両親にそう伝えた。