II 5月(8)-4
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ラウンジ・ブレンドでひと息入れてから、田中と広瀬は第1学習室に戻ってきた。
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田中は空腹ではあったものの、いつものような食欲はなかった。
何も食べないままではよくないとは感じたので、ラウンジでちょうどひとつ売れ残っていたミックス・サンドを食べた。
田中にはブレンドもサンドも味がよく分からなかった。
「ここのコーヒーはいいよね」
広瀬がそう言ったので、ブレンドは今日もいい感じなのだろうと思った。
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広瀬は元の席につくと、当たり前のように古そうなハードカヴァーを開いた。
田中はついさっきラウンジで広瀬から聞いたことのせいで、一層がっくりしていた。
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「コーヒーのおかげかな、もうひとつ思い出した」
広瀬は空になったコーヒーカップをソーサーに戻した。
「何をだ?」
田中は広瀬を促した。
不穏な気配を感じたのだった。
「先輩が『マアくん』と会えずにがっかりした感じで教室を出ていった」
「オイ広瀬、その呼び方はよしてくれ」
「そのあとを追うみたいに、小野さんが急いで教室を出ていった」
「なんだって?」
田中は手にしたコーヒーカップを落としそうになった。
「駆け足だった。慌ててるみたいな」
「広瀬、念のために訊いておくが」
「なんだい、田中」
危険なので、田中もコーヒーカップをソーサーに戻した。
「その話は冗談か?」
「ぼくはそんなに気の利いた冗談は言えないよ」
「じゃあ、真実ってことだな」
「そういうこと」
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(もし恵子が実際にハルちゃんを追ったとしたら)
田中は思った。
(オレの「勝ち」は永遠に失われたようなもんだ)
田中はがっくりしたまま、あらためて広瀬を見た。
「そうだったな、広瀬はその本を読みにここに来たんだよな」
「当初の目的はね。ただぼくは、これでも状況に合わせて臨機応変に動けるように心がけているつもり」
「広瀬はできたヤツだな、まったく」
「本当にそうだといいけどね」
「で、その本はいったいなんの本だ?」
田中はひとまず頭を切り替えたかった。
「ああ、これね」
「ヤケに古そうだが」
「うん、中身はおなじみの夏目漱石の『猫』だけど、旧仮名遣いの全集を読んでみたかったんだよね」
「ん? なんでわざわざ旧仮名遣いなんだよ」
田中はびっくりしていた。
自分ならそんないらぬ苦労は不要だと思った。
「元々オリジナルは旧カナだしさ、現代仮名遣いの現行版は何度も読んだし、来年だったか、『日本語学』の講義が始まるよね。確か『IV』まであるんだっけ?」
「オイ、なんで広瀬は来年のカリキュラムについて知ってんだ?」
田中は広瀬の読書熱心なことに感心したものの、より重大な話が出た気がしたのでそちらに話題を向けた。
「え? 逆にぼくは田中がなんで知らないのか訊きたいよ」
「は?」
「ああ、これは年度頭のあのときと同じなんでしょ」
「なんかやっちまったっけか、オレは?」
「とっくに遥かな大昔になってるみたいだね、田中には」
「さすが広瀬、オレの立場をよく理解してくれてるんだな」
「立場じゃないよ、パターンだよ」
「パターンだって?」
「そう。田中は正直者だから分かりやすい。土井はまだぼくにはよく分からないけど」
田中は広瀬の意図するところが分からなかった。
「いちおう訊いておきたいのだがな」
「何を?」
「今のその話で、オレはバカにされたのか喜んでいいのか、遠慮なく言ってもらおうか」
「どっちでもないよ。田中は疲れてるから考え過ぎちゃうんじゃない?」
「ああ、そうかもな」
田中は納得した。
「カフェインが効いてるうちに今日は帰ったら?」
「広瀬に従うのが正しい気がしてきた」
田中はため息をひとつついた。
頭では回復してきたつもりでも、身体はそれを認めていないことが分かった。
「いちおうカリキュラムのことを補足するとね、4月の合宿の二日目に配られた資料、ほら、うすい黄色のさ、A4の封筒に入ってたでしょ、卒業までのうちの科のカリキュラムについて書いてあったやつ」
「ん? んー、見たような、ないような」
広瀬は「くくく」と笑った。
田中は「仕方あるまい」と思っていた。
「分かった。今度持ってきてやるから、田中は自分の部屋を探して」
「そいつは名案だ。オレは広瀬のおかげで卒業できるような気がしてきた」
「なんのことやら、だよ」
広瀬は両方の手のひらを上に向けて田中に見せた。
「とにかくね、その資料を見ながらぼくたちは説明を聞いたんだよ。土井はあれだったから知らないだろうと思って、ぼくがざっとだけど話しておいた」
(さすが広瀬、なんて偉いヤツだ)
田中は広瀬に対する評価をまた上げることにした。
100点満点だとしたら250点ぐらいは行っていると思った。
「土井も涙にくれながら広瀬に感謝したこったろうな」
「『も』っていうのは、何?」
「オレもこれから涙にくれながら広瀬に感謝する」
「よく言うよ、その元気があるうちに帰んなよ」
「そのとおりだ、まったくな」
田中は広瀬の助言どおり、何はともあれ帰ることにした。
広瀬が実に頼りになるヤツだということはいくら自分でも忘れることはあるまい。
田中は心に決めた。
何かもうひとつ心に決めたことがあったはずだが、さて置くとして、とりあえず帰ることに専念するべきだと田中は考えた。
「じゃあ帰るわ」
「うん、気をつけて」
「サンキューな、広瀬」
「別にいいよ。ぼくはぼくなりにね、これまで出会ったことのないタイプの人たちがたくさん周りにいてくれて、楽しいんだ」
「さすがだよ広瀬は。オレはもう帰ることしかできん」
広瀬は「くくく」と笑った。
「そんな人たちの中に田中もいるんだけど」
「ん? 今は何を言われてもたぶん忘れちまうぞ」
田中は重そうなまぶたを広瀬に見せていた。
「これは今までのオレの人生から得た結果のひとつだから、確実だ」
「分かったよ。明日また元気な様子を見せてくれたらいいと思ってるよ」
田中はぼんやりしたフリをしていただけなので、そう言ってくれた広瀬に感謝するばかりだった。
(きっと広瀬は、オレがフリをしていることまで見抜いてるんだろうがな)
田中はそう思いながら立ち上がり、左手で青いバッグを持つと、右手を広瀬に向けて軽く挙げた。
広瀬は座ったままで右手を軽く挙げた。
田中は第1学習室を出て、階段をのんびり降りた。
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図書館から外に出ると、田中は深呼吸した。
初夏の空気はかなり優秀なエネルギーになってくれる。
田中はそう感じると、正門に向けて歩きだした。
今日はひとコマも講義を受けなかったが、こんな時間も必要なのだと田中は理解した。
(土井はこんな時間を取りすぎだと思うが)
田中は今ならほんの少しだけ土井の気持ちも理解できるような気がした。
ラウンジの前を過ぎ、学内を見回すと、田中は入学初日に感じたなんとも言えない緊張感をふと思い出した。
厳密には、あのときの雰囲気が再現されていたわけではない。
田中はまるで入学初日の自分を上から見下ろしているかのような気分になっていた。
(4月当初のオレは、今のオレがこんなふうに感じるなんて思えなかった。なんにも思っちゃいねえ、余裕なんぞはちっともありゃしなかった)
5月がもうすぐ終わろうとしている。
心地よい空気を感じながら、田中は自分なりになかなかよくやっていると思えた。
さっき、広瀬は広瀬なりに楽しくやっていると田中は聞いた。
(広瀬はオレより遥か彼方にいるかのごとく、優秀で模範的な学生になるヤツだな)
田中は思った。
* * *
何故かいつもひとりやふたり、近くにいてくれる優等生。
3月までの自分にとってそうした存在は、ただの悪友として三年間同じクラスで過ごした杉山だった。
そして、3年生のときクラス委員長だった、メガネをかけたお下げ髪の女の子。
田中は役員にもまったく興味がなかったので、委員長の苗字を覚えていなかった。
お下げ髪だということを覚えていたのは、その当時、妹の聡美が似たような髪型だったからだ。
田中は委員長に限らず、男子であろうが女子であろうが先生であろうが、自分と接点がなければ顔も苗字も覚える気にならなかった。
委員長とは接点があったので苗字は無理だったが記憶に残ったのだった。
田中の姿勢は一貫していた。
教室にいるときの田中は、ひっそりと目立たないようにしていたつもりだった。
なので、クラスメイトとはいえ、サッカー部にいたヤツを除くほとんどの連中からは、「田中は地味で印象に残らないヤツ」と思われていたか、「田中って誰?」などと思われていたはずだと考えていた。
卒業式のあとの教室で、田中はそうした自分の意見を杉山に伝え、確認してみた。
── 部活での自分はキーパーで部長だったから仕方ねえが、教室ではいるかいないか分からんくらいおとなしかったよな?
杉山は田中の言葉に呆れていたように見えた。
── オイ杉山、なんでそんな顔になってんだよ?
杉山はやや間を置くと、ニヤリとして田中に言った。
── 田中はそれでいいと思うぞ。
* * *
杉山がくれたそのひとこと。
なんとなくやり過ごしてしまったけれども、そのときの杉山の表情や教室のざわざわした感じ。
田中にとって今はその場面だけが高校時代の鮮やかな出来事だった。
クラスのことはともかく、あんなに一生懸命に頑張っていた部活のことが、意外にもあっさりと心の森の奥の湖に片付いてしまった。
(思い残すことはなんにもないってことだな)
* * *
田中はひとつ下の後輩で新部長になったヤツに、卒業式の前々日に伝統の制服上下を引き継いだ。
田中はしばらくぶりにジャージ姿になった。
代わりにその後輩に頼んで、卒業式の前日になるべく地味な制服を用意してもらい、当日はそれを着た。
* * *
(杉山には後輩が用意してくれた制服がすごくウケたが、なんでだかさっぱり分からん)
田中は卒業した今でも、杉山はただの悪友で、自分たちの代の生徒会長だったなんてどうでもよかった。
生徒会全般に興味がなかったからでもあったが、自分は生徒会長を悪友にしたのではないとずっと思っていた。
悪友が勝手に生徒会長になり、卒業式で答辞を読んでいた。
田中にとってはそれだけのことで、杉山は杉山だった。
杉山もきっと「田中は田中」と思っていただろう。
田中はそう確信していた。
自分が教室では存在感がないことも確信していた。
一度だけ、他の連中から自分がどう見られているのか、偶然に委員長から話を聞いたことがあった。
(そうだ、杉山だけじゃねえぞ。委員長にもいろいろ助けてもらったのだ)
そのときの場面はかろうじて記憶に残っているが、一年も経っていないというのに、そのとき言われたことは色あせてしまった。
(気にならなかったってことか)
田中は少しだけ委員長に申し訳ないと思った。
宿題でノートの提出が自分だけ遅かったのをどうにかしてもらったり、失くしたプリントを用立ててもらったり、こまごまと面倒を見てもらった場面ならいくつか思い浮かべることはできた。
なのに、交わしたはずの言葉だけはさっぱりだった。
どうしてなのかは分からない。
(オレはまったくもって分からんことばっかじゃねえか)
田中は思った。
考えたところでどうにもならない。
(そんなものだ)
今はそれでヨシとしよう。
田中はそこまで思いをめぐらすと、正門を抜けて右へと歩いて行った。
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電車の中で寝過ごしてはいけないと考えたので、田中は吊り革に掴まりながら電車の揺れるがままに身を委ねていた。
帰宅ラッシュが始まるまでには充分すぎるほどの時間があったので、各駅停車はがらがらに空いていた。
田中はそれでも座ったらアウトだと確信していたので、乗り過ごすこともなく無事に帰宅した。
しかし、ドアの鍵をジーンズの右うしろ側のポケットから取り出そうとしているとき、田中の静かなひとときは終わってしまった。
田中は急いで鍵を開けて部屋に入ることはしなかったが、留守番電話が作動するまでの短い間に、コール音を一生分聞いた気がしていた。
近所迷惑にならないように、電話機のヴォリュームは常に下げたままにしていたのに、田中には普段よりかなり大きく響くのだった。
部屋に入って青いバッグを静かにテーブルに置くと、小さいけれども騒がしい声が次第に田中の耳に届いてきた。
留守番電話の録音が続いてるからだった。
田中は声の主が誰なのか一瞬のうちに分かった。
── マアくんは……。
何度かそう聞こえてきたからだった。
うっかり忘れかけていたことを田中は思い出すことになった。
(広瀬、オレは感謝してるぞ)
自分は講義をサボってしまったが、広瀬は何があったかしっかり教えてくれた。
講義終了とほぼ同時に、教室に陽美が現れたことを。
おまけに、恵子が陽美を追っていったかもしれないことも。
田中正彦はベッドに寝転んで伸びをすると、目を閉じてしまった。