II 5月(8)-3
「前に話したかなと思うけど、ぼくは田中や土井みたいに彼女がいたことはないし、実を言うと恋愛については何も分かんない。だから余計に知りたいのかもね」
広瀬が「恋愛」と言ったことは田中に新鮮に聞こえた。
この新鮮さは加藤の口から出たものよりも上だと思った。
(広瀬はオレを誤解している。買いかぶり過ぎだぞ)
自分は中学にも高校時代にもそれなりにつきあっていた彼女がいた。
それは事実だから否定しない。
しかし、自分の現状には広瀬が考えているようなことはない。
(だいたいだな、近頃オレの周りに約三人ばかり要注意な女がいると言ってもだ。広瀬の想像とはかなり違うと思うのだがな)
この件も事実だと思うので否定する気はない。
今日の救いは佐野が無関係であることと、陽美が登場したときに土井はいなかったらしいということだ。
(こんなふうに考えるようなオレというヤツは、「恋愛」とはかけ離れているはずだ)
田中は思った。
(百歩譲って、高校時代につきあっていたときのことを引っぱり出してもだ、「恋愛」についてよく分からんのはオレもきっと同じだぞ)
田中はこう声にして主張することが可能ではあった。
同時に、わざわざ話すようなことではなかろうとも考えた。
(女のことはすごく大事だ)
かつて兄の鷹雄に言われて以来、生理的にも本能的にも田中はよく実感できていた。
その割に、「恋愛」とのつながりがしっくりこないのだった。
(こうした話はオレなんかより土井とした方がよっぽどマシなんじゃねえか?)
この点に限って、田中は土井に対して積極的に「負け」を認めようと思った。
田中は広瀬に言っておくことにした。
「広瀬」
「なんだい、田中」
「オレが思うには、だがな、広瀬が知りたいようなことはだ、オレごときよりもあの土井に訊いた方がいいんじゃねえかな」
「田中は本当にそう思う?」
「当然だ。オレは嘘が嫌いでな」
「土井はなんて言うだろうね」
広瀬が田中の提案を了承してくれたのかどうか、広瀬の表情からはうかがえなかった。
明らかなのは、広瀬が土井の返答にかなり期待しているらしいということだった。
「これからぼくが言うことはさ、まだうまくまとまっていない仮説みたいなもんなんだけど」
広瀬が急にあらたまってそう言いだしたので、田中はさっきよりは姿勢を直した。
「いいぞ、かまわん。オレはしばらくどんなことを聞いても驚かんだろうからな」
田中は冗談抜きで言った。
陽美襲来以上のインパクトを受けることはあるまいと思っていたからだ。
このくらいまでのダメージになると、回復するにはひたすら眠るくらいしか田中には思いつかなかった。
「ぼくはさ、田中と土井が正反対の位置にいるような気がするわけ」
「まあな、オレと土井がニコニコと肩を組んでいるなんてのは、まったくもって考えたくもない」
広瀬は「くくく」と笑った。
「なんだ広瀬、オレはオレなりに真面目に応えているのだが」
「うん、そこは分かってるよ」
広瀬はまだ愉快そうに笑っている。
「たまにはオレも広瀬みたいにだな、笑ってみたいと常々思っているのだが」
「田中は面白い人だよね」
「ん? オレは前にも広瀬からそんなことを聞いた気がするんだが、気のせいか?」
「いやいや、田中の記憶は正しいよ。ぼくは何度もそう言ってたし、これからも言う気がしているから」
「オイ、なんか気持ちワリィ話じゃねえだろうな」
「気持ち悪いなんてぼくは思っていないよ、田中や土井がどう感じるのか分からないけどさ」
「オレと土井が肩を組むような想像をさせる話はよしてくれ。今のオレにはもうキツイ」
「その例えの意味は分からないけど、あくまでぼくから見たら、という仮定だから、そんなに真に受けてくれなくてもいいよ」
「土井だって真に受けたりせんだろう、ああいうヤツだし。安心して話を続けてくれ」
「田中はときどきそんなふうに偉そうにするよね」
「そうか? オレはそんなつもりはないのだが、気を悪くしちまったなら謝る。スマン」
「いや、ぼくも責めてるわけじゃないから、気にしないでよ」
田中は今日の広瀬はいつもより口数が多いと思った。
そこでそのままを広瀬に伝えた。
「ああ、そうかもね。土井もいないし、ここは今ぼくたちと、窓の外のスズメの声くらいしか聞こえないし」
「スズメなんて鳴いてたか?」
田中はまるで気づかなかったので、思わず広瀬に確認した。
「ごめん、スズメのことは適当に言っただけ。スズメの声はぼくも聞いてない」
田中は広瀬に向けて「コノヤロウ」という念を送った。
(こういうヤツだから敵に回したくないのだがな)
「なんだろうな、土井の分までぼくが話しているような感じ、なのかも」
「また土井と広瀬が裏で何事か企んでいると、オレは思ってればいいのか?」
広瀬はまたも「くくく」と笑った。
「たまにはオレもそんなふうにだな」
「ごめん、なんか田中が冴えてるからさ、面白くて仕方ないんだよね、さっきからずうっと」
「はあ? するってえとだな、広瀬はオレがガス欠してる方がいいってことかよ?」
「それは考えすぎだよ、面白いけど」
「冷たいヤツらめ」
田中はそばで土井がニヤついているかのように、ごく自然にそう言っていた。
どうも広瀬にやられてばかりのような気がしてきた。
「今、田中は土井とぼくに向かって言ったでしょ」
「ん? まあ、そうだな。ちょっくら自分でも驚いていたところだ」
「田中は土井にきつい態度をとってるみたいだけど、本心は全然逆だよね」
「広瀬、はっきり言っておく」
田中は疲労を感じている割にやけにはっきりと宣言した。
「それはない」
広瀬はさっきから笑ってばかりなのはよくないと思ったのか、田中から顔を背けて笑いをこらえているように見えた。
「別に我慢しなくてもいいぞ。今のオレはいつもより相当イカれてるからな」
「そんなふうには思ってないよ」
広瀬は田中へ向き直り手のひらを動かして否定した。
「話を戻すとさ、ぼくは自分の物差しを使いながらみんなを見てるわけ。田中でも土井でも、小野さんでも加藤くんでも、原田先生にしたって、みんなおんなじように」
「待て待て、待て。面倒な話はまた今度にしてくれよ」
特にヒデカズを出すのはやめといてくれ、と危うく言いそうになったが、田中はどうにか自制できた。
(自分のガス欠に「自制ができる」なんて長所が隠れていたとは、広瀬にさっき「冴えてる」と言われたことを拒否しなければよかったかもしれんな)
ちょっぴり気をよくした田中は、そう思えるくらいには回復してきた。
「ぼくはさ、この世界に『縁』はあるって思っているんだよね」
「広瀬、その話は難しくねえんだろうな?」
田中は広瀬に念を押した。
回復してきたとはいえ、快調にはほど遠い。
「田中はそんなこと考えたことない?」
「んー、『縁』ねえ」
田中は近頃の約三人ばかりにまつわる「女難」を思い出してしまった。
田中はこれを「縁」と見なすのは完全なる敗退だと思った。
(「女難」って言葉は確か、手相占いで知った言葉だったか)
田中は占いが好きでも嫌いでもない。
どうでもいいと思っていた。
そう思いつつ「女難」という言葉から記憶をたどった先には、またしても陽美がいた。
田中は陽美との「縁」は認めざるを得ないと思い始めた。
* * *
田中と妹の聡美は居間にいた。
すると陽美が手相の本をどこからか持ってきた。
聡美を手招きして何やらヒソヒソと話をしていた。
ぼんやりその様子を見ていた田中は、ふたりに左右から挟み撃ちに遭い、まんまとにわか手相占いの実験台にされたのであった。
* * *
田中は次第に祟られているような気分になってきた。
思い返せばこのとき、聡美も田中の「女難」にひと役買っていたように思える。
(実験台にされてあれこれ言われたが、ちっとも内容は覚えとらんし、オレに手相の知識なぞいらんからなんにも知らねえし)
田中は考えた。
(この際、オレの掌に「女難の相」があった方がむしろスッキリするんじゃなかろうか)
占いを急に信じるのは無理だが、負けを認めることになっても諦めはつくというものだ。
田中はこの考え方で、今は手を打とうと決めた。
決めたからにはなるべく早く決着をつけたい。
田中はそういう男だった。
田中のエネルギーゲージは急速に復活し始めた。
「広瀬」
「なんだい、田中」
「どこかによく当たる手相占い師がいるって、聞いたことねえか?」
「そういう話はさ、それこそぼくよりも小野さんや、従姉の先輩に訊いてみるべきでしょ」
「一般的な考えなら、女の方が詳しいかもしれん。だが今回は、そのふたりはナシだ」
「なんで? このおふたりほど最適な人はぼくには思いつかないよ。ぼくが田中のプライヴェートを熟知してるなんてことはないしさ」
「そのとおりだがな、広瀬。万一オレでも知らんオレについての情報が広瀬や土井にばれちまったら、今のオレは二度と立ち直れん自信が満載だ」
広瀬は普通に笑っていた。
「その様子だとこの辺で、コーヒーなりなんなりで、ひと息入れようか?」
「広瀬」
「なんだい、田中。今日はこのパターンがやけに多いけど」
「そのセリフはだな、オレが今日聞いた言葉の中でぶっちぎりに最高だ」
田中は自分が朝食も昼食も食べていないことを身体で思い出していた。
田中の身体は常に正直者であった。