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Desafinado(調子はずれ)  作者: カワヤマソラヒト
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II 5月(8)-2

「まず第一にね、今日の必修には土井がいつもの席にいた。向かって右側の先頭の席に。なのに田中がいなかった」

「なんだって!」


 田中は思わずイスを鳴らして立ち上がっていた。

 4月の時点で土井は計画的に休むと言っていた。

 田中は場合によっては土井に釘を刺さねばなるまい、とも思ったが、さっき広瀬が言ったようにまだこの時期は問題ない。

 それに、土井は先週きちんと現れて講義をこなした。

 その分次回は、つまり今日の講義は休むだろうと、土井は予告した。

 田中は広瀬と共に土井の言葉を聞いていた。


「裏切ったか、土井のヤツめ」


 広瀬は田中の様子を「くくく」と笑いながら、テーブルを挟んで反対側、田中の正面の席に座をとった。

 父親からのお下がりだというブリーフケースは広瀬の膝に載っていた。


「せっかく土井が真面目に出てきたのに、裏切ったか、なんて言う田中は面白いよ」


 広瀬の言うとおりだと田中も思ったが、どうもすっきりできないのもまた田中だった。


「このオレとしたことが、土井に負けるとは……」

「ね、けっこう効いたんじゃない?」

「癪なことだが、そのとおりだ」

「土井は午後は出ないってぼくに言ったから、もう帰っちゃったろうな」

「ん? 帰ったって、土井が?」

「うん、おそらくね」


 広瀬はブリーフケースに手をかけた。


「広瀬、今、何時だ?」


 広瀬はブリーフケースから何かを取り出そうとしていた手を止めた。

 田中を見ながら左手を動かし、広瀬は人差し指を伸ばした。

 田中は広瀬の淡々とした動きに注目した。

 広瀬は人差し指を自分の肩越しにうしろに向けた。

 田中の視線は釣られて広瀬の指さす方へ行った。

 視線の突き当たりには、第1学習室の掲示板の上方に据えつけられた時計があった。

 田中はそこに時計があることを初めて知った。

 時計の針は13時33分ということを示していた。


「でもあの時計、ちょっと進んでるから」


 広瀬はそう言うと、自分の左手首にある腕時計を見てから、うしろを向いて「あの時計」を見た。

 さらにもう一度腕時計を確認すると、広瀬は「相変わらず3分ちょっと進んでるね」と言った。

 田中はまたしても広瀬の個人的評価を上げることになった。


「すごいな、広瀬」

「ぼくは4月の合宿が終わった頃からここにけっこう来てるから」


 広瀬はあらためてブリーフケースから何かを取り出そうとしながら応えた。

 古そうなハードカヴァーが1冊出てきた。

 広瀬はそれを机の上にそっと置いた。


(なんでそんな古くせえ本をわざわざ読んだりするんだ?)


 田中はまた広瀬の評価を上げることにした。

 広瀬はテーブルに置いたハードカヴァーを手に取り、田中へ向き直って言った。


「そうだ、話がまだ途中だった」

「オレはもう充分に目が覚めたと思うが」

「だと思うけど、田中には是非伝えた方がいいと思うからさ」


 土井の気ままさにやられた以上のことがあるなんて、田中は思いつかなかった。


「ぼくの勘違いだったらごめんね」

「イヤ、例えそうだとしてもだな、その場にいなかったオレがイカンのだ」

「土井も既にいなかったけどね」


 広瀬は「くくく」と笑うと、先を続けた。


「原田先生が教室を出たあとすぐに、ジャージを着たキレイな先輩が入れ替わるみたいに入ってきて」

「オイ広瀬、それは勘違いなんかありえん話じゃねえのか」


 田中はそんなヤツは陽美以外にこの星にはいないと悟っていた。


「ぼくはでも、まだ一度だけしか田中の大切な先輩を見かけてなかったから、万一間違ってたら申しわけないと思ってさ」


 田中の大切な、という部分は広瀬に突っ込むしかないと田中は思った。

 すぐさま広瀬にアピールすべく動き出そうとした田中に、絶妙なタイミングで広瀬の言葉が聞こえた。


「マアくんいるう~?ってね、教卓を押さえるようにして言ってた」


 田中は左手で顔の上半分くらいを覆った。

 広瀬が広瀬自身の話し方のままでいてくれて、おかしな口調で陽美のまねをしでかすようなヤツではないのはよかった。

 それにしても、陽美という脅威が前触れもなくやって来たという事実は、それだけで田中を軽々と打ちのめしてしまうのだった。


(我ながら情けねえとは思うがな、ハルちゃんへの対策が見つからんのだ)

「そこにいたうちの科の同僚全員が、『マアくん』はどうしたのか心配になったと思うよ」


 広瀬の話は想像を絶する田中へのカウンターであった。


「先輩と『マアくん』は一躍有名人だね」


 田中はわざとではなく、イスから転げ落ちそうになった。


「土井はそのときもういなかったから、きっと原田先生の影みたいなフリをして出ていったんだろうね」


 田中が思わず閉じたまぶたの裏側に、同級生たちのどよめきや驚き、平然とした陽美とナイキのジャージがありありと浮かび上がった。


「田中ってさ」

「なんだよ」

「従姉とはいえ、先輩と本当に仲よしだよね」

「広瀬、うるさい」

「今日みたいなことって、そうあるもんじゃないし」

「あってたまるか」

「ぼくは恋愛的に見てるんじゃないよ」

「当たり前だ」


 そう広瀬に言われてみると、田中は陽美に彼氏がいるのかどうか気になってきた。

 これまでまるっきり気にすることはなかったのに。


「先輩が『マアくん』を呼んだときにさ」

「広瀬、またうるさい」

「ぼくはちょうど教室から出ようとしてて、教卓の近くを歩いてたんだよね」

「はあ? てことは、まさか」


 田中はどうしたことか不安に駆られた。


「先輩が声をかけてくれて」

「うわ」

「うわって言うことはないと思うけど」

「ん? そ、そうか。そうだな」


 田中は思わず動揺していた。


「てことはだな、広瀬は、その」

「なんだい、田中」

「ハル……じゃねえや、森野、先輩とだな、知り合いになったってことか?」

「先輩の苗字は『森野』っていうの?」


 広瀬は興味津々な様子で言った。


「ぼくは先輩に名前を訊かれたから自然に『広瀬です』って答えたけど、先輩は『マアくん』で頭がいっぱいみたいで名乗ってくれなくて」

「広瀬、頼むからその呼び方はやめてくれ」

「別にそこまで気にしなくていいのに」


 広瀬にそうは言われたものの、身内から言われても「マアくん」という呼び方に完全に慣れているわけではないので、田中はどうも落ち着かなかった。


「もう同僚のほぼ全員に『マアくん』はバレたわけだし」

「広瀬、何度もうるさい」


 田中はなんとなく勇み足をしたような気分になった。

 しかし、広瀬の言うとおり今さら自分がじたばたしても仕方ない。

 田中は広瀬に陽美の名前をちゃんと教えておくことにした。


「この際だから教えておくとだな、あの女……」


 田中は恵子の顔を思い出すと、慌てて言い直した。


「あの先輩のフル・ネームはだな、森野陽美といって」

「はるみ先輩なんだね、覚えとくよ」


 広瀬は朗らかに言った。


「イヤ、覚えなくてもいいのだが」

「で、田中はいつも先輩をなんて呼んでるの?」

(それを訊くか、広瀬)


 田中は焦った。


「先輩が田中を『マアくん』って親しみを込めて呼んでるからには、田中もそんな感じで呼んでるんでしょ?」

(広瀬は鋭いからこんなときは困っちまうな)


 田中は自分が幼い頃の写真を見せるかのような気分になった。


(ヘンに隠して誤解されるわけにもイカン、か)


 田中は広瀬の質問に素直に答えた。


「オレはだな、昔から『ハルちゃん』と呼んでいてだな」

「ああ、いいなあ」


 広瀬は感慨深そうに言った。


「ぼくはうらやましいよ。いつも身近にいてくれた幼なじみって感じが伝わってくる」


 広瀬は「さすが田中だね」とつけ加えた。


「やっぱりぼくも田中を見習わないとなあ」

(イトコで幼なじみってのをどう見習うってんだよ)


 田中は口には出さなかったが、今のは我ながらなかなかの突っ込みだったと感じた。


「ぼくは幸運にも森野先輩と話すことができたけど」

「それが幸運かどうかは分からんがな」


 田中の頭に「女難」という単語がチラついた。


「田中らしい返しだね」


 そう言った広瀬は嬉しそうに見えたので、田中は不思議に思った。


「『広瀬くんはマアくんを知ってるかい?』って訊かれてさ、ぼくは『マアくんには仲よくしてもらってます』と答えたよ」

「だからだな、広瀬」

「気にすることないじゃない。せっかく先輩がみんなにいい呼び名を教えてくれたのに」

「ホントにやめてくれ」


 田中は無意識に顔をしかめていた。


「ムズムズする気がしてイカンのだ」

「そうそう、そんな口ぶりで」

「は? 何がだ」

「『マアくんはこういう肝心なときにいないからイカンのですよ』って聞いた覚えがあってさ」

(つまらんことは早く忘れてくれ、広瀬)


 田中は顔をしかめたままだった。


「『もしマアくんに会ったらだね、伝えてほしいのですよ』とも聞いたかなあ」

「よく覚えてるもんだな、まったく」


 田中はがっくりしながら言った。


「だって、森野先輩は個性的で印象深いから当然でしょ」

「そんなもんかねえ」


 田中は脱力してつぶやくように言った。


「ぼくがいちばんびっくりしたのはね」

「まだ続くんかよ」

「ふたりの話し方がそっくりだってこと」

「なんだって」

「田中と先輩の口調はものすごく似てるよ。きちんと言うとね、田中は先輩の口調に相当大きな影響を受けてると思うんだよね」

「ホントか広瀬?」

「ああ、自覚がないんだ、近すぎて。分かりやすいなあ田中は」

「うるさい」

「次に実家に帰ったときにでも訊いてみなよ、ご家族の誰かに。きっとみんな分かってると思うな」

(広瀬、オマエは鋭いよ、まったく)


 田中は思った。


(そんなに似てるとは気がつかなかったが、オレにとってハルちゃんは家族以上に身近かもしれん。影響があって当然だ)


 田中の耳に広瀬の声がなおも勢いよく響いてきた。


「先輩って、いつもすっぴんなの?」

「ん?」

「この間はよく分からなかったけど、今日はちっとも化粧してないように見えたから」


 田中はハッとした。

 これまでずっと素顔の陽美しか知らなかったから何も思わなかった。

 けれども、4年にもなって学校で素顔でいるのは珍しいのではなかろうか。


(イヤ、珍しいっつうより、何かヘンじゃねえか?)


 疑問を感じたところでそれはどうしてなのか、田中に分かるはずがなかった。


(広瀬、オマエはよく見てんなあ)


 田中は化粧の必要性も不必要性も考えたことがなかった。

 おまけに誰にも訊いてみた覚えがなかった。


(ハルちゃんが化粧をできないとは思えん。キライなんだろうか。聡美ですら中三のくせに色気づいてなんかやってんのに……ん? ハルちゃん、聡美に訊かれてアドヴァイスしてやってたような)


 田中はそんな漠然とした記憶があったかもしれないと思った。


「田中、大丈夫?」


 広瀬は中腰で田中を覗き込んでいた。

 田中はそんな広瀬には気づかぬまま右手で頬杖をついていた。


「ん? お、おお。おかげさまでな、まだ生きてるぞ」

「それはおおげさなんじゃない?」

「あのな、広瀬」


 田中はしみじみと広瀬に語りかけた。


「どうしたの、急に哲学者みたいな表情になっちゃって?」


 田中はあらたまったように顔をしかめていた。


「今のオレの気持ちはだな、広瀬といえども分からんと思うぞ」


 田中はつぶやくように言った。


「それはそうだよ。けど、ぼくからするとさ、あんな美人の先輩が自分の生まれたときからそばにいてくれるなんてさ」

「オイ広瀬、あの女はだな……」


 田中の脳裏にまたもや恵子が登場していた。


── いくら親しくても、「あの女」なんて言ったらダメだよ。


 公園で恵子に言われたことがさっきよりも生々しく蘇ってきたので、田中はまた別の衝撃を受けた。

 間もなく田中の耳に広瀬の声が聞こえてきた。

 田中は第1学習室にいるという現実に速やかに戻った。


「今でもずうっと味方でいてくれるなんてさ、ぼくには想像不可能な贅沢に思えるけどなあ」

(「美人」で、「味方」、か)


 田中は広瀬の表情を見て、この発言は真面目なものだと受け取った。


(考えたことがないが、そのとおりだ)


 田中はどうにか気を取り直して、広瀬に言った。


「あの従姉兼先輩はだな、昔っからあんな見てくれだったわけじゃねえぞ」

「さすがにぼくもそれは分かってるよ」


 広瀬はいつもより陽気そうだと田中は感じていた。


「でもきっとかわいらしい女の子だったろうな」

(お気に入りかよ、広瀬)


 田中は広瀬の言葉からいつものような冷静さが感じられず、わずかながら浮ついているような気までした。


「ぼくが分からないのは、と言うより、ぼくが田中に訊きたいのはさ」


 広瀬が言った。

 田中の持っているイメージとはかなり異なった表情が見えた。


(理想はな、理想のままがいちばん美しいんだぞ)


 何故か田中はそう広瀬に言いそうになった。


「田中はなんでそんなにモテるのかってことなんだけど?」

「はあ? なんじゃそりゃ」


 田中は広瀬の突拍子もない問いかけに目が点になったような気がした。


「ああ、自分じゃ分からないかな」

「オイ、ちょっと待て。そういう問題じゃねえだろうが」


 田中は広瀬が本気で誤解するのではないかと感じた。


「ぼくにはさ、田中は自分ではなんにもしていないように見える」

「ん?」


 田中は広瀬が冷静だと分かって、少し落ち着いた。

 広瀬の言うとおり、田中は自分から告白するようなマネはかつて一度もしたことがなかった。

 誰かの気を引こうとしたこともなかった。

 必然性を感じていなかったのだ。


「そう見えるのに、田中の周りには女の子が集まるようにも見えたりして」


 田中は広瀬が冷静であることが悩ましいと思えてきた。


「あ、加藤くんもいるから、男子にも人気だね」


 田中は黙っているべきではないと気づいた。

 今このタイミングで何か言うべきならば、田中はこのひとことに尽きると考えた。


「知らねえ」

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