II 5月(8)-1
田中正彦は、学内の図書館の2階にある第1学習室にいた。
窓際の最後列の席に陣取り、半分くらい開けておいた窓からそよいでくる風と優しい日差しに浸ってまどろんでいたのだ。
(終わりそうではあるが、まだ5月だってことだな)
田中はうとうとしながらそう感じていた。
初めて第1学習室に来てみた際には、2階が「1」であることがしっくりこなかったものだが、そんなことはもうどうでもよかった。
3階には第2と第3の学習室がある。
初めて図書館から出るとき、田中は入口にある表示にふと気がついて知った。
その図によると、学習室はどこも同じ広さのようだ。
田中はまだ3階まで行ったことがないので、現実はどうなっているのか確認していない。
田中が1階を素通りして階段を上がると、第1学習室はいつもガラガラだったからだ。
(ここで学習してるヤツを見たことがねえから、学習向きかどうかは分からんが)
田中は思った。
(こんなふうに休んでるのにはけっこういいもんだ)
田中にとって第1学習室は息抜きの場所だった。
*
田中は自分自身の基本的方針として、まともな理由がないのに大学をサボるのはやめておこうと決めていた。
せっかく人生最大級の幸運で入学できたのに、むざむざとサボってしまうのは幸運に対して申し訳ない気がしたのだった。
ファミレスでアルバイトを始める前までは間違いなく、田中はその方針に則っていられた。
ところが、バイト先で即戦力として重宝されるうちに、田中の方針と現実にズレが生じてきた。
田中は学力よりも体力に自信があったので、どうにか切り抜けられるだろうと楽観的に考えていた。
(大学もバイトも両立できる。そうでなくてはイカン)
窓際でうとついている今でもその気持ちは変わっていない。
変わっていったのは現実とのズレであった。
田中とはいえ、ついにこの日は連日のバイトの疲れから寝坊した。
(オレはずいぶん生っちょろくなっちまったのかもしれん)
高3でサッカー部を引退して以来、トレーニングらしいことは何もしていない。
受験勉強のことしか頭になかった。
(それはそれで間違っていたとは思っとらんのだが)
田中は頭の中に暗雲が立ち込めてくる気配を感じた。
(受験勉強の合間の気晴らしにもっと真面目に走り込んどきゃよかったか)
* * *
── 田中、ちょっとタルんだんじゃないか?
高3の10月の頃だったか、田中は悪友の杉山から言われた。
── 杉山のような運動部ではなかったヤツに言われたかねえな。
その場はそれですませたものの、サッカー部で部長と副部長として頑張ってきた隣のクラスの高城と廊下で行き会ったときには、こうも言われていた。
── よう部長。
── オレはもう部長ではないのだが。
── ああ、そうだった。そんなことより田中。
── なんだよ高城。
── 田中のその長い学ランとやけに太いズボンからだと分かりにくいんだけどな。
田中は上下とも先代の部長から譲り受けた、応援団と張り合えるほどのものを律儀に着ていた。
高校入学当初に買った制服はずいぶんきつくなっていたからちょうどよかった。
さらに、これらを着ることが「部長としての伝統だ」と言われたからでもあった。
── で、何が言いてえんだよ高城?
── 部活を引退したら太ったんじゃねえの?
── はあ? そんなことはないつもりだが。
実際、田中の体重は普通に日によって変動があるとはいえ、平均すれば増加していなかった。
── 実際、オレは体重は変わっとらんし。
── そんじゃ、タルんだな。
── なんだって?
杉山はともかく、日々共に部活をしていた高城に言われると不穏な気持ちになった。
── そんな重そうで暑そうな学ランを着てればそのうち体重は減りそうな気はする。でも鍛えた方がよさそうだ。
── なんで高城にそこまで言われねばならんのだ。
田中は抗議してみた。
── オレはフィールドで試合でも練習でも走り回ってたけど、田中は高校からはゴール・キーパーになっちゃったから、オレよりは走り込んでないだろう。
── ん?
── 少なくとも試合形式とかシュート練とか、試合ではなあ。
田中は中学ではフォワードに位置してずいぶん走りとばし得点を上げていたが、高校からはわけあって1年時からキーパーに転向していた。
そのため、高城の発言には反論できなかった。
── それが足掛け3年分だぞ。オレと田中がどのくらい走ったかは、比較にならないと思うぞ。
── 仕方ねえな、そのとおりだ。負けを認めてやる。
田中は癪に障ったので、その後は勉強に詰まると近所をジョギングして回ってみた。
とはいえ、模試による合格可能性の評価を思うと、悠長に走ってもいられなかった。
* * *
(バイトを始めたタイミングは我ながらバッチリだった。年内でも忙しい時期のはずだから、履歴書を持って行ったそばから働けた)
バイトは極めて快調な出だしだったと田中は感じていた。
(だが調子に乗って土日も休まずに働いちまったのは失敗だったってことか)
田中は学生の本分たるべき学業をないがしろにしたくなかった。
実家を出たのはあくまでも大学に通いやすくするためである。
なるべく早く経済的にも自立したいという目標はあるが、決してバイトのためではない。
(そこんとこがブレるようじゃ最悪だからな)
平日の田中は学校から帰ると、たいていは夕方から真夜中頃まで働くことにしていた。
夕方から出られるのは店長に感謝されたくらいだった。
夕食の時間帯はランチタイムの次に多忙でありながら、バイトの人員が手薄になりがちだからであった。
それに、夕方以降の時間帯は時給が昼間よりよかった。
シフトの都合で勤務が多少なりとも深夜にかかれば割がよく稼げる。
つまり、田中にとって理想的な働き方ができていたのである。
そのことはさらに店長による田中の評価へとつながっていった。
(充分な手応えだったから、4月に働けなかった分を取り返すつもりでオレなりによく頑張った。それはヨシとする。だが、やりすぎるのは何事もよい結果にならんわけだ)
田中は自分なりに反省した。
(6月は祭日がないし今月ほど忙しくなることはなかろう。体調を整えるのに都合のいい時期だ)
田中はそう考えていた。
(オレ以外の新入り連中だって仕事に慣れてくる頃だ。オレがちょっとぐらい休んだところで問題なかろう)
田中は自分も新入りだということを忘れてはいなかったが、店長の期待に応えることや稼ぎのために働きすぎてしまった。
長期に渡って続けるならある程度は抑えめにしていかないとまずい。
最悪の場合、長い間穴を空けてしまうかもしれない。
(このままではダウンもありえる。休むのも仕事のうちっていうのをすっかり忘れちまってた)
田中はそこまで考えて、今後の対策を決めた。
(自分の身体とうまくやらんことにはどうにもならん。きっちり休みをとるしかねえよな)
ふたつの言葉が田中の脳裏に浮かんだ。
自業自得。
負け。
(こいつはどうしても避けねばならん)
*
とはいえ、すぐにそうするよりは来月、6月からの方が区切りがよい。
田中はどうにかして5月はペースを維持したままで終えたかった。
しかし、頭の中でいくら決めたところで身体は常に正直ものであった。
*
寝坊の件についてはなんら弁解の余地がない。
(やっちまったが、慌てたところでどうにもならんからな)
田中はあらためて時刻を確認した。
講義にはまだどうにか間に合いそうな時刻だった。
田中はいくつかの段取りを省略して出かける準備を進めた。
留守番電話のセットと寝癖を手ぐしでごまかす段取りは省略せず、粛々と準備を終えると、田中は再度時刻を確かめた。
(電車のタイミングによるが)
田中は思った。
(講義に間に合う確率は上がったな)
急ぎ足で駅に向かった田中ではあったが、自覚のないまま歩くペースが落ちてしまい睡魔に襲われていた。
田中の頭が突如ガクッと下がった。
身体がよろけて危うく周囲の人にぶつかりそうになった。
すんでのところで踏みとどまれたものの、これがタイム・ロスの大きな原因となり、田中はあと数歩というところで電車を一本見送ることになった。
(講義に間に合う確率は上がったはずだったのに、急降下するとは情けねえ)
*
田中は定期券の入ったパスケースをあらかじめ手にしておき、学校への最寄り駅で開いたドアから誰よりも真っ先に電車を降りた。
その勢いのまま、田中は定期を駅員にはっきり見せつけながら改札を駆け抜けた。
(これでペースを落とさなければどうにかなる)
田中はそう思った。
思ったけれども、田中の身体はやはり自分に忠実かつ素直だった。
田中は必修科目が行われるいつもの教室に着く前に自滅した。
その要因は頑張って走ってしまったことにあった。
正門を抜けた田中の足どりはもう無駄な抵抗をしなかった。
田中は汗をかきながらとぼとぼと歩き、どうにか学内図書館の2階にある第1学習室にたどり着いたのだった。
*
まどろむことはできたが、疲れ過ぎているからか、田中は眠りに落ちてはいなかった。
ただぼんやりと、そよ風に吹かれているだけだった。
気温は暑くもなく寒くもない。
少なくともまどろむには最適だ。
おぼろげな意識の田中ではあったが、誰かの足音が近づいてきたのは分かった。
「なんだ、やっぱり田中じゃない」
田中が目を開けるより先に、どことなく驚きをはらんだ声が聞こえた。
田中はその声が誰のものか分かったので、落ち着いて目を開けた。
「なんだ、広瀬、どうかしたのか?」
「田中が必修に出てこなかったから、みんなで心配してたよ」
「おお、それはスマン。ただ、眠いだけでだな、心配されるほどのこっちゃないぞ」
「それならひとまずよかった。まだ欠席の回数を気にする必要ないし」
「そのとおり……」
田中はあくびをこらえながら広瀬に言った、はずではあったが、最後の「だ」を言うときに限界を超えたあくびが漏れてしまった。
ひょっとしたら、「だ」と言ったつもりなのに、広瀬には「にゃ」と聞こえたのではなかろうか。
── そのとおりにゃ。
田中は気になったが、広瀬がいつものように泰然自若としているのでこのことは忘れようと思った。
「でもさ、そうした話は田中本人からみんなに言ってくれないとさ」
「ん?」
田中は焦った。
忘れようと思ったのに、広瀬から「にゃ」について指摘されそうな気がしたのだ。
「オ、オイ広瀬」
「なんだい、田中」
「そりゃあなんの、ことだ?」
「あれ? 田中は寝ぼけたフリをしているんじゃないの?」
「イヤ、そんなフリができるほどオレは器用じゃねえぞ」
田中は広瀬が鋭いヤツだと知っているので、いくら猫っぽいことを言ったとしても自分から尻尾を出さないように心がけた。
「だったら、ちゃんと聞こえてたのにとぼけてたんじゃないの?」
「イヤ、それもないぞ、それも」
田中は田中なりに言葉に気をつけて答えた。
「ならいいけどさ」
広瀬は仕方なさそうに言った。
「みんなはしっくりこないだろうなって、ぼくは思うけど」
「ん? まあ、そうかもしれんが」
広瀬が「みんなは」と言ったので、田中は猫問題の件ではないと判断できた。
田中は無意識にニヤリとした。
「田中の態度はなあんか酷いなあ。加藤くんなんて特に心配そうにして」
(カトウって、誰だ?)
「ぼくはなんとなく加藤くんに避けられてるのかと思ってたのに、彼の方からぼくに訊きにきたんだよ」
(広瀬を、避ける? カトウが?)
「田中はどうかしたのかって、小野さんと一緒に」
「ヒデカズか!」
田中は恵子の苗字が出てきたおかげで、心の森の奥にある湖にいる魚を呼び出さずにすんだ。
「ふたりともかわいそうなくらいだった」
広瀬は田中にうなずきながら応えた。
「小野さんのうしろにはよく一緒にいるみんなもいたし、ぼくは田中のマネージャーかクレーム担当かって感じ」
広瀬の口調はますます仕方のなさをアピールして聞こえた。
(恵子とよく一緒にいるってのは、サトウと……シマダか。あとはその他三人だったよな)
田中はその他三人については今も苗字を知らなかったが、カトウもサトウもシマダもクリアできたので気が緩んだ。
広瀬に断ることなく、田中は大あくびをした。
口が限界まで開いた気がした。
「あ、絵に描いたように眠そうな感じ」
「イヤ、スマン。もう大丈夫だと思うんだが……」
田中はそう言いつつも、さらにひとつ追加しそうになった。
「仕方ないなあ。じゃあ田中がスッキリ目が覚めそうな話をしてあげる」
広瀬の言葉に興味を持ったので、田中のあくびは一旦保留された。