II 5月(7)-2
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田中はバイトを終え、へとへとになりながらどうにか自分の部屋に戻ってきた。
バイト先は自室から普通に徒歩で10分弱の、大きな国道に面しているファミリー・レストランだった。
遠いと感じるような距離ではないが、この日は普段より絶対に道が長く延びていると田中は感じた。
そんなことがあるはずはないと頭で分かっていても、体は認めていない。
こんなふうに感じたのはこれが初めてであった。
田中はワンルームのドアの鍵を閉めるとまっすぐベッドに向かい、そのまま仰向けに倒れて目を閉じた。
* * *
田中は今の部屋に引っ越してきて間もなく、散歩がてら近所を見回るうちこのファミレスを見つけた。
しめた、と田中はすぐに思った。
ファミレスなら常時アルバイトを募集しているに違いないと考えたのである。
入口の方に行ってみると、予想どおり「アルバイト募集」の貼り紙があった。
時給はことさらよいわけではなかったが、悪くもないと田中は思った。
田中がかつてファミレスでバイトをしていた頃、高校生だった田中の時給は不満を感じる額だった。
人生の長さがたいして違わないのにも関わらず、大学生は高校生より優遇されていた。
田中は貼り紙を見ながら、大学に受かってよかったとしみじみ感じていた。
経験もあることだし、田中はバイト先としてまずこのファミレスを第一候補に決定した。
なんの迷いもためらいもなかった。
他にもいくつか候補が見つかり、なんだかんだあった田中は4月中にバイトを決められなかった。
しかし、5月になった日の夕方、田中は履歴書を持ってあらためてファミレスに来た。
履歴書を見た店長は田中の採用を即決すると、田中にこう言った。
── 今日このあとから、入れる?
田中はそれが当然であるかのように了承した。
店長はキープしてある制服のサイズを気にしていたが、田中が困ることはなかった。
* * *
ゴールデン・ウィークを挟んだ前後のこの時期は、バイトの同僚が穴を開けやすいこともあり、通える日が多い田中は重宝されていた。
しかも経験があるので、新入りとはいえども申し分ない働きぶりだった。
時期的に他の新入りも多く、おそらく所属人数は増えているだろう。
(だがヤツらは戦力としてはまだまだってもんだ)
かつての自分がそうだったから、田中はよく分かっていた。
(こういうときこそ頑張りどきってこった)
そのとおりだった。
田中は機敏に動き、その分稼ぎは増えていったのだが、この日の疲れはかなりひどかった。
その理由がなんなのか、田中は充分すぎるほど分かっていた。
アルバイトの多忙さ以前に、昼間の出来事がすごすぎたのだ。
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目を開けてみると、部屋の中は街灯の明かりがカーテンの隙間からやや漏れてくるだけで、ほぼ真っ暗だった。
帰宅してすぐベッドに倒れ込んだので、部屋の明かりをつけていなかったのだ。
田中は明かりのことは放っておき、両手を頭の下で組みながら昼間のことを思い出した。
まだあまりにも生々しいので、心の森の奥にある湖の魚たちはのんびり過ごすことができた。
(まず「現代文学史」だ)
そう思うと同時に眼鏡をかけたあの顔が脳裏に浮かんだ。
(佐野のヤツめ……オレの判断が甘かったのだろうが、にしてもだ。考えたくはないが、何か手を打たないと腐れ縁になりかねんぞ)
田中は無意識に顔をしかめていた。
(どうにかしない限り、オレに平和は来ない)
田中は佐野への対策を真剣に考えることを決意した。
再び目を閉じると、田中は深くため息をついた。
次に浮かんできたのは昔からよく知っている顔だった。
(いきなり、だぞ。しかもハルちゃんだぞ。その上メシどきだぞ。食ってる最中だぞ。打つ手なんてあるもんかよ)
田中は思った。
時と場所を選ばない、と言うよりも、細かいことは気にしないハルちゃんらしさがよく分かる。
それにしても、だ。
災難だったと言いたくはないが、田中はそう思うことにはした。
(ハルちゃんをイヤだなんて思わない。会ったら嬉しかったし、楽しいって思った。だいたい、物心ついたときに女を意識したのはハルちゃんが初めてだった。ルーツにハルちゃんがいるってこった。どうにかしようったって、どうにもならん)
陽美には手も足も出ない。
田中にとって陽美はそんな存在だった。
(何しろつきあいは19年目だ。オレにとって19年てのは両親に兄貴と同じ、オレの人生全部、最長の関係だ。風呂に一緒に入ったのだって何回だか分からん……というのは関係ないか。だが事実は事実だ)
田中は自分に言い訳をしていた。
ただ、いちばん気になったのは、陽美が自分と一緒にいるせいで、誤解を受けないかということだった。
もしそれで陽美に迷惑がかかるようなことがあったら、自分はとても耐えられない。
(ハルちゃんは何も気にしないかもしれんが、オレはそんなことではイカン。気をつけなくてはならんぞ)
田中は陽美に会うときは気を引き締めなくてはならないと真剣に思った。
(ヒデカズはどうでもいいとして……)
田中は恵子に声をかけられた場面を思い出していた。
自分としては恵子を警戒してそそくさと教室を出るつもりでいたのに、ヒデカズのせいでしくじったことも思い出した。
(なんだよ、どうでもいいどころじゃねえぞ、ヒデカズが原因じゃねえか)
田中は恵子に捕まったのはヒデカズに責任があると断定した。
しかし、ヒデカズの横の席に座ってしまったのは自分だし、ヒデカズに先手を許したのも自分だった。
ということも一式まとめて、田中はヒデカズのせいということにした。
口直しに、ではないが、ヒデカズの顔はとっとと頭から消すことにして、田中は恵子の顔を思い出した。
今日の恵子は髪を下ろしていた。
そのためかどうか分からないが、これまでと少し雰囲気が違ったように今は思う。
田中は恵子と歩いているうちに、嬉しそうな恵子の表情を何度も見ることになった。
恵子が少し自分の先を行くと、日差しが恵子のきれいな髪を紅茶色に見せた。
ここで田中は気がついた。
(オレは……恵子には悪いイメージを何も感じてないぞ)
田中は意外に思った。
自分は恵子を避けようとしていた。
顔を合わせるのはまずいと思ったからだ。
それは間違いない。
が、まずいと思ったのはどうしてだったのか。
田中はそれについては思い出せないまま、恵子の言葉を思い出していた。
(土井と広瀬に感謝している、そんなことを言ってたよな)
田中は恵子からその意味を聞いた覚えがあった。
なのに、耳にしたはずの答えを忘れていた。
(何やってんだ、オレは)
田中は目を開けて上半身を起こすと、両手で頭を数回叩いた。
それでも思い出すことはなかった。
ただ、あのあと陽美について恵子に訊かれたことを思い出した。
自分が言い訳がましく恵子に話していたこと、恵子が優しい笑顔を見せてくれたこと、恵子に何か注意されたこと、自分がニヤッとしていたこと。
場面毎にスライドを眺めているような感覚だった。
田中正彦の脳裏には、やがて恵子と公園に着いた場面が浮かんでいた。