II 5月(7)-1
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田中正彦は思わぬ展開にどぎまぎしていた。
ただ、そのことを気取られないようにと考えた。
笑顔でいることにしようと思いかけたが、目下全敗なのでそれはやめることにした。
すると田中にできる表情は、自覚はないけれど多くの人にそう思われてしまう「しかめっ面」しかなかったが、非常事態だからということで自ら「ヨシ」とした。
「田中くん」
恵子に名前を呼ばれてドキッとしたが、田中はいつものように相槌を打った。
「ん?」
「近頃、加藤くんと仲よくしてるよね」
田中は陽美の話題ではないことにホッとした。
(カトウって、誰だ?)
「田中くん大丈夫?」
「は?」
「怖い顔になってるから、ちょっと心配で」
(どっちみち失敗か、オレのツラは)
「私、田中くんが不機嫌になるようなことをやっちゃったかなって」
「違う、それはない。断言する。安心してくれ」
「だったらいいけど……」
恵子は不安そうな表情でうつむいてしまった。
(さっきは振り向いて微笑んでくれたってのに、オレは何やってんだか)
田中は自己嫌悪になりかかった。
田中の心の森の奥にある湖に住む魚が機敏に動いた。
一度は消した記憶が蘇り、浮かんできた。
田中は思い出した。
「……ヒデカズは加藤だっけか、そう言やあ」
「田中くん、それはひどいと思うな」
「そうか?」
「自分ではそう思ってないのかな?」
「ちっとも思わんが」
恵子はひとつ吐息をもらした。
「田中くんは、やっぱりどこかはずれているよね」
「ハズレ?」
そう言いながら、田中は「またかよ」と思っていた。
陽美にも、恵子にも、繰り返し言われてしまった。
「そうね、当たりはずれで言うなら、当たりではない、かな」
(うわ、けっこうえげつねえぞ、恵子)
「私、はずれが好きなのかな……」
「ん?」
「なんでもないよ、タ・ナ・カ、くん」
田中はすぐ目の前にいる恵子の様々な表情を目にしていた。
小さな声でつぶやく恵子。
茶化すように言う恵子。
田中を注意する恵子。
田中にはうまく言えない表情の恵子。
そして、微笑んで見せた恵子。
紅茶色に見えた髪。
(恵子、か)
その続きは、今の田中には思いつかなかった。
恵子の足取りは相変わらずゆっくりしていた。
田中は恵子が三歩先に進むのをわざと待って、うしろから恵子を見た。
多少前屈みになって足元を見ながら歩いている。
田中にはそう見えた。
「お昼休みに」
恵子は急にそう言うと、立ち止まった。
今度は振り向かず、足元に視線を落としたままだった。
ついに来たかと田中は思った。
でもわざと避けられてしまうよりは、これでいいとも思っていた。
「田中くん、ずいぶん楽しそうだったね。元気で、とってもきれいな先輩と一緒で」
「イヤ、まあ、楽しそうだったのは認める。おかしな顔じゃない先輩だということも認める。しかしだ」
「何?」
恵子は心細いような感じで声を出した。
田中は恵子を追い越して、恵子と向き合った。
広瀬にはあたふたした説明になったものの、その分恵子には簡潔に話せるはず。
田中はそう思った。
「あの先輩はだな」
「あの先輩は?」
恵子は顔を上げて田中を見つめた。
田中のどぎまぎは鎮まりかけていたのに、見事に復活した。
「いいんだよ、田中くん」
「は?」
「正直に話してくれても。あんなに仲よくできて……名前で呼び合えて」
田中は慌てて答えた。
「あの女はだ、実は従姉なんだよ。三つ歳上の」
「えっ?」
恵子は口元を右手で押さえた。
左手は肩にかけた白いバッグを押さえていた。
「それですごく仲がいいの?」
「そのとおりだ」
「信じて、いいの?」
「イヤそんなおおげさに言わんでくれ。単にオレが生まれたときからそばにいた従姉ってだけだ」
恵子は口元を押さえたまま少し笑った。
田中にはそう見えた。
「『だけ』をそんなに強調しなくてもいいのに。それに、『だけ』と言われても、ずいぶんすごいことだと思うけどな」
「ん?」
かろうじて「ん?」とは返してみたものの、田中のどぎまぎは依然として鎮まらない。
「だって、生まれたときからそばにいるなんて、どれだけ田中くんのことが分かっているか……私には想像できないもん。年上の従姉で、きれいで、明るくて、幼なじみ以上の人だよね」
「んー、否定はできんが」
「なんか悔しいなあ」
恵子は上を向いてそう言うと、歩きだした。
(悔しいって、なんでだよ)
田中は疑問を持ったまま恵子について行った。
公園らしき景色が見えてきた。
周囲は田中には名前が分からない背の低い木で区切られており、ところどころに黄色いガードパイプが見えた。
それらのあるところが出入口なのだろう。
田中が恵子に並ぼうとしたとき、恵子が言った。
「でもね、田中くん」
「ハイ」
「いくら親しくても、『あの女』なんて言ったらダメだよ」
「は?」
恵子の言葉は田中の意表を突いた。
もっと陽美についてとやかく言われるものと思っていたら、田中を注意する言葉が届いたからだった。
「親しき仲にも礼儀あり、ですよ」
恵子は自分の右側を歩いている田中にちょっと顎を上げながら言った。
田中は恵子のその様子を見ると、どぎまぎが鎮まってきた。
「それはすまなかった、恵子さん」
「田中くん」
「ハイ」
「恵子、です。それと」
「ハイ」
「謝るなら私にじゃなくて、先輩に、です」
田中は恵子に注意されているのに嬉しくなってきた。
自分の意外な反応……恵子に対して、また。
「田中くん、実は悪い人なのかな?」
恵子は明るく笑いながら言った。
「私が注意しているのに、笑ってるなんて」
「笑ってんのかオレ?」
意図せずに自分が笑っているとは、田中は気づいていなかった。
ただ恵子がどことなく嬉しそうにしているのは分かっていた。
「ほら、大きな公園でしょう?」
立ち止まった恵子は田中に出入口のひとつを示した。
右手をくるっと回して、手のひらを上にして。
田中も足を止めて、そんな恵子を見ていた。
自分は笑いを浮かべているのだと今は分かった。
(意識して笑顔になろうと思っても、ちっともうまくイカンのにな)
にこにこと言うよりはニヤリとしたものだと感じていたけれども、これはこれでよかろう。
田中はそう思っていた。