II 5月(6)
*
田中正彦は突然のことで驚かされると同時に感心していた。
「田中くん、私は早速ラブコメを語り合えるサークルを探しに行きます」
「お、おお。頑張れよ」
講義が終わると、加藤は田中にひとこと言い残すと颯爽と教室を出て行ったのだ。
(有言実行というか、やる気になるとヒデカズの行動力はすげえな)
田中はおとなしく筆記用具等一式を例によって青いバッグに片付けていた。
今日は広瀬は既にいなくなったし、土井は来なかった。
最前列向かって右隅の席は無人のままだった。
これで自分のところに来そうなヤツはいないだろう。
あとはバイトに精を出して、今日という一日が終わるはずだ。
田中はそう考えてひと息ついた。
(結局、充電も節約もできなかったがな……)
大丈夫とは思うけれども少しだけ不安もある。
(ヒデカズに詫びを入れて寝ときゃよかったか。だがヒデカズの感じだとあれでよかったのかもしれんがな)
田中が帰途につこうと立ち上がったとき、田中を呼び止める声がうしろから聞こえた。
「田中くん」
加藤に驚かされてしまったことで、田中は肝心なことを忘れていたのだった。
(そうだった、恵子が)
田中はこの日何度目か分からないがっくりした表情でうつむいた。
「どうかしたの? 元気がないみたい」
(ヤバイ、油断した。丸見えじゃねえか)
田中はゆっくり振り向いた。
心配そうな面持ちの恵子が田中を見ている。
サトウとシマダ、他数名はすでに退出したらしい。
「イヤ、元気はあるぞ」
田中は笑顔になっているつもりだった。
陽美や佐野に言われたことも覚えている。
今度は大丈夫ではなかろうか。
「でも、調子悪そう。表情が無理してるように見えるもん」
田中は自分の未熟さを強く思い知ることになった。
(3連敗だぞ……情けねえったらねえよ)
「今日このあと、時間、あるかな?」
恵子の服装は今日も新鮮に見えた。
白いニットのチュニック、と言うのだったか?
以前、妹がそう言っていたような……。
横に少しスリットが入っている。
袖口は広く空いている。
青いロング・パンツ、裾をまくっている。
白いスニーカー。
でもいちばん目に留まったのは髪だった。
教室に入ってどこにいるのか確認したときはよく分からなかったが、ポニー・テールにせず、髪を下ろしている。
田中は目を見張っていた。
(長いんだな、思ってたより)
恵子の髪の先は肩をはっきりと越えていた。
まっすぐできれいな黒髪は、光が当たると紅茶色にも見えた。
(オレのゴワッとした天パとは大違いだ)
田中はそう思った。
恵子は田中の視線に気づいたからか、何故かもじもじしていた。
「私、何かおかしい、かな……」
「ん?」
「田中くん、目が点になってるみたいだから」
「イヤ、そんなことはなくてだな」
田中は恵子につい見惚れていた自分に気がついて、あたふたしてしまった。
「もしかして、髪、下ろしているの、ダメ、かな?」
「ダメってことはないのだが」
田中はとにかく落ち着こうと思った。
「本当に?」
恵子はしょんぼりした様子から一転して両手をぎゅっと握り、田中に顔を向けて言った。
田中は恵子の眼力に押された。
「おお……ホント、だ」
「だったら、少し、歩かない?」
「少しならかまわんが」
田中はバイトのことを考えてそう答えると、恵子に続いて教室を出た。
恵子の背中はそわそわしているように見えた。
田中自身もこのあと何が起こるのか想像できずそわそわしていた。
田中は自分がそわそわするなんて珍しいことだと気がついていたが、その理由は考えないことにした。
*
田中は恵子のペースに合わせて、のんびり歩いた。
恵子が普段よりもゆっくり歩いているのは明らかだが、急かすようなまねをする気はなかった。
(たまにはのんびり歩きたいときもあるよな)
田中は単純にそう思うことにした。
周りの目はまったく気にならなかった。
階段を下りて校舎を出ると、おもむろに恵子が口を開いた。
「土井くん、今日もいなかったね」
「だったな」
「大丈夫かな?」
「ん? 恵子さんは」
「田中くん」
「ハイ」
「『さん』は、いらないよ」
先日も恵子にそう言われた気がする。
言われなければ思い出すことはなかっただろう。
田中はしかめっ面をするところだったが、危うく気がついてこらえた。
(ご希望に応えないと、ずっと言われんだろうさ。しょうがねえ)
田中は覚悟を決めて言い直した。
「恵子は土井が心配なのか?」
恵子はにっこりして答えた。
「友だちだもん、当たり前でしょう?」
「友だち、ねえ」
田中は平静さを保とうとしてさりげなく言った。
恵子に自分のそわそわがばれるかどうか。
ばれたらばれたときのことだと思った。
「田中くんはそう思ってないの?」
恵子は田中の様子より、言葉に不満があるようだった。
「イヤ、もちろん友だちだと思ってるぞ」
「そうよね」
恵子は安心したらしい。
「田中くんは土井くんの話題になると、いつも顔をしかめて心配そうだもの」
「なんだって? それは本当か?」
「本当よ。今だってそうだもの」
「うわ、それは気づかんかったな」
恵子に言われて田中は驚いた。
自分が誰かを心配していることが顔に出ているとは。
今まで意識したことはなかったし、指摘されたこともなかった。
おまけに、しかめっ面はこらえたはずなのにダメだったなんて。
「優しいんだよね、田中くん」
「そうなんかねえ」
ぼんやりした相槌を打ちながら、田中は思った。
(恵子の方がずっと優しいだろうが)
田中は真面目にそう思っていた。
(自分では分からんもんなのかもしれんな)
なおもぼんやり考えていた田中に、恵子のはっきりした声が聞こえてきた。
「そうだよ、田中くんは優しいの。私はそう思うな。どこかはずれてる気もするけど、優しいって」
(ハズレって、オイ)
陽美に続いて恵子にも言われてしまった。
言葉にはしなかったが、田中は複雑な心境になっていた。
単なる偶然だと田中は思いたかった。
「広瀬くんは?」
恵子の問いかけに、田中は我に返って答えた。
「なんか用事があるとかで、講義の途中で出てったぞ」
「広瀬くんでも途中退席なんてするんだね」
恵子は意外そうな表情になった。
恵子と並んで歩いていた田中は、恵子の背中越しにひらけている空になんとなく目をやった。
5月の太陽はまだ高く、空は透きとおっていた。
遠くの方で雲が増えてきたように見えた。
「田中くん」
「どうかしたか?」
「田中くんはどうして土井くんのことが心配なの?」
「それはだな」
田中は次の単語が浮かばなかった。
(4月のことから思い出してみればいいか)
しばらくさかのぼって考えてみると、ひとつ思いついた。
「入学した日に、オレのすぐうしろにいたんだ」
「うん。それで?」
「それで、って言われてもだな」
自分の答えは間違っていない。
それで、と訊かれたなら、続きを言うしかあるまい。
田中はさらに答えた。
「この学校に入ってから、オレに最初に声をかけてきたヤツ、それが土井だった」
「そうだったのね」
恵子は肩にかけた白いエナメルのバッグに手をやりながら、うんうんとうなずいた。
「不謹慎だけど、私、土井くんに感謝しているの」
「どうしてだ?」
「土井くんのおかげで、バスの席を交代できたから」
「は?」
「田中くんに会えた」
恵子は右側を歩いている田中を見ずに、自分の足元を見ているようだった。
「だが、席を交代しなかったとしてもだ、そのうちオレがいるのは分かっただろうが」
「でもね、あのタイミングで会えたから、私、自分から声をかけることができたんだって、そう思っているの。もしそうじゃなかったら、今こうして田中くんと並んで歩くなんて、きっとなかったと思うの」
「そんなもんかねえ」
「そんなものなの」
恵子が前を向いたままで微笑んでいる。
田中は無意識ではあったが、恵子の表情を丁寧に追っていた。
「私、今日は広瀬くんにも感謝しているの」
恵子はまた足元を見ているようだった。
「どうしてだ?」
田中はさっきと同じ返しをしていた。
言ってしまったあとでそう気がついた。
いろいろな言い方があるはずなのに同じ返しをするなんて、自分はやはり国語力が足りないのかもしれない。
田中は自分を残念に思った。
「広瀬くんのおかげで、すんなり田中くんとふたりになれたから」
恵子は田中に向かって微笑んで見せた。
(嬉しそうだ、オレにそんな顔を見せるなんて)
「広瀬くん、昼休みに学食で教えてくれたの。自分は用事があって早く帰るから、田中くんに直接訊いてみるといいよって」
「はあ? 何を訊けって言ったんだ広瀬のヤツは」
「田中くんが楽しそうにお話していた、素敵な先輩のこと」
(うわっ、やっぱりそれかよ)
田中はがっくりしていた。
今日何度目になるかはもうどうでもよかった。
「あの、恵子さん?」
「なあに、その言い方」
恵子はおかしそうに言うと、田中の言葉を待たずに続けた。
「広瀬くん、気を遣ってくれたんだなって、すぐ分かったの。私にそう言ってくれる前に、他のみんなとも田中くんについて話題にしてくれたし」
(他のみんなとも? なんだよ、広瀬の方がよっぽど素早いじゃねえか)
田中は広瀬にはめられたような気分になった。
「言い方はまあ置いといてだ、『みんな』というのはどこの誰だ?」
田中は恵子を含む六人組について知っておくいい機会だと気づいた。
「私、合宿のときに仲よくなったみんなと、六人で一緒にいることが多いのね」
(よし、きたぞ)
「田中くんも見かけているかもしれないけど、私たちお昼を一緒に食べることも多くて、今日は偶然広瀬くんのすぐそばにみんなで席を取ったから、私が広瀬くんに声をかけたの」
(ん? 名前は出てこねえのかよ)
「みんなも、たぶん広瀬くんも、私が田中くんに興味津々だってことは分かっていてくれて、私を残して速やかに教室を出て行ってくれたんだって思うの」
(オレに興味だと? 隠すこともなく?)
田中にとってまた分からないことが増えた。
恵子は足元を見ているようだった。
正門がだいぶ近づいていた。
恵子は門を出たらどうするつもりだろうか。
このまま行けば、自分は上りの駅の方へ向かうから右へと進む。
恵子は左右どちらに進むだろうか。
そのことが気になっていた田中は、ついさっき恵子が発言した内容についてはとりあえず考えないことにした。
そんな田中に気づいているのかいないのか、恵子は正門まであと20メートルくらいのところで足を止めた。
田中は二歩行きすぎてから止まり、恵子の右へ戻ろうとした。
「田中くん」
「ん?」
恵子は田中を呼んだ。
田中は身体ごと恵子の方へ向いた。
手をうしろで組んだ恵子がまたもじもじしているように見えた。
「田中くんは、正門を出たあとどっちに行くのかな?」
「オレはだな、上りの駅から電車に乗るから右なんだが」
「そうなの?! 実はね、私も上りの方の駅を使っているの」
そう言った恵子は、なんだか恥ずかしそうにしているようだった。
「あの、ね、田中くん」
「ん?」
「駅に行く前に、寄り道してもいいかな?」
「寄り道? 何それ?」
寄り道なんて発想は今の田中の世界には存在していなかったから、田中の言い方は「寄り道」の意味を知らない人のようになった。
「田中くん、その言い方はおかしいよ」
恵子は楽しそうに笑っている。
田中にはそう見えた。
「田中くんは知ってる? 公園の場所」
「公園なんてあんのか?」
田中は正直に言葉にしていた。
「駅前の商店街に入っていく手前の道を曲がって5分くらい歩くとね、公園があるの。大きいのよ、噴水があって」
「ほう」
田中はさっきからろくな言葉を返してないことに気がついた。
自己紹介のとき、自分で「よく無愛想だと言われます」と話した覚えがある。
もしかしてそんなふうに思われてしまうのは今みたいな場合もかもしれない。
田中は初めてこの考えに行き着いた。
しかし、目の前にいる恵子は、顔をしかめそうになっていた田中の思いをよそに、明るく言った。
「公園に寄り道、いい?」
恵子は言い終わると顔を赤らめたようだった。
田中にはそう見えた。
そんなに気にしなくてもいいのにと思った。
田中は憮然とした表情にならないように気をつけて、こう言った。
「全然かまわんから、行くとするか」
「よかった」
恵子は間髪入れずに答えた。
とても喜んでいるのだと田中は理解した。
そんなに恵子は公園が好きなのかと思った。
自分も公園は嫌いではないし、どこにあるのか知ったならときどき行くかもしれない。
田中は恵子に続いて正門を出ると、右へ進んだ。
恵子が振り向いて、田中に微笑みかけた。
田中正彦は、恵子の髪が揺れて紅茶色に見えるのを再確認していた。