II 5月(5)
*
田中正彦がうつむいてため息をついていると、いつの間にやら広瀬がすぐそばに立っていた。
「ゲ、広瀬、どうしてここに」
「ゲってことはないでしょ。ひどいね、田中は」
「おおそうか、そうだな、そのとおりだ。スマン」
田中は右手を立てて広瀬に詫びた。
広瀬はさっきまで陽美がいた席に座った。
「さっきのジャージの女の人、うちの科の人じゃないよね」
「いかにもそのとおりだ。いつもは5号館にいるらしいからな」
「当然先輩だよね」
「ん? ああ、4年だ」
「ずいぶん元気で、きれいな人に見えたけど」
「オイ、ちょっと待て広瀬」
田中は焦ってしまった。
「いつから見てた?」
「ぼくは今日、事務室に用事があってさ、実は11時頃には学校に来てたんだよね」
「なんだって」
「それからお昼を食べにここまで来たけど、田中より早かったよ」
「うわっ、そうなのか」
「田中が入ってきたのも見えてたし、ジャージの先輩が田中のところに来て、あれこれわいわいやってるのも、ひととおり見えるとこにいたからね」
(オイオイオイ、オイ……さっき確認したつもりが見落としてんのかよ、オレ)
田中はハッと気がつくと、左右にササッと目をやった。
「何やってんの、田中は」
「土井はいないようだな」
「それはそうだよ。だって午後からでしょ、土井が来るなら」
「おお、そうだったな」
これ以上の被害は避けねばなるまい。
田中は思った。
広瀬に口止めをせねば……。
「それにしても田中は女の人に素早いなあ」
「待て待て広瀬。それはつまり勘違いをだな」
「勘違いじゃないよ。あのきれいな先輩とずいぶん仲よくしてたじゃない。名前で呼び合ったりして、ふたりともすごく楽しそうだったし」
「だからそれはだな、なんと言うか、長いつきあいなんだよ」
「そうなの? すごいんだね、田中は。ぼくも見習わないとなあ」
広瀬は嘘か本当か、感心しているそぶりだった。
「だからな、違うんだ。そういうんじゃなくてだな、よく聞けよ」
「何を?」
「あの女はだな、オレが生まれたときにはもうそばにいたんだ。うちの兄貴と一緒に」
「幼なじみってこと?」
「イヤ、それはマア、そのとおりだが」
「幼なじみの人がいるなんて、それも年上の女性だなんて、いいじゃない、田中」
「イヤ、だからな、従姉なんだよ」
「従姉なの?」
「そのとおりだ。お互いの実家がすぐそばにあって、母親同士が姉妹で行き来が年中あって……てのはいらねえ情報か。今はひとりでこっちに住んで、これもいらんか。とにかく三つ歳上の従姉だ」
「それで仲がいいんだね」
「やっと分かってくれたか」
田中は少々疲れを感じた。
「年上の従姉で、幼なじみで、田中にとって大切な女の人なんだね」
「は?」
「みんなに教えてあげなくちゃ。田中の従姉で美人の先輩が4年生にいるって。元気で素敵な人だよと」
「オイ待て、そんな必要ないだろうが。他言無用だ」
田中は広瀬を止めた。
「隠すことないでしょ。それとも秘密でもあるの? 実は従姉じゃなくて恋人だとか」
「広瀬、よく聞けよ、天に誓って断言するからな」
田中はそう言ったが、「天に誓って」というのは単なる言葉の綾で、とっさにいい表現ができないだけだった。
「それはない!」
広瀬は「くくく」と笑った。
「面白い人だよね、田中って」
田中は陽美に注意されたことを早くも忘れて、顔をしかめていた。
「田中が教えてくれたから、ぼくもひとつ教えようか」
「なんだ? 何ごとかあったのか?」
「関係ないかもしれないけどね、小野さんがぼくの近くにいたよ。たぶん友だちの女の子と一緒に」
「は?」
田中はショックを感じた。
(オレには全然見えてねえってことかよ)
さらに田中はひとつ気がついて焦りも感じた。
(袖を使ってほっぺたを拭ったのを見られちまったかもしれん)
「小野さんはぼくがここまで来る前に、学食から出て行っちゃったけど」
広瀬が続けた。
田中はまた別の感情の動きを感じた。
どうしたことか、恵子の情報を聞くと田中の気持ちはざわついていたのだ。
(なんでヤバイ気がしてんだ、オレは)
自分でありながら理解が難しい意外な反応が再び起こった。
「それと、田中には言っておくけど」
「な、なんだ、まだあんのか広瀬」
田中は自分自身にがっくりしながら広瀬に訊いた。
「次の講義だけど、ぼくは銀行に用事があって、窓口が閉まる前に行っておきたいんだよね。だから、終了30分くらい前にこっそり出て行くつもり」
「はあ」
「そのために、今から急いで教室に行くことにするよ。いちばんうしろの方が好都合だから」
広瀬はすぐさま学食を出て行った。
(広瀬によると、恵子がいたけど既に学食にはいないってことだよな)
田中はひとまず安心した。
腕時計を見ると、昼休みはまだ10分以上あった。
田中は食器を片付けると、今日もお茶を飲むことにした。
(次の講義に恵子がいるとしても、うまくすれば会話は避けられるかもしれない。イヤ、今日のところは避けておくべきだな)
田中はそう決意すると、急いでお茶を飲み干し、教室に向かうことにした。
もし恵子がいつもの窓際辺りにいるなら、自分もヒデカズがいるであろうあの辺の席でよかろう。
もし違ったら早急に席を考えないとイカン。
これが田中の作戦だったが、どうしてわざわざそんなことを考えているのか、田中はまったく気にしていなかった。
(しかし、近頃のオレは落ち着かんな。昨日の佐野といい、さっきのハルちゃんといい、このあとの恵子といい……どたばたすんのはかなりキツイ。オレの今日は長いんだ)
田中にはこの日、夕方からアルバイトがあった。
(ハルちゃんには悪かったが、完全に忘れてたから抜き打ちはホントにガツンと来ちまった)
うまく席を取れたら寝ておくしかなかろう。
田中はそう思っていた。
(充電、そして節約、だ)
*
田中が加藤を「ヒデカズ」と呼ぶのには理由があった。
加藤の名前が「秀一」という字面だと知ってから、うっかり「シュウイチ」と覚えてしまいそうな気がしたからだ。
ならば「ヒデカズ」と呼ぶようにすれば間違うことはない。
田中はそう考えた。
以来、田中は加藤を「ヒデカズ」と呼んでいるが、今では苗字を忘れそうになっていた。
もはや「ヒデカズ」との会話で苗字を呼ぶことはないからだ。
*
田中は思い描いたとおりの席に座ることができた。
左隣は無人で、通路を挟んだ右隣には加藤がいた。
土井は見当たらなかったが、広瀬は予告どおりに後方の出て行きやすい席を確保していた。
恵子はこの日も窓際の列に六人組のひとりとして席を取っていた。
佐藤と島田を除く他の三人の名前は、田中は依然として知らないままだった。
その上、サトウとシマダの顔はどっちがどっちなのか分からなくなりつつあったが、田中は今はそのことよりも落ち着くことが先決だと思った。
(今んとこ、まずまずだ)
田中はひと息ついた。
あとは加藤が何か言いだす前に自分からことわりを入れて、机に突っ伏して寝てしまえばいい。
田中が右を向いて加藤に話しかけようとした際、加藤の視線は既に田中に向けられていた。
その分だけたじろいでしまった田中は、加藤に先制を許してしまった。
「田中くん」
神妙な面持ちで加藤は言った。
「原田先生が来るまでの間、私の話を聞いてくれませんか?」
「お、おお……」
この場は加藤を刺激しないようにうまいことしのがなくてはイカン。
田中はそう考えた。
話を聞いていることを示す適度な相槌を返す。
話をうまく流すために自分の意見は言わず、相手の意見に同調して先を促す。
言いたいことをひととおり吐き出してくれさえすれば、片付いたも同然だ。
機嫌を損ねた妹を幾度となくなだめすかしているうちに身についた方法だった。
「田中くんを頼ってばかりですみません。もしかして私は、田中くんの邪魔になっていませんか?」
加藤はそう言うと、しょぼんとしてしまった。
「田中くん、顔をしかめています」
田中は今度は佐野の言葉を思い出してしまった。
── 目が座ってるからヘンに見えるんだよ。
「ん? イヤ、それはだな」
田中はつい正直に口に出しそうになった言葉を、すんでのところで飲み込んだ。
「大丈夫でしたか、よかったあ。実はずいぶん気になっていました」
(オレは最後まで言っとらんのだが)
「田中くんの邪魔をするつもりなんて私には微塵もありません。でも万が一そう思われてしまったら、私は……」
加藤がやけに悲しそうな表情になったので、田中は対応に困った。
「オイ、つまらんことは気にすんな。いいからまず話してみろ」
「ありがとう、田中くん」
加藤はパアッと晴れやかな表情に変わった。
「田中くんが話の合う人で、本当に私は嬉しいですよ」
「なんだって」
「もしも田中くんと出会えなかったら、私はこの学校を卒業するまでひとりぼっちだったことでしょう」
「それはねえだろうが」
「いいえ、田中くんほどの人物が簡単に見つかるなんて、私にはとても思えませんよ」
(ありがたいと思うべきかもしれんが、オレには無理だ)
加藤が嫌いなわけではないが、アイドル話はもう勘弁してほしい。
「オレの他に誰かいねえのか、ヒデカズとアイドル話ができそうなヤツは」
「今のところ、いないですね。私も探していないわけではありませんが」
「んー、そうか」
田中はひとつ名案を思いついた。
サークル活動を薦めてやれば、アイドル好きな連中の集まりはこの学校のどっかにいくつかありそうだし、ヒデカズならもう入っているかもしれん。
入っているならそっちの活動を強く推すしかあるまい。
「ヒデカズは、どっかのサークルに入ったのか?」
「いえ。私が理想としている団体はここにはない、それだけのことですよ」
「そんな木枯らしに吹かれてるようなツラにならんでもよかろう」
田中は加藤がずいぶん残念がっていると分かった。
自分で動いたのに成果が出ずにそう感じているのだろう。
(この学校にあるアイドル研究会や、それに類したサークルは、ヒデカズにはもの足りねえってことだな)
田中はそうに違いないと裏を取ることもなく信じ込んだ。
「私は……大学ならきっと同胞が何人もいて、こんな私でも嘘や偽りがなく過ごせるサークルが必ずあるはずだ、そう信じて、ドキドキしながら、わくわくしながら、この学校に入ったのです。それなのに」
加藤は一段とひどくなった木枯らしに吹かれているようだった。
「『アイドル研究会』、略して『ドル研』、それは確かにありました」
(『ドル研』って……日本語でいいのかよ?)
田中が連想したのはワシントンの顔が印刷されたアメリカの紙幣であった。
「しかし、部屋の中に入ってみると、そこはちっとも理想郷ではなく」
(理想郷って……)
「私には単なる部屋にしか見えませんでした。あれでは活動しているなんて言えません。まっすぐな気持ちで期待に胸を躍らせていた私は、非常に失望することになりました」
田中は加藤の周りに枯葉が舞う様子を想像してしまい、危うく笑ってしまいそうになった。
(笑っている場合ではないぞ)
田中は腕を組んで考えてみることにした。
(オレはこういう話題になおもつきあわなくちゃイカンのだろうか……)
田中はため息をついた。
どうにか避ける方法がないものか。
自分ならどうするか。
(オレはサークルに興味がないし、入ること自体うまく考えられない。そんなことするくらいならバイトを増やす。ヒデカズは気の合う連中としゃべりたいということだ。ところが入りたいと思うところはなかった、と。つまり、気が合いそうなヤツはいなかったことになるわけだ)
そこで田中はひとつだけ思いついた。
これなら黙り込んでいる加藤の興味を引けるかもしれない。
「オイ、ヒデカズが理想と考えたものが存在しないのなら、作っちまえばいいんじゃねえか?」
暗い表情でうつむいていた加藤は、田中の言葉でエネルギーを取り返し始めた。
「田中くんはとてもパワフルに物事を考えられる人ですね」
(近頃オレの代名詞がどんどん増えている気がするんだが)
「ただ、田中くんの案はすごく名案だと分かるのですが、私にはそこまでのパワーがない気がします」
加藤はまたうつむきながら言った。
田中はダメ元で発破をかけてみた。
「なんだヒデカズ、そんなことでいいのか?」
「今のところは田中くんがいてくれたら、私は充分満足です」
加藤は顔を上げると、田中に向かって照れながら言った。
(それは困るから案を出してみたのが、ダメかよ)
「私にはもうひとつ大切な趣味がありますので、そちらの方もこれから探してみます」
「もうひとつ? それはなんだ?」
田中は大いに期待して加藤に訊いた。
ヒデカズが言うもうひとつが田中にとっては救いになる可能性がある。
「気にしてくれるのですか、田中くん」
加藤は目を輝かせているように、田中には見えた。
(失言だったかもしれん……)
「マンガです」
「おお、マンガ好きなのか」
「はい、そうなんです」
それならアイドル話よりも普通に話せるかもしれない。
田中はスポ根ものやSF系のマンガならわだかまりなしでいけそうだと思った。
加藤は明るくこう言った。
「ラブコメ以外は読まないのですけどね」
「なんだって」
田中はがっくりしていた。
今日はがっくりすることが多いと感じた。
(ラブコメなんて、少女マンガと並んでオレが最も苦手とするヤツじゃねえか)
「田中くんは、まどかさんはいい女だって思いませんか?」
「はあ?」
「もしや、ひかるちゃん派なのですか?」
加藤はいい笑顔でそう続けた。
「オイ、ヒデカズ」
「大穴であかねですか? 田中くんはやっぱりすごい人ですね」
「なんの話だ、そりゃ?」
「わざとらしいですね田中くん。話を盛り上げようとして私に気を遣ってくれなくてもいいのですよ」
(ヒデカズ、お前はマイ・ペースで思い込みが激しいぞ。すっとぼけなのかヘンテコなのか……両方か)
田中は陽美から何度も「おとぼけさん」と言われたことをつい思い出してしまった。
(ハルちゃん、オレより断然すごいすっとぼけがここにいるぞ)
「田中くんはもしかすると、恭介がはっきりしないから気に食わないのですか?」
(はっきりしないから、気に食わないだと?)
加藤のそのひとことは、田中のどこかに引っかかった気がした。
「もしかすると田中くんは、『オレンジ☆ロード』よりも『タッチ』や『みゆき』がお好みでしょうか?」
(なんのことやらさっぱり分からん)
田中は面倒なので突っ込まずにダンマリを決めた
「そうでしたか、あだち充先生がお気に入りなのですね。南ちゃんも、みゆきちゃんもいいですからね。私は実は、若松みゆきより鹿島みゆきがタイプなのです」
(知らねえし、オレはなんも言っとらんのだが)
加藤は腕を組んでうなずいていた。
その様子から、加藤はかなり納得できたのだろうと思えたが、田中にはその理由がどうにも理解できなかった。
しかし、ここで突っ込むと話がややこしくなるに決まっている。
「ヒデカズ」
「どうかしましたか、田中くん?」
「気がすんだか?」
「田中くんだけですよ」
「ん?」
「私の意見を黙っておしまいまで聞いてくれるなんて」
ヒデカズはとても嬉しそうだった。
「ありがとうございます、田中くん」
「そうか、ならばヨシとしておく」
前方の入口から原田先生が教室に入ってきた。
ヒデカズはギアを切り替えたかのようにシャキッと前を向いた。
田中はヒデカズの話を聞くにつれて、自分がヒデカズから遠ざかっていくように感じていた。
だから、ヒデカズからお礼の言葉を聞くまでは、やけに遠くからヒデカズを眺めているだけのように感じていた。
結局、自分はヒデカズと渡り合えるような知識はなく、ただヒデカズの話を聞くことしかできない。
(だがマア、ヒデカズがいいんならこれでよかろう)
田中はそう思いながら、ノートを開いてみた。
「いけねっ」
原田先生の声が聞こえると、教室のざわめきは彼方へと引いていった。
「火曜のと水曜のと間違っちゃったな」
小さくつぶやいた先生の声が静まった教室へ波紋のように広がった。
ざわめきは引いていった分よりもはるかに大きくなって戻ってきた。
「すいません、もうちょっと、待っててくださいね」
原田先生は小走りで教室を出て行った。
田中は加藤が微動だにしていないのに気がついた。
ギアを切り替えてしまうとそう簡単に戻ってこられないらしい。
(面白くはあるがヒデカズ、オマエはそのまんまじゃ地味すぎだ。オマエの芸に気づいているのはオレだけだぞ)
田中正彦は原田先生についての個人的評価を大幅に上げたが、加藤については据え置きとした。