II 5月(4)
*
田中は陽美に圧倒されていた。
「マアくんに『ハルちゃん』なんて呼ばれると、いろいろ思い出しちゃうなあ」
「イヤ、思い出さんでいいぞ」
「マアくん、さっきから態度が冷たい気がするなあ」
「ん? そんなつもりは、ない、のだが」
「ほらね、言葉に詰まってる。おとぼけさんが失敗したときのマアくんだ」
(おとぼけさんて……昔も言われてたっけか?)
「せっかくずいぶん久しぶりに会ったのに。いったい何年ぶりだと思ってるの?」
「ん? 何年ぶりってことはねえぞ、ハルちゃん」
「あれ? そうだっけな」
陽美は組んでいた腕から右手を離すと、親指と人差し指を顎に当てた。
「ハルちゃん今年の正月もうちに来たじゃんか。オレに受験対策を授けるとかなんとか言ってだな」
陽美は腕をほどいて、ぽんとひとつ手を打った。
「そうね、そのとおりだわ」
陽美は自分の頭を拳骨でコツンと叩いた。
(ハルちゃん、それ、ガキの頃からやってるぞ)
はははと苦笑いすると、陽美は湯呑みを手に取った。
「でも……それでも、ずいぶん久しぶりに会ったことに変わりないのだよ」
(3月に会ってるがな)
そう思いつつお茶を飲んでいる陽美に目をやると、田中はふと気づいた。
「ハルちゃん、メシは?」
「ん? 私はね、ひとりさびしく5号館で食べてきたのだよ」
「なんでひとりなんだよ? ハルちゃんなら友だちがたくさんいるだろうが」
「そうね、そのとおり。友だちはいる。でもね、今日は来てないのよ」
「どうして?」
「私たち、4年生だしね」
「ハルちゃんは来てんのにか?」
「実はわたくし、2年のときに取っとくはずの『体育実技』をだね、再履修しているのだ」
(知らねえ……)
田中はまたがっくりきた。
「そんなのは私ひとりだから、さびしく食べていたのだよ」
「堂々と言えるこっちゃねえぞ」
「うっかりだね、2年のちょうどその時間帯に、曜日は忘れてしまったが4限の前後にね」
「はあ」
「バイトしてたんだよねえ。それで」
「なんで学校ほったらかしてバイトなんだよ」
「ほら、体育は半期だし、取り直せるでしょう。でもそのときの私には稼ぐ方が大事だったってことね」
「オイオイオイ……」
(天然なのはパーマだけにしてくれよ)
田中は自分のことは棚に上げ、そう思っていた。
「ん? 危ない。うっかりマアくんにはぐらかされてしまうところだったわ」
「は?」
「私、おばさんからマアくんの電話番号聞いてたから、マアくんに何度も何度も何度も何度も……ふう」
「ハルちゃん、分かったから息切れするまで言わんでも」
「それだけ繰り返し電話したってことよ」
「ホントか、それ?」
田中は陽美の言葉を怪しんだ。
それほど電話してくれて一度も分からなかったなんて、いくら自分でもどんなものか。
「ホントもホント、大ホントよ」
陽美は強調して言った。
「マアくんの部屋の電話って、最新型の留守番電話つきのを買ったからすごいみたいよっておばさんが言ってたのに、ちっとも留守電になんないし」
「ちょっと待ってくれ」
田中は陽美に言われて「もしや」という心当たりがあった。
母が陽美に言ったとおり、最新型の電話機を買っていた。
部屋に電話を引いて最新型をつないでばっちりだと思った。
それですっかり安心していた。
だが、留守電をセットしたという記憶がない。
セットすると電話機の正面にランプがつくんですよ、そう電気屋の店員に説明してもらったのは覚えている。
なのに、部屋の電話機にそれらしきランプが点灯しているのを見た覚えもない。
(やっちまったに違いねえな、マジいっ)
田中はいつもより眉間の皺を深くしていた。
「マアくんその表情、何か隠してるでしょう」
「う」
「あ~あ、やっぱりそうなんだ」
(ハルちゃんにはバレバレ、お見通しってことか)
「相変わらずどっかはずれてるんだから、マアくんは」
(イヤ、それはハルちゃんの方がずっとすごいだろうが。バイト優先して再履修だぞ。見事なハズレっぷりじゃねえか)
「おばさん、かなり心配してたよ。マアくんに何かあったんじゃないかって。そこでだね、この私の出番ですよ。なのに」
「はあ」
「マアくんに私の電話番号はちゃんと教えてあるっていうことも聞いてたから、マアくんから連絡くれるかもって楽しみにしてたのに、ちっともだし」
「はあ」
「私も心配で電話したのに……ひどいよねえ、マアくんたら」
(んー。言われてみると、ハルちゃんの番号を教わって、電話引いたらすぐ連絡しろって言われたような)
「小学校以来なのよ、マアくんが私と同じ学校に通うのは」
陽美はアピールを続けた。
「だからこそ……ここは私しかいないって思ったから、マアくんに学校のこととかいろいろ教えてあげられますのでって、おばさんに連絡のことをお願いしておいたのに。おばさんから話、聞いてるよね?」
(んー。聞いたような気もするが……)
「もう直接探すしかないって思ったから、時間があるときにはマアくんを捜して……」
(でもオレはその頃引っ越しやら買い物やらで他のことは聞き流しちまって、それっきり全部忘れたんだな。そうとしか考えられん。ハルちゃんがこっちにいるってことさえ、どっかに行っちゃって)
田中は自分がしでかした大きなミスとしか思えなかったので、素直に謝った。
「スマン、ハルちゃん。オレは100%忘れてた。全面的にオレの完敗だ。迷惑かけて、ゴメン」
田中はテーブルに両手をついて陽美に深々と頭を下げた。
「分かればよろしい」
陽美は腕を組み直して満足そうに言った。
「けどねえ、マアくん」
「ん?」
「そのしかめっ面はよくないなあ」
「オレ、そんな顔してた?」
陽美は腕を組んだままうなずいた。
「まだ自分では分かってないのか。こうなったら、私が鍛え直してあげる必要がありそうだわ」
田中は何か不穏な空気を感じた。
「イヤ、大丈夫。大丈夫だからな、ホントに」
「そうかなあ? マアくん、都合が悪いといっつもおとぼけさんだからなあ」
(やりづれえ……)
田中は話題を換える作戦に出た。
「ハルちゃん、なんで着替えてねえんだ?」
「ん? ジャージのこと?」
「そうだよ。普通は終わったらすぐに着替えるもんだろうが、特に女は」
ふっふっふと笑ってから、陽美はニヤリとした。
「それはだねマアくん、聞いているかもしれないけど、私の部屋は学校から歩いて行ける距離にあるのですよ。だから慌てて着替えなくても大丈夫なのだ」
「はあ」
「バス停は近くにないし、駅は遠くて、歩くと25分くらいかかるけど」
(それって、どうなんだよ)
「それにですよ、私は今日これで学校は終わりなのだ。でね、時間があるから、今日もはるばるマアくんを訪ねて三千里なのよねえ」
「三千里、ねえ」
「あれ? 面白くなかった?」
「イヤ、まあ、ネタは分かるのだが」
「あ、またおとぼけさんになった」
田中はドキッとした。
そう何度も「おとぼけさん」にされるのは困る。
「私はねえ、マアくん」
「ハイ」
「さっきちらっと言ったけど、今日だけではなくて、です。5月になってからは週に3回ぐらいこの学食まで来ていたのだよ」
「ハルちゃん、そんなにここのメシが好きなのか」
「またそんなふうに。おとぼけさんのマアくんめ。はずれてるよお、大学生になっても変わんないよお」
「ん?」
「私は5号館の学食が好きなのっ。近いしおいしいし、3号館のも割と好きだけど」
「はあ」
「マアくんを捜してなければ、わざわざこんなとこまで来ないよ」
(うわ、それはないぞハルちゃん。ケンカ売ってるみたいじゃんか)
プンプンしている陽美にかまわず周囲を見ると、田中はあちこちにぺこぺこ頭を下げた。
「何やってるのマアくん?」
「ハルちゃんのフォローだ」
「ええっ? 逆でしょう? 私はマアくんを捜しに何度も何度も」
「分かった。分かったから繰り返さんでも」
「電話したってつながらないし、マアくんはかけてくれないし、たいへんだったんだから、すっごくすっごくすっごく……」
「分かった。オレが悪かったからストップ」
「おお、自分が悪いと認めたか」
「ゴメンなさい、ハルちゃん」
田中は肩をすくめてもう一度頭を下げた。
「分かればよろしい」
陽美はまた満足したようだった。
「でもやっと会えて安心したあ。よかったなあ、今日来てみて」
陽美は椅子に腰かけたまま伸びをすると、とてもいい笑顔を田中に見せた。
田中の脳裏に幼い頃の気持ちが浮上してきた。
(この顔だよ……)
「さてマアくん」
「ハ、ハイ」
田中は慌てて現在に戻った。
「ここだと落ち着かないから、場所を変えよっか」
「はあ」
「このあと、マアくんは時間ある?」
「別にかまわんが」
そう言ってから、田中は午後のひとコマ目である3限に必修があることを思い出した。
(だが今はハルちゃんの方が大事に決まってる)
田中はあっさりと3限をキャンセルしようと思った。
「ん? ちょっと待てよ」
陽美はそう言うと手提げから手帳を出した。
表紙はピンクだ。
陽美はぺらぺらとページをめくった。
スケジュールを確認しているんだなと田中は思った。
あっちゃあ、と言う小さな声が田中に聞こえた。
田中ではなく、陽美が顔をしかめていた。
(ハルちゃんだってオレとおんなじじゃん……てことは、もしかして、血筋だったりするのか?)
「ごめんマアくん。今誘ったばっかりなのに、私このあと予定が入ってた」
「ハルちゃん」
「なあに?」
「ハルちゃんだって、ハズレてるからな」
「ん?」
陽美は右の人差し指を唇の下に当て、うつむいて考えているようだった。
「そうなるのかな……そうだね」
(今さらだぞ、ハルちゃん)
「だとすると、はずれてるのは、血筋なのかな」
陽美は腕を組み直して首を傾げた。
「ちょっと待て、ハルちゃん」
期せずして田中と陽美の見解が一致しようとしていた。
「私とマアくんは天パだし」
「それ、関係あんのかよ」
「天然パーじゃないんだからね」
「まだそんな古いネタが現役かよ」
「けど、鷹雄と聡美は違うのよねえ」
「何故ここでうちの兄妹の名前を言う必要がある?」
「それはだね、いつからなのか分かんないくらい久しぶりにマアくんを『正彦』って呼んだから、田中3兄妹たるものみんなの名前を一度はきちんと言った方がいいでしょう?」
「分かんねえ……」
「これで無事に言えたことだし、これからはタカくんとサトミンに戻すね」
(場所がどこだろうと変わんねえ、見事なまでにマイ・ペースだぞ、ハルちゃん)
田中は困ったような、嬉しいような、複雑な気分になった。
お互いの家族は誰もそばにいない。
自分と陽美のふたりだけで話をしている。
こんなことはいつ以来だろうか?
「では申し訳ありませんがマアくん」
陽美は椅子にきちんと座り直した。
「今日のところはこれにてお開きです」
「はあ」
「あとで……電話するから、出るか留守電にしておくか、今ここで約束して」
「ん? 約束はするが、その手は」
「ほら、マアくんも小指、よくやってたでしょう、指切り」
「指切りだと?」
「時間がないわ急ぐのよ」
陽美は右手の小指を差し出したまま、左手で田中の右手を引き寄せた。
「マアくん急いで、ほーら」
田中に向けて陽美の小指がさらに近づいた。
田中は仕方なく陽美の言うとおりにした。
「時間の都合で歌は省略します」
小指と小指が3回ほど上下した。
田中は周りの視線をまたしても気にすることになった。
「これでヨシ、と」
陽美はひと息入れると立ち上がった。
「じゃあマアくん、また今度ね」
「はあ」
陽美は学食から早足で出ようとしていた。
前方の出入口を抜けようとしたとき、陽美は田中へ向けて大きく手を振ってみせた。
「電話、忘れちゃだめだぞお」
そのときの陽美の笑顔も、田中の好きなものだった。
陽美が出て行ったあともしばらく、田中は余韻に浸っていた。
学食中の人の視線が集まっていた気がしたが、田中はもはやヨシとしていた。
田中は自分が陽美に勝てるなんてまったく思えなかった。