II 5月(3)
* * *
田中正彦はひとりでA定食を食べていた。
学食内のうしろの方に並んでいるふたりがけのテーブルとはいえ、田中が来たときには、通路側から丸見えの席しか空いてなかった。
今ひとつ気が進まなかったが、空いてないのだから致し方ない。
田中がA定食を食べ始めた頃、近所のふたりがけの席が続々と空きだした。
(もしかしたら早めに講義が終わった科目があって、そっから流れてきた連中が食い終わるタイミングなのかもしれん)
田中はそう思ったが、今さら席を動く気にはならなかった。
(しかしだな、こういうつまらん不運のような……それともなんかの祟りか呪いなのかもしれんが、今日はいつもより慎重になった方がよかろう)
田中は祟りや呪いの原因になるような心当たりは何ひとつなかったが、ともかく今からおとなしく過ごすことを決意した。
(おかしくなったのは「現代文学史」からだな)
田中はなんの疑いもなくそう確信していた。
佐野幸美。
あの女はなんなのか。
明らかに初めて遭遇したタイプのヤツだ。
次までにどうにか防護策を用意せねばなるまい。
みそ汁のお椀を左手に持ったまま、田中は考えていた。
佐野が嫌いなのではない。
そういう感覚とは違う。
ただ自分の中にある本能のようなものが、身の危険を感じている。
危険は極力回避するべきだ。
田中はみそ汁の具である豆腐を上手に箸で掴んだ。
しかし、口に運ぶ前にそれはいくつかの断片に崩れてお椀の中へ落ちていった。
跳ね飛んだ汁が田中の頬を濡らした。
(……という日だってことだな)
田中は2限の「現代文学史」から来ていたが、広瀬も土井も来るなら午後、3限の必修科目からのはずだ。
田中はシャツにジーンズのポケット、さらに青いバッグの中を確認した。
ハンカチもティッシュもそれらに準ずる何かも持っていないことが判明した。
田中はお椀を置くと、しれっと左の袖を使った。
そしてさりげなく辺りを見回した。
見慣れた顔はひとつもなかった。
もちろん広瀬も土井もいない。
ヒデカズも恵子もいない。
不幸中の幸い。
前向きにそう信じて、田中は唐揚げに箸を伸ばした。
「なあんだ、いるじゃない。よしよし」
唐揚げを噛みしめる田中に、場違いな雰囲気を感じさせる声が食堂の入口方向から聞こえた。
女の声であるのは間違いない。
とはいえ、今の田中には遠い後方での出来事だった。
田中はごはんを口に運んだ。
今日のA定食もうまい。
声は自分とは無関係に決まっている。
「そこのあなた、ちょっといいかしら?」
さっきと同じ声が、田中の背後から聞こえた。
意外と近い気がした。
なんとなく前から知っているような気がする。
けれども、恵子の声ではない。
合宿のときにお世話になった色気がないM先輩とも違う。
他に自分に声をかけてくるような女はいない。
はず。
気のせいか。
田中はよりA定食に集中した。
ゴールが近づいてきた。
「オイ、田中正彦」
突然フル・ネームで名指しにされた田中は派手にビクッとした。
右手の箸がゆっくり遠ざかっていくような気がした。
2本の箸は小さく軽い音を立て、床に転がった。
「おやおや、仕方ないなあ。そこで待っているように」
声の主の気配が薄れていった。
箸を拾いながら、田中は左肩越しに配膳場のカウンターへ目をやった。
箸を持ってくる女が見えた。
田中は目を見開いていた。
ひどい驚愕が田中を襲っていた。
「はい、どうぞ。これを使ってください、タナカくん」
女は田中の背後から正面へ移ると、箸を田中に渡した。
ニヤリとした表情。
紺色のナイキのジャージ。
シューズも紺色のナイキ。
田中に極めて鮮明な記憶が蘇った。
(そうだ、ナイキ好きなんだよ。初めの頃は『ニケ』って言ってたんだが)
両手で小さな手提げを身体の前に持っている。
すらっとした細身で女にしては背が高い。
白いスポーツ・タオルを首に掛けている。
おそらくこれもナイキだろう。
茶色に近い髪は染めているのではない。
ショート・カットにウェイヴがかかっているが、田中はそれが天然パーマであることも知っている。
黒いカチューシャが見えている。
「この学校に私がいるって知りながら、1か月以上も挨拶がないのはどういうことかしら?」
「ハル……じゃなくて、森野、セン、パイ」
「いかにも私は森野、森野陽美その人だ」
腰に当てた左手で手提げを持ち、握った右手で自らの胸をぽんと叩いた。
田中は肩を落とすと左手で両目を覆った。
(今日のオレって……)
「よいしょっと」
陽美は田中の正面の席に腰かけた。
「ん? まずい。おばさんくさくなってたわ」
陽美はちょっとだけ舌を見せた。
田中はテーブルに両肘をつき、頭を抱えながら陽美に言った。
「なんだよ……なんでこんなところにいるんだ?」
「それはだね、タナカくん」
陽美は田中のA定食が残りわずかだと気がついたらしい。
「と、その前にね」
「ん?」
「食べちゃいなよ。あと少しじゃない」
「まあ、そうだが」
「きちんと残さず食べられるか、ここで見ててあげるからね」
「なんじゃそりゃ」
陽美も両肘をつき、手は頬を押さえ、上目遣いで田中を見ていた。
田中と目が合うと、陽美はいたずらっぽくニヤリとした。
田中は無意識に顔をしかめていた。
「あれ? 食べにくい?」
「そりゃそうだよ」
「しょうがないなあ」
そう言いながら、陽美は立ち上がった。
「お茶、持ってきてあげるから、食べててね」
田中は陽美がサーヴァー・マシンに向かうのを確認すると、言われたとおりにパッパッと食べ終えた。
陽美は片手にひとつずつ湯呑みを持って戻ってきた。
そのひとつを田中の前に置いてから席に着いた。
「おお、案外いけるわね」
陽美はお茶をちょこちょこと三口ほど飲んだ。
「ではあらためて」
「ハイ……」
「なにゆえ私がはるばる1号館の学食まで来たかと言えばだね」
冷静な陽美の言葉を、田中はおとなしく聞いた。
「正彦が連絡もよこさないからに決まってるでしょう、もう」
陽美は急にプンプンしだした。
「イヤ、それはだ……じゃなくて、それはですね、森野先輩」
田中はおそるおそる陽美に声をかけた。
「まだそんな他人行儀を続ける気なの?」
陽美は腕を組んでのけぞるように座り直した。
「イヤ、それはだな」
この場にひとりだけジャージである上に、威勢がよい声。
陽美は目立つための条件を揃えていた。
(参ったな……おとなしく過ごす平和な昼休みのはずだったが)
田中は声を抑えながら陽美にこう言った。
「あー、森野先輩、元気なのはいいのだが、もっと静かに。オレたち、目立ってるぞ」
「ん? そうなの?」
「自覚なしかよ……」
陽美は周囲を見回した。
少しだけ唇を尖らせている。
「ホントだね。意外と見られてる。で、それがどうかした?」
(どうかしたって……気にしちゃいねえのかよ、やっぱり)
田中はがっくりときたが、気を取り直して陽美に言った。
「イヤ、だからさハルちゃん……」
自分が何を言ってしまったのか気がつくと、田中は目をきつく閉じてうつむくしかなかった。
(やっちまったあ)
「おや? ようやく昔からの呼び方を思い出してくれたようだね、まあちゃん」
(うわ、その呼ばれ方だけはどうにか避けたかったが)
「まあちゃん、どうして両手で顔を隠してるの? もしかして、感動の涙を見られたくないのかな」
陽美は身を乗り出して田中に訊いた。
「イヤ、そんなことは」
両手をテーブルに置いた田中の目前に陽美が迫っていた。
田中は陽美の甘い匂いに気がついてしまった。
「あ、もしかして、大学生にもなって『ちゃん』づけはイヤだった?」
田中が息を吐きながら顔を上げると、陽美は活き活きとして見えた。
「なら……今から『くん』づけにしよっか、マアくん」
(たいして変わんねえよ、ハルちゃん)
田中は祟りや呪いの信憑性について思いを馳せることになった。