最終話 The tastic love from the edge of the world
そこは、とても静かだった。
時間は果てしなくゆっくりと流れ、湖面に輝く光だけがゆらゆらと忙しなく揺らめいていた。
ウロは眼下に広がる湖面を眩しそうに見下ろした。
真夏の太陽はウロの瞳を焼き尽かさんばかりに光を放つ。
窓ガラス越しにはその熱も届くことなく、熱いというイメージだけが脳内に留まった。
「ただいま〜」
その声と共に、バタンと勢いよくドアが解き放たれる音が響いた。
その後に、バタバタと小気味よい足音が続く。
いつもの、どのくらい続いたであろう日常の一コマ。
「ウロ!」
目一杯の笑顔でコイトがウロに飛びついた。
二人は勢いあまって、その後ろのベッドに倒む。
「おかえり。コイト。それより、もっとゆっくり走れないの?コイトは」
コイトの重みを感じながら、ウロは溜息交じりに言った。
ウロに乗ったまま、大きな瞳でコイトはウロを見上げる。
「ゆっくり走るのは、歩くというのではないか?そうだろ?ウロ」
キョトンとした混じりけのない瞳は、とても綺麗だった。
その瞳に自分を見つけ、ウロは微笑んだ。
「家の中では、歩こう。これでいいかな?」
「いいよ。家の中では走らない」
「ありがとう。コイト。今日のお散歩は楽しかった?」
「うん。いっぱい、太陽の光を浴びたよ」
はらりとコイトの黒い髪がウロの頬にかかる。
ウロの指がコイトの頬に触れ、そのままコイトの顔を自分の顔へと寄せた。
コイトの唇がウロの唇に触れる。
永遠ではない短い時間。
ウロはゆっくりと瞼を開く。
コイトは大きな瞳でウロを見つめていた。
そして、微笑んだ。
「今日は、コイトがご飯をつくるよ」
すると、ウロは難しい顔をして、起きあがった。
「う〜ん。コイトは、料理が下手だからな。僕がちゃんと教えてあげるから。それから、だね」
コイトは拗ねたように立ちあがる。
立ち上がった頃には笑顔だった。
「タラコスパゲッティーがいいな」
「それは、無理だよ。ほうれん草のソテーでいいかな?」
「うん。わかった。コイトも手伝うよ」
そう言うと、コイトはドレッサーを思い切り開いた。
そして、黒い薄手の上着を手に取ると、そのままウロに放り投げた。
ウロは上着を着ると、テーブルに置かれた軍手をつけた。
その頃には、コイトは既に玄関で麦藁帽子を持って待機している。
「ウロ!早く!」
ウロは手渡された麦藁帽子を被り、上着を着て、軍手をはめる。
二人はマンション屋上にある菜園に向かった。
屋上の菜園には、二人で植えた野菜が並んでいる。
「ホウレンソウ…、ホウレンソウ…、」
コイトがいくつかの野菜からほうれん草を探している。
麦藁帽子の隙間から、太陽の光がチリチリとウロの肌を焼いた。
喉が渇く…
コイトのTシャツの袖からは、華奢で白い腕が伸びている。
コイトの黒くて長い髪はサラサラと風に揺れている。
コイトの黒くて多くな瞳はキョロキョロと目当ての物を探しだそうとしてる。
小さな菜園はおままごとだった。
そんな菜園は限界を迎えようとしていた。
永遠と続く飢え。
「ウロ!」
突然、立ちくらみがウロを襲った。
座り込んだ自分にコイトが心配げな顔で寄ってくる。
「大丈夫か?ウロ…」
黒い黒い瞳は、自分を映している。
その奥の回路も限界を迎えようとしている。
何億何万何千何百何十何日目へとさらに続く喰欲。
喰欲に支配された中枢神経には逆らえない。求め、彷徨い、喰らい、そして、また、求めて、彷徨って、喰らって、求め続ける。
何億何万何千何百何十何回と繰り返される愛の囁きと別れの言葉。
永遠の終わりを待ち焦がれる。
終わりは来たはずだ。
人はどこにもいない。
人は、人が描いた最悪のシナリオ通りに進んだ。
太陽光線も水も空気も何もかも人が生きる限界を超えた。
人は少しずつ少しずつ消滅し、ウロを残し消えた。
残された生命も少しずつ枯れている。
ウロは、人が残した遺産の中で生活をしていた。
太陽光で動く人類の文化の中で。
もしかしたら、どこかで人は生きているのかもしれない。
何度となく思っては、諦めた。
人を見なくなって、あまりにも時間が過ぎた。
自分は飢えても死なない。
そして、コイトも…
機械仕掛けのコイト。
太陽の光で動き続けるコイト。
自分を機械と知らないコイト。
いつもいつも自分のことを見つめるコイト。
そうプログラミングされたコイト。
消耗品のコイト。
いつか壊れて動かなくなるコイト。
少しずつコイトの動きが狂っているのを感じていた。
学習能力の低下が著しい。
まるで子供だ。
「ウロ…」
「大丈夫だよ。コイト」
「よかった。アイシテイル。ウロ」
少しずつコイトの回路が狂っている。
「僕もだよ。コイト。大好きだよ」
コイトの唇からは何の味もしない。
喉が渇く…
永遠と続く飢え。
何億何万何千何百何十何日目へとさらに続く喰欲。
喰欲に支配された中枢神経には逆らえない。求め、彷徨い、喰らい、そして、また、求めて、彷徨って、喰らって、求め続ける。
何億何万何千何百何十何回と繰り返される愛の囁きと別れの言葉。
永遠の終わりを待ち焦がれる。
この満たされることのない日常すら終わりに向かう。
呪いは未だに続いているのか?
人が存在しないこの世界にも神は存在するのか?
「タダイマ」
いつものようにコイトが走ってくるが、動きがぎこちない。
思考回路だけでなく、コイトの体中が悲鳴を上げているようだ。
だが、コイトはそれに気付くことなく、ウロに飛びかかりベッドに倒れこむ。
そして、いつものように黒い瞳でウロを見つめる。
「ウロ。アタシ。ユウエンチに行きたい」
突然、壊れかけたコイトの回路が、とんでもないことを言い出した。
「遊園地?」
「遊園地だ。この前、行っただろう?」
この前とは、いつのことだかわからない。
コイトを拾ったのは、もうそんな時代ではなかった。
だが、コイトのメモリには『遊園地』が刻まれているのだろうか?
「いいよ。行こう」
「うん」
断る理由などない。
なぜ機械が突然こんなことを言い出したのかはわからない。
単なる回路のショートかもしれない。
なんでもいい。コイトが行きたいなら、どこまでも行こう。
自分は死なない。
でも、コイトは遠くはない将来、動かなくなる。
動く間に、一緒に壊れた世界を見るのもいいのかもしれない。
ひさしぶりに外で出た。
砂ぼこりに埋もれた廃墟の中を二人でとぼとぼと歩く。
遊園地の場所など分からない。
ただ、二人で歩いた。
「ユウエンチには、カンランシャがあるよ。ジェットコースターもある。えっと、それから、メリーゴーラウンドもあるね」
なんだか嬉しそうにはしゃいでいる。
コイトの製造番号から、介護系アンドロイドだと推測した。
精神病患者用の介護ロボットだ。
まるで家族のように世話をしてくれる機械だ。
二人はどこまでもどこまでも歩いた。
砂ぼこりの中。いくつもの夜が来て、朝が来た。
昼の眩しい太陽の中歩いた。
「メリーゴーラウンドはきっと楽しいよ」
どこまでも…
夜の凍てつく寒さの中歩いた。
「ジェットコースターはきっと怖いよ」
どこまでも…
どこまでも…
どこまでも…
「ウロ…、疲れた」
機械にも限界が来たようだ。
機械が言う「疲れた」は故障の合図。
それも、レベル高の故障である。
「休もうか?」
ウロは廃墟の一つに入った。
割れたガラス窓の隙間から入るとレストランのようだった。
コイトを壁に寄りかからせるように座らせ、自分もその隣に座った。
「ウロ。私たちはどこに行くの?」
「…遊園地だよ」
「ユウエンチって何?」
「遊園地には、観覧車があるよ。ジェットコースターもある。それから、メリーゴーラウンドもあるね」
「楽しそうだね。行きたいな」
「そうだね。行こう」
「ねぇ。ウロ。ユウエンチには、湖はあるの?」
「遊園地に湖はないよ」
「ねぇ。ウロ。コイトは湖が見たいよ」
「湖…」
一瞬、ウロの目の前に湖が広がり消えた。
「綺麗だね」
うっとりと、コイトが言った。
まるで、ウロと同じ光景を見たかのように…
あの湖は、いつも見ていた湖であって、そうでない湖だった。
遠い遠い昔、見たはずの光景。
廃墟に囲まれた湖ではなく、鬱蒼とした深い緑に囲まれた湖。
キラキラと光を弾く湖面。
緩やかな波。
どこまでも静かで…
「戻ろうか…。コイト」
隣に座るコイトにそう言って笑いかけた。
コイトは静かに眠っていた。
「コイト?」
返事はない。
ウロはコイトを担いで一人で歩いた。
来た道を戻った。
砂ぼこりの中。いくつもの夜が来て、朝が来た。
昼の眩しい太陽の中歩いた。
「コイト。メリーゴーラウンドはきっと楽しいよ」
どこまでも…
夜の凍てつく寒さの中歩いた。
「コイト。ジェットコースターはきっと怖いよ」
どこまでも…
どこまでも…
どこまでも…
「コイト。湖は、もうすぐそこだよ…」
そこは、とても静かだった。
時間は果てしなくゆっくりと流れ、湖面に輝く光だけがゆらゆらと忙しなく揺らめいていた。
湖の見える小さな丘にウロは辿り着いた。
ウロは疲れ切り座り込み、動かなくなったコイトを静かに下ろした。
そして、コイトを抱きかかえた。
「一人はいやだよ。コイト…」
震えるウロの指がコイトの頬に触れた。
指が自分の涙で濡れた。
そして、コイトの小さな顔を両手で包み込んだ。
キスをした。
深く深く深く深く深く深くキスした。
ウロはコイトを愛していた。
深く深く深く深く深く深く愛していた。
ウロの唇から溢れ出てくるコイトへの想い。
熱くて甘い想いがウロの唇から吐き出される。
そして、その想いはコイトに入り込み、喉を通り体中に駆け巡る。
人を愛するとはこういうことなのか?
溢れ出る想い。
与えたい。
満たしたい。
ボワ〜〜〜〜〜ン
海が見えた。
深い深い深い深い深い深い海が見えた。
もう忘れたはずの女が笑っている。
恋して、愛して、飢えた。
コイトが黒い黒い瞳を開いた。
キョトンとした黒い瞳。
その瞳は充血していて、まるで兎の様だ。
そして、小さな可愛い口が開く。
「ウロ…、愛している」
深い深い深い…………
もう忘れたはずの………
恋して…、愛して…、飢えた…。
呪いの終わり…
「ウロ…、愛している」
一瞬、ウロは何を言われたかわからなかった。ただ、唇から甘い味がした。
満たした想い。
だから、ウロは涙を流した。
静かに流した。
そこに、小糸がいたから。
あの小糸がいたのだから…
「小糸…」
湖は鬱蒼とした緑に囲まれ太陽の光を忙しなく反射している。
長い道のりの終わりを感じた。
そして、短い道のりの始まりもまた感じることができた。
小糸を強く強く抱きしめた。
「ウロ…」
小糸から想いが伝わる。
消えることのない想いがウロの体中を駆け巡る。
「一緒に、ずっとずっと二人で生きていこう」
有限の生を二人で生きていこう。
その後、ゆっくりと少しだけ時は流れた。
赤い夕焼けが静かに湖底に沈んでいく。
橙色の小波がゆっくりと流れる。
小さな子が母親に手を引かれ、夕日をバックに美しいシルエットが織り成されていく。
ウロは二人に近づき、ふと呟いた。
「…ユウエンチか」
小さな子が不思議そうにウロを見上げた。
「お父ちゃん。ユウエンチって何?」
「ユウエンチには、カンランシャがある。ジェットコースターもある。それから、メリーゴーラウンドがあるんだよ。カンランシャは大きくて丸くて人を乗せてクルクル回るんだ。それから、ジェットコースターは、人を乗せて馬よりもずっと早く走るんだ」
「素敵なお伽噺ね」
うっとりと赤い湖を見つめ、小糸が呟いた。
ウロは小さな子供の頭を撫でて、さらに眼尻に皺を刻んだ。
「それから、メリーゴーラウンドはたくさんのお馬さんが子供達を乗せるんだよ」
「ボク、ユウエンチに行きたい」
「そうだね。三人でいつか行こう」
そこは、とても静かだった。
時間は果てしなくゆっくりと流れ、湖面に輝く光だけがゆらゆらと忙しなく揺らめいていた。
湖は、あの頃と何一つ変ることなく、ただただ美しい。
最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m