第4話 空
何にもない。空だ。
青い青い空。
どこまで行けば、その空に触れられるんだろう。
どこまで行けば、青い海は空と繋がるんだろう。
はぁ。はぁ。はぁ。
走った。
日差しは、どこまでも熱く。肌を焼き続ける。蝉の鳴き声は、鼓膜を叩きたいだけ叩き続ける。
「待て!このっ!くそ餓鬼がぁ!」
男に後ろから襟を掴まれ、ウロは地面に叩きつけられた。そして、男はウロが盗んだ干魚を取りあげた。男は漁師だ。逞しい拳を何度もウロの頬に叩きつける。
口の中に鉄の味が広がる。もう、慣れた味だ。男はウロの腹に蹴りを入れ、唾を吐きかけた。
「売女の餓鬼がっ」
蹲っているウロの腹に留めの一発を入れ、気が済んだのか、男はようやく去っていった。ウロは男が去るのを見届けてから呟いた。
「てめぇも買ったじゃねぇかっ。その売女をよぉぉ」
口の中の唾を吐き出した。赤い唾が地面に落ちた。体中がギシギシ痛む。目の粗い粗末な麻の着物が血と泥で更に汚れた。
足を引きずり、松林の日陰を見つけると浜辺にごろりと横になった。
ウロは七つになる。
二年前の壬申の乱はウロから父親を奪い。頼れる親類もなく、元々貧しい平民の母親は奴婢になることを恐れ、この浜辺の漁村に逃げてきたのだ。だが、土地のない母親に出来る事は、娼婦だけだった。ウロには昔の記憶はない。ただ、物覚えついた頃から、ウロは常に餓え、母親は娼婦だった。
しかし、その母親は気前のいい男が出来たと思ったら、ウロの前から突然消えた。ウロにとってはどうでもいいことだった。母親から食べ物を与えられる事はとうの昔に無くなり、ただ、暴力を振るわれていただけだったのだから。
松葉の隙間から日差しがキラキラと輝いた。
「腹減った…」
ウロは立ち上がりゆっくりと海へと近づいた。小波が生まれては消え、消えては生まれる。生ぬるい海水がウロの足元まで追い付いては離される。海水が引いた瞬間に砂の中に小さな口が空く。
ウロはそこに手を突っ込む。貝が取れるのだ。
両手一杯に貝が取れた時、ウロの目に大きな魚の尾が見えた。岩場の陰になり正確な大きさはわからないが、かなりの大物に間違いはなかった。ウロは両手一杯の貝を放り投げて岩場に走った。
尾はピシャリピシャリと弱々しくはあるが確かに動いている。
しかし、岩場を伝いながら何とかウロがそこまで行くと、そこに魚はなかった。あったのは女だった。女は苦しげに息をしていた。上半身裸の女が岩を掴んだまま倒れこんでいる。下半身は海に浸かっていた。
ウロは気味が悪くなり逃げ出そうとした。
「坊や。お願い…」
喋った?
女が濡れた瞳をウロに向けた。女は綺麗だったが、ウロには気持ち悪かった。
「な、に…?」
「坊や…」
女は腕をウロに伸ばす。ウロは恐る恐る近づいた。
「オバちゃん。人魚?」
足元に鱗があるからだ。
女は妖艶な微笑をウロに投げかける。ウロが差し出された手に届きかけたとき。
「ダメ!!」
若い少女の声。瞬間、何かが弾けた。
人魚の女は海の中へ弾き飛ばされ、ウロもそのショックで岩場に尻餅をついた。
「痛っ」
「大丈夫?」
顔を上げると、ウロよりも僅かに年上の少女が立っている。大きな瞳はキラキラと太陽に輝き、肌は白く艶やかだった。豊かな髪が潮風に揺れた。
「どうなってんだ?」
ウロの問いに女は微笑んだ。
「アレは人魚。知らないの?人魚は人を喰らって生きるのよ。あなたは食べられるところだったんだから。私はイオナ。あなたは?」
そう言って、差し出された手を無視してウロは一人で立ち上がった。
「さっきのアレ何?」
イオナは首を傾げた。
「アレ?」
「弾き飛ばされた」
「あ〜、アレね」
納得したようにイオナは頷く。そして、得意げに話す。
「私は人魚の守り人。まだ、半人前だけど。人魚から人を守り、人から人魚を守る。…って婆様に教えられてるの…」
「アンタは人間じゃないのか?」
ウロの言葉がわからないという風にイオナはキョトンとした。胡散臭げにウロは少女を見遣る。
少女の身形はウロと同じような汚い目の粗い麻の着物だった。膝下から覗く細い足は、確かに人間のものだ。
「さぁ…、婆様がいうには、…そうだ。婆様に会えばわかるわ」
少女は勝手に決めると、ウロの手を取って走り出した。
「ちょっと待って…」
ウロの言葉も待たずに、連れて来られたのは、小さなあばら屋だった。
「婆様!」
藁で出来た日よけを豪快に撥ね付け、イオナは中に跳び込んだ。
狭く暗いあばら屋の中にちょこんと蓬色した布の塊があった。イオナはその前に座り込む。布が動いた。それは、よく見ると人である。しかし、ウロから見えるのは、布の隙間から覗く細い目だけだった。
「婆様。友達よ」
またしても、イオナは勝手に決めた。
『ほぉ〜。珍しいね』
その声は、ウロの脳に直接響いた。それは気のせいかもしれないが、少なくともウロにはそう感じた。
「あのね。聞いて。婆様。彼は湖なの」
イオナは興奮したように話す。
「湖?」
聞き返したのは、ウロだった。
『そこにお座り。ウロ』
言われるがままにウロは座った。名前は名乗っていない。居心地が悪く、ウロは目を伏せた。
『湖…』
脳にそう響いた瞬間、ウロの目の前に湖が広がった。静かで穏やかな湖だ。葦の原に囲まれ、穏やかな風が頬を撫でる。
知っている。
自分は毎日毎日この湖を見ていた。湖面を覗き込むと、微笑みを見せる母親と、そして、父親。暖かな生ぬるい感情がウロの中に入り込む前に突然鼓動が激しくなった。
ウロは耐え切れず胸を掴んだ。
『おっと…』
湖が消えた。薄暗いあばら屋があるだけだ。
何だ?今のは…
知らない。オレは知らない。
『余計なものを見せてしまったようだね』
「綺麗…」
隣に座るイオナは目を瞑ったまま、未だに幻想の中に佇んでいるようだ。
「誰だ?あんた等は?」
ウロは心の奥底を覗き込まれた錯覚に陥った。不愉快で気持ちが悪い。
『…人々は、昔、神と共存しておったのじゃよ。じゃが、今、神は目に見えなくなった。我々一族は、海神様と人間の間の子の子孫…。言ったところで、ウロは信じていないようだね。それもよいことよ。何を信じるも人の心の勝手。仏教…異国の神も日本の神も元は同じ』
「オレは、何も信じない」
『…神が見えなくなるのも、我々が…、人間の血を持つ我々でさえ消えるのも、直じゃろう…』
「オレは、自分しか信じない」
『忘れるがよい。目の前で繰り広げられた戦を忘れたように…我々の事を』
「婆様!」
イオナは大きな黒い瞳に涙を溜めた。しかし、ウロは筵を捲り上げると、日差しの中に消えた。
「ウロ!」
大きな黒い瞳にはただ筵の隙間から漏れる光だけを反射した。
『イオナ。お前は、我が一族最後の子。生まれ出でるものは、足の代わりに魚の尾を持った女や、亀のような甲羅を背負った半端物ばかりじゃ。彼らもいずれ消えるだろうが、それまでは、お前が守ってゆかねばならん』
「でも…」
『あの少年の心は湖底に沈んでおる。近江国大津が消えたと同時に少年の平和が消えた。もう、どうにもならんだろう…』
「瞳にあんなに穏やかな小波を持っているのに…」
『あの瞳には、荒れ狂う海の荒波しか残っておらんよ』
五年後
ウロは柄に手をかけ、引き抜いた。
ピシャッ
ウロの頬に鮮血が散る。手でソレを拭うと後ろから声が聞える。
「ウ〜ロォ〜」
ウロより三つ年上の男が死体を見下ろした。
「何度も言っただろ。女は犯して殺す。あ〜あ。勿体ねぇなぁ〜」
「カヤはこんな女が好みか?こんな醜女犯す価値ねぇよ。さっさと金目のもの盗ろうぜ」
ウロは面倒そうに殺した女とその父親らしき人間の荷物を解き始める。カヤは舌打ちし、死体を足で蹴り、仰向けにした。口から舌がだらしなくぶら下る。
「チッ。ろくなもんねぇな。スルメだけだ」
商いの前だったらしく、金目の物はなかった。殺された男の懐から全く役に立たなかった子刀を見つけ、ウロは自分の懐に入れた。コレぐらいだ。
五年前、ウロは山に入った。そして、必然的に山賊となり、たまたま気が合ったカヤと行動を共にしている。町の屋形を襲うときは他の山賊と徒党を組むが、突発的に襲うときはいつもカヤだけが一緒だった。
スルメを噛みながら、カヤは言った。
「そろそろ、山狩りかもな」
豪商に金を積まれ嫌とは言えない役人達が、不定期に山賊狩りをするのだ。しかし、山狩りで殺されるのは間抜けな山賊のみだ。
「カヤ。オレさ、もう飽きた」
「はぁ〜〜〜?飽きたぁ〜?」
カヤの口からスルメが落ちた。
「もっと、面白くて簡単に飯喰いたい」
「ウ〜〜ロォ〜〜。これ以上に簡単な方法ってあるぅ?」
「わかんねぇけど。都に行く」
「おい。ウロ。ホンキ?」
「悪ぃな。カヤにはずっと世話になったから。お前も一緒に行くか?」
スルメの足を引きちぎってカヤは言った。
「オレはこの山で充分だ。欲をかくとろくなことにならん」
「そ。わかった。じゃあな」
「へ?じゃあなって。ここで」
目をぱちくりさせているカヤを置いて、ウロは山を降りていった。振り向くことなく。
さらに、四年後。
「宇呂。いる?」
女の声でウロは目が覚めた。頬に女の髪が懸かり、くすぐったい。女はクスクスと笑っている。細い指でウロの額から頬にかけてなぞる。女は上等な麻の着物を着ている。
「まだ、夜中だ」
また、寝ようとするウロを起こすように女は唇を奪う。
「ご馳走様。はい。お代金」
唇の自由を取り戻したウロの目にお代金が目に入る。意匠の凝った刀だ。
「もっといたいけど、旦那に見つかるとやばいから、帰るね」
「うん」
ウロは女を見送ると刀に目を向ける。笑いが口から漏れる。この刀があれば、少なくとも半年は飯が食える。
「バカな女」
山賊をやめたウロはおいしい仕事を見つけた。女を騙す事だ。女に優しくすれば、女は喜んで自分に貢物を持ってくる。これ以上に楽な仕事はなかった。身分の高い女が外に出る事はないが、通い婚が主流な為、家に忍び込む事は簡単に出来る。夫は家にいないのだ。狙うのは二人目三人目の妻を持った夫がおり、子供のいない正妻。滅多に来ない夫を待つ女のところだ。
それ以外にも豪商や豪農の娘。
刀を持って来たのは豪農の娘だったのだ。まだ、十代だが四十代の官位を持った役人に三番目の妻として嫁がされたのだ。まだ遊び足りない娘はスリルを楽しむ為に家を抜け出す。見つかれば、ただではすまないだろう。ウロもこの家を引き払わねばならないだろうが、見つかることはないだろう。
「が、そろそろ潮時だな…」
ウロは母親を思い出す。母親は体を売りながらも貧乏で喰っていくのがやっとだった。今、ウロは母親が生きているのか死んでいるのかも知らなかったが、どうでもいい事だった。
朝日が板の隙間から糸のように漏れてきた。ウロは眠れず、釣りに行く事に決めた。竿を持ち、川沿いをゆっくり歩いていくと、汚れた麻の膝丈までの着物を着た一人の娘がウロに向かって歩いてくる。
貧しい娘だ。
ウロはどんなに美しい娘でもお金が無ければ興味が無かった。だから、ウロは通り過ぎようとした。しかし、女は呼び止めた。
「あの…」
女は大きな目でウロを見上げた。女は綺麗だった。艶やかな髪を後ろで縛ってある。手には籠を持っている。これから農作業にでも行くのだろう。ウロは興味がなさそうに先を行こうとした。
「あ、あの、待って!ウロ」
一瞬、湖と海が交互に広がり、そして、消えた。失われていた記憶が蘇ると共に不愉快な想いがぐっと喉元までこみ上げて来た。
ウロは苛立ち気に言った。
「オレはアンタには会った事がない。オレはビンボー人がデェ嫌いなんだよ」
女の黒い大きな瞳から、大きな涙がポタポタと落ちてきた。ウロは益々苛立って走り去った。
何故、忘れていたんだろう。
九年前の些細な記憶。だが、その記憶と共に思い出した。その老女に見せられた湖の記憶。暖かい思いと共にある吐き気がするほどの不快さ。
そして、波の音が耳に残った。
深い緑の中、ウロは歩いていた。朝の日差しがチラチラと葉の隙間からウロの顔を照らした。葛城に行った帰りだ。
女の一人が古くから続く名家葛城氏の館で侍女として賀茂媛に仕えているのだ。賀茂姫は、中臣鎌足の息子である藤原不比等と婚姻し、娘を儲けている。
ウロは女の言っていた事を思い出していた。賀茂姫の娘である宮子が病気だと、それもかなり深刻であり、あらゆる祈祷も薬師も見放したと言う事を。
そして、女が最後に言った言葉。
人魚の肉。
それを最後の切り札として探していると言っていた。不老不死の妙薬としての噂は聞いたことはあるが、実際に不老不死の人間は見たことはない。だが、人魚なら…
恐らく、誰もが見放した宮子が元気になれば、かなりの見返りが期待できる。
ウロの口元が弧を描く。
使える物は、何だって使うさ。
そして、翌日。
女は、再び、ウロの前に現れた。
今度はウロから話し掛けた。
「イオナ。この前はごめんね」
優しく囁くように言った。それだけで、女の顔が明るくなった。
「よかった。思い出してくれて。ずっと、ウロを見たくて、探していたの…。婆様はもう会うなって言ったけど、ウロの湖が忘れられなくて…」
一瞬、ウロは息を止める。
「婆様は最近神経質なの。何だか海が騒がしいって…。何かが起こるといって…逃げてきたの。もう、浜辺で生きていくのがイヤだったの。だから、その…」
ウロは大きく息をした。もう、不快感は通り過ぎた。後は、目の前のバカな女を引っ掛けるだけだ。今日のこの日に目の前に現れたのは、好都合としか言えない。
常に運と女は向こうから近づいてくる。
「そうなんだ。イオナには普通の女として幸せになる権利があるのに、可哀想に」
黒い瞳が潤んだ。ウロには才能があった。女の欲しい言葉を与える才能。九年前、この女に初めて会ったときは、そんなものはなかった。心が読めるわけではない。女の方から顔に出すのだ。
優しい微笑で今では自分より背の低いイオナの赤く染まった頬に手を添えた。
「僕もね。本当はずっと忘れられなかったんだ…、君のこと」
イオナはウロの目を真っ直ぐに見返す。その大きな黒い瞳で。
夜の海だ。静かな夜の海のような黒くて切ない。
女の小さな声がそっとウロの耳に入った。
「好き…。アナタの、その湖のような瞳が」
その言葉と共にウロはイオナを抱き締めた。僅かに潮の香りがした。
「イオナ…。でも、僕たちは一緒にはなれないんだ。実は、…いや。止めておこう。こんなことを話しても辛くなるだけだ」
嘘。嘘を固める。自分の嘘で女が動くとき、ウロは快感を感じる。山賊をしていたときに獲物を追い詰めるときに感じた同じ種の快感を。
「お願い。話して。私、ウロの為に何でもするから。その為に、海を捨てたの」
真摯な表情をイオナに与える。
「でも…」
「お願い!」
「…実は、僕の友人に葛城の山で薬師をやっているものがいるんだ。それで、僕は彼を手伝っているんだけど、最近、近くのお屋形の姫君がご病気になられたんだよ。あらゆる手を尽くしたんだが、悪くなるばかりで」
ウロは悲痛な顔をする。
「…悪くなったのは、薬のせいだって言われ始めたんだ。それどころか、僕たちが毒を盛ったと嫌疑を掛けられている。姫君が助からなければ、恐らく僕たちの命はないだろう…」
「そんな!薬のせいじゃないのに?」
「勿論だよ。病気が重すぎるんだ。その病気を治すには、人魚の肉しかないんだ」
黒い瞳に怯えが走った。
「ごめん。いいんだ。聞かなかったことにしてくれ。君は人魚の守り人。その君に人魚の肉の話をすべきじゃなかったね」
そう言って、ウロは見を翻そうとした。
「待って!そのお姫様が助からなきゃ、ウロは殺されるのね」
「…あぁ、そうなるだろうね。逃げても無駄だろうし…相手が相手だからね…」
そして、長い沈黙の後。
「何とかするわ…」
そして、二日後。深夜、イオナはウロの元にやって来た。人魚の肉を持って。
「これが、…人魚の肉」
月明りの強い夜だった。イオナは頷く。
「顔色悪いね…」
「月明りのせいよ」
イオナは苦しげだ。肩で息をしている。そして、ウロはイオナの右腕の包帯に気付いた。
「怪我したの?大丈夫?」
そう言ってその腕に触れようとした。
「ダメ!」
怯えたように、イオナは腕を引っ込める。
「ごめん…」
「何でもないの…」
暗い表情だった。当たり前だとウロは思った。守るべき人魚を自分の手で殺したのだから。しかし、ウロは同情しない。
バカな女だ。心の中で嘲笑した。
「私の事、好き?」
突然、はっきりとイオナは訊いた。あまりにも突然で、まるで切羽詰ったように。
「え?あぁ、勿論」
黒い大きな瞳をウロに向ける。夜の海。静かな、嵐の前の静かさのような夜の海。
「好きよ。ウロの湖」
ウロは思い出せなかった。何故、自分に湖の記憶があるのか、暖かな記憶と背中合わせにある恐怖。大津の都。壬申の乱。遷都。事実を繋ぎ合わせれば、予測は出来た。自分が大津で暮らし、父が戦に巻き込まれ殺され、母が自分を連れて逃げた。
だが、それが何だと言うのだ。過去など何の意味もない。生まれてからずっと見ていた筈の湖すらも自分の中に記憶として残っていない。ただ、老婆が不思議な術を使い自分に見せた湖だけが、脳裏に残っているだけだ。
「もう、会えないわ…」
黒い瞳から涙か零れた。
「え?」
自分とずっといたいから、人魚を殺したのではないか?ウロは素直に驚いた。
「さよなら」
ウロの前から、イオナは消えた。
だが、それすらも、ウロには都合がよかった。一人の女が自分に付きまとうのは、鬱陶しかったからだ。
急いでウロは葛城に行った。侍女に会う為だ。
「これ…人魚の肉?」
女の手には笹に包まれた人魚の肉がある。恐る恐る女は包を開いた。中には桃色の肉が不気味に光った。細い血管が僅かに残っている。今にも鼓動し始めそうに生々しい。
「でも、…信じるかしら?私だってそんなの信じられないのに」
女は決して若くない。夫が無くなり、葛城氏の館に侍女として働き始めたのだ。子も無く、若くない女は、簡単にウロに引っかかったが、若くない分、用心深い。
「…犬にでも食らわして、大丈夫なら、試すって言うのは?」
「…やってみるけど。私ね、宮子様にお会いした事ないのよ」
「同じ館なのに?しかも、賀茂姫の侍女をしているのに?」
「厳しいのよ。まぁ、病気がちって事もあるけど、だから…でも、やってみる」
女は包を持ったまま、屋形へと帰った。
「越智。どこに行っておった」
廊下から声が聞え、越智は畏まった。声の主は越智が仕える賀茂姫のものだ。
「少し、風に当たって参りました」
越智は顔を伏せたまま答える。
「もうすぐ、粟田殿がいらっしゃる。用意するように」
「畏まりました」
粟田真人。藤原不比等の側近だ。最近、宮子の様子を頻繁に見に来る。
馬の鳴き声が聞えたかとおもうと数名の舎人を従え粟田がやって来た。
人魚の肉の話をしていたのは、この粟田様だ。話を通すだけ、通してみようか…
「これが、人魚の肉だと。まさか…」
越智は顔を伏せたまま、黙っていた。
「人をやって海を探させておったが、その陰すらも見当たらなかった。だから、諦めたのだが…、これをどこで手に入れた?」
「懇意にしている者がおりまして、宮子様の病気を心配されて…」
「本物か?」
「…わかりません」
越智は正直に答えた。
「その者は、確かな筋の者か?」
「…えっと、あの…小角様の縁の者です」
越智は咄嗟に嘘を付いてしまった。役の小角といえば、葛城の山に棲む呪術師との噂の傍ら薬師としても有名だったからだった。
「あの、その者は、不思議な力を持っていまして、宮子様の病気を解され、私に人魚の肉を渡されました」
「その者が宮子様の病気が何であるかわかっておると?」
「はい。そう申しておりました」
厳しい顔で睨まれ、越智はどうしていいかわからなくなった。
「越智は、それがどんな病気か聞いたのか?」
「…いえ。私は聞いたところでわかりませんから、聞いておりません」
「…そうか。では、食ってみろ」
「は?」
驚いて顔を上げると、真人は懐から小刀を取り出し、肉を切り取った。
「ほれ」
肉を目の前に差し出され、越智は恐る恐るそれを手に取った。越智は山で見つけた狸で既に試してある。狸は美味しそうに食べ、元気に走り去っていった。死ぬ事は無い。
それに、ここで食べなければ、怪しいものを差し出したとして、自分の首が危うい。
思い切り越智はそれを飲み込んだ。
なんともない。それどころか、急に体中に力が漲る不思議な感じがした。体というより、心が軽くなった。
「大丈夫です。すごく美味しいですし、あぁ、何だか、若返ったみたい」
真人には目の前の侍女が若返ったとは思えなかったが、毒ではない。
宮子の、あの病気が治るなら試すのも悪くないだろう。
日の光が川面に反射しキラキラと輝いた。ウロは越智からの連絡を待っていた。あれから、すでに三日。
釣りをしながら、ウロは逃げる事も考えた。万が一、肉を食べさせた後にでも、その娘が死んだら、越智はただではすまない。当然、自分のことも話してしまうかもしれない。あの女は、そんなに賢くは無い。
竿がピクリと引っかかる。ウロが竿を引っ張ると一匹の魚が釣れた。
ウロは首を捻る。それは、川魚ではなかったからだ。それは、海でしか取れないはずの魚だった。浜辺で暫く暮らしていたウロにはそれが、わかった。
「迷い込んできたか」
ウロは早速火を焚き、それまでに釣れた川魚と共に火に焼べた。
海の魚は驚くほど美味かった。
「こんな魚は初めてだ」
『フッフッフッ…・』
突然、脳に響いた笑い声にウロは固まった。辺りを見回すと、九年前と同じ蓬色の布を全身に纏った老婆がいた。
『喰ったんじゃろう?あの子を』
何を言われているのかウロには理解出来ない。老婆は布の隙間から嵐のような激しい瞳でウロを睨みつけ、不気味に笑いつづける。そして、笑いながら続ける。
『美味かったかい?』
嵐を瞳に持った老婆は更にウロに静かに、けれど叩きつけるように言葉を紡ぎ続けた。
『貴様は鬼になった。永遠にこの世を彷徨い続け、人の生き血を啜り、人肉を喰らい続ける鬼になったんじゃよ。それが、貴様に与えられた罰じゃ!』
罰?鬼?自分が?
人の生き血を啜り、人肉を喰らい続ける鬼?しかし、自分の体には何の異変も現れてはいない。
理解出来ないまま、ウロは嵐に飲み込まれそうになる。女の目は赤く染まっていく。
『今、貴様が喰らった魚が、あの子よ』
自分が女を喰っただと?
吐き気がした。
酸の臭いが口中に充満している。
吐き気は止まらないが、胃からは何もでない。
「何を言っている?」
深い嵐がウロを飲み込む。辺りは暗くなり、何一つ周りにはない。
『あの子は人魚を殺した。そして、愚かな人間の中でもさらに愚かなお主に、その肉をやったんじゃ。我らは海神と人間の間の子の末裔。人魚も我らの一族。海神様がそれを怒り、あの子を魚の姿に変えたんじゃよ』
「ばかな…」
ウロはイオナに巻かれた包帯を思い浮かべた。包帯の隙間から僅かに蒼い皮膚が覗いていた。そして、青白い顔。
『あの子は人間の形をして生まれた最後の子。それをお前は騙し、大罪を犯させた。我らの正統な血は完全に途絶えた。じゃが、愚かなお前に惚れたあの子は己のした事に何一つ後悔してない。それどころか、魚にされ、人間としても記憶を一切失った魚になってもお前の元にやって来た。イオナはお前に食われても、それすらも許してしまうだろう。じゃが、儂は許さん。だからこそ、お前が、あの子の肉を喰らうのを待っておったんじゃよ』
老婆は笑った。笑った拍子に顔を隠していた布が逸れた。青い鱗が老婆の顔を覆っていた。
『あの子は人魚の肉の事を何にもわかっとらん!人魚の肉は滋養強壮の薬だ。だが、それだけでは不老不死にはならんのじゃよ。一つだけ、条件がある。そして、お主の喰らった肉だけが、その条件を満たす。そして、お主がこれから歩む人生は、その条件ゆえに決して満たされる事はないだろう』
「…わかんねぇな。何故、不老不死の人魚の肉を食わせることが復讐になるんだ?だいたいその条件てなんだ?」
『その内わかるさ。…人魚の…お前に滅ぼされた我が一族の怨念じゃ」
ザァッッッッッ
深い海に鱗の肌を持つ老婆が引き込まれ、ウロも溺れた。波が幾重にも重なり、渦のように引き込まれる。
グワ〜〜ン
瞳を開いた。
ウロの瞳に藁で重ねた天井が見える。蜘蛛が獲物との間合いを詰めている。自分の小屋だった。
「夢か……………」
しかし、口の中に潮の臭いが残っている。
「バカな」
西から大嵐の臭いが流れてきた。
静かで暗い闇夜だった。
ダン。ダン。ダン。ダン。
ウロの板戸が激しく叩かれた。ウロが開くと女がウロに抱きついた。越智だった。
「逃げて!宇呂!早く!!!!」
「越智?どうしたんだ?人魚の肉はどうなったんだ?姫は死んだのか?」
「生きてるわ」
「じゃあ、何故?」
「わからないの。わからないけど、粟田様が貴方を殺すように命じているのを聞いてしまったの!」
「うっ…」
越智が固まり、ウロに倒れこんだ。後ろに男が立っていた。後ろから越智は刺されたのだ。
「ほお〜。君が小角の縁のある者か。思ったより若いな」
小角?ウロにはわからない。
「あんたは誰だ」
「宮子様は元気になられたよ。お礼に名ぐらい名乗ってもいいだろう。私の名は粟太真人。だが、これから、死んでしまう男には用の無い名だね」
「宮子様の病気を当て、治してしまうとは素晴らしいが、生かしておくわけにはいかない。宮子様は国母となられる方。まさか、帝の母親が白痴だった過去を持っていると知っている者がいるなんて許されないんだよ」
「なんだって?」
ウロはゴクリと唾を飲んだ。その様子を見た真人が少しだけ驚いたように言った。
「知らなかったのか?…だが、遅いな。今、知ってしまった」
真人は刀をウロの前に翳す。が、ウロは咄嗟に越智に刺さった剣を抜き出し、真人に飛び掛った。三年間、山賊をしていた。剣の扱いには慣れている。しかし、相手はするりと身をかわし、ウロの左腕を切った。致命傷ではない。しかも、入り口に立っていた真人が身をかわすために横に退いたことにより退路が開いた。ウロは一目散に逃げた。
刺客と思われる人間がウロを追う。山の中に入った。月明りで何とか襲い掛かる刺客を倒しながら山中を走る。しかし、刺客は訓練されており、思うように撒けない。
流水の音が耳に入った。
滝だ。
岩場に追い込まれた。刺客は二人に減っていた。同時に襲ってきた。一人はかわしたが、もう一人の剣がウロの腹に突き刺さった。
ウロは仰け反るように、岩場から足を滑らせ、深い滝壷に落ちていった。
水の中へと引きずり込まれた。
深く。深く。沈んでいった。
「…っ痛」
東から日の光がウロの瞼を焦がす。
「…はぁ」
腹が燃えるようだった。恐る恐る手で腹を弄ると腸が飛び出してきた。ウロはまた気を失った。
深く暗い海がユラユラと瞼の奥で揺れている。
「ウゥ〜ロォ〜〜〜」
どこか聞きなれた懐かしい声がする。
「お〜〜〜〜い〜〜〜」
目を開いた。
「起きたかぁ〜〜」
「カヤ?」
「おう。覚えてたか?」
ゆっくりと上半身を起こした。腹は…・
「痛くない…」
手で腹を弄るが、何とも無い。カヤが湯気のたったお椀を差し出しながら溜息を吐いた。
「全く、血みどろで倒れていたと思ったら、全然怪我していないんだもんな〜。で、お前は何をしたんだ?」
「何って…大した事は無い。ただ、刺客に追われてだけだ」
「刺客ぅ〜?全く、何したんだよ!でも、それで、お前よく無事だったな」
無事ではなかった、筈だった。腹を刺された。岩場からも落下した。普通では生きて入られない。
「お前こそ、何故ここにいるんだ?」
「オレ?ここに住んでる」
「…ここ、どこだ?」
「はぁ〜?どこって近江だよ。お前、湖の辺で倒れていたんだ」
流されたのか?
「まだ、その刺客に追われているのか?」
「いや。もう大丈夫だ」
恐らく死んだと思っただろう。実際、死んでいたのかもしれない。
生き返ったのか?
老婆は罰と言ったが、逆ではなかろうか。
不老不死か……
自分の体で体験したようなものだったが、ウロには実感が持てなかった。
「いずれにしても都には戻れないな」
「だったら、ここに住めばいい」
「ここに?ここで山賊するのか?湖だから山賊じゃないな」
カヤは笑った。
「山賊は止めた。妻を貰った」
「マジ?女は犯して殺すが口癖のカヤが妻だって?」
カヤはまた笑った。
「あぁ、ちなみに、もっと驚くぞ。娘がいる」
「娘ェ〜」
目を丸く開けたウロをカヤは面白そうに眺めて、また笑った。
「なんで?」
「何でって。ウロがオレを見捨てた後もオレは山賊していたんだが、たまたま、サトを…妻の名前だが、連れた一団を襲ったんだ。で、サトは綺麗だったから生かしたんだ。サトは貧しい奴婢の出で人買いに売られていく途中だったんだ。まぁ、それで、何となく生かしておいたら、子供が出来て、女の子でサ。まぁ、山賊やっている場合じゃないなって。思ったわけさ。んで、親切な坊さんに土地を借りて、今はお百姓さんサマサマって所さ」
「百姓ォ?」
益々、カヤに似合わない言葉にウロは戸惑うばかりだった。
「やってみると意外にいいもんだぜ。自分で土地を耕して飯を食うなんて。まぁ、楽も贅沢も出来ないが、一家三人つつましく暮らしてるの」
「で、その妻と娘は?」
「外にいる。湖だ。野良仕事が終わってから、夕日を眺めるのが日課になってるよ」
「…湖」
「見るか?綺麗だぞ」
「あぁ…」
赤い夕焼けが静かに湖底に沈んでいく。橙色の小波がゆっくりと流れる。小さな子が母親に手を引かれ、夕日をバックに美しいシルエットが織り成されていく。カヤが二人に近づき、優しく声を掛けている。三人の影がウロには眩しかった。遠い記憶が小波のように流れてくる。
湖に写る母と父、そして、幼い自分。
そして、その記憶の結末は、夕日よりも赤い血の色。
多くの血が流れた。
なのに、夕日はあの頃と何一つ変ることなく、ただただ美しい。
そして、十年後。
眩しい太陽がウロに燦々と差し掛かる。額に玉のような汗が拭っても、拭っても落ちてくる。反面、耕す大地はすぐ乾く。しかし、収穫は近い。
「久しぶりじゃの。ウロ」
年老いた声にウロは顔を上げた。
「あぁ、じいさんか。久しぶりじゃねぇか」
老人は僧侶であった。本当かどうかはわからないが、遠い国から渡ってきたらしい。薄汚れた衣を纏う僧侶は深い皺を顔中に刻み、湖面を見つめた。それから、ポンっとウロの肩を叩き、どこかに行ってしまった。
あれから十年。ウロはこの僧侶の寺が所有する畑を耕していた。
ほんの少し身を隠すつもりだった。だが、この湖の傍で汗を流し、土を耕すことが、いつの間にか当たり前となった。ウロ自身、不思議だった。今は、汗を流し、僅かな収穫で過ごす毎日が、楽だとさえ思えた。そして、こうして来る日も来る日もただ土を耕すことで、少しずつ昔の出来事が風化されていくのを感じた。
緩やかな湖面のがいつもウロのそばにあった。
日が沈む頃、カヤが尋ねてきた。
「ホントにウロは相変わらず、冷たいよな〜。オレから来ない限り、会わないもんなぁ。たまにはオレの可愛い妻子に会ったらどうだ」
小石を拾い、カヤはポチャリと湖に放り込んだ。隣でウロが笑った。
「ノロケ話と娘自慢しかしないからだよ」
「っていうか、お前こそどこかに女はいないのかよ。全然、そんな話聞かないけど」
「朝から晩まで働いて、そんな元気ない」
「なぁ〜に、年寄り臭い事、言ってるんだよ。そんな子供みたい顔して」
そう言うと、カヤはまじまじとウロの顔を見遣る。そうして、ほんの少し首を傾げる。
「お前って、本当に昔と全然変わらないよな〜。少しは成長しろよ」
「年食えって事かよ。やだね」
ウロは笑った。カヤも笑った。湖は変らずそこにあった。
それから、数日後の事だった。
朝日が静かに昇る頃、ウロはいつものように畑へと向かおうと自分の小さなあばら屋を出たところだった。遠くから一人少女が走ってきた。目に一杯涙を溜め、ウロに向かって走ってくる。
「ウロ!」
少女はそう呼んだが、ウロには誰だかわからなかった。ようやく肩で息をした少女がウロの前に立った。ウロを見て更に涙を浮かべた。
「父ちゃんと母ちゃんが死んだ」
ウロはようやく誰か見当がついた。小糸だ。カヤの自慢の一人娘だった。
「カヤが死んだ?」
「母ちゃんも…」
上擦った声でそう言うと、ウロの胸に顔を埋めて、また、泣いた。
流行り病でカヤが死ぬと、二日と空けずにその妻のサトも同じ病で後を追うように死んだという。小糸は一人取り残された形となったのだ。頼る者もなく、ただ、父の古くの友人であるウロを訪ねて来たのだ。カヤはよくウロに会いに来ていたが、小糸に会うのは実に五年ぶりぐらいだった。歩いて一刻もかからぬ場所に住んでいたが、ウロはカヤの家にはほとんど行った事がなかったのだ。
「そうか…」
ウロにはただ小糸の頭を撫でてやるしか出来なかった。五年ぶりに会った小糸は、もう子供ではなかった。傍目には二人はほとんど同い年に見えた。
「一人はやだよ…」
小糸は小さく呟き、潤んだ瞳でじっとウロを見つめた。
二人は一緒に暮らし始めた。
緩やかに夏は真夏へと移行する。
ウロは小糸には手を触れなかった。
カヤの娘だと自分に言い聞かせたが、実際、そうであるような気もするし、そうでないような気もした。
眩しさを増す太陽。
喰欲に支配された中枢神経。
喰欲で満たされない中枢神経。
目も眩む太陽に眩暈を覚え、微細の針となって太陽光線が肌を焼く。
餓えていた。
毎日、食べ物の事ばかり考えている。
違う。
食べても満たされない。量がないから。
違う。
違う。
小糸を想う。
だから、ウロは飢えた。
小糸は日増しに熱さを増す瞳でウロを捕らえる。その都度、目を逸らす。細い腕がウロを追う度に、避け続けた。
小糸の瞳をウロは恐れた。
底知れぬ正体不明の飢餓がウロを襲うからだ。
小糸の細い体をウロは恐れた。
目に見えぬ衝動以上の何かが自身の奥底で悲鳴をあげるからだ。
二人の間に流れる極限に近い緊張の糸を切ったのは小糸だった。
「ウロは、小糸が嫌いか?カヤの娘だったからか?小糸はウロの嫁になりたい」
「小糸は両親を失ったばかりで寂しいだけだ」
カッと瞳が開いた。真っ赤な目。
「違う!」
小さな小糸。可愛い小糸。真っ赤な目をした小糸。大きな粒が兎の目から流れ出る。
ボロボロボロボロボロボロ…
……触れたい。
その手に。その頬に。その体に。その瞳に。
それは計算とか理性とか関係なくて、心が頭と切り離される。頭で否定している。心が小糸を欲しがっている。
これは、飢えなのか?それとも、これが人を愛するということなのか?
ボワ〜〜〜〜〜ン
海が見えた。
深い深い深い深い深い深い海が見えた。
もう忘れたはずの女が笑っている。
恋して、愛して、飢えた。
呪いの始まり。
永遠と続く飢え。何億何万何千何百何十何日目の喰欲。眩しすぎる太陽。喰欲に支配された中枢神経。求める。彷徨う。喰らう。求める。彷徨う。喰らう。求める。何億何万何千何百何十何回と繰り返される。
永遠に満ちる事などない。
震えるウロの指が小糸の頬に触れた。指が小糸の涙で濡れた。そして、小糸の小さな顔を両手で包み込んだ。
接吻した。
深く深く深く深く深く深く接吻した。
小糸の唇から溢れ出てくるウロへの想い。熱くて甘い想いがウロの唇に入り込み、喉を通り体中に駆け巡る。
これが人を愛するということなのか?
満たされる心。
それとも、飢えなのか?
満たされる喰欲。
ボワ〜〜〜〜〜ン
海が見えた。
深い深い深い深い深い深い海が見えた。
もう忘れたはずの女が笑っている。
恋して、愛して、飢えた。
小糸が両手でウロの胸を突き飛ばす。
小糸の兎の目がウロを見ている。
キョトンとした兎の目。
小さな可愛い口が開く。
「誰?あなたは誰?」
深い深い深い…………
もう忘れたはずの………
恋して…、愛して…、飢えた…
呪いの始まりの、結末。
「誰?あなたは誰?」
一瞬、ウロは何を言われたかわからなかった。ただ、唇から甘い味がした。
満たされてしまった喰欲。
だから、ウロは涙を流した。
静かに流した。
全てを理解した。
愛の記憶を喰らってしまった。
生まれてから人を愛した事がなかった。
「…だから、知らなかった。…この苦しみを知らなかった」
小糸のキョトンとした丸い目がウロの為に哀れんだ。
「どうして泣いているの?何か悲しい事があったの?」
「小糸は、またオレを愛してくれるのか?」
そして、また忘れるのか?
愛して忘れて永遠に生き続ける意味もわからぬまま、また愛して忘れられるのか?
耐えられない。
老婆は言った。
永遠にこの世を彷徨い続け、人の生き血を啜り、人肉を喰らい続ける鬼になったと。
オレはいずれ鬼になるのか。血に飢えた鬼を止められることなど出来るのか?
小糸を殺す事なんて出来ない。
「ねぇ。教えて。アナタは誰?私はどうしてここにいるの?ねぇ。どうして、あなたは泣いているの?」
「お別れだからだよ。小糸。さよなら」
男には人間にはない本能が備わった。
それは、人を求め喰らう本能だ。
それも、ただの人ではない。
自分に思いを寄せる人間の血肉を喰らわねば、その飢えを止めることが出来ない。
思いは、何でもよかった。
愛でも、恋でも、友情でも、哀れみでも、ほんの少し味が違うだけ。
しかし、男は飢えても死なない。
男は不老不死の体で永遠に飢え続ける。
飢えが永遠に男を苦しめる。
人魚の呪い。それは、
今後、男が他の女を愛する事が出来ぬように…
他の女が男を愛さないように…
そして、何も残らない。
空は空っぽだ。