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tastic love  作者: 山田木理
3/5

第3話 湖底に棲む鬼


 (ゆう)は、鬼を見た。


 風が鳴き、木々が叫び、森が狂う。

 嵐の夜だった。

 ヒタッ

 鬼が夕に近付く。

 夕の実に二倍はあろう背丈、その全身は生々しい赤に染め上げられている。

 鬼の全身を濡らす赤が、赤い湖に滴り落ちる。

 そして、その赤い湖面を鬼は滑るように足を進めた。

 鬼は、赤く染まった斧を握りしめ、長い髪を振り乱し、禍々しい赤い眼で夕を見据える。

 夕は、ぎゅっと目を瞑った。

 そして………


 風が鳴き、木々が叫び、森が狂う。

 そんな嵐の夜だった。


『夕、決して森に近付いてはいけないよ。森の中の湖には、鬼が棲む』

 それは、遠い昔のお父ちゃんの言葉だったような気がする。




「それで、夕ちゃんは鬼から逃げることが出来たの?」

「森に逃げたわ」

「森?でも、森には湖があったんだろう?鬼から逃げるのに鬼の棲む湖に逃げたの?」

 夕は清吉郎の言葉に真剣に記憶を呼び起こそうと眉間に皺を刻んだが、すぐに諦めた。

「やっぱり夢だったのかなあ。三つぐらいの頃だったし。お父ちゃんはそんなの知らないって笑うし」

 しかし、刻み込まれた恐怖は、現のように夕に脳裏に刻み込まれている。


 森に逃げた。

 そんな記憶があるような気がする。

 でも、思い出せない。

 それは、きっと夢なのだろう。

 夕は顔を上げ、木々に囲まれた鏡のごとく棲んだ湖に目を馳せた。

 こんなにも美しい湖と恐怖の感覚はどこまでいっても結びつくことはない。

 もっとも、ここは夕の生まれ故郷ではないが。

 穏やかに波打つ湖面は、日を反射しキラキラと輝いている。

「…夕ちゃん」

 遠い景色に見とれていた夕は、清吉郎に名を呼ばれ現実に引き戻された。

「こ、これ、夕ちゃんに…」

 顔を真っ赤にして、懐から出したのは朱色の櫛だった。

 今日はわざわざこれを夕に贈るために呼び出したのだろう。

 夕はそれを知ってか知らずか、話をはぐらかしまくっていたのだ。

 夕は、暫く朱色の櫛をジッと見ていた。

 正確に言えば、櫛を持つ清吉郎の手を見ていた。

 ごつごつとした黒く汚れた指は、鍛冶屋のモノだった。

 清吉郎は鍛冶屋町に住む鍛冶屋の息子で、今は修行中の身である。

 貧しい市女の夕にとって清吉郎に想われることは、何よりも素晴らしいことなのかも知れなかった。

 清吉郎の嫁になれば、少なくとも今よりは裕福な暮らしが出来るだろう。

 何より清吉郎は、誠実だった。

「絶対、お夕ちゃんに不自由な思いはさせない。職人としてもようやく一人前と認められたんだ。だ、だから・・・」

 いつまでも櫛を受け取らない夕に清吉郎は必死になって訴えた。

 夕も清吉郎の言うことが嘘だと思っているわけではない。

 鍛冶屋は、特に刀鍛冶は、今の戦の世の中にとっては需要の高い稼業である。

 清吉郎は戦の終わった死体から追い剥ぎのように奪い取られた刀や槍を買い取り、それを打ち直し、また売る、それを仕事にしていたのだ。

 戦は、夕が生まれる前から当たり前のようにあり続け、それは台風や地震と同じように生活の一部だった。

「親父さんの事?」

 清吉郎から零れた言葉に、櫛に触れかけた夕の指がピタリと止まった。

「お夕ちゃんが唯一の肉親である親父さんの事、気に掛けてるのは分かるよ。いろいろ心配だとは思うけど。その、町でも結構噂されているし。でも、あの人のアレは病気みたいなモノだし…。僕にはよく分からないけど、その、酒乱みたいなモノなのかな…。いや、僕は、その」

 夕の額に血管が浮き出しているのを、清吉郎は発見してしまった。

 どうやら、触れてはならない部分に触れてしまったようだ。

「ほんっっとに、どうしようもない人よ。女のケツばかり追いかけ回して。何度ふられても、懲りないんだから。この土地に来て五年になるけど、これで何人目かも忘れた。両手の指でも数え切れないのよ!」

 普段は大人しい夕も、父親のことになると人が変わる。

 十歳の頃、この土地に落ち着いた夕達親子であるが、夕の父親の女好きは、町ではかなり有名である。

もっとも夕が幼い頃から彼は女好きだった。

『お父ちゃんは、夕だけのモノだい』

 そう言って、何度泣いただろうか。泣いて膝にすがる夕を父親は、困ったように宥めていた。

「お夕ちゃんの親父さんは、色男だから」

 夕の機嫌を直そうと清吉郎は、取り繕うに言ってみた。が、

「単なる若作りなだけよ。童顔ってヤツ」

「でも、本当に若く見えるよね。お夕ちゃん達を初めて見たときも兄妹にしか見えなかったよ」

 夕は毎日見ているから逆に気付かないが、夕の父親は時間を忘れたように変わらない姿でいる。夕が一人で大人になっていく。清吉郎が思い出したように呟いた。

「鬼…」

「え?」

「お夕ちゃんの親父さんは鬼だって、家のばあちゃんが言ってた」

 笑いながら清吉郎は言った。

「うちのばあちゃんって信心深いって言うかさ。今流行の宗教、何だっけ?ナンマンダブだっけ?そう唱えてたら、浄土とかに行けるって信じてるような人だから」

 ははは…と、人懐こい笑顔で必死に取り繕う清吉郎を見ている内に、何となく気の抜けていく夕であった。

(はぁ、鬼なんて形容詞、あの人には一番似合わない。鬼に失礼かも。軽薄極まりないあの人に使うのは)

「そう言えば、さっき楓さんといたなぁ」

「楓さんって、あのやまがた屋の楓さん?」

「そうだけど…」

 綺麗な人だ。美人で聡明でやまがた屋の女主人である。一年前、婿養子である夫を亡くし今は未亡人である。その響きさえ彼女を輝かしく特別にしているように感じた。

 俯いた先には、湖が広がっている。ゆらゆらと揺れる湖面に自分を見つけ、夕は目を反らした。



「アン。ダメよ。髪が崩れちゃうわ」

 艶やかな声が、静かな森に紛れる。

 力仕事など生まれて一度もしていないようなしなやかな白い指が、男の手を遮った。

「大丈夫だよ。誰も見てない」

 男の涼やかな声を耳に、女はウットリと男の瞳を覗き込む。

「あら、私は誰に見られても困らないけど」

 華やかな朱を塗った唇が弧を描く。

「本当に?夫に先立たれ一年も経ってないのに他の男と逢い引きしてるの見つかったら、やばくない」

「言いたいヤツらには言わせておけばいいのよ。私は全然気にしないわ」

「さすがやまがた屋の楓さん。恐いモノ無しって?」

「そんな事ないわ。最近、不景気なのよ。ほら、あの流通自由化のせいで。今の殿様って信長公の言いなりじゃない。おかげでこっちが必死になって作った特権を全く無駄にしてくれちゃって。こっちもただで特権を手に入れた訳じゃないのよ。色々と手回しとか大変なんだから」

 言っている内容とは裏腹に楓は微笑んでいる。楓にとって、それは町が煩くなって商売をし辛くなったぐらいで大して影響は受けてないようだ。

「オレは嬉しいけど。町に入りやすくなった。前までは、港からここまでの間に何度止められて荷物開かされてかね取られたか。オレみたいな非力な運び屋には有り難いことだ」

 男の仕事は、港に降ろされた荷を町に運ぶ運び屋だった。

「あら、アナタが有り難いのは商売がしやすくなったからじゃなくて、女の子に会いやすくなったからじゃない。その見栄えのいい顔で何人口説いたのかしら」

「楓さんには敵わないなぁ」

 今度こそ、と楓の肩に手を回し、唇を近付けたが、あと一寸の所で白い掌に阻まれる。

「ダーメ。接吻(キス)はイヤ」

「それ以外ならイイの?」

 男は楓の首筋にフッと息を掛ける。楓は僅かに身じろぎ、今度は自分から腕を男に巻き付けた。 そして、深紅の唇を彼の耳に当て息を吹き込むように呟いた。

「アナタの接吻(キス)は、魔法の、…魔法を解いてしまう接吻(キス)だから…」

 男は一瞬、目を見開いた。が、すぐにクスクスと笑いだした。

「楓さんは面白い人だね。どうして、そう思うの?」

「アナタと付き合った女の人に訊いたの。接吻(キス)された途端興味が無くなったって。まるで魔法が切れたみたいに」

「彼女たちは恋する過程を楽しんでいたんだよ。だから、オレが自分のモノになった途端つまらなくなったんだろう」

「そうかしら。…そうでもいいわ。だったら私にも恋する過程を楽しまして。もう少し、あなたの夢を見させて」

 楓は、ウットリと男の瞳を見つめた。

 吸い込まれるほど澄んだ瞳だ。

「それって、今はお預けって意味?」

「そうね。その瞳に、もう少しだけ酔わせて欲しいの」


 夕は、足を止めた。清吉郎と湖で別れ、林を抜けた所である。

 父親がいつも逢い引きに使う小さな宮の裏。

 二人の声が聞こえる。

 お父ちゃんとやまがた屋の楓さんの声だ。

 宮の裏手で、夕はグッと掌を握りしめた。

『お父ちゃんを盗らないで!』

 幼い頃は平気で叫べたのに。

 どうして、今は言えないんだろう。


「お夕ちゃんのお母さんもこんな風に口説いたの?」

 宮の裏に聞えた楓の言葉に夕はハッと顔を上げた。

 夕は母親を知らなかった。

「う〜ん。忘れちゃった」

 呆気ない父の言葉に夕はガックリと肩を落とした。

「そう言えば、私、あなたの名前知らなかったわ。夕ちゃんのお父さん。名は何て言うの?それも忘れたわけじゃないでしょう?」

「忘れた。楓さんが付けて、オレの名前」

 夕は、ピクリと肩を震わした。


『…が、付けて、オレの名前』


 既視感。

 どこかで聞いた台詞。しかし、それは一瞬で泡沫のように夕の思考から消えた。楓の声が続く。

「いいわ。そうねぇ、モモタロウ。キンタロウ。ウラシマ…」

「…『草助』だよ。昔の女が付けた」

「つまらない名前ね」

「楓さん…。オレ。もしかして、遊ばれてる?」

 ふぅと溜息を吐き、草助は空を見上げた。

「嵐が来る」

「こんなにいい天気なのに?」

 楓は草助につられるように空を見上げた。

 西にうっすらと黒い雲が見られる。空を覆い隠そうとしている不気味な雲から、カラスが群れをなして逃げるように東へと移動していた。

「ほら。カラスが騒いでるよ。嵐だぞ〜って」

 草助はそう言って、楓におどけて見せた。

 冷たい風が楓の頬をなぞる。

「アナタはカラスともお友達なのね。…あら。本当に嵐が来るわ」

 空から視線を外した楓は、意味深にクスクスと笑い出し草助から離れた。

 そして目で草助の視線を促した。

「ゲ!夕じゃないか」

 木陰に立つ夕を草助はゲンナリと見た。

 夕はチクリと胸に突き刺さったモノが何かを考える前に足を進ませた。

 顔は、既に子供のイタズラを見つけた母親の顔に変わっている。

「お父ちゃん。こんな所で、何油売ってるの!楓さんも、こんな男に付き合っていたら名が落ちますよ」

 矛先が自分に向かい、楓はワザと大袈裟に驚いて見せ草助にウインクした。

「邪魔者は消えるとするわ」

 絹の華やかな着物を身に纏い、今風に髪を縫い上げた楓を眩しそうに見送った後、夕は草助を振り返った。額には血管が浮いている。草助は、頬を引きつらせ、呟いた。

「あ、嵐が来る…」

「仕事しなさい!!仕事!家は貧乏なんだから〜〜〜!」

 重い雲が徐々に広がり始め、嵐がゆっくりと二人を覆い尽くそうとしていた。



 風が鳴き、木々が叫び、森が狂う。

 夜という名の闇の中、幾千もの漆黒の大蛇が、家々の隙間を縦横無尽に暴れ狂っている。

 粗末な家は既に倒壊し、屋根から剥がされた瓦が木の葉のように舞い上がっている。


 カシャン


「楓さん!もう危険です!」

 足下に叩き付けられた瓦を睨み付け、楓は舌打ちした。

 楓の父である亡き先代が先頭に立って作り上げた城下町が粉々に崩されるのを楓は黙ってみていられなかった。

 敵の襲撃に備え天然の川を引いた外堀が増水し、今にも町を飲み込もうとしているのだ。

 楓はそれを聞きつけ、何とか川の氾濫を防ごうと、町の若い衆を集めそこに向かっている。

 丈夫な蓑を纏っていたがこの滝のように叩き付ける豪雨の中では役に立っていない。

 それでも楓の心の内は冷静だった。

 港に先日届いたはずの荷の被害状況を予測し、荷の経由地点にある橋の崩壊がもたらす時間的損害を考えている。

 楓は顔に叩き付ける雨に負けずキッと目を開く。

 嵐によってもたらされた町の修繕は、御上からやまがた屋に依頼される。

 楓の頭は、修繕に必要な物資、人員の数を計算し始めていた。

 やまがた屋の主人とは、この城下町の実質的な主人であった。

 町の若者は雨の中、目に見えぬ大蛇に戦いを挑むような楓の姿に、鬼の姿を重ねていたかも知れない。


「楓さん!」

 楓は後ろから呼び止められ足を止めた。

 振り向いた先には、同じくびしょ濡れの清吉郎が息を切らしていた。

「鍛冶屋の清吉郎じゃないか。アンタも来るかい」

 清吉郎は頭を横に振った。

「お夕ちゃんが…。お夕ちゃんが…」

「お夕ちゃんがどうしたっての?」

「お夕ちゃんがどこにもいないんです!彼女の家が流されたんです。親父さんもいません」

 考えられることではあった。

 夕の家は川岸のあばら屋である。

 この嵐では一溜まりもないであろう。

「どうしよう…。どうしよう…」

 ぶるぶると震えだし、今にも泣き出しそうな清吉郎を、楓は一睨みし、怒鳴りつけた。

「情けない!そんなだから女一人口説けないのよ。こんな所でぐずぐずしている暇があったら、川を泳いで助けに行ったらどうだい!」



「いやはや、全く呆気ないモンだ〜」

 丘の上の洞窟から、川に沈んだ我が家を、正確には、あった場所を眺め、他人事のように草助は言った。

「呑気に言っている場合?お父ちゃんが寝ぼけてるから何一つ持ち出せなかったじゃない。これからどうするの?食べ物も何一つ無いんだから!」

 ずぶ濡れの夕は肩で息しながら、同じくずぶ濡れの草助を睨み付けた。

「オレのせいってか?そりゃ無いよ。夕。お前だって慌てまくってそんなものしか持ってこなかったくせに」

 と、草助が指差した先には底の抜けた桶が転がっている。

 夕はムッとしたが、諦めたように洞窟の側面に背を預け座り込んだ。

「あ〜あ。仕方ないわね。また、さすらいの親子に逆戻りかァ」

 この土地に居着く五年前までは、二人は様々な土地を巡り歩いていた。まともに食べる物もなかったが、不思議と夕は草助がいると安心した。この物事を深刻に考えない父親といると、楽天的な考え方が移ってしまうのだろうと夕は結論づけた。

 お父ちゃんといれば、大丈夫。怖くない。

 と、自分を安心させるかのように草助に視線を戻した夕は息を止めた。

 そこには、夕を安心させる楽天家の姿がなかった。

 いたのは、今まで見せた事ないような真剣な目つきで夕を睨む草助だった。

「お父ちゃん?」

 不安に駆られ夕は草助を覗き込んだ。

「夕。お前は清吉郎ンコト嫁に行け」

 夕は言われたことが理解できなかった。

「お前は普通の幸せを手に入れるんだ。清吉郎は心底お前に惚れている」

「何言ってるの?お父ちゃんは、どうするの?」

「父親が、娘にくっついて一緒に嫁に行けるわけがないだろう?…それに、もう、限界だ」

「何が限界なの?」

「…お前は、オレの年を追い越しちまう」

 草助の言っている意味が何一つ理解できなかった。

 ただ一つ、理解できたのは、もう、一緒にはいられない。

 ただ、それだけだった。

「十二年も無理を通した。もう、止めよう」

 草助の言葉が意味をを為さないまま夕の耳を通り過ぎる。


 もう、一緒にはいられない?


 夕の冷たく濡れた頬に熱い滴が伝わり、口で言葉を紡ぎ出すより体が動いていた。

「夕!?」

 夕は体全体で草助を必死で掴んでいた。

「イヤだ。絶対イヤ。嫁に行かない。夕はずっとお父ちゃんと一緒にいる」

 子供のように草助の胸に顔を押し付け叫んでいた。

 でも、子供の頃と同じじゃなかった。

 気持ちは子供の頃と同じ純粋なままではいられなかった。

 今の自分の顔を見られたくない一心で夕は顔を草助の胸に押し付けた。

 暫く続いた沈黙の後、夕は暖かい掌を頭に感じた。

 子供の頃、怖い夢を見た後、草助が必ずそうしたように柔らかく髪を撫でられた。


 …時なんか止まってしまえばイイのに。


 優しく撫でていた手がピタリと止んだ。

「清吉郎…」

 戸惑ったような草助の声に、夕は顔を上げ洞窟の入口に立ちつくす清吉郎を見た。


 鬼だった。

 そこには、鬼の形相をした清吉郎がいた。

 夕は清吉郎の顔に鬼を見た。

 眉間に皺を寄せ、清吉郎の震える手には、森を抜けるために用意した斧が握りしめられていた。

「貴様。自分の娘にまで。何てコトを…」

 この状況を誤解するのも無理ないことだった。

 そして、清吉郎の精神状態は、嵐の中で限界に近かった。

 いつも人懐こく穏和な彼とも思えないような凄まじい形相で睨み付けてくる。

 夕は恐怖のあまり声も出ない。

 しかし、草助は肯定するでもなく否定するでもなく静かな瞳で清吉郎を真正面から見つめ返していた。

 無表情なその顔からは、彼の真意は何一つ読みとれなかった。

 夕は固まったまま、嫉妬を顕わにした清吉郎を見ていた。

 夕の安否を気遣い、ただ夕の事を思い、この狂った嵐の森を必死で掻き分けてきたのだろう。

 清吉郎は、否定しない草助を狂気に近い憎悪で睨み付け、夕を押しのけた。


「違っ、誤解よ!」

 

 清吉郎の気迫を押しのけ叫んだが、遅かった。

 斧は草助の肩にめり込み、血飛沫が上がる。その真っ赤な血を、草助の血を、夕は頭から被った。

 草助は、その場でぐったりと倒れ込んだ。

 夕は全てを否定するように何度も頭を振った。

 震える手を伸ばし草助を揺さぶったが動く気配はなく、ただ血ばかりが流れ出していく。

 口に手を当て呼吸を確かめる。

 心臓に耳を当て鼓動を確かめる。

 僅かの動きも感じられない。

 ボトリと清吉郎の手から斧が落ちた。

「あぁ…あ…」

 その時ようやく正気に戻った清吉郎は口を何度か開きかけたが、自分のした事への恐怖のため弾かれたようにその場を走り去った。

 夕は、動かない草助を横たえ、暖かな血に染まった体で立ち上がる。


 それは、どこかで見た赤い狂気。


 夕の赤い瞳に、血に染まった赤い斧が光る。

「許さない…」

 夕の赤く濡れた指が、斧を握る。

 草助から流れる血は、静かに赤い湖となる。

「許さない」

 その瞳には、赤い湖だけが漂う。

 夕は洞窟を出た。

 赤く染まった夕の瞳は、激しく呪う相手に向かう。



 遠い昔。

 その湖の深淵に棲む鬼は、赤い眼をしていた。

 そして、鬼は、幼い夕に言った。

「死のう。…一緒に」

と、その真っ赤な手を延ばした。

 辺りには、真っ赤な湖が広がっていた。



「草助!」

 楓は真っ青になって洞窟の中の草助に近付いた。

 草助や夕の安否が気に掛かり、外堀の方が一段落すると同時に、大急ぎで捜したのだ。

 洞窟の中は、血の匂いで充満している。

 そして、その血の海の中、草助が一人真っ赤になって倒れているのだ。

 楓は状況を理解できないまま、草助の名を呼び草助を揺さぶった。僅かに草助の瞼が動いた。死んではいないようだ。

「楓さん?…オレ、生き返ったのか?」

「何があったの?それより医者を…」

 立ち上がりかけた楓の腕を草助が引いた。

「必要ない」

「必要ないわけないでしょ!」

接吻(キス)して。そしたら直る」

 楓の腕をぎゅっと握りしめた。。

「冗談言ってる場合?」

 楓は、雨に濡れた髪を振り乱して、激しく言った。

 そんな楓を草助はじっと見つめ、むっくりと起き上った。

「…あぁ、そうだな。あぁ、そうだ。夕を、夕を止めなくては。楓さん。頼む。…オレを夕の所に連れていってくれ」



 清吉郎は追いつめられていた。

 稲妻が走り爆音と共に夕の顔が瞬間、闇に浮かんだ。

 湖は増水し、周辺一帯が水に浸かっている。

 嵐で押し広げられた湖を夕は歩いた。

 憎しみだけが夕を歩かせた。

 稲光により白く照らされた湖に夕が写っては消えた。



「清吉郎が?」

 楓は信じられないと言うように草助の話を聞いた。

 瀕死の体にも関わらず夕の元に行くと言って訊かない草助に、楓は仕方なく肩を貸してやっている。

「オレが悪いんだ。十二年も夕を縛り付けていた」

 怪訝な顔をした楓に、草助は答えた。

「…夕は、オレの子じゃない。三歳の時にアイツを拾った。…いや、拾われたのかな」



 戦国時代。

 戦は、嵐の如く吹き荒れている。

 多くの雑兵達にとって、敵の陣地に立ち並ぶ家々への略奪が戦利品だった。

 貧しい農家ですら見逃されない。

 大切に蓄えてあった穀物を根こそぎ持っていかれ、抵抗すれば殺された。


 十二年前、幼い夕の家にも戦の嵐は襲ってきた。

 長引く干ばつのため明日食べる物すらない夕の家で、略奪者は母親に目を付けた。

 抵抗した父親は殺された。

 夕は土間の隅で固く目を瞑り嵐が去るのを、ジッと待った。

 何が起こっているのか、よく分からない。

 ただひたすら、恐ろしかった。

 この悪夢から覚めれば、母に抱きしめられ、父が優しく頭を撫でてくれると信じていた。

 しかし、夕が目を開くと、父はおらず、母は血の湖で男に揺すられていた。

 夕は父を目で捜した。どこにもいなかった。

 ただ、血の湖に男が一人俯せに浮いていた。

 夕が僅かに身じろぎした時、血が目の前で弾けた。

 さっきまで母を揺すっていた男が、呻き声を上げ血に埋まった。

 そして、夕は鬼を見た。

 その鬼は赤い湖を歩き夕に言った。

「死のう。もう、生きては行けない」、と。

 真っ赤な手には、真っ赤な血を滴り落とす斧が握られていた。



 草助の鼻は、激しい雨の中、血の臭いを追っていた。

「わかるような気がする…」

 草助と夕が親子ではない。

 楓には、それが全く不思議ではなかった。

「アイツも、オレも一人だったんだ。一緒にいてはダメだと思いつつ、アイツに甘えてた。そろそろ解放しなきゃな」

 激しい雨に掻き消えそうな声だ。 

「…楓さん。夕を頼む。楓さんは、強くて優しい人だ。」

「…知ってるんでしょ?夕ちゃんの気持ち。だったら、どうして別れるの?夕ちゃんが嫌いなの?それとも、娘にしか見られない?」

 楓はチラリと草助を見遣る。

 相変わらず無表情だ。しかも、驚いたことにさっきまで瀕死だったにもかかわらず、徐々に足下がしっかりとし顔色が戻っている。

 いくら丈夫とはいえ尋常ならざる回復力だ。

 草助は楓にかけていた腕を外した。

「オレにはこうするしかないんだ」

「どうして?わからないわ。二人に血の繋がりがないなら…」

「オレは人じゃない。鬼だ」

 足場の悪い中、草助は歩調を緩めず楓の先を歩く。

「…ただ生きることしかできない臆病な鬼だ。人を殺すことも出来ず、ただ、たまに人から生気を奪う。甘くて切ない生気を唇から少しだけ」

 楓は目を見開き、普通では考えられないことを淡々と語る草助の背を見た。

 草助のふざけた性格は、深い闇を隠すためだった。

 このあまりにも深く暗い草助の闇は、不可思議で現実離れしていた。

 楓にとってお伽話や迷信は冗談にしたり、利用する物である。

 そんな現実の中で生きてきた楓であるが、草助の不可思議な話は妙に納得してしまう。

 逆に謎が解けたようにすら思えた。

 草助と接吻(キス)をすると想いが消えるのは、草助がその想いを口から吸い取ったからだ。

 草助は言葉を続けた。

「人は、接吻(キス)を交わしても想いは消えない。しかし、消えるときは何もしなくても消える儚い物だ。人の想いというのは」

「親子なら消えないって思ったの?」

 思いがけない楓の切り返しに、草助は苦い微笑で振り返った。

「…そうかもな」


 永遠と続く飢え。

 何十何万何千何百何十何日目の喰欲。


「オレは、相手の想いを喰らって生き続ける餓えた鬼だ。激しい餓えに、相手の中のオレの全てを食い尽してしまう事もある。オレは、オレの飢餓に勝てない…」

 最後に残るのは、虚しい満腹感と、行き場のない自分の想い、忘れられない想いだけ。

 草助は初めて苦しげに眉を寄せた。


 求める。彷徨う。喰らう。求める。彷徨う。喰らう。求める。

 何十何万何千何百何十何回と繰り返される。


「…じゃぁ、私との接吻(キス)は一生お預けね」

 雨で洗われた楓の素顔は美しく強かった。



 夕に岩へと追いつめられ清吉郎は恐怖で膝から崩れた。

 虚ろな夕の瞳に、雨で洗われた刃が光る。

「ひぃ〜…」

 清吉郎は、ぎゅっと目を閉じた。

「夕。止めるんだ。オレは生きている」

 ハッと、夕は振り返り、一人でしっかりと立っている草助の姿を認めた。

 夕の手から斧が滑り落ちた。

「お父ちゃん…」

 怖い夢からようやく覚めた子供のような安堵が夕の顔から溢れ出した。

 夕は安らぎを求め大好きな胸に駆け寄ろうとした。

 その時、草助と楓が目を瞠った。

 夕に恐怖を見た清吉郎にとっては、夕は鬼だ。

 狂気と狂気が交錯する。

 清吉郎が夕の落とした斧を拾い上げ、夕を斬りつけようと飛びかかった。

 草助は、斧の刃を自らの背で受け止めた。

 再び、血飛沫が上がる。

「またかよ…」

 草助は夕の膝に倒れ込んだ。

 同時に清吉郎は、嵐の中へ飛び出して行った。


 夕は、悪夢へ一気に引き戻される。

「お父ちゃん!お父ちゃん!」

 泣き叫ぶ夕に草助は手を差し伸べ、夕の頬を撫でた。

「…夕。お前も、やっぱり忘れるのか」

「何言ってるの?お父ちゃんは死なない!」

「…そうだな。接吻(キス)してくれたら治るかもね」

 夕は目を見開いた。

 そして、弱々しく微笑む草助の額から頭をゆっくりと撫でた。

 かつて草助が夕にしたように、優しく包み込むように限りない愛しさを込めて。

 そして、ゆっくりと上から、唇を深く重ねた。


 永遠と続く飢え。

 何億何万何千何百何十何日目の喰欲。

 眩しすぎる太陽。

 喰欲に支配された中枢神経。

 求める。彷徨う。喰らう。求める。彷徨う。喰らう。求める。

 何億何万何千何百何十何回と繰り返される。

 永遠に満ちる事などない。


 嵐は、いつの間にか止んでいた。




 数ヶ月後。

「お夕ちゃん。またここにいたの?」

 楓は、ゆっくりと夕に近づく。

「あっ。お義母さん。…ここに来たら何か思い出せるような気がして。嵐の日の事とか」

 そう言って、夕と楓は太陽にキラキラと輝く湖面を眺めた。

 夕の瞳には、湖から照り返される光が溢れている。

「酷い話ですよね。洪水で溺れた私を助けて、死んでしまった父親の事を忘れるなんて」

 あの後、草助は姿を消した。

 夕は熱にうなされ、目が覚めた時には何も覚えていなかった。

 だから、楓は嘘を教えた。

 そして、夕を養女として引き取ったのだ。

 夕の中の自分を全て食べ尽くし、あの鬼はそれで満足したのだろうか?

 餓えを満たす事は出来たのだろうか?

 楓は湖面に草助の悲しい瞳を重ねた。


「…でも、ほんの少しだけ、覚えていることがあるんです。鬼の事…」

 美しい湖の底には鬼が棲む。

 だから、決して奥深く覗いてはいけない。

 深い深い闇に棲む鬼は、人を喰らい、人を人でなくしてしまうから。

 人の心の深淵に、鬼はひっそり身を隠している


 ・・・アレは、父が言った言葉だった?


 それとも、お父ちゃんが?


 夕は目を細め、微笑した。

「笑わないでくださいね。私、小さい頃、鬼に会った事があるんです。すごく変な鬼で、全然怖くないんです。アレを鬼と呼んだら本物に失礼かも知れないくらい、何だか、笑えちゃ…てっ…」

 瞳から、唐突に涙が溢れ出した。

 想いだけが溢れ出る。


 草助は、十二年という大きすぎる夕の想いを喰らい切れなかったのだろうか。

「鬼から逃げる為に入った森で、鬼に会ったんです。何か変ですよね」


 無くした十二年分の記憶の代償にほんの少しだけ、幼い時分の記憶が夕に蘇った。

 戦の嵐が、幼い夕を襲ったあの時の記憶が。

 真っ赤な鬼、鬼と化した母から逃げて、逃げて、辿り着いた森の湖。

 そこで夕が見たのは、夥しい数の死体だった。

 そこは戦の跡だったが、幼い夕はそこを地獄だと思った。

 かつて、父が言っていた鬼が無数に倒れているのだと思った。

 夕は怖くなって逃げ出そうとした時、足に何かが引っかかった。

 それも、鬼だった。

「痛っ〜。誰だよ。人を蹴りやがって!ったく、おちおち死んでもいられない。あ〜あ、全く、ま〜た生き返ってしまったぜ」

 鬼は、長い溜息を吐くと自分の腹に刺さった槍を力一杯引っこ抜いて顔を歪めた。

「これだけ、滅多差しにされれば、死ねると思ったんだけど。甘かった」

 鬼は、自分を蹴ったヤツを振り返った。視線の先には目をパチクリさせた夕がいる。

「誰だ?おまえ」

「…ゆ、ゆう」

「ゆゆぅ?面白い名だなぁ」

 不思議そうに自分を眺める鬼は、怖くない。

「夕だよ!おじちゃんはオニなの?」

「オニ?うーん。…みたいなモンかな」

「オニさんは、名前はあるの?」

「オレの名?オレは…、忘れた。夕ちゃんが、付けてよ。オニの名前」

 鬼は、ニッコリと夕に微笑みかけた。

 夕はすごく嬉しくなった。


「…お、おトウちゃん!」


 鬼は、暫く驚いたように夕を見つめ、そして、優しく笑った。


「おトウちゃんか。いい名だ」


 夕もニッコリ笑った。


 湖面は、キラキラと輝いていて…


 それは、暖かい味のする記憶だった。

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