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tastic love  作者: 山田木理
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第2話 赤い空


 空襲警報が鳴り響いた。


 蒼い空を見上げれば、B29が八機並んで西から東に向かう。

 残るのは、のどかな飛行機雲と遠くに鳴り響く凄まじい爆音。

 防空壕に急ぐ人々はどこか慣れた様子で一瞬だけ顔を歪め、爆音が響く方向に自分の親しい人がいたかどうか思案し、自分の家に真っ赤な不幸が落ちてこないように祈る事しか出来ない。


 昭和二十年二月末。

 去年から始まった米軍の空襲は日に日に増すばかりである。

 ラジオから軍艦マーチと共に流れるニュースは実情よりはまだマシにもかかわらず、徐々に人々の不安を募らせるだけである。


「何してるの?!真治さん!!」

 道の真ん中でぼんやりと飛行機雲を眺めていた真治は後ろから、グイッと腕を掴まれ、引っ張られた。

「空襲警報はまだ解除されてないわよ!」

 防空頭巾を被り、上はセーラー服、下は薄汚れた鶯色のもんぺを穿いた雪子が、細い体には似つかわしくないほどの力で真治を引っ張る。真治は国防色の上着を着ている。

「痛たたたたっ。わかったよ。行くから」

 用水路脇の小さな診療所の裏にある防空壕に二人は向かう。

 もっと春の陽気を楽しみたそうな真治に、雪子は苛々した。

 この時代、雪子の神経の方が真っ当であった。

 死と隣り合わせに春など楽しめるわけがない。

「あっ」

 その真治の声と共に雪子の手が振り払われた。


 ザッブーーン


 雪子が振り返ったときに見たのは水飛沫だった。

 突然、真治が用水路に飛び込んだのだ。

 用水路は幅こそ五メートル程のものだが、かなり深く、なにより流れが速いのだ。

 しかも、工業排水やら生活排水が混ざり合って、不可思議な色合いをしている。

 魚などは棲まず、たまに鼠などの動物の死骸が流れているような川だ。

「真治さん!?」

 汚濁した川面から現れた真治の顔はキョロキョロと辺りを見回している。

 その時、雪子は始めて気付いた。

 真治より下流に小さな子供が流されているのだ。

「真治さん。あっちよ!」

 真治の顔が飛沫を上げ、川面から消える。

 最初は僅かに動きを見せていた子供が徐々に水に引き込まれていく。

 空襲警報を気にしながらも雪子は用水路の土手沿いを走る。

 真治の右手がようやく子供の肩に触れた。

 何とか土手に子供を引き上げたが、子供はぐったりとしている。

 上流から雪子が走ってきた土手沿いを母親らしき女が半狂乱で走りよってきた。

 真治は自分の頬を子供の口元にソッと近づける。

 我を忘れた母親が子供の肩を揺さぶろうとした。

「触るな!」

 鋭い一言を女に投げかけた真治はそっと子供の顎を引き、もう一度呼吸を確認する。

 それから、鼻を摘み、人工呼吸を始めた。静かにゆっくりと。

 五回繰り返したところで、子供の体がビクンと震え、口から水が吹き出てきた。

 激しい咳とともに子供の息が戻った。

 丁度その時、激しい爆音とともに、東の空が真っ赤に燃え上がった。

 遥か遠くに雨のように降り注ぐ爆弾と焼夷弾が、赤い炎とともに幾人の命を奪ったのかは真治には知る由も無かった。


 空襲警報が未だに解除されない為、真治と雪子は橋の下でじっと腰を下ろしていた。

「こっちの方に来ないといいね」

 不安そうに雪子は真治を見つめた。橋に爆弾を落とされたら、そう考えただけで雪子は身震いした。

 何も言わず、真治は雪子から目を逸らし、川の上流を眺めた。

 上流から焼けた木材が幾つか流れてきたと思ったら、その中に黒く焼け煤けた死体が一つ二つ混ざっている。

 熱さに耐えられずに川に飛び込んだのだろう。

「無意味だったのかな…」

 助けた子供を思いながら、真治は肩を落とし、呟いた。

 一人助けている間に、何人死んでいくのだろう。

「そんな事ない!」

 その言葉の意味を察した雪子は断然と言い切った。

 そして、次々に流れてくる死体に目を背けながら、そんな事ない。と、小さな声で何度も呟いた。

「そうだね。鈴木先生もいつも言ってるモンね」

 穏やかな優しい声で真治は、雪子に微笑みかけた。

 雪子の体内に蔓延していた不安や恐怖と入れ替わるように入り込んだ熱い塊が、心臓をドンドンと叩き始め、頬の温度を急激に熱くする。

「お、お父さんの言う事なんて、その、何て言うか…・あまり聞かないほうがいいよ」

「どうして?」

「恐ろしい事言うのよ。戦争を始めて国民を殺してるのは日本政府だって。もう、私、誰が聞いてるかわかんないのに、そんなこと言ったら、非国民扱いされて特高に捕まっちゃうって怒鳴りつけちゃったわよ。日本人を殺しているのはアメリカ人なのに、お父さん、最近、益々、可笑しいのよね」

「鈴木先生は、正しいよ」

 相変わらず優しい声で、雪子にとっては全く信じられない事を言う真治に雪子は戸惑いを隠せない。

「やめてよ。真治さんはお父さんに悪い影響を受けちゃったんだわ。私だって戦争は嫌いよ。でもね、日本が戦争をしなければ、日本人も、全てのアジア人もみんな欧米諸国の奴隷にされちゃうのよ。日本政府は日本国民を守っているのよ」

 奴隷にされるくらいなら、死んだ方がマシかどうか、真治にはわからなかった。

 ただ、日本国民は日本が勝つか、もしくは日本人が絶えて滅びるまで戦争は続くだろうと信じて疑わなかった。

 真治もぼんやりとそうかも知れないと思った。

 ただ、自分を除いては。

 自分も日本と共に滅び逝く事が出来れば、どんなに楽だろうかと、自分の頭上で爆弾が爆発すれば、さすがに自分も消えるのだろうかと、遠くの赤い空を眺めながら考えていた。

「徹兄さんだって、私達を守っているのよ」

 雪子の話には、彼の名前がたびたび出てくる。

 兄さんと言っても隣に住んでいた学生である。

 一年前からこの町に住むようになった真治には面識はなく、現在は徴兵されガダルカナル島にいるらしい。

 安否は全くわかっていない。

 ほぼ絶望的だろうと人々は噂してるが、戦死の報告すらきていない。



 空襲警報が解除され、鈴木圭吾郎は近所の国民学校の医務室を出た。

 国民学校には近所の人々が避難し、怪我をした数人が医務室で手当てされている。

 内科医である鈴木にはさほど、出来る事がないように思われたが、実際、薬品不足から外科医がいても、結果は同じだった。

 重症の患者は近くの病院に搬送されるのだ。

 オレンジ色の光が無精髭を生やした鈴木の目に染まる。

 既に家を焼き、人を焼いた光は消え、オレンジの光は夕焼けだと確かめると、僅かばかり安堵のため息を吐いた。


 帝都医大の内科医だった鈴木が妻と幼い娘を連れ、ただ出世の為に満州の病院に移ったのは六年前である。一年も経たずに、妻が病気を患った為に娘と共に先に日本に帰した。

 そして、日本が徐々に戦争へと傾いていく中、軍医として出征して行ったまだ若い後輩達の戦死の報を受け取るたびに、一人満州に残った鈴木の出世欲が薄れていった。

 人の命を扱う仕事だと自負していた頃もあった。しかし、実際、命を扱うのは医師ではなく、得体の知れない大きな力が、将棋の駒ように人の生き死にを動かしているのだと悟らずにはいられなかった。

 差し詰め、巨大なダムが堰を切ったとき、成す術もなく、ただ流れに身を任せる他に方法がないように時代に人が動かされている。

 無意味な職を天職だと思ったもんだ。

 そんな時、満州で真治に会ったのだった。


 病院からの帰り道、貧しい中国人街を鈴木を乗せた自動車が走り抜けて行く。

 運転手の運転は酷いものだった。

 整備が今だされていない道路をクラクションを鳴らしつづけ走っていく。

 以前は運転手にスピードを落とすように行ったが、聞き入れてもらえず、結局、雑な運転に鈴木の方が慣らされてしまったのだ。

 そして、とうとう激突した。

 轢いた相手が中国人だと言って、運転手がエンジンを掛けなおし、走り去ろうとするのを鈴木は止めた。

 男が倒れ、中国人の若い女が鈴木に向かい、片言の日本語で助けを求めたのだ。

「タスケテ。タスケテ。オネガイ」

 しかし、手遅れだった。

 脈はなく、瞳孔も開いていた。

 頭蓋骨にほんの僅かに陥没が見られる。

 出血は少ないが、内出血を起こしてる事に間違いはないだろう。

 じきに体温が奪われ、死斑が現れ、硬直が始まるのはわかっていた。

 実際、体温の低下は始まっている。

 運転手は、悪びれる様子もなく、ドアに寄りかかり、タバコを吸い始めた。

 相手が中国人だからだ。

 しかし、鈴木は申し訳ない気持ちで一杯だった。

 息があるなら病院に連れて行けるが、もはや手遅れだ。

 女は壊れたレコードのように同じ日本語を繰り返している。

「タスケテ。タスケテ。タスケテ」

 まだ少年のようなあどけなさが残る男と、やや年上の女の関係などに興味は無かった。

 しかし、女の取り乱しようから、ごく近い身内、弟だろうかと鈴木は勝手に想像した。

 女の肩に手をおき、厳しい顔で首を横に振ってやった。

 言葉は通じなくてもその意味することはわかるはずである。

 お金を少し握らせるべきだろうか、そんな方法しか鈴木には思い当たらない。

 しかし、その時、鈴木には信じられない事が起こったのだ。

 動かないはずの死体の腕がピクリと反応したのだ。

 急いで男の脈を取ると、しっかりと脈が打っている。そして、男は薄く瞼を開き、自分を見下ろしている女を見る。

 口元には微笑みさえ湛えて。

 女の瞳から溢れる涙を見て、男が口を開いた。

「シャオミン。ツェンマラ?ニィウェイシェンマクゥラ?」

 中国語だ。

 何を言っているのか鈴木にはわからなかったが、確かに死んだと思った男が言葉を話している。

 一方、女の顔には安堵の表情が浮かぶ。

 男が鈴木に気付き、女に何かを聞いた。

「ターシーシュイ?」

「リーベンレン」

「日本人?」

 日本人らしい日本語が男の口から飛び出し、鈴木は初めてこの男が日本人だと知った。

 なおも心配そうに男を見遣る女に対し、男は優しい口調で話し掛ける。

「シャオミン。シイジェンブウツァラ。ニィツイハオツォ。ミンテェン。ツァンメンイーチィツァイバ」

 表情を曇らせた女から男を思いやる言葉が口を吐いた。

「メィウィンティーマ?」

 大丈夫?と言う意味だ。

 鈴木はそれだけがわかったが、後の言葉はやはりわからなかった。

 男は上体を起こし、腹をさする。

「ウォドゥツィエラ」

 笑みを漏らしながら囁いた言葉に女は微小で答え、呆気なく去っていった。

「最後に何て言ったんだい?」

 男は笑って答えた。

「お腹が空いたって言いました」

男は真治と名乗った。

 病院で検査を受ける事を勧めたが、真治はお金がないからと断った。

「お金は勿論私が負担するよ」

「いえ。大した事はありません」

 そう言って、真治は立ち上がった。

 その瞬間、僅かによろめき、鈴木は慌てて手を貸そうとした。

 しかし、真治はさりげなく、その手を辞退するように身を引いた。

「大丈夫です」

 涼しい顔で微笑む。

「せめて、家に送ろう。家族はいるんだろう?」

 その問いにも真治は首を振る。

「幼い頃、両親に連れられ、開拓団の一員として満州にきました。ですが、流行り病で一家全滅です。同じ開拓民として来た村の人々は親切でしたが、決して裕福では在りません。迷惑を掛けたくなくて村を出ました。それから、食うや食わずで街を彷徨っていると親切な中国人に助けられました」

「君は今年でいくつになるのかね?」

「…十六ですが」

「日本に帰りたいか?」

 心の中の真治の答えは否だった。

 しかし、そう答えるのは不自然だった。

 だから、鈴木の期待通りの答えを出した。

「…そうですね。ですが、日本に帰っても僕には身内はいないんですよ。だから、中国で暮らしていこうと思ってます」

 しかし、真治の予期せぬ言葉が四十前後の日本人の男の口から出てきた。

「では、一緒に日本に帰らないか?君を私の養子として迎えよう」

 そして、鈴木としても自分の言った言葉に驚いていた。

 養子云々よりも日本に帰るという言葉を鈴木自身初めて使ったのだ。

 それは、病院を辞めるという決意だった。

 ずっと、迷っていたのだ。

 鈴木の父は開業医だった。

 その跡を継ぐべく、鈴木は医者になったのだが、結局、鈴木は父の残した診療所を閉め、病院に勤務していた。病院の柵から抜け出し、心のどこかにずっとあった一開業医も悪くないのではという想いが、ここにきてぐっと現実味を帯びてきた。

 しかし、真治はまたもや首を横に振る。

「有難いお話ですが、僕にはそこまでしてもらう理由がありません」

「私には娘が一人しかおらん。家内も病弱でもう子供は諦めているのだよ。君が息子になってくれたら…」

 会って数分の男を相手に何を言っているのか。

 心の中で鈴木は自嘲したが、この思いつきに徐々に興奮していった。

 その後、鈴木はこの真治と名乗る相手に何度も会い説得しつづけ、ようやく真治を日本に連れ帰ったのだ。

 前もって妻には手紙で真治の事を伝えた。

 真治と妻が初めて会ったのは、病院のベッドだった。

 その後、間もなく妻は亡くなった。

 娘の雪子は始めのうちこそ見知らぬ年も変らぬ少年に戸惑ったものの、持ち前の明るさと活発さで真治を受け入れた。

 あれから、一年。

 勉強させてやろうと真治を中学校に入れたものの、学生生活のほとんどを学徒動員の為、軍需工場で過ごしている。戦争は新聞やラジオの中から飛び出し、国民生活に深い陰を落として続けている。



 深夜、幼い子供を抱えた母親が鈴木診療所のドアを叩いた。

 既に熱は四十度を超え、呼吸困難に陥っていた。

「真治!パビナール持ってこい!」

 聴診器をはずし、鈴木は怒鳴った。

「ありません!」

 酸素吸入の準備をしながら、真治も怒鳴っていた。

 薬棚には使えるような薬品は何一つ残ってなかった。

「くそ!」

 馴染みの氷屋の叩き起こして、氷を抱えた雪子が帰り、氷嚢を作りはじめた。

 製薬会社からは一切薬品は入ってこず、大病院に勤める友人から内緒で薬を分けてもらっていたが、ここ数ヶ月はそれすらも入ってこなかった。仕方なく、診療所は閉め、僅かな往診のみとしていたが、病院にかかるお金のない人々が偶にこうしてやってくる。

 出来た氷嚢を子供の頭に添えた。しかし、汗はダラダラと流れ、体は痙攣し、瞳は焦点を失っていく。

「確か、引出しの奥にコカインが少しあっただろ!それ持ってこい」

「それも、先日、使ったじゃないですか」

 益々激しい呼吸を繰り返し、ついに子供は吐血した。

「先生。血、血が!け、結核なんですか?」

 涙混じりに母親は訊いてくる。

 結核に特効薬はない。安静と栄養が唯一の処方である。

「…心拍停止です」

 沈痛な面持ちで真治は言った。

「カンフルは…」

「……」

 訊かなくても鈴木はわかっていた。

 無駄だと知りつつ、心臓マッサージをし始めたが、それは口から血を溢れさせただけだった。


 死亡診断書と冷たくなった幼い我が子を抱いた母親を見送った後、鈴木は拳で激しく机を叩いた。

 悔しそうなそんな父親の顔を雪子は、この数ヶ月の間、何度となく見てきた。

「雪ちゃん。もう、寝たら?後片付けは、僕がしておくから。明日も動員だろう?」

 黙って雪子は頷いた。


 こんな日は眠れないが、これ以上父の震える背中を見るのが雪子には辛かった。

 雪子が自分の部屋に帰るのを見届けてから、真治は診療室を片付け始めた。

 両手で頭を抱え机に伏している鈴木がボソリと呟いくのを真治はきいた。

「問題は薬じゃない…」

 真治は黙って仕事を続けた。

「いや。勿論薬は必要だ。だけど、薬より米だ。さっきの子ももっとマトモに食べれていたら違った結果になっていただろう」

 食料から衣類に渡るまで全てが配給制度になり、その量は日に日に少なくなっていく。

 米が貰える日は徐々に減り、大豆の粉や玉蜀黍粉入りのパンが一家に僅かに入ってくるようになっている。

 しかし、大体はそれでは足りず、家のものを農家に売って食べ物と交換したり、闇市で手に入れて何とか飢えを凌いでいるのが実情だった。

 しかし、売るものがないような貧しい家では、空襲による怪我以前に極端な栄養失調による病気への抵抗力の低下が直接死亡の原因になっているのだ。

「でも、先生。結核には安静が一番です」

「そんなこと、わかっておる…」

 頭を上げずに鈴木は力なく呟いた。

「では、何故安静にされないんですか?」

 ピクリと鈴木の背中が揺れた。

「先生は以前、自分は運がいいから、絶対赤紙は来ないと笑っておられましたよね。でも、それは、違いますよね」

「何が言いたい?」

「ここに来て、そろそろ一年になります。見ていれば、わかりますよ。先生が結核だと言う事ぐらい。雪ちゃんは気付いていないようだけど」

 ようやく鈴木は顔を上げ、真治の目を見た。

「わかってます。先生はここで人の命を少しでもいいから助けたいのでしょう?僕はそれには何も言いません。僕はそんな先生を…父を尊敬していますから」

「じゃあ、何故、府立一中を受けなかった?お前なら、受かっていただろう」

 名門の学校である。今度は真治が黙った。

「それとも、お前はそんな所に行かなくても医学部に受かる自信があるのか?」

 勉強は好きだった。医者にもなりたいと思った。しかし、

「戦争が終わったら、大学を受けて、…医者になります」

「ばかばかしい。戦争が終わったらだと?その頃には、患者はいない。死体だけだ」

「だったら、大学に行く事すら、無駄じゃないですか」

 鈴木は自分の矛盾に嘲った。

 真治の言う通りだ。

 日本が戦争に勝つなど鈴木はもはや信じていない。

 なのに、真治に大学で医学を勉強しろと言っているのだ。

 一体何のために勉強するのだ。

 未来など、希望など、この日本に残されていないのに。


「先生。僕の話は止めましょう。それよりも、雪ちゃんの事です。結核が感染する事は先生もわかっているでしょう?ですから、雪ちゃんを疎開させたら、どうですか?確か先生の奥さんの遠縁に当たる人が信州にいるとお伺いしましたが」

「ああ、オレもそれを考えたが、アイツがどういうかな?で、真治はどうするんだ?」

「僕の事は気にしないで下さい。それに、中学の学徒動員は義務ですから」

 鈴木は深い溜息を吐いた。

 強引に真治を日本に連れてきたのは正しかったのだろうか。

 戦局が厳しいものになるに連れ、鈴木はこの少年の未来を簡単に買ってしまったことに申し訳なさでいっぱいになる。

 そして、帰国して間もなく発病した肺結核がさらに鈴木を悩ました。

 自分が死ぬ前にせめて真治を大学に入れ、卒業させたかった。



「いやよ。絶対いや」

 当たり前のように雪子は、自分一人が疎開することを反対した。

 鈴木は深く溜息を吐いた。

 徐々に激しさを増す空襲に多くの人々が家を失い、疎開準備に焼け残った家具を道端で売っている。

 汽車の切符を手に入れることも、今ではかなり難しくなっている。

 それでも、駅で長時間並べば手に入る事もある。

 配給はますます貧相になり、空襲警報が鳴り皆が防空壕に入っている隙に、泥棒を働くものも少なくない。

 東京はますます危険になっている。

 一刻も早く娘を疎開させたい。

 しかし、娘は父親似の頑固者だった。

「お父さんと真治さんが一緒ならいいわ」

「それは、ダメだ」

「なんでよ。真治さんの軍需工場も焼けちゃったし、三月で中学校も終わりでしょう。行くなら、家族皆で行きましょうよ」

「ダメだ」

 そう言っている間に、サイレンが鳴り出す。

 乱暴に玄関の引き戸を閉め、鈴木は国民学校へと向かった。

 雪子は防空頭巾を被り外に出た。

 家の裏に掘った緊急の防空壕は、役に立たないと聞かされ、町内会で造った消防署の裏のコンクリで固められた防空壕へと避難した。



 その頃、真治は焼けた軍需工場にいた。

 焼け残った工作機械をトラックに積み込む作業をしている最中に空襲警報がなったのだ。

 工場裏の防空壕に学生達が雪崩れ込むように入っていく。

 真治はその中には紛れず、一人外に出た。

 紅蓮の炎が街の空で踊り狂い、全てのものを飲み込んでいく。

 火の粉が熱風と共に運ばれ真治の頬を掠めていく。

 赤と黒の織り成す舞台に、絶え間なく鳴り響く爆音、低空飛行するたびに空気を劈くB29の轟音、そして、泣き叫ぶ子供と大人。

 悲鳴は抜群の効果音となってこの地獄絵図を完璧に描いていく。

 逃げ惑う人々と逆らうようにゆったりと歩き、家に着いた。

 家は残っていた。

 爆音と共に振動する畳の上に寝転がった。

 自分は何故日本に戻ってきたのだろうか。

 何故鈴木に付いて来たのだろうか。

 真治はぼんやりと考えた。

 自分は日本に縛り付けられる自縛霊なのかもしれない。

 逃げ出そうとしても必ず引き戻されるのかもしれない。

 繰り返される呪いは決して真治を楽にせず、ひたすら苦しめる為に、そこにある。

 全てが焼け、灰になっても、それは在りつづけるのだろうか。

 死にたいと言う思いと死にたくないという想いが交錯するように心に渦巻く限りは、人間でいられるような気がする。

 時間と共に徐々に部屋は暗くなる。

 灯火管制のため、光のない世界に入っていく。

 障子に揺れる淡い赤い光は、遠くはない燃える炎。

 いつの間にかサイレンが鳴り止んでいる。

 玄関の引き戸が引く音がした。


「真治さん?帰ってるの?」

 頬を煤で染めた雪子の顔が真治を見下ろした。

 口をぎゅっと結んでいるのが、暗闇に慣れた真治の目にわかる。

「どうして、防空壕に避難していないの?」

 立ち上がって真治は雪子に微笑みかける。

「いつも笑ってないで、何とか答えてよ!」

 その瞳から涙が溢れでた。

 毎日絶え間なく届く死の知らせ。

 明日は、もしかしたら、自分の大切の人の死の知らせかもしれない。

 次々と溢れ出る涙が雪子の頬の隅を洗い流していく。

 そして、ぶつかるように身を真治に投げた。

「一人で疎開しろなんて言わないで。ずっと、私たち一緒だから。私とお父さんと真治さん。ずっとずっと一緒だから。ずっと一緒に生きていくんだから」

 雪子の肩を抱くべきか思案するように真治の両手が宙を彷徨う。

「ずっとずっと死ぬまで一緒なんだから」

 彷徨った両手が雪子の肩を掴んで、真治から雪子を切り離した。

 涙に濡れた雪子の顔を見られず、顔を背ける。

 顔を背けた真治に、雪子はたまらず、叫んでいた。

「どうして?真治さんは私の事、嫌いなの?」

 雪子は唐突に溢れ出た感情を抑えることができなかった。

「私は、ずっと好きだったわ!」

「…雪ちゃん」

 暗闇の中、雪子の濡れた瞳がキラキラと輝いて見えた。真治は唾を飲み込んだ。


 喉が渇く。

 永遠と続く飢え。何十何万何千何百何十何日目の喰欲。

 普通の人間とは決して共通しない飢えが真治の体内で渦巻く。


 誘惑に勝てない。 

 真治はゆっくりと自分の唇を雪子のソレへと運ぼうとしたとき、玄関の戸を引く音が激しく鳴った。


「雪ちゃん!大変よ。お父さんが倒れたわ」

 ピタリと二人は止まった。

 玄関に急ぐと衛生兵と近所の人にリヤカーで担がれてきた鈴木がそこに横たわっていた。

 国民学校で怪我をした人々の処置をしているときに倒れたのだ。

 幸い別の軍医がいたために命を取り留めたものの、相当量の血を吐いたと衛生兵が二人に告げた。

 絶対安静を言い渡し、それらの人々は去っていった。

 すぐに寝床を用意して、鈴木を横にした。

 頭が真っ白になった雪子はただ立ち尽くし、真治がてきぱきと準備するのを見ているしかなかった。

 一段落し、真治が鈴木の枕もとに座ったとき、雪子もその横に腰を下ろした。

「…まさか、結核じゃないよね」

 祈るように真治に聞いた。

 今まで多くの結核患者が内科医の鈴木を尋ねてきた。その多くが貧しい患者で手遅れの者が多かったが。

 診療所でそれらの患者を見て、それなりの知識を持っていると思い込んでいた雪子だったが、何故か自分の父親が結核だとは夢にも思わなかったのだ。


 入院を勧めても鈴木はそれを受け入れなかった。

 大病院の多くは焼け、残った病院はベッド数が足らず、廊下に患者がはみ出ている有様だ。

 それがわかっているだけに、真治も鈴木の入院を諦めた。

 絶対安静のため、疎開も出来ない鈴木は、家の畳の上で寝たきりとなった。

 空襲警報のたびに家の狭い庭に作った防空壕に避難させるのが、真治に出来る全てだった。

 雪子は何も出来ずにただ唇を噛み締め、父の看病をしていた。配給の食糧と元患者の家族が代わる代わるに自分達の少ない食料の中から豆や玉蜀黍などを分けてくれ、それで飢えを凌いだ。


 珍しく空襲のない晴れた日に一人の客が鈴木家に訪れた。

「ごめんください」

 その声に真治が玄関に行くと、軍服姿の若者がそこに立っていた。

 真治には見覚えのない人だ。

「どちら様ですか?」

 そう訊いたのは、その若者の方だった。

「この家のものですが…」

「え?ここは鈴木圭吾朗さんの家ですよね」

「そうですが、あなたは?」

 若者は日に焼けた顔から白い歯を見せて、失礼と謝って名を名乗った。

「柏木徹です。隣に住む…」

 真治はピンと来た。

 よく雪子が話していた徹兄さんだ。

「徹兄さん!」

 その声を聞いたのか、雪子が短い廊下を走ってきた。

 真治の横で止まり、暫くまじまじと徹兄さんを見ていたと思ったら、ボロボロと泣き出した。

「生きていたのね。生きていたのね。よかった。よかった。よかった。よかった…」

 そのまま、床に座り込み、泣き出してしまったのだ。

 徹はそんな雪子を驚いたように見ている。

「雪ちゃん?本当にあの小さかった雪ちゃんなの?」

 日に焼けた顔が困惑したように雪子を見下ろしていた。


「とりあえず、上がってください」

 真治は徹を促して、卓袱台が置かれた狭い居間に通した。

 柏木徹は、太平洋の島に派遣されて間もなく、右足を負傷したのだ。

 歩く事さえ出来なかった徹だが、運良く、日本行きの船に乗ることが出来、佐世保に辿り着いたのが半年前。しかし、そこで赤痢に掛かり、そのまま九州の病院に入院したのだ。生死を彷徨ったが、もともと健康だったのと、入院した病院に薬品が残っていた為、無事に回復できたのだ。

 柏木一家が山形の実家に疎開していることを知らずに、何度も家に電報を送ったが、返事がなく心配していたらしい。柏木の両親は何の連絡もなく、南方の戦況を知り、息子はお国に捧げたものと諦め、疎開していったのだ。


「よかった。とりあえず、家族の無事がわかっただけでも、わざわざ東京に来た甲斐があったよ」

 一人で歩けるようになったとはいえ、日本全国空襲されている中、九州から東京までくるのは時間と労力がかなり要った事だろうと真治は思った。

「でも、東京は聞いていたより、酷いね。箱根の方から、ずっと歩いてきたんだけど、どこも焼け野原だよ。それにしても、まさか、鈴木先生がご病気とは…」

 三人の間に暗い空気が流れた。

「徹さんは、では、山形の方に行かれるのですか?」

「ええ。まあ。この足じゃあ、兵隊に戻れないからね」

 ちらりと徹は雪子に眩しそうに目を向ける。

 雪子の顔にはもう涙の跡は無かった。

 真治は久しぶりに雪子の笑顔を見た気がした。

「徹兄さんが生きてて本当によかったわ。最近、人が死んだ話題ばかり。近所の人も友達も沢山死んじゃったの。もう誰も死んで欲しくないのに…生きてて本当によかった」

 父親の遠くない死を予感しながら、それでも身近な人の命を雪子は有難く思った。しかし、徹は恥ずかしそうに小声で言った。

「あんまり、よかったって言わないで…、お国の為に何の役にも立てずにのこのこ戻ってきたんだから、今でも沢山の同朋が日本の為に命を捧げているっていうのに…」

「いいの。よかったはよかったなんだから」

 雪子が笑顔を見せると、徹もつられたように微笑んだ。

「雪ちゃんは、中身は昔のままだね」

「どういう意味よ」

 ちょっと怒る振りをした雪子もまた可愛く見えた。

「徹兄さんも、顔が真っ黒になったけど、中身は全然変わらないわ」

 二人が共有し、一緒に育ってきた年月に真治は勝てないと思った。二人が目を合わし、微笑んでいる姿に真治の心臓がキリキリと痛む。

「あっ。そうだ。徹兄さん。食べるもの無いでしょ。昨日、前田さんがくれた芋があるから、ちょっと待ってて」

 言い切る前に雪子が立ち上がり、台所に走っていった。

「相変わらず、せっかちだな」

 そう言って笑った徹が、不意に真治に躊躇いがちに尋ねた。

「その、君は養子って言っていたけど、その、雪ちゃんの、婿養子になるのかな…?」

「え?」

「あっ。その。なんて言うか。僕は雪ちゃんに会うのは四年ぶりなんだよ。びっくりした。あんなに綺麗になるなんて…」

 雪子が消えた台所の方を目を細めて眺めながら徹は溜息混じりに言った。

 真治には徹の気持ちが雪子を見た時点でわかっていた。

 だから、遠まわしな言い方はしなかった。

「安心してください。違いますよ。僕にはそんな資格ありませんから」

「え?資格?」

 訊き返したところで、芋を抱えた雪子が帰ってきたために会話は途切れた。




 三月十日。


 紅蓮の炎が街の夜空で踊り狂い、全てのものを飲み込んでいく。

 火の粉が熱風と共に運ばれ真治の頬を掠めていく。

 赤と黒の織り成す舞台に、絶え間なく鳴り響く爆音、低空飛行するたびに空気を劈くB29の轟音、そして、泣き叫ぶ子供と大人。

 悲鳴は抜群の効果音となってこの地獄絵図を完璧に描いていく。

 雪のようにパラパラと焼夷弾を落としながらB29が東京の赤い空を舞っている。

 頼りないサーチライトの光の線がその行方を追い尽くせずに赤い闇の中で交差していた。


「真治は先に逃げろ!」

 背に負ぶって逃げようと真治は説得するが、素直に従ってくれない鈴木を無理やり担ごうとした。

 火は隣まで焼け尽くしている。

「本当に頑固者の親子だ!」

 父親と一緒に行くと言い張った雪子を、徹に無理やり引っ張って行ってもらったのだ。

 後は鈴木を避難させる事が真治の仕事だ。

「オレはどうせすぐに死ぬんだ!だから、オレを負ぶって真治の足手まといになりたくない。お前を死なせるわけには行かない」

 熱い煙が家の中に流れ込んできた。

「お願いです。僕と一緒に来てください。死なないで下さい。少しでも生きてください」

 少しでも一緒にいたかった。それは真治の心からの願いだった。

「僕には今まで一度も父と呼べる人がいなかった。だから、本当は、僕は、あの時、嬉しかったんだ」

 そうだ。

 僕は嬉しかった。

 だから、日本に来たんだ。

 養子になってくれといったこの養父を死なせたくはない。

「一緒に生きていたいんだ」

 無理だとはわかっていても。

 この家族ごっこを続けていたかった。

「お父さん。お父さん。お父さん」

 普段は先生としか呼ばない真治は、その言葉を繰り返した。

 皺が増え、病気で落ち窪んだ鈴木の目から涙が溢れた。

 この少年を日本に連れてきたのは間違いではなかった。

 この少年を息子にしたのは間違いではなかった。


「わかった。一緒に逃げよう…」

 しかし、鈴木をおんぶして逃げようと襖を開けた瞬間、黒煙が二人を襲い、畳に倒れこんだ。

 そして、真治の目に赤い柱が倒れこんできた。

 隣に倒れた鈴木を庇おうと、真治はその体の上に覆い被さった。

 真治の背に衝撃が走り、悲鳴を上げた。



 雪子は徹と共に墓石が並ぶ寺の裏に来ていた。

 避難してきた人が身を寄せ合うように爆音を聞き、赤い炎を見ている。

 すすり泣く声があちこちから聞える。

「私。やっぱり、心配だわ。家を見てくる」

「だめだよ。行ったら。大丈夫だ。鈴木先生には真治君が付いているよ」

 立ち上がった雪子を止めようと手を伸ばしたが、その手を乱暴に振り払らわれた。

「行くわ!」

 炎に向かい走る雪子を徹は追った。

 しかし、足が思うように動かず、雪子は益々遠のく。

 逃げ惑う人々。

 泣き叫ぶ子供の声。

「お母ぁちゃ〜〜ん」

 軍靴を鳴らし走り去る兵士達。

「お母ぁちゃ〜〜ん」

 川に群がる焼けた死体。

 女の死体。男の死体。老人の死体。子供の死体。子を抱く母親の死体。

 死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。死体。

 風が赤く染まり、街を焼き尽くす。

 変わり果てた町並みに雪子は道に迷った。

 道を聞いても人々はそれ所ではない。

 唸りを上げ戦闘機が雪子の頭上を飛び去る。

 炎のついた破片が激しい風に揺すぶられ、雪子の足元に落ちる。


 徹は、ようやく足を引きずりながら雪子の家にたどり着いた。

「お父さん!真治さん!」

 そして、燃え盛る家の目の前で必死で叫んでいる雪子を見つけた。

「雪ちゃん!だめよ!」

 結核で子供を失った若い母親が必死で雪子を引き留めていた。

「二人がまだ中にいるの!!!」

 雪子の目から流れる涙が煤に染まった顔に白い跡を残していく。

 二人の後ろに建っていた木製の電柱が火柱を上げ、まさしく二人に向かい倒れていく。

「雪ちゃん!危ない!!」

 その声に雪子は後ろを向いた。雪子の顔が赤い炎に照らし出された。


ボン!!!!!!!!!



 一瞬、遠いどこかで雪子の声が聞こえたような気がした。

 空襲警報。爆音。人が行きかう怒号。泣き叫ぶ声。子を、親を、家族を呼ぶ声がごちゃまぜに聞こえてくる。

「真治…」

 遠い悲鳴の聞こえる中、掠れた声で鈴木は呼んだ。

 背を焼かれながらも、真治は鈴木を引っ張り、家の狭い庭まで来たのだが、そこで力尽きたのだ。

 地面の上で背についた炎を何とか消したが、今は動けなかった。

 同じく立ち上がることの出来ない鈴木は真治の横で仰向けになった。

「すみません。先生。もう少しだけ時間を下さい。必ず助けます。もう少しだけ・・」

「もういいよ。十分だ…」

「もう少しだけ。待ってください。そしたら、立てます。先生は喋らないで下さい。体力を消耗しますから」

「……・・」

 薄っすらと明るい夜空を見上げ、鈴木はこの少年との出会いを思い出していた。

 鈴木は少年の瞳に惹かれたのだと、その時初めて悟った。

 最初から少年の瞳には不可思議な深い悲しみが宿っていた。

 病院で多くの死を看取っていくうちに忘れ去った悲しみだ。

 医者になった頃は、患者が死ぬたびに深い悲しみを抱いた。

 しかし、徐々に悲しみは深い虚無感として鈴木に沈殿していった。

 だが、この少年は、人の死の悲しみを悲しみとして奥深くに沈殿させている。

 それは、鈴木の気のせいかもしれない。

 ただ、なんとなくそんな気がしただけかもしれない。

「真治。お前は何者なんだ?」

 ずっと疑問に思っていたことをようやく口にしてしまった。

「…喋らないで下さい」

「俺はお前を養子にする時に教えてくれた出身地と名前で戸籍を調べたんだよ」

「…何かありましたか?」

「わかっておるくせに…。どこにもお前の戸籍はなかったよ。お前は何者なんだ?お前の目は十六歳の目じゃない」

 顔を歪めて真治は上体を起こす。

 服が焼け剥き出しになった背中が鈴木の目に止まった。

「お前に最初に会ったとき。お前は死んでおった。その時は、仮死状態にでもなっていたのかと思ったよ。でも、違うな…」

 掠れた鈴木の言葉が真治の鼓膜から入り、爆音よりも重い言葉が、爆弾よりも衝撃を持って心を揺さぶる。

 足を投げ出し、両手をついて真治は空を睨みつけた。

 徐々に治っていく真治の背を鈴木は遠い出来事のように見ていた。

「…先生。命ってなんですか?」

 見上げた空には、もう戦闘機の姿は無かった。

 家を燃やしつづけた炎は徐々に収まっていく。

 鈴木は同じ空を見上げ、静かに言った。


「…わからないよ。きっと誰にもわからないさ。…でも、人類が滅亡するときには分かるかもしれない」

 空を見上げていた真治はようやく鈴木を見下ろし微笑んで言った。

「その瞬間には、僕も死ぬ事が出来るのしょうか?」

 ただ深く悲しい真治の瞳に、鈴木はただ固く目を瞑った。

 今日、幾つの命が消えたのだろうか。

 そして、幾つの命が生まれ、また、消えるのだろうか。

 朝の太陽が何事も無かったように東の空を光で満たし始めた。


 鈴木の瞼は、その後開く事はなかった。



 焼け跡に真治は一人立った。

 黒く焼け残った柱が地面から無秩序に斜めに突き出している。

 地面に蓄積した灰を踏むと未だに熱さを残していた。

「真治君!」

 徹の声に真治は振り返った。

「…無事だったんだね。先生は?」

 足元に視線を落とし、首を横に振る。

 そして、庭だった片隅で眠った鈴木を徹は痛ましげに見遣った。

 雪子がいないことに真治は気付いた。

「あの。雪ちゃんは?」

「それが、…申し訳ない」

 真治が鋭い目で徹を睨んだ。

「怪我したんだ…。今は学校の医務室にいる。大した事ないんだけど…」

「どうして、貴方がついていながら…」

 そこまで、言って真治は言葉を止めた。

 病気とは言え鈴木を死なせてしまった自分に何も言う資格がないように思えたからだ。

「すまない」

 徹はもう一度謝って、言葉を続けた。

「怪我は大した事ないんだ。ただ…」

「ただ…何ですか?」

「怪我をしたのが、顔なんだ。医者から額から左眼にかけて火傷の跡が残ると言われたよ。薬もないし…。傷よりも雪子ちゃんの心の傷の方が僕には心配だよ。女の子だからね。僕が持っていた睡眠薬で今は眠っているけど、起きて自分の顔を見たら、ショックだと思うよ」

「顔に…」

 雪子は美人と言う部類には入らないが、目が大きく、ふっくらした頬に表れる笑窪が可愛い少女だった。

 そして、真治はそんな彼女に追い討ちを掛けるように父親の死を伝えなければならない。

「徹さん。…それでも、顔に消えない傷を負っても雪ちゃんのこと好きですか?結婚したいと思いますか?」

 突然の質問だったが、徹に迷いは無かった。

「勿論だよ。彼女が望むならね。僕が山形に帰らず、ここにいるのは、やはり彼女が心配だからだよ」

「彼女を幸せにしてくれますか?できれば、山形に連れて行ってあげてください」

「彼女が承諾してくれれば、すぐにでもそうするつもりだ。真治君も一緒に来ないか?どの道、君も一緒じゃないと、雪ちゃんは動いてくれないんじゃないかな?」

「彼女を幸せにしてください。…僕はこれから雪ちゃんに会って、父親の死と、別れを告げてきます」

「別れって…どういう意味?」

 真治は徹に微笑みかけた。

 男の徹がはっとするくらい綺麗な笑みだった。

「徹さん。暫く先生を見てくれますか?すぐに戻ります。雪ちゃんに見せてあげてから荼毘に付します」



 国民学校は、益々人で溢れ返っていた。

 家を焼け出された人が教室で丸くなり。

 怪我をした人は衛生兵に手当てを受けている。

 学校に入った途端、悪臭が立ち込めた。

 死臭とも言うべき臭いだ。

 大怪我をおい、ここまで来たが、治療も受けずに亡くなった人や、治療しても助からなくなった人が廊下のあちこちに倒れている。

 それでも少しずつ衛生兵がそれらの死体を校舎から運び出して、校庭で焼いている姿が見える。


 そんな彼らの間を通り抜け、医務室に向かう途中で真治は雪子を見つけた。人気を避け、裏庭の片隅で蹲っていたのだ。

「雪ちゃん…」 

 真治の声に雪子は肩を震わし、両手で顔を隠して叫んだ。

「来ないで!!」

 その声を無視して真治は進んでいく。

「イヤ!お願い。見ないで。こんな見苦しい顔を見ないで。お願いだから」

 真治は構わずに雪子の両手首を掴み、顔を開かせた。顔の左半分に包帯が巻かれているが、斑に赤く焼け爛れた肌がはみだしている。

「先生が死んだよ」

 右目が大きく見開いた。

「ごめん。助けてあげられなかった…」

「仕方ないわ。みんな死ぬのよ…」

 そう言いながら、右目からボロボロと涙が流れる。

「もう、死にたい…」

「雪ちゃん…」

「もう、生きていく意味なんかない」

 命の意味は?

「死んじゃいたいよ…」

 死の意味は?

 細い腕を握り締めれば、熱い感情が溢れていく。

 意味などない。

 ただ在るのは、感情だけ。

 ただ在るのは、想いだけ。


「雪ちゃん。好きだよ。僕と一緒にずっと生きていこう。だめかな?」

 雪子の右目が益々大きく見開かれて、翳る。

「嘘よ。同情してくれるのね。私がこんなだから。誰も醜い私の事なんて好きになりはしないわ」

 真治は掴んでいた腕を放し、雪子の左側を隠していた包帯を不意に取り外した。雪子は驚き叫んだ。

「イヤ!」

 一生懸命、左の生々しい爛れた傷を隠そうとする雪子の両手を力ずくで剥がし、両手首を握り締めたまま、雪子の顔を覗き込んだ。

 左の額から頬に掛けて焼けていた。頭部は広範囲にわたって治療の為に短く髪が切り刻まれている。左眼はかろうじて開いているが、醜く変形していた。

「止めて。見ないで」

 左の目からも涙が溢れ出している。

 真治は痛いくらいに雪子の両手を握り締め、雪子の両手首が赤くなっている事に気付かなかった。


 守りたい。

 ずっと、彼女を守っていきたい。

 ずっと、一緒に生きていきたい。

 真治は雪子を抱きしめていた。

「真治さん…」 

 力任せに抱きしめられた雪子は、絶望からフワリと不思議に心が軽く舞い上がった。

「真治さん…。愛してるわ」

「僕も…」

「嬉しい…」

 雪子もギュウッと力をこめて真治を抱きしめた。

 一年前に出会い、知らない内に惹かれあっていた。

 真治は抱きしめていた力を抜いて、雪子を見下ろした。

 雪子は真治を見上げた。

 そして、二人の唇が重なり合う。


 唇から流れてくる想いを喰らい続けて、生き続けて、何の意味があるのか。

 命の意味なんてない。

 消えていく命の意味なんてない。

 自分がそこにある意味など何一つない。

 でも、生きたい。

 逝きたくない。

 愛したい。

 愛されたい。

 忘れられたくない。

 ずっとずっと抱きしめられてキスされていたい。

 ずっとずっと一緒に生きていきたい。

 ずっと…・・

 暖かい想いが唇から喉を暖め胃に入り血管を流れ、体中を暖める。

 飢えを満たされた充実感。


 そして、

 愛する人の戸惑い。

 もう、わかっているから、体内が悲鳴を上げても外へと向かう事はない。


「誰?」


 雪子は目の前にいる少年を見上げ、首を傾げる。

 優しい瞳の少年だと思った。

「どうして、ここに?…痛っ!」

 突然、思い出したように顔が痛んだ。

「大丈夫?君は顔を怪我したんだ。だけど、大丈夫。すぐに治るよ」

「お父さんは?お父さんはどこにいるの?」

「…死んだよ」

 そうだった。父は死んだのだ。

 知っている。

 知っているのに、頭が混乱した。

 目の前に表れた見知らぬ少年。

 思い出せる断片は、炎から逃げている自分。

 誰と逃げてた?

 男の人だった。そう。あれは、徹兄さん。

 父さんが心配で家に戻った。

 でも、家は燃えていた。

 後ろから燃えた電柱が倒れてきた。

 下敷きにはならなかったが、大きな火の塊が自分に目掛けてぶつかったのだ。

 自分は、何故父を置いて逃げたの?

 父は結核だった。

 覚えている。

 自分は父と二人でずっと暮らしていた。

 自分は一人で父を看病していた。

 では、何故、今一緒に病気なはずの父といないのだ。

 何故、父を置いて逃げたのだ?

 混乱して、頭が割れるように痛んだ。

「大丈夫だよ」

 頭上から降り注ぐ優しい声。

 自分と年の変らない見知らぬ少年。

「大丈夫だよ」

 繰り返された呪文。

 大丈夫……・なんだ。

 不意に心が軽くなり、目の前の少年の瞳に目を奪われた。

 綺麗な瞳。

 そう思った途端、少年は心を見透かすように視線を逸らす。

 そして、言った。

「君のお父さんが待っている」

 そうだ。お父さんにお別れをしなければ。

「恋人も待っている」

「恋人?」

「そう。君の恋人だよ。徹さんだよ」

「徹兄さんが?」

 混乱しそうになる頭は、この少年の

「大丈夫」

 という笑顔に騙される。

 徹さんは私の恋人。

 そうかも、だから、一緒に逃げていたんだ。

 でも、

「あなたは誰なの?」

 優しい声と優しい瞳を持ったあなたは誰?

「僕?君の父さんに世話になった者だよ。さあ、君の家の前で恋人が待っているよ。生きて。生きるんだ」

「あなたはどうするの?」

「僕とは、ここでお別れだよ」

 さよなら、と微笑を残し、風のように少年は雪子の前から消えた。


 焼けた街に風が吹いて灰が舞い上がった。

 雪子はその少年をもう一度見る事はなかった。




 そして、五月二十五日の午後十時過ぎ空襲警報が鳴り響いた。


 壊れていく。

 死んでいく。

 深い意味などないまま、命は消えていく。

 流された血も涙も熱い炎に焼かれ、命の意味すらわからないまま消えていく。

 熱い。

 痛い。

 苦しい。

 生きたい。

 生きたい。

 生きたい。

 生きたい。

 生きたい。

 生きたい。

 生きたい。


 生きて!

 多くの祈りの中で真治は赤い炎の舞う街に立ち尽くす。


 この身を焼き尽くして欲しい。

 体が粉々になれば、この想いも粉々に砕け散るのか?


 真治は空に向かい両手を広げた。


 見上げる夜空は、赤かった。





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