第1話 tastic kiss
雨の匂いが残る町に静かに光が満ち、濡れたアスファルトが光を反射しキラキラと輝く。
分厚い雲の隙間から現れた太陽が容赦なく地上を照りつけ、町を乾かしていく。
濡れた塀の上を歩いていた一匹の猫が体を震わし、白い毛を濡らしていた雨水がピシャピシャと周りに飛び散った。
「お腹空いた〜」
「圭太君。ついさっきマックで二人分は食べてたよ」
曲がり道の向こうから聞こえてきた楽しげな会話に白い猫がピクリと耳をそばだてた。
近くの高校の制服を着たカップルが曲がり角から現れる。
「そんなに食べた?オレ」
自分の短く整えたサラサラな髪を掻き上げ、圭太は笑って隣の少女を見下ろした。
「食べてたよ」
僅か目線が下の少女は、そう言って圭太を覗き込み無邪気に微笑んだ。
「そうだっけ?」
「そうだよ」
少女はクスクスと微笑む。圭太は僅かに目線が下の少女に優しげな瞳を向ける。
「ミキちゃんの家ってこの辺だよね」
「うん。この角曲がったところだよ。今日は送ってくれてありがとう」
少女は満足そうに圭太を振り返る。
圭太は繋いでいた手を離し、その手を少女の頬にゆっくりと添えた。
サラリとした頬の温もり。
色素の薄い髪がフワリと圭太の手に掛かる。
少女は吸い込まれるように圭太の瞳をうっとりと見つめてから、目を閉じた。
そして、軽いキス。
唇が離れる。
圭太は、少女の瞼が開いていく様を静かに見つめた。
睫毛が長いな…。
瞼は僅かに震え、緩やかに開く。
開かれた瞳に自分が浮かんでいる。
自分の顔はこんな顔だったか…。
開かれた瞳の意味。
光の行方。
全てを体に感じる事が出来る。
少女を柔らかに映し出す圭太の瞳が西日に鈍く光った。
僅かな沈黙。そして、少女は口を開いた。
「…ごめんなさい。圭太君」
唐突な彼女の謝罪。しかし、圭太は優しく頷く。
「うん。わかってる」
「本当に、ごめんなさい」
「うん。別れよう」
少女は申し訳なさそうに何度も後ろを振り返ってから圭太の前から立ち去った。
西から刺さる光に圭太は目を細める。
「ふう〜」
溜息が漏れる。
「人生はまだまだこれから…、な〜んて」
などと一人で言って一人で笑った。
『フラれたのに笑ってんじゃねえよ』
不意に鼓膜に届いた声に対し、振り向きもせず圭太は軽く答えた。
「いいんだよ」
終業のベルが校内に鳴り響き、放課後に向けて学生達がざわめき始める。
週番が黒板の数式を消し始め、圭太はシャープペンの速度を速めた。
数学の教師と入れ替えに担任が教室に入って何やら叫んでいる。
強い西日が窓際の圭太に容赦なく降り注ぐ。
窓の形が彼のノートにクッキリと鋭い影を落としている。
不意に大きな影が窓の形を壊し、耳慣れない声がした。
「鈴木君て、真面目なのね」
圭太は顔を上げた。
開いた窓から入る生暖かい風に艶のある黒い髪がさらさらと揺れ、熟れた葡萄のような瞳が圭太を射抜いていた。
堀内杏子。
二年に進級し初めて同じクラスになったが、この二ヶ月間一度として言葉を交わした事はなかった。
勿論、クラスが同じになるまで圭太はその存在すら知らなかった。
始めて言葉を交わした。
そして、初めて目を合わした。
黒い瞳は真っ直ぐに圭太を写し出している。
瞳の中に封じ込められたような錯覚が圭太を襲った。
そして、耳に響く雑音。
この音は、雨…?
どこかで自分はこの雨の音を聴いたことがある。
激しい雨。
悲しい微笑み。
突き刺すような視線。
満たされた…。
「杏子。いるか」
圭太の思考回路は遮断された。
廊下から杏子を呼ぶ声はその彼氏のものだ。
彼女はそれ以上何も言わず男と出て行った。
耳には雨音の幻聴のみが残っている。
今のは…?
圭太は無理やり幻聴を思考の彼方におしやった。
そして、圭太はノートの続きを書こうと前に向き直ったが、すでに遅かった。
週番が全てを消した後だ。
「あ〜あ…」
圭太は、がっくりと肩を落とす。
ノートを閉じると、担任が圭太を見下ろしていた。
「鈴木。確かお前のトコは今日でよかったな。三者面談」
担任の声に雨音はようやく遠ざかる。
「…すいません」
「いいんだよ。今日の五時だろ?進路相談室で待っているから!」
快活で健康で白い歯の似合う体育教師は、ドリンク剤のCMでロッククライミングをしていそうだった。
笑顔の担任が去ると、いつのも顔ぶれが圭太に近付いてきた。
松原と岸である。
「三者面談って確か来週からだろ?お前ん家今日か」
「うん。ウチって両親が、今、アメリカだから、叔母が来てくれるんだ。まぁ、その叔母の都合でね」
「おぉ〜。アメリカか!もしかして圭太って帰国子女ってヤツ?」
松原が眼鏡を外しウキウキと聞いてくる。
「う〜ん。一歳までね」
「一歳か。道理で英語の成績が思わしくないわけだ。胎児教育っていうのは全くの嘘だと圭太は証明したようなモンだな。母親の胎内で一〇ヶ月とプラス一年間、英語を聞いて育ったにもかかわらず、過去完了形を理解してないからな」
「余計なお世話だ」
そう言って圭太は松原を睨み返してみる。
「そんな事より、圭太って、堀内と知り合いなのか?さっきなんか話してたろ」
岸が興味津々で聞いてくる。圭太は首を横に振って言う。
「いや。今日初めて声掛けられた」
「なんて?」
「鈴木君って真面目ねって」
「はぁ〜?何だそりゃ?」
「オレは真面目だぞ」
「そうじゃなくて、あの堀内が何で圭太にわざわざそんな下らないこと話しかけるんだよ」
松原が納得しかねるように首を傾げる。
「知るかよ」
「まさかナンパ?」
的外れなことを言う岸に松原は即座に否定した。
「まさか。でも、堀内っていつも何考えてるか分からないよな。クラスでも浮きまくっているし、人を寄せ付けない雰囲気をバシバシ醸し出してるし」
「…だな」
今まで堀内杏子を意識して見たことが無かった圭太は曖昧に返事するしかなかった。
「でも、堀内ってめちゃオレのタイプ」
岸が圭太の手前の机に座り呟く。
それに松原は水を差した。
「まあ、かわいいのは認めるけど、中学ん時ヤンキーだったってさ。ウリまでやってたって噂あるぜ。それより、圭太、お前、ミキちゃんにフラれたんだって?」
身を乗り出して、松原が聞いてきた。
「嬉しそうに言うなよ〜」
情けない声を出した圭太に、岸が追い打ちかける。
「またか?四人目じゃないか?」
「五人目だよ」
頭を抱えて、圭太は大げさに落ち込んで見せた。
「圭太ってさ、何故かモテるくせに、いつもすぐフラれてない?」
「もしかして、オレってばメチャメチャ可哀相かも」
松原はにやりと笑った。
「今週の日曜日空けとけよ。C組の青木もえが…、俺の中学からの同級生だけど、友達二人連れてきてくれるわけ。休日を楽しく過ごしましょうってワケ」
その言葉に圭太は目を輝かせ、しっかりと松原の手を握りしめた。
「友達だよな。オレ達」
圭太は満面の笑みを浮かべた。
記憶にあるのは、鼓膜を打ち続ける激しい雨。雨に浮かぶ夜の湖。
それは、どこで見たものか。
それは引力を持つ湖だった。
杏子の中にあり続ける得体の知れない不安は常に雨と共にあった。
「鈴木圭太とはどういう知り合い?」
長身の男は調子の良さそうな声で一年間持ち続けた疑問を、何気なく訊いてみた。
「…木津には関係ないと思うけど」
素っ気ない声は堀内杏子の物である。
杏子は木津が彼の名を知っていることに何の疑問も持つことなく返した。
木津は肩を竦め、わざとらしく落ち込んで見せた。
「傷ついちゃうなぁ〜。オレ」
杏子はチラリと木津に目を向ける。
木津の耳にある直径1cm程の並んだ三つのリングが肩まで伸びた茶髪の隙間から輝いている。
「どうして、このぼくの熱い想いわかってくれないわけぇ?」
杏子は呆れ顔で隣の惚けた友人の顔を眺めている。
木津と杏子は一年生の間は同じクラスだったが二年になり別のクラスに成ったのだ。
入学一週間目で告白され、即座に断ったにもかかわらず木津は飽きもせず杏子にくっついていた。
他の学生からは当然付き合っている物と思われ、特に否定しない杏子達は今や公然の仲と為っていた。
木津は杏子を見続けていたから気付いてしまった。
杏子の視線の先にはいつも鈴木圭太がいた。
鈴木圭太は童顔だが涼しい顔をしていて一部の女子には人気があった。
しかし、特に目だった人間ではなかった。成績は普通。部活は帰宅部。
木津が秘かに仕入れた情報では杏子を引きつける要素など何一つ見当たらなかった。
「杏子ォ、いつもと道違うけど?」
毎日、高校の近所に住む杏子を送って帰るのが木津の日課である。
「薬屋に寄って行くのよ」
「風邪でもひいたか?」
そんな風には見えないけど、と顔に描いて杏子を見る。
「母さんよ」
「あぁ。血の繋がらない母の?」
言いにくい事を木津はサラリと言う。
心に壁を持つと言われる杏子であったが、木津だけは特別だった。
勿論、最初からそうであった訳ではない。木津の一年間の努力の賜物である。
木津も1年を使い、徐々に杏子を理解した。
杏子の態度は、心に壁を作っているわけではない。
単純に、人間付き合いが単純に下手なのである。
もしかしたら、逆かもしれない。
誰もが杏子のまっすぐに見る強い瞳に、周りが耐えられないのではないだろうか。
壁を作っているのは、杏子の周囲の人間かも知れない。
でも、それならそれで、そのままでいい。
杏子を理解できるのは、自分だけでいい。
「そうよ。血の繋がらない私を一人でここまで育ててくれた母よ」
母を語る時、杏子の顔は僅かに緩む。
木津は眩しそうに杏子を眺め、静かに細い肩に手を回す。
「調子に乗んじゃない」
鋭いつっこみと共に手が払い落とされた。
「え〜。圭太君の成績でしたら志望の国公立は、特に問題ないようですね。出席率にしろ授業態度にしろ圭太君は問題ないです」
常に笑顔を崩さない担任は白い歯を覗かせつつ、圭太の成績を記録されてあると思われる冊子をパラパラ捲っている。
特に優等生ではないが、問題を起こさず成績もそこそこな圭太は担任にとって最も楽な生徒だ。
圭太は隣の叔母をチラリと横目で見遣る。
(派手すぎだ…)
喉で溜息を殺している圭太の苦労も知らずに叔母は圭太の視線に気付きウインクを投げてきた。
「で、今も国公立志望と言うことでよろしいですか?」
「ええ…」
ニッコリと微笑んだ叔母は赤い唇を開いた。シャネルのスーツは明るいピンクだった。
担任の目は自然に叔母の胸元に移る。スーツの胸元から見える谷間は、健康優良独身体育教師には刺激が強すぎるようだ。
「はぁ〜」
決して長くはない三者面談にドッと疲れたように圭太は深い溜息を吐いた。
放課後の人気の少ない廊下にはグラウンドから聞こえてくる野球部かどこか知らない部員達のかけ声だけが響いてくる。
「どうしたの?ケイちゃん。溜息なんかついちゃって」
隣の派手な叔母を見てまた溜息が出る。
圭太はつくづく他の学生と日にちをずらしたことを正しいと悟っていた。
「カオルさん。派手すぎですよ〜」
「ひっど〜い。ケイちゃんのためにこのスーツ新調したんだから!」
「…どうも、ありがとうございます」
「でも、私の叔母役も結構上手かったでしょ?こういうの一回やってみたかったのよね」
「はぁ…」
『ええ』と『まあ』しか言わなかったくせに、と圭太は思ったが口には出さない。
それより、最後に自分の店の名刺を出しはしないかと冷や冷やしたくらいだ。
「それより、ケイちゃん。本当に進学するの?今、バイトしてるとこは続けるの?」
「実は、まだ決めてないんですよ」
「ふ〜ん。それにしても、ケイちゃんが高校生だなんて知らなかったな〜。叔母のふりしてくれって頼んできた時は何かと思ったわよ」
「あの、くれぐれも僕の店には内緒ですよ」
「分かってるって。それより、今度たっぷりサービスしてよね」
そう言って圭太にキスしようとした。
「ここは学校です」
「いいじゃない。誰もいないわ」
「僕、カオルさんの事、好きですよ」
カオルは子供のように頬を膨らませた。
「だから、キスはしたくないって言うんでしょ!いつもの口癖ね」
圭太は僅かに微笑んだ。
それを見たカオルはプイッと顔を反らせた。
「ケイちゃん見てると、意味もなく悲しくなっちゃうよ」
ハイヒールのために圭太を見下ろす格好になっていたカオルはキスの替わりに圭太のほっぺを二度軽く叩いた。
「今日は本当にありがとうございます」
圭太はニッコリ微笑むとカオルも笑った。
日曜日。
徐々にオレンジ色に染まる街に、冷たい風が吹き抜け、家へ向かう人々の足を速める。
「絶対、ユイちゃん、お前狙いだったよな」
三人の女の子の内一人が門限があると言い始め、カラオケのみで解散になってしまい岸は未だに機嫌が悪い。
「ユイちゃんって美脚のショートパンツの娘だよな。やっぱりな。オレもそう思ったんだ」
「チキショー。何で、お前ばっかりもてるんだ?身長だってオレの方があるし、圭太、170ないだろ?」
「人間、身長じゃない」
「中身か?」
「勿論、顔だ」
キッパリ言い放って笑う圭太の涼やかに整った顔には、まだ幼さが漂っていた。
「チッ。一人で言ってろよ」
岸は圭太の頭を軽くどつくと橋の上で別れた。
岸の後ろ姿を見送り圭太も顔をほころばせ、足を翻す。
オレンジ色に輝く光の帯がキラキラと水面を流れている。
緩やかに流れる反射光の眩しさに圭太は目を細め、覚えたてのカラオケの鼻歌と共に、川沿いの公園を歩き始めた。
通り道にある小さな公園は、徐々に闇に支配され寂しく静まり返っている。
「腹減ったなぁ〜」
人気のない公園を横切ろうとしたところでいつもの口癖が出る。
『ちょっと待てよ』
自分を呼び止める声に圭太は足を止め、その相手を見つけたところで思わず笑みが漏れた。
「あぁ。誰かと思えばアンタか。前に一度会ったよな。いつだったかな?確か…」
『アンタがキスしてフラれた時だよ』
「そう。そう。あの時の…」
思い出した嬉しさに思わず指差した先で、
『そうだよ。あの時の猫だよ』
白い猫が笑っていた。
杏子はスーパーの袋を手に家へ向かう。
母が眠った隙に買い物に出た帰りだ。
空を見上げ深呼吸をする。雲一つない空は、梅雨の合間の安らぎである。
杏子は雨が嫌いだった。
激しい雨は、一つの記憶を蘇らせる。
存在しない筈の記憶が杏子を不安に陥れる。
いつか見た湖。
その日は確かに晴れていた。しかし、杏子の記憶に棲み続ける湖は、雨に濡れていた。
そして、夜だった。
チカチカと瞬く鮮やかなネオン。
賑やかな光の中でそこだけが異次元のブラックホールだった。
それは、引きずり込まれ二度と這い上がる事を許さない湖。
それでも、自ら足を向けてしまう不思議な魔力を供えた夜の湖。
杏子は確かにその湖を見た。
湖に溺れかけた母を追って…。
杏子は実母の顔を知らない。
物覚え付く頃には父しかいなかった。酒を飲んでは殴られた。抵抗する術も知らず、杏子はただ耐えた。沈黙のみが彼女に許された抵抗だった。長距離のトラック運転手だった父は帰らない日が続くことが多かった。そんな時は伯父の家に預けられるのだが、ありありと迷惑顔の伯父夫婦を見たくないために杏子は常に俯き、それが彼等を一層イライラさせていた。時折、父は杏子を伯父夫婦に預けることを忘れ、そのまま仕事に出掛けることがあったが、杏子はその方が楽だとすら思った。一人で空腹に耐える方が、杏子にとっては安心できる時間だった。
しかし、父は気紛れに杏子に優しかった。誕生日すら覚えていないくせに、ケーキを記念日だと言って買ってきてくれたり、仕事明けに杏子に抱えきれないほど大きな熊のぬいぐるみを与えたりした。その時は大概驚くほど優しい目をしていた。杏子はその瞳見たさに父の酒乱に耐えていたのかも知れなかった。
そして、ある時、父はとびきりの笑顔で最高のプレゼントをしてくれた。
お母さんだった。
父は酒を飲まなくなった。優しい義母は一日中、杏子に微笑んでくれた。そして、杏子は笑顔を覚えた。
ある日、父は新婚旅行だと言って、杏子と義母を北海道に連れていってくれた。右手に父、左手に母。両手を塞いでくれるのはとびきりの笑顔だった。
「綺麗ね…」
若い義母が摩周湖に見とれていった。
杏子は、その時泣き出したのを覚えている。摩周湖を食い入るように見ている義母が湖に引き込まれるんじゃないかと不安になったのだ。
底の見えない深い深い湖。
底には闇を沈めている。湖の中、闇はじっと待っている。一人は淋しくて淋しくて、あまりにも悲しい。だから、じっと待っている。切ないほど悲しい湖に義母を取られるような気がした。その湖は引力を持っていたから…。
その新婚生活は、半年も持たなかった。父は杏子を養母に押し付け、知らない女と逃げるように去っていった。しかし、義母は困ったように微笑んだだけだった。そして、杏子を誰よりも愛した。杏子はその柔らかな愛を感じて育った。
公園にいるのは、猫と圭太。
その白い猫は、珍しげに圭太をしげしげを眺めた。
『ていうかさー、何で人間のアンタが猫と会話できるんだよっ』
「さあ、俺にもわからん」
圭太は嬉しそうに言った。
「最初は、まぁ、感情ぐらいならわかってきたんだけど、徐々にそれらしい情報がわかるようになったんだ。でも、やっぱり、動物にもよるけどね。人間の脳って30パーセントしか使われてないんだけど、俺ってほら、年寄りだから、たぶん、今は70パーセントは使ってんじゃない。俺の予測ではね」
『年寄り?う〜ん。よくわからん…』
理解に苦しんでいる猫に圭太はくすくすと笑って聞いた。
「まぁ、そんなにたいしたモンじゃねぇよっ。それより、アンタの名前は?」
猫は少し溜息混じりに名を名乗る。
『シロだよ。センスの欠片もない主人だろ。で、アンタの名前は?』
「とりあえず、圭太」
『とりあえず圭太?』
真っ白な猫は、小さな眉間にしわを寄せたが、不意にピクリと耳を立てたと思ったら、遠くへその大きな目を向けた。
圭太もその視線を追う。圭太には視線の先に人影しか見えなかったが、徐々にこちらに向かうその人物が見覚えのある人間だと気付いた。
「鈴木君?」
先にこちらの名を呼ぶその声は堀内杏子のモノである。
シロは取って付けたような猫撫で声を出しつつ杏子の足下に擦り寄る。
「堀内さんの猫だったんだ」
スーパーの袋を持ったまま、杏子は猫を抱き上げ、圭太を見つめる。
「私の、と言うより母が拾ったんだけど…。」
なぁ〜と甘い声で杏子の胸で鳴き、シロは大人しく抱かれた。
白く細い指が白い猫の毛をそっと撫でる。
圭太は杏子に何故今日、自分に声を掛けたか訊きたかったが、訊けなかった。
初めて目を合わせたとき、不意に襲った雨の幻聴。
圭太にはそれが何か分からない。
しかし、圭太の本能の片隅で、杏子に対し危険なモノを感じ取っていた。
これも、普通の人間は使わない脳の働きなのだろうか。
浮いてる、近寄り難い、元ヤンキー、援助交際。そんな噂ばかりの堀内杏子であるが、圭太が感じる警報はそんなモノではない。
杏子の瞳の奥を覗いてしまった瞬間。
圭太の中で、何かがぐにゃりと揺らいだ。
雨の風景だ。
初めて教室で話しかけられた時より、鮮明に雨が見え、雨音が脳内に充満した。
続いて襲う空腹感。
そして、眩暈。
顔を顰める圭太を杏子は不安げな顔をした。
圭太は、その真っ直ぐな瞳から目を反らし、慌てて笑って言った。
「堀内さん。センスないってさ」
「へ?」
「あ。うそ。何でもない。じゃあ、僕は急ぐから…。じゃあね」
杏子はモノ問いげな視線を投げたが、圭太は無視して足早にその場を去った。
深夜。
深い闇の世界の中の光の世界。ネオンがチカチカと行き交う人々を誘う。
「ありがとうございます」
圭太はニッコリと微笑み、分厚い化粧で飾った年増の女からの濃厚なキスを頬で受け止める。
「圭ちゃん。今日は楽しかったわ。また今度も指名するから」
お待ちしてますと、微笑し女を乗せた高級車を見送る。
「相変わらずモテモテやな」
後ろから声を掛けた関西人のバイト仲間にニッと笑って返した。
「喰う気はしないけどな」
それをどんな意味で取ったかどうかは知らないが関西弁の男はにやけた嗤いを浮かべていた。
圭太は男の反応をまるで無視し独り言のように呟く。
「愛は無添加無着色に限る。有機栽培であれば言う事なしだ」
「何言ってんねん。まぁ、確かにあのおばはん、添加物ごてごての着色料まみれって感じやったけどな」
木津は友人から誘われた久しぶりのクラブに少し飽きていた。
「あ〜。木津ぅ?久し振り〜」
壁にもたれ掛かっていた木津は、声が聞こえる方を向く。
ショートパンツの似合う美脚の少女の名を暫く考える。
思い出そうとするそばからガンガン鳴りまくるヒップホップに邪魔される。
「ユイか?」
ようやく思い出したのは中学の同級生だった。
ユイは木津が飲んでいたコロナを横取りしてガブガブと飲み出す。
「うまい!」
「…おまえなぁ」
虚しくライムのカスだけが残るビンを木津は眺めた。
ユイは気にせず聞いてくる。
「木津って北高だったよね」
「…だよ」
「鈴木圭太って知ってる?」
ピクリと木津の眉が動いた。
「こないださぁ、紹介して貰ったんだぁ。結構いい男だよね。気に入っちゃった」
「どこが?オレの方が全然いい男だと思うけど?」
「確かに木津の方がビジュアル的にはいいんだけどねぇ。でも、彼って、真面目だし、純粋な感じだし、かわいいんだ〜」
「お前、趣味変わったな」
「木津も変わったよね。何か丸くなった」
「オレは、もともと優しい男なの」
「よく言うよォ〜。年少行きにならなかったのが不思議なくらいなくせに。ニッポンの警察って本当に役に立たないよね。こんな危険人物を野放しにして…」
「おっ。かわいいじゃん。木津の友達?」
不意に二人の間に割ってきたのは木津をここに誘った悪友だった。彼等が木津を誘うときは、必ずナンパ目的だった。木津がいれば女は向こうから寄ってくる。杏子に会うまで、木津にはどの女も同じに見えた。でも、それなりに楽しんでいた。空々しい嘘を飾って、女の鼓膜を揺さぶるのは嫌いではなかった。嘘だと気付かない女は吐き気がするほど嫌いになれたが、それ以外の女は木津を楽しませてくれる。
しかし、それもこれも杏子に会うまでの話だ。杏子は決して木津を拒絶しない。
ただ、一線を引いた向こう側から杏子は気紛れに自分を見て微笑んでくれる。
あの、よく熟れた葡萄のような瞳で。
気紛れでも、自分を見てくれるようになるまで随分と時間をかけた。
杏子の視線の行方に気付いたのはいつだろうか。
自分が初めて手に入れたいと心から願った視線を当然のように得ているにもかかわらず、気付かない人間の存在をいつ知ったのだろうか。
鈴木圭太。
目立たない取り柄の欠片もないような人間。
少し顔がいいから多少モテるようだが、すぐ振られているのは、恐らくつまらない性格のせいだろう。
そんなつまらないと蔑む人間に激しい嫉妬心を抱く自分に木津は苛ついた。
「おい!木津ゥ。どこ行くんだよ!」
「悪ィ。帰るわ」
木津は友人に背を向けて手をヒラヒラと振った。
地下から地上に出ると冷たい風が木津の頬をなぶった。
ビルの片隅に駐車したバイクに乗る気にもなれずポケットから煙草を取りだした。
ジッポのガスが切れていることに気付き、煙草を口にしたまま歩き出した。
煙草が吸いたかった。とにかくコンビニなり自販なりでライターを手に入れなければ、このイライラを収めように出来なかった。
歩き慣れた街を歩き出そうとしたとき、視界に一人の男が入った。
ホストクラブの前で、明るいスーツをそれなりに着こなした童顔の男だ。
鈴木圭太だった。
「嘘だろ…」
木津はホスト姿の鈴木圭太をしばらく茫然と見やった。
彼はかなり年増の女相手に、教室で見せるのと同じ笑顔を振りまいている。
お酒と圭太に上機嫌な年増は圭太のスーツのポケットに数枚の福沢諭吉を押し込め去っていった。
女を見送り、店に戻ろうとした圭太の視線が自分にあった。その時、木津はジッと圭太を見ていたことに初めて気付いたのだった。
「高校生がこんな所で働いていいのかよ」
暫く木津を見ていた圭太が、さっきと同じ笑顔を見せ言った。
「…あの、どちら様でしたか?」
血が逆流したのではと思えるほど顔がカァーとなった。
鈴木圭太は自分を知らない。当然と言えば当然だった。自分達は一度も同じクラスになったことなどないし、面識もなかった。木津はそれなりに目立った存在だったが、酷く自分が自意識過剰な人間に思えた。何も言えないまま恥ずかしさに目を反らした。
「あ。もしかして、堀内さんのカレシ?」
圭太は笑顔のまま聞いてきた。
「そう言えば、いつも堀内さんを迎えに来てたね。ゴメン。気付かなくて…」
ちょっと気まずそうに圭太は謝った。
木津は目を反らしたまま、同じ台詞を言った。
「イイのかよ。こんな所でバイトして…。見つかったら停学、下手したら退学だぞ」
「それは困るな…」
また、圭太は笑った。
「その為にこんな所でバイトしているのに、このせいで学校やめさせられたらバカみたいだ」
圭太は自分を見ない木津を覗き込んだ。
「もうあがるから、ちょっと待ってて、その後で話をしよう」
「え?ちょっと待て…」
圭太は木津を残したまま店に入っていった。
圭太は何のつもりで自分と話をしようとしているのか。少し考えてバカらしくなった。
口止めだろう。金でも脅し取られたと思ったか。
そんなつもりで声を掛けたつもりではなかったが、そう取られてもおかしくはない。
帰ろうかと思ったが、興味もあった。ホストと鈴木圭太。全く結びつきそうにもないのに、妙に似合っていた。堂に入っている。
「ゴメン。待った?」
圭太はこれから脅されるといった恐怖感やおどおどした態度とは無縁だった。
本当に友達を待たして謝っている少年だった。
「いや。別に…」
木津は三本目の煙草をアスファルトに投げつけ踏みつけた。
「まだ、バイト続ける気か?」
歩き出した圭太に促されるように木津は歩き出す。
随分、無言のまま歩いた。人気の少ない川沿いの公園に来ていた。
「あの…、すごく悪いんだけど…」
圭太が言いにくそうに目を川に向けたまま口を開いた。
木津は金を脅し取るつもりでここまで来たつもりはなかった。
「勘違いするなよ。別に鈴木のことを学校にチクろうなんて思ってない」
「あっ、そっか。うん。そうだよね。うん。ありがとう」
間の抜けた答えをして圭太は木津を見返してきた。
そして、困ったように頭を掻いた。
「あの、名前なんていうのかな?」
「…」
木津は深い深い溜息を吐いた。
「ゴメン。悪気はないんだけど…。って自分で言ったら変か」
と、やっぱり圭太は笑った。
「木津だよ。なぁ、さっき自分で学費稼いでるようなこと言ってたよな。そこまでして高校いきたいのか」
「まぁね」
「大学行きたいとか?」
「大学へは行かない」
「あそこは進学校だぞ。就職するなら…」
「金八先生だよ。アレに憧れて。いいよな。なんか、あれって」
木津は改めて圭太は見た。
理解しがたい存在になったような感覚に襲われていた。
学園ドラマに憧れて?
木津も見たことはあるが、今時それが理由で、ホストまでして高校生になろうとしたのか?
そこまで考えて木津は考えるのをやめた。
「鈴木。お前、杏子には以前会ったことがあるのか」
「堀内さん?いや、同じクラスになるまで知らなかったけど、そう言えば、この間、初めて声を掛けられた…」
「なんて?」
「鈴木君って真面目なのねって。いきなり…」
「それが、初めて?」
「そうだよ。なんで?」
不思議そうな圭太の目で返され木津は戸惑った。
杏子はお前をこの一年ずっと見ていた。とは絶対言いたくないし、そんな事に拘る自分もいやだった。
「別に…。悪かったな。仕事中に声掛けて…。ところで、もしさ、俺がお前を脅したらどうした?ホストネタで金とか脅し取ったら」
「払える額なら、払ってた」
「払えない額だったら?」
自分でも鋭い目つきをしていると思いながら木津は圭太を見返していた。
「そうだなぁ…」
圭太は川の流れをぼんやり見つめてから、振り返ってポツリと言った。
「殺しちゃおっかな」
圭太はこちらを見て笑って、そして、決まり悪そうに言った。
「嘘だよ…。そんなにビビるなよ。冗談に決まっているだろう」
「え?」
慌てて自分を覗き込む圭太を見下ろし、木津は自分が余程怖がった顔をしていたのかと、暫し呆然とした。
確かに圭太は笑って軽く言っただけなのに…。
目だ。
大きくも小さくもないその目が木津を震え上がらせた。
だが、圭太の目が他人と、いつもと、どう違ったかと聞かれても木津には答えることなど出来なかったろう。
「木津は誰にも言わない。そうだろ?」
余裕で笑う圭太に木津は無様に目を反らせたままだった。
「言わねぇよ。だから…」
杏子には近付くな…、とも言えず木津は口を噤んだ。
圭太は特に杏子に興味を持っている様子などなかった。なのに、それを言ってしまえばますます自分が惨めになる。
ポケットから圭太を待っている間に買った百円ライターを取りだし、煙草に手を伸ばす。最後の一本を摘んで、クシャリと空箱を握り潰した。
「絶対、言わねぇよ」
それだけ言って、圭太に背を向け歩き出した。煙草の煙はゆらゆらと流れた。
圭太は木津の背を眺めていた。
『よっ。また会ったな』
圭太は白い猫を見下ろした。
「夜歩きか?御主人が心配するぞ」
『オレは半ノラだからな。理解あるんだよ。ウチの主人は』
「有閑マダムみたいな事言うなよ」
圭太はベンチに座る。
『何だよ。元気ねぇな』
「オレはお前と違ってナイーブなの。あ〜あ、疲れたな〜。やっぱ、無理だったのかなぁ〜」
『おい。おい。リストラされたオヤジみたいな事言うなよ』
「…そんなもんだな。何か、肩叩かれた気分だぜ。はぁ〜。結構大変だったんだぜ。高校に入学すんの。書類揃えたり、ありはしない戸籍整えたりさァ」
『んな事、超能力とかでパパパーとやっちまえばいいだろ』
「百パーセント脳みそ使ったら出来るのかなぁ?とりあえず、練習してみよっかなぁ」
冗談なのか本気なのか圭太はぼやいた。
「シロは頭がいいよな。人間に飼われた事のある動物はある程度理解できるが…。お前は面白いよ」
『お前みたいな人間って他にもいるのか?動物と会話出来るような』
「さあね。まぁ、これはオレの特技。ちなみに、趣味はテレビ鑑賞。最近のマイブームは高校生」
シロは不思議な少年を見上げた。
「そして、シロはオレの初めての親友」
圭太は四畳半の冷たい部屋に帰った。
殺風景な部屋には小さな折り畳みテーブルとテレビがある。
テレビのスイッチを付けると賑やかな光が溢れる。
ぼんやりと深夜のテレビショッピングを眺める。
部屋の隅に積み重ねられた教科書に目を反らし、あぁ、宿題をしなければ、とその義務を愛しげに考えた。
杏子には、雨とともにある記憶があった。
昔、住んでいた六畳一間の部屋に一人残された記憶。
父だけでなく、義理の母にまで捨てられた記憶。
激しい雨が古いアパートを叩き付ける。
それは、在る筈のない記憶。
そして、不安が杏子を絡め取る。
「ナイッシュー!」
奥に閉じこめた記憶をなぞっていた杏子は、遠くから響いた声に現実へと引き戻された。
校庭でシュートを決めた圭太が友人達にガッツポーズを見せる。
昼休み。
圭太たちはサッカーを楽しんでいた。
屋上のフェンス越しに杏子は圭太達を見下ろしていた。
隣でカレーパンを頬張っていた木津はチラリと横目で杏子を見遣って、空を見上げる。
今にも落ちてきそうな重い雲がたち込めている。
「降るな…」
木津が呟いた時、不意に杏子が口を付いた。
「雨は嫌い。嫌な事を思い出す。」
木津のカレーパンが口元で止まった。
「今の母が、唯一私を裏切ったのも雨の日だった。私を残し出て行った」
「初耳だな…」
生暖かい風が杏子の髪を巻き上げた。
木津は不意に頬に冷たいモノを感じ手で頬を押さえる。
雨だ。
「出て行った母を雨の中必死で追いかけた。でも、それ、全部夢だった」
視線にボールと戯れる圭太を捉えた。
「夢の話か」
「そう、悪い夢…」
木津は、夢の話を気に留めなかった。
杏子の母は、今でも杏子のそばにいる。
「杏子。今日三者面談だろ?」
「…うん」
「杏子は進学希望だよな」
「そう。お母さんの希望だからね」
杏子は早く就職して、少しでも母親を楽にさせたかったが、もともと成績のよかった杏子を大学まで行かせたいと母親が言い張ったのだ。
「木津は?今の成績で入れるの?」
「うっ…」
わざと傷ついた顔をして見せ、溜息混じりに言った。
「まぁ、三年になったら勉強でもするかな?そんで、杏子と同じ大学に入ろっと」
「何バカ言ってるのよ。アンタ医者になるんでしょ」
「親がそう言ってるだけだよ。オレは別に興味ないし」
木津の家は、父親が検事。母親が医者。さらに長男が弁護士であり、現在、大学生の次男も司法試験に向けて勉強している。そんな、エリートの家庭に育っている。三男だけでも医者になってもらいたいというのは、特に母親の強い希望でもあった。しかし、木津はそれに反抗するように中学時代は荒れていた。
「雨、酷くなってきたね」
杏子は空を見上げ、立ち上がった。
それに釣られるように木津は立ち上がり、もう一度圭太を見下ろした。
雨に仕方なく校内に戻るクラスメートに混じり圭太が走っていた。
木津は、カレーパンが入っていた空袋をぎゅっと握りしめ、ゴミ箱に投げ入れた。
「圭太。お前、ユイちゃんとはどうなったんだ?」
放課後、圭太と同じ帰宅部である岸が、圭太の机にバッグを乗せ聞いてきた。
「聞きたい?」
ニッと笑った圭太に岸が顔を近付ける。
「アレから何かあったのかよ」
「今度の日曜日にデート」
「チキショー。なんでいっつも圭太なんだ〜」
「人徳。人徳」
「お前に徳なんかあるか。バーゲンってなら分かるけどね。お得ってやつ?」
「安っぽくて悪かったな」
そんな会話をしながら二人は帰ろうと歩き出した。
圭太が、下駄箱からスニーカーを取り出そうとした時、
「あっ。先生」
下駄箱の向こうから声が聞こえた。
この声は…
スニーカーを掴んだまま圭太は動けなくなった。
耳が昔確かに知っている声を捕らえた。
あれは、何年前だ?
十年前…
「えっと…。…です。…は、…ですか?」
この声…
「あぁ、その教室は、階段を上がって…」
「…ですか。ありがとうございます」
こめかみがジンジンと痛み出した。
目の前にあるはずのないネオンがチカチカと光り出す。
四角く並んだ下駄箱がグニャリと歪む。
酸素が欲しいと思った。水が欲しいと思った。
「圭太?おいっ」
岸の顔が慌てている。
膝が床に付く瞬間、圭太は、岸の腕を捕まえ、低く呟いた。
「…腹減った」
「お前な〜。ビックリするだろ!」
圭太はようやく立ち上がった。
岸はまだ少し心配そうな顔を隠せないでいる。
「大丈夫だよ。ほら、オレってば、ナイーブだろ?」
「本当だよ。学校で餓死するヤツなんか圭太ぐらいだな。大食いなんだよ。その内胃拡張で死ぬぞ」
「ご忠告アリガトウ」
圭太は笑って歩き出す。
岸も溜息を吐いて歩き出した。
岸と橋の上で別れ圭太は携帯電話のナンバーを捜し始めた。
公園のベンチに座り込み必死に捜す。
見つけたのは、
《ユイ》
圭太は迷う事なく電話を掛ける。
鈍色の空を眺め、ユイが電話に出るのを待ち続けた。
速く。速く。
下駄箱の向こうから聞えたあの声は圭太の中枢神経を間違いなく刺激した。
プルルルル…
『もしもし?』
ユイの声だ。
「ユイちゃん?オレ、圭太」
『どうしたの?…日曜日のこと?』
甘い声だった。常に何らかの刺激を欲しがっている想像力豊かな少女だ。
「今すぐ会いたいんだ。ダメ?」
もっと、もっと愛して。
もっと、もっと、欲しがって。
「ユイ」
『どうしたの?』
少女の声に熱が篭った。
「会いたい」
鼓膜の奥から雨の音が聞こえる…
切ないほど、その愛が食べたい…
喉が渇く…
永遠と続く飢え。
何十何万何千何百何十何日目の喰欲。
後頭部に鈍痛が走り、木津は生臭い匂いを鼻孔一杯に吸い込んだ。
血の臭いだ。
知らないヤツに殴られた。
「…おい。木津。大丈夫か」
友達だと思っていたヤツが今更ながらに近付いてきた。
体中がギシギシと痛んでいる。
目の前の男がオロオロしながら木津の腕を取ろうとした。
「っ痛〜」
取られた腕があまりにも痛んだから、その手を振り払った。
「木津。お前変だぞ。急に知らないヤツにケンカふっかけるなんて…」
自分から仕掛けたかどうかも定かではないケンカだった。
でも、コイツがそう言うなら自分が悪いんだろうと痛んだ頭で考えた。
立ち上がるとネオンがチカチカ回った。
心配顔の友人もネオンと一緒にグルグル回る。
「お前。ヤバイよ。…クサは止めたんだろ?」
クサ?大麻のことか?あんなモンは随分ご無沙汰だ。
じゃあ、何が自分を狂わしている?
「おい…」
ネオンの中に友人が埋まって、消えた。
歩き出した自分が彼から去ったのか、彼が自分から去って行ったのかも分からなかった。
人が自分を振り返る。目を反らし過ぎていく。
酔っぱらったサラリーマン。煩いだけの大学生達。足の太い女子校生。ネオンの中に現れては消える。
ドサッと肩に何かがぶつかった。
足下がふらついてアスファルトに転がった。
「すいませんっ」
見覚えのある女が慌てた顔で覗き込んでいる。
「ユイ?」
「木津?」
一瞬、木津の顔を驚いた風に見たが、すぐにその場を去ろうとした。
「ゴメン。急いでるの」
走り去ろうとしたユイの腕を木津は掴んでいた。
「鈴木圭太とは別れろ」
ユイは目を見開き、怒鳴った。
「アンタには関係ないでしょ!」
「本気なのか?アイツは止めろ」
「関係ないって言ってるでしょう!それどころじゃないの!彼が会いたいって…。行かなくちゃ…。彼のところへ…」
自分の手を振り解こうとしたユイの腕をさらに木津は強く掴んだ。
しかし、さらに強い力で振り解かれた。
「彼が好きなのよ!放っといてよ」
そして、ユイもネオンに吸い込まれていった。
木津はぼんやりとその消える様を見ていた。喉から渇いた嗤いが漏れた。
鈴木圭太とは別れろ?
何故、そう言ったのか理解できなかった。ユイは自分を危険人物だと笑った。
だが、危険なのは鈴木圭太の方だ。何がも何故もない。アイツはダメだ。
あいつの目は全てを吸い尽くす。
アレは、底のない湖の目だ。
「圭太君!」
先週、出会ったばかりの女が近づいてくる。
ユイという名の女。
圭太には名前などどうでもいい事だ。
「どうしたの?圭太君。何があったの?」
心配そうな瞳で圭太を見上げる。
その瞳に宿る熱し始めた愛を確認する。
何も言わず、グイッとユイの頬を両手に挟みこんだ。
「圭…」
キスした。
吸血鬼が血を舐め生き長らえるように圭太は愛を喰らい生きてきた。
ひたすら甘い愛、苦みの利いた愛、毒を含んだ愛。呑み込んでしまえばそこに、もはや愛はない。
そんなモノは一瞬である。放っておけばやがて腐敗していく。ならばその前に一番美味なる頃合いを見計らい食い尽くしてしまえばいい。
『じゃあ、彼方の想いはどうなるの?可哀相な人』
昔、秘密を知った中国人娼婦が淋しい瞳を向けた。
『彼方は永遠に愛する人に愛される事もなく彷徨い続けるのね。その瞳に獲物が掛かるのを待ち何度となく虚しい食事を続けるのね』
その女の愛は、酷く塩辛い悲しい味だった。
満たされた空腹感の後に残るモノは唯虚しい満腹感。
それでもこの苦痛に満ちた空腹を満たさずにはいられない。
一つ所に落ち着くも叶わず喰う為だけに、この地上を這い回る。
これは、罰。
求めれば求める程、相手の全てを食い尽くす。
自分を愛した記憶だけでなく存在した記憶も、時には相手の精神すら破壊しかねない。
今は、少しずつ仄かな愛を啜り空腹を紛らわす。
グラグラする頭を抱え、木津はポケットを弄る。タバコだ。タバコが欲しい。
しかし、取り出したのは、携帯だった。
無意識だった。無意識ににそのメモリを見ている。
《杏子》
思考力を失ったまま、かけていた。
『もしもし?木津?何?』
耳から流れてくる、愛しい声。相変わらずの素っ気無さに笑いが漏れてくる。
「なぁ。杏子。教えてくれよ」
『はぁ?何を?』
「だからさぁ、鈴木圭太だよ。何なんだよ。アイツは。何でだよ」
『どうしたの?急に?』
「俺、知ってんだよ。ずっ〜〜〜と、杏子がアイツを見ていた事をサ」
『…木津が考えているような事じゃないの』
「俺が考えてる事って?」
『…変だよ。木津』
「教えろよ」
『…お昼に少し話したよね。悪い夢の話』
「夢?」
『そう、義母に捨てられる夢。アレは…』
アレは、小学校に上がって間もない頃。
父に捨てられ、それでも義理の母と平穏な生活を送っていた。
でも、その日は、古びたアパートの屋根を叩き付けるように激しい雨が降っていた。
そして、残された自分。
母のいない六畳間。
耳に木霊する母の言葉。
…ゴメンね。杏子。
何の事だろう?何も分からないまま、杏子はテーブルに残された自分の大好物を、眺め続けた。
オムライスの黄色にケチャップの赤がよく生えていた。
持っていたスプーンが自分を逆さまに写し出す。
ゴメンね?
カタンとさらにスプーンを投げ出し、母が今さっき出て行ったドアを開け放っていた。
捨てられる。捨てられる。捨てられる。
幼い杏子は無我夢中で走っていた。雨が激しく行く手を阻む。
捨てないで。捨てないで。イイ子にするから。捨てないで。
どのくらい走っただろうか。
杏子はネオンが派手に光る街に来ていた。
雨にぼやけて見えるネオンがとても綺麗に見えた。
黄色とか赤とか青とか紫。
派手に着飾った女の人達が不思議そうに杏子を振り返る。
体を打ち続ける雨は痛くて、体に浸みる雨は冷たかった。
目に浸みる雨は、それが雨なのか涙なのかも杏子には解らない。
グルグルと光が回り始める。
体中の体温が上昇し始める。熱いのか冷たいのか分からないまま彷徨った。
そして、杏子はいつか父と母とで見た懐かしい湖を見つけてしまった。
深い湖を宿した瞳を持つ男。
湖の深淵から母を見つめる瞳。
深い深い闇を深い深い底に沈めた悲しい湖を。
湖はやっぱり悲しくて淋しくて。
お母さんを連れて行くんだ…。
熱に浮かされた杏子はぼんやりと考えた。
義母の瞳は、あの時と同じ目をしていた。
…綺麗ね。
と言ったときと同じ目だ。
引力には逆らうことは出来ない。
義母は少し悲しい瞳で、その若い男と一緒に微笑んでいた。
男もまた少し悲しそうな瞳で笑っている。
義母の手にあるのはボストンバッグ。
その日、ネオンの洪水に杏子は溺れた。
『…私はそのまま気を失って、気付いたら家の中で母が看病してくれていたわ。恐る恐る、出て行かないの?って訊いたら笑って怖い夢でも見たのねって言ってた。私も母の裏切りを夢だと思って、忘れかけてた。彼を見るまでは…』
「鈴木圭太がその男に似ているって事?」
笑うしかなかった。
昔、最愛の母を連れて行こうとした男に似ていた。
それも、夢の話。
それだけの事だった。
『ちょっと、木津。どうしたの?大丈夫』
「ごめん。ちょっとしたヤキモチ。ほら。オレってば、愛しちゃってるから」
『何言ってんのよ。切るからね』
ツーツーツー
「本当に切ったよ…」
切られた携帯電話を見ながら、また、笑った。バカバカしい。
「なぁ〜にが、危険な男だよ」
自分の勘も鈍っている。不意に頬に冷たい感覚が触る。
「雨か…」
静かに雨が降り出した。
雨の中、一人の女が濡れるのを厭わずにぼんやりと歩いていた。
「ユイ?」
熱に浮かれたように一人の男を求めて走っていった女だ。
「木津?何してんの?びしょ濡れじゃない」
「何って…。お前こそ、どうしたんだよ」
初めて雨に気付いたようにユイは自分を抱きしめた。
「うわ。寒っ」
「フラれたのか?」
鈴木圭太に会う為に、ほんの少し前に走って行った。
しかし、ユイはキョトンとした目で木津を見た。
「はぁ?私が?誰に?」
「誰って。鈴木圭太だよ」
「誰よ。そのスズキケイタって?」
「お前、さっき、その鈴木に会う為に走っていっただろ?」
「何言ってんの?木津。訳わかんない」
「訳わかんないのは、お前だよ。だったら、なんで、ここにいるんだよ」
「何でって…あれ?私、なんでここにいるんだろ?」
自分の腕を寒そうに摩りながら、ユイはぼんやりと首を傾げる。
足らない。
ユイが消えた街を圭太はうろついた。
ユイの中の自分の記憶まで喰い尽くしたのに、満たされない。
十年前に恋してしまった、喰らってしまった愛を忘れたかった。
あの声…、学校でほんの少しだけ聞こえたあの声は、思い出させた。
あの激しい飢えを。
愛は飢えに比例する。
自分が愛すれば愛するほど飢える。
自分が愛した女の愛ほど飢えが満たされる。
「チクショウ。腹減った」
携帯のメモリで圭太は女を物色し始めた。
徐々に雨は激しさを増し、圭太を濡らしていく。
鼓膜を振るわす激しい雨音は、十年前の記憶を揺さぶる。
十年前も雨の日だった。
『大丈夫?』
空腹に膝を抱え座り込んだ圭太に声を掛けたのは、笑顔の優しい女性だった。
その綺麗などこか懐かしい瞳に引き込まれたのは間違いなく圭太の方が先だった。
圭太は過去の雨音に引きずられ、現実から溺れるように記憶を遡った。
雨音が次第に薄れ、女の言葉が記憶の中で蘇る。
『圭太の瞳は、夜の湖ね』
圭太を見つめる甘い視線は、会う毎に熱くなる。
空腹感に苦しみながらも、何故か彼女の愛を喰らう事を躊躇った。
中国で出会った女の言葉が圭太を嘲笑う。
しかし、あの激しい雨の日、圭太の想いは小さな黒い瞳に貫かれた。
そして、雨の中、唇に感じた味…。
小さな黒い瞳…
思い出したのだ。彼女に子供がいたことを、彼女が子供を愛している事を。
だから、別れる為に愛を喰らった。
あの時、本当は、そうしたくなかった。ずっと、愛されていたかったから。
圭太にとって、愛は育む種類のモノではない。空腹を満たすモノだ。
貫かれた心が圭太にそう囁く。
身勝手な愛だ。でも、それでも、愛してしまう。繰り返し、繰り返し。それは、圭太にとっては、ミスだ。単なる誤りだ。
携帯を閉じた。
そして、歯止めが利かずに自らの記憶までも喰い尽くしたユイの事を考えた。
早まってしまったかもしれない。
辻褄が合わなくなるだろう。
彼女を紹介してくれた松原の友人は不審に思うに違いない。
高校三年間、何とか無事に過ごそうと細心の注意を払ってきたが、そろそろ限界がきている。
成るようにしか成らないだろう。
昼休み。
購買でパンを買い、教室に戻ってくると、圭太は松原に手招きされた。
「圭太。お前、ユイちゃんの事、フったんだって?」
「な〜に〜?」
丁度戻ってきた岸が会話に加わり、圭太の前の椅子に腰を下ろした。
「ユイちゃんがフったんでなくて。圭太からフったのか?」
松原が頷く。
「青木が言ってた」
ユイを紹介した松原の女友達だ。何気なく圭太は聞いた。
「どんな風に言ってた?」
「青木が言うには、鈴木圭太なんか知らないってユイちゃんが言ってるんだってさ。ユイちゃんって、ほら、可愛いだろ?男にフラれることなんて滅多にないんだってさ。だから、相当プライドが傷ついたんじゃないのかって」
なるほど。
圭太は思いがけない考え方に妙に感心した。
そんな風に捉えることも可能なのか。岸は納得できないように話に割ってくる。
「本当なのか?圭太。お前がユイちゃんをフったのか?」
「うん。まぁね」
「なんでだよ。超可愛いじゃん」
「話してみたら、イメージしたのと違ってたんだよ」
話を合わせた。
圭太は今更ながら心の中で笑った。
人とはそんなもんだ。非科学的な事が起こっても、何とか理屈をつけて解決してくれるのだ。
圭太にとっては有難い事だった。
誰も自分の存在など納得できない。
それでいいのだ。
いつものように杏子と昼食を共にするべく圭太のクラスに来ていた木津は、廊下でその会話を聞いた。
バカな…
ユイのあの顔は、フラれた女の顔ではなかった。
振られた相手を忘れた振りをしていた顔ではなく、本当に存在自体を忘れた顔をしていた。
間違いなく記憶喪失だ。
それも、一人の男だけを綺麗に忘れていた。
だが、そんなことはありえない。
だとしたら、本当にあの夜、ユイは鈴木にフラれたのか?
「どうしたの?木津」
廊下で黙り込んでいる木津に杏子が近づいた。
「いや。なんでもない…」
この夜ばかりは、音楽が煩わしかった。
木津は、先日ユイと会ったクラブにいた。
ユイを探していたのだ。
友人を見つけて耳元で大声で言った。
「ユイ。見なかったか?」
どうしても、鈴木圭太の事が気になった。あの夜何があったのか。
「ユイってどのユイだよ」
苗字など覚えていない。
「脚が細い女で、まぁまぁかわいいヤツだよ」
「そんなヤツ、一杯いるし。いちいち覚えてねぇよ」
どいつもこいつも同じ答えだ。昔は楽しめたはずの音楽が脳みそをガンガン叩き、木津は店を出た。
暫く夜の街をふらつき、暗く狭い路地に入ったときだった。
突然、視界がスパークした。
木津は地面に倒れこんだ。
後ろから頭部を固い棒で殴られたのだ。
「よっ。こないだはドーモォー」
殴られた頭に手をやりながら、顔を上げた。
五人、いや六人いる。自分と年齢の変わらない奴らが取り囲んでいた。
「こないだぁ?覚えてねぇよ。てめぇらなんか」
本当に覚えてなかった。
目の前にいた男が木津の胸倉を掴み、ニヤニヤ笑いながら、拳で木津の顔面を殴りつける。
口の中を切った。鉄の臭いが口内に溢れた。
「あ〜あ。そうかよ。こないだ、オレの連れを二人も病院送りにしてくれて覚えてくれてないんだ〜」
その時、何となく思い出した。
杏子に会ってから、喧嘩など滅多にした事はなかったが、つい最近、鈴木圭太の事でむしゃくしゃして誰かにケンカを吹っ掛けたような気がした。
尤も相手の顔など覚えてないが。
右から鉄パイプが振り下ろされた。木津はそれを右手で掴むと、そのまま相手を薙ぎ払う。
目の前にいた男に掴みかかり、力任せに顔を殴ると、後ろから羽交い絞めにされた。
口から流れた血を手の甲で拭いた男が眼光を鋭くし、動けない木津を殴る。
武器を持った六人では所詮勝負が見えていた。
顔面から腹部にかけて、六人がかりで殴られ放題になった。
「痛っ〜〜」
グラグラ視界が揺れる。ネオンがチカチカ輝く。
死ぬかも。
他人事のように木津は考えていた。
突然、目の前の男が横に吹き飛んだ。
「誰だ!」
他の男が叫んだ時、ユラユラ揺れている視界に、鈴木圭太が鉄パイプなんか持って立っていた。
パチ。パチ。
「痛ぇ〜〜」
凄まじく痛い頬を、軽く叩かれ、木津は大声をあげた。
目の前に、鈴木圭太の顔がある。
そして、涼しそうな顔で聞いてきた。
「救急車呼ぶ?」
気を失っていたことに今更気づく。
「冗談」
一言言い放つと起き上がり、公園を見渡した。
ベンチにはカップル。隅には浮浪者。奴らはいない。
「あいつ等は?」
「逃げた」
そう言って、圭太は微笑んだ。
学校の友人にも、客のオバサンにも見せる同じ笑顔で。
どこにも殴られた跡はない。
「これで、貸しはなしだ。バイトのこと、秘密にしてくれたから。それから、コレはサービス」
そう言って、小さなペットボトルの水を差し出した。
飲むと傷が痛んで、すぐに吐き出した。
「ケンカ強いんだな…」
木津はそんなことではもう驚かなかった。
それも在りえる。どこかで納得してしまえる自分がいた。
「別に…。病院送りにはしてない。後が面倒だから」
そんなことをさらりと言ってのけられる高校生は、そうはいない。
「…ユイって知ってるよな」
木津がその名を出したとき、圭太の顔から笑みが消えた。
けれども、すぐに、いつもの笑顔に戻る。
「知ってるの?彼女の事」
「昔の遊び仲間だった。ユイをフったのか?」
松原と同じ質問。
圭太は木津の目を覗き込んだ。
木津は目を逸らした。
圭太の目が苦手だった。
いつも顔は微笑んで優しそうなのに、目が笑っていない。
ようやく、木津はそれに気がついた。だから、恐いんだ。木津には圭太が恐かった。
「似てる…」
質問には答えず、圭太は呟いた。
圭太は、地面にその鋭い視線を落とした。
その横顔に微笑みが僅かに浮かぶ。
懐かしそうな優しい微笑みだ。
いつもと一緒なような、違うような微笑みだった。
恐怖が徐々に和らいでいくのを木津は感じた。
「誰に似てるって?」
「昔の友達。よくつるんでた。すっげぇ。悪いヤツでさ。みんなから恐がられていた。でも、ソイツが言うんだ。オレが恐いって」
圭太にとっては、遠い遠い昔の話だ。
もう、顔も覚えていないのに、何故か木津を見ていると、その男を思い出した。
「オレは別にお前の事恐いなんて思ってないけど」
自信なさ気に木津は言い返した。
「なら、いいけど」
何もかも見透かされているような錯覚に木津は襲われる。
再び静かに、雨が降り出す。
「雨か…」
「梅雨だからな」
何気ない会話をやり取りし、圭太は公園を去っていった。
そして、翌日、いつもの日常に戻る。
ひしひしと感じる日常の破綻。嘘の破綻。それでも、圭太は高校生活を送りつづける。
「彼女欲しい〜」
放課後、圭太が呟いた一言に岸は、その頭をどついた。
「ユイちゃんをフっておきながら何てこと言うんだ」
友人の言葉も、徐々に遠い幻に聞える。
「今度、ナンパでも行くか?」
三人でつるんで、ナンパ目的でよく出歩いていた。
そんな時は、女よりも、ただ、友達との何気ない会話を楽しんでいたような気がする。
ささやかな日常の一コマを紡ぐように、平和で幸福な高校生を演じていた。
終焉の幕がいずれ引かれるだろう。
そう遠くない未来の日常のどこかで。
そして、その日も、雨が降っていた。
学食の窓に叩き付ける雨が酷く煩い。
木津は目の前の杏子を見ながら、鈴木圭太の事を考える。
杏子を思うとき、陰のように鈴木圭太の存在が付きまとう。
「木津。今日、三者面談だったよね。母親が来るの?」
「急患が入らない限りね」
「息子の面接よりも、仕事を取るの?木津の母親って」
面白そうに杏子は笑った。つられて木津も笑う。
「まぁね。三者面談は明日でもいいが、患者は明日には出来ないって。そんな母親です」
おどけた調子で木津は言った。
「ふ〜ぅん。何か結構尊敬しちゃうな。私のお母さんは、いつも私の事優先してくれるの」
そして、窓に叩く雨を見ながら、付け加える。
「あの雨の夜以外は…」
木津は、すぐにその意味を悟る。
あの雨の夜とは、杏子にとっては単なる夢の夜。母親が杏子を捨て、若い男に走った夜。雨の夜。
「夢だったんだろう?」
黙って杏子は頷く。
杏子はその夢の後にさらに何度も夢の続きを見続けた。
寂しくて悲しくて切ない夢に何度も杏子はうなされた。
底なしの湖に溺れた母を追い、自らも足をすくわれ、落ちていく夢を。
確かに夢だった。夢として杏子の中に存在していたはずだった。
高校に入学するまで、鈴木圭太に出会うまでは。
夢の中でしか会った事のない男、深い深い湖を沈めた瞳を、現実のモノとして見るまでは。
「…杏子。その夢が、仮に現実だとして、杏子の母親が、嘘をついているとしても、それが…」
「鈴木圭太じゃない事はわかってるよ。私もそんなバカじゃないよ。その時、六歳の男が母をさらうわけないし」
わかっている。わかっているのに、気付いたら、彼の姿を追ってしまう。
気付いたら、その視線を追ってしまう。
顔なんて覚えてない。
ただ、その瞳を覚えているだけ。
放課後、木津は教室の窓から傘を差して帰っていく杏子を見送り、母親を待っていた。
人を好きになるきっかけなんて、他愛の無い事だ。
杏子に惹かれたのもありふれた事だった。入学試験のとき消しゴムを忘れた木津に自分の消しゴムを半分に割ってくれたのだ。何も言わず、無表情に。
県下でも有数の名門と言われる高校だけに入学試験はピリピリしていた。
そんな中で、木津は浮いていた。内申書は恐らく酷いだろうし、高校に行っても行かなくてもどうでもよかった。
大きな葡萄のように熟れた瞳で杏子が消しゴムを木津に手渡す瞬間までは。
もう一度会いたい。
真面目に答案用紙に書き込み、合格した時は嬉しかった。
杏子が鈴木圭太に視線を送るのは、夢のせいではなく、いや、夢のせいで、鈴木に惹かれているのではないか。
「木津君」
若い女性の担任が木津に呼びかけた。
「今、お母様から学校にお電話が入って、三者面談を延ばして欲しいって。急患が入ったらしいわ」
雨は風を伴い激しさを増した。
「本当に、ありがとうございます。」
老女は深々と圭太に礼をし、ビニール傘を差し雨の中を歩いて行った。
愛想笑いを浮かべた圭太は、老女が見えなくなった所で大きく息を吐く。
家、近いから大丈夫ですよ、と言ってバスから降りてきた老女に、傘を差しだしてしまったが、雨が酷すぎる。
確かに圭太のアパートは走れば10分もしない。
しかし、この雨の中走る気にはなれず、バス停横、閉店した商店のシャッターに、圭太は背をあずけ、膝を抱えた。
風向きのおかげで、雨宿りのスペースにはそれ程雨が吹き込まない。
鼓膜を振るわす激しい雨音は、十年前の記憶を揺さぶる。
『大丈夫?』
十年前、空腹に膝を抱え座り込んだ圭太に声を掛けたのは、笑顔の優しい女性だった。
どこか懐かしいその笑顔は、戦時中に恋した笑顔に似ていた。
だから、付いて行ってしまったのかもしれない。
その面影に圭太は、普段は決してしないプライベートな詮索をしてしまった。
名前は?出身地は?両親はどんな人?
そして、彼女に血の繋がらない子供がいることを知った。
それでも、彼女を求める事が止められなかった。
「大丈夫?」
その声と共に、雨音が圭太の鼓膜を激しく揺さぶった。
唐突に現実に引き戻されたのだ。
見上げると堀内杏子が傘を差し圭太を覗き込んでいる。
「顔色悪いけど…。もしかして傘持ってないの?私の家すぐそこだから寄ってく?」
無表情で名の知れた堀内杏子の顔は圭太を気遣う心配に満ちた顔だ。
本来彼女はこんな表情が出来る女で、唯感情を表に現すのが下手なだけかもしれない。
圭太は思わずジッと彼女の黒い瞳を見つめた。
初めて教室で声を掛けられた時に響いた雨音が、現実に耳元で響く雨音と重なった。
自分はどこかでこの黒い瞳を見た?
杏子は見つめられ少し困ったような表情を見せた。
「私の家、ここから歩いて2、3分なの。そろそろ母が帰ってくる頃だけど」
行ってはいけない。圭太の本能が圭太に忠告し始める。しかし、
「ありがとう。行かせて貰うよ」
十年前と同じ返事をしてしまった。
「助かったよ。思ったより、雨が酷くなって…」
何故彼女が危険なのだ。
圭太は己の本能に問いかけるが返ってくる答えは在る筈もない。
圭太が微笑みながら立ち上がると、杏子はホッとしたように傘を差しだした。
「まだ、母さん帰ってないみたい。」
杏子は電気の消えている窓に視線を遣り鍵を回す。
居間に圭太を案内し、タオルを圭太に差し出した。
「母さん、病み上がりなのに、無理しないといいんだけど…」
杏子の溜息に沈黙が流れた。
杏子のアパートは2DKの古い作りだった。
ドアを開けると、すぐにキッチンがあり、そこを通り、奥の居間に続くようになっていた。
圭太は受け取ったタオルを被り会話を捜した。
「…そう言えば、木津は?」
毎日、木津が杏子を送っているはずである。
「三者面談。えっと、…お茶いれてくるから、テレビでも見てて」
テレビのスイッチを付け、杏子は隣のキッチンに向かった。
コンロにやかんを掛け、時計をチラリと見遣る。
母さん、そろそろ帰る頃だよな…。
杏子は表情が固まっている自分に気付いた。
鈴木圭太によく似た十年前の男。
想像した。
母が、深い夜の湖が放つ不思議な魔力を持つ瞳を見る瞬間を。
自分だけが見た悪夢であるはず。
悪い夢の続きが十年過ぎた今になり蘇る。
母が見ている筈がないのに、確かめたいと、圭太を家に入れた瞬間に考えてしまった。
あれが、夢か、現実か。
杏子の心拍数が次第に上がり始めた。
しかし、その緊張は呆気なくリビングから聞こえた声に遮られる。
「懐かしい。このドラマ。好きだったんだ。これ見て高校生に憧れたんだ」
小学生の頃、杏子も憧れていた学園ドラマの再放送を、熱心に見入る圭太の声に気付き杏子は自分を笑った。
「バカみたい。私、何考えてたのかしら」
杏子はマグカップをキッチンに二つ並べて置いた。
それと同時にドアが開く音が、杏子の耳に届く。
「ただいま。杏子。帰っているの?」
杏子の母親はまだ若々しい声で部屋に入ってくる。
ドラマの再放送を熱心に視ていた圭太の全神経がぴたりと止まった。
圭太の頭にはタオルがかかったままだ。
キッチンを通り、軽い足音がピタリと止まる。
「あら。杏子のお友達?」
キッチンから沸騰を知らせる高い音が鳴り響く。
顔に掛かったタオルを握りしめたまま圭太の体中の細胞が騒ぎ出す。
酷い眩暈を感じる。
「珍しいわね。木津君以外の友達なんて」
テレビからの愉しげな会話がやけに遠くに聞こえる。
手は圭太の意識とは無関係に力を失い、だらりと下がる。
それに伴いタオルははらりと床に沈む。
永遠と続く飢え。
何十何万何千何百何十何日目の喰欲。
求める。彷徨う。喰らう。求める。彷徨う。喰らう。求める。
何十何万何千何百何十何回と繰り返される。
永遠に満ちる事などない………
高級住宅街の一角に木津の家がある。
「ただいまぁ〜」
広い家に木津の声がだらしなく響いた。
その声に返事するのは、祖母だけだった。
「おかえり」
二人の兄は一人暮らしをし、両親ともに忙しく家にいることはあまりない。
半年前、山形で暮らしていた祖母を、祖父が亡くなったことをきっかけに母は家に呼んだ。
まだまだ元気な祖母は、今では一家の家事を全てこなしている。
「早かったね。今日は三者面談でしょう?」
祖母は山形に嫁いだが、元々が東京育ちの為に訛りはなかった。
「急患だってさ」
「本当にしょうがない子だねぇ。大事な息子の将来を決める相談だって言うのに」
実の娘に対して溜息混じりに言う。
「別に、そんなのいつでもいいんだよ」
リビングのソファにドサリと座った。祖母が熱いお茶と饅頭を持ってきた。
まるで子供扱いする祖母が木津にはくすぐったかった。
祖母は話は聞いているだろうが、木津が荒れていた中学時代を直接は知らない。
木津の向かいのソファに腰を下ろして祖母が孫の目を見て真剣に言った。
「あの子は、医者にさせるって言ってるけど、別に自分のしたいことがあるなら、無理にならなくてもいいんだよ」
「…したい事があるわけじゃないんだ」
木津は祖母に対して素直に言った。
「だから、別に医者になれっていうなら、それならそれでいいんだけど、こんな医者がいたら、患者が迷惑だろう?」
孫の瑞々しい戸惑いに祖母は微笑んだ。
「あの子が医者に拘るのは、私のせいなんだよ」
「ばあちゃんの?」
「私の父が医者だったのよ。お前の母さんが生まれた頃には、もう死んでいなかったけど、よく、話していたからね」
木津にとっては曾祖父に当たる人だ。
「戦争中、お金を取らずに貧しい人ばかり診ていたのよ。父には私しか子供がいなかったから、跡を継ぐ人はいなかったのよ。だから、自分が医者になるって言ってねぇ」
「そのばあちゃんのお父さん、えっと、俺の曾じぃちゃんは、戦争で死んだの?」
「いいえ。医者の不養生よ。結核ね。あの頃は、結核は不治の病だったの」
昔を悲しむように祖母の顔が翳った。
祖母の左側の額には古い火傷の痕があった。僅かに凹凸が残っている。
「あの頃の事は、今でも鮮明に覚えているのに、父の死に際だけが、よく思い出せないの。ただ死に顔は覚えているわ。安らかだった。空襲の最中に死んだのに、その死に顔は、眠るようだったわ。夫…死んだおじいさんが言うには、炎の中、父を助けてくれた人がいるの。でもね、私はその人の事を思い出せないの」
「知らない人だったんじゃないの?」
生きた年の分刻まれた皺が緩む。
「いいえ。父を助けたのは、私の兄なのよ」
「でも、ばあちゃんは一人っ子だったんだろ?」
「真治」
祖父の葬式よりも悲しい顔で、木津は自分の名を呼ばれた。
「この名前はね。お母さんが付けたの。私の義理の兄の名前なんだよ」
「父は死ぬ一年前に、真治という名の人を養子に貰っているのよ。ちゃんと戸籍にも入っていたわ」
「でも、ばあちゃん、さっき、思い出せないって」
「そうなの。私の夫、つまり、真治のおじいさんが言うには、私はその血の繋がらない兄と一年間、一緒に暮らしているのよ。父はその義理の兄に助けられたけど、結局は病気で亡くなってしまって、その義理の兄も行方不明になったわ。きっと、それがあまりにも辛いことだったから、忘れたんだろうっておじいさんが言ってくれたわ。私はすぐにおじいさんの実家の山形に移ったから、彼を知るのはおじいさんだけなのよ。そのおじいさんも亡くなってしまって…」
一人の人間をそんなに綺麗に忘れる事が出来るのか?
木津は同じ疑問を抱いた事がある。
「娘は、真治のお母さんはね。きっと父が跡取が欲しくて養子にしたんだろうって。だから、真治にその名をつけて、医者にさせたがったんだよ」
祖母の声が耳を素通りしていく。
そんなことは、よくあることなのか?
痴呆症でもないのに、一人の人間だけを綺麗に忘れ去る事ができるのか?
「どうしたんだい?気に障った?」
「あっ。ううん」
木津は首を振った。
「ばあちゃんは、その義理のお兄さんを全く思い出せないの?」
「私が思い出せるのは、その兄を兄とも知らずに別れた瞬間だけ。変でしょう」
「え?待って。顔は覚えてないのに?」
祖母のいう意味が理解できない。
「実はね。写真があるの。家は空襲で焼けたし、私自身も諦めていたんだけど、家の裏庭に掘った防空壕に写真を入れた金属製の箱が出てきたのよ。たぶん、父が入れたんだと思うけど」
そう言いながら、祖母は自分の部屋から写真の束を持ってきた。束といっても十枚もないが。
古いセピア色の写真はぼやけてハッキリしない。
「その写真を見て、あぁ、あの時のあの人が兄だったんだって思ったわ」
木津は一枚一枚ゆっくりと写真を見てゆく。
一枚目は祖父らしき人が軍服を着た写真だった。
そして、五枚目あたりで木津の目が止まった。
それは、人物のない写真。木製の看板に書かれている文字。
『鈴木診療所』
「ばあちゃんの旧姓って、鈴木だったんだ…」
「そうよ。鈴木雪子」
木津は一枚一枚写真を捲っていく。
「父は、鈴木圭吾朗」
ピタリと手が止まった。
「鈴木圭吾朗?」
「土が二つに、数字の五の下に口で・・・」
祖母の説明を訊きながら、次の写真を捲ったところで木津の全身が総毛だった。
ゴクリと自分の生唾を飲む音が聞えた。
祖母が木津の手に持つ写真に気付いて言った。
「あぁ、これがその私の義理の兄だった。鈴木真治よ。覚えてないけどね」
ピィーーーーーー
杏子はガスを切り、薬缶の高音を止めた。
圭太にはもはやそんな音は聞えてなかった。
キッチンのテーブルに置いてあった携帯が鳴り、杏子は携帯に出た。
「もしもし?木津?どうしたの?」
『あのさ。杏子の夢の話だ。どうしてなんだ?』
突然の質問に杏子は眉を顰めた。
「何?意味がわかんない」
『だから、どうやって杏子の母親から記憶を消したんだ?』
「意味わかんない。切るよ」
杏子は繰り返した。
リビングに入っていった母親の後姿を見ながら、杏子は木津からの意味不明の電話に戸惑っていた。
『待って。だから、ごめん。えっと、その』
木津も自分で何が聞きたいのかわかっていないらしく、言葉になっていない。
『だから、十年前の雨の夜。鈴木圭太は、君の母親に何かしなかったか?』
杏子の脳裏に十年前の夜の雨が降りしきる。
ネオンの中、鈴木圭太が母に微笑みかける。
母は吸い込まれるように相手の瞳を見上げ…
「…キス…した」
『キス…』
「ちょっと待ってよ。あれは、鈴木君じゃないよ。それに、今、彼、家にいるわよ。その母さんも一緒にね。もう、ホントに切るね」
容赦なく杏子は電話を切り、リビングを見る。
圭太の顔を隠していたタオルがはらりと落ち、その顔が現れた。
圭太の鼓動が早まる。
タオルに遮られていた視界が広がる。
目の前に現れたのは、二度と会うはずのない恋しい人。
恋するたびに自分の本能がその恋を引き裂く。
繰り返し、繰り返し。だから、恋するのは圭太にとっては、手痛いミス。
それでも、してしまう。
「初めまして、杏子の母です」
優しい微笑みは、娘の友人用である。
杏子はいつもの母の声を聞いた。
いつもと何も変わらない日常の母の声。
やっぱり、あれは、私だけの悪い夢。
母は関係ない…
マグカップを手に取り、杏子は台所から居間に戻った。
そこには時間を忘れ呆然と固まる圭太がいた。
「…鈴木君?」
激しい雨音が耳を打つ。
「…ごめん」
震える圭太の声は、窓を叩き付ける雨音に呑まれた。
圭太は立ち上がると顔を背け家を飛び出した。
「どうしたの?」
突然、そう言って娘の友人が飛び出し、母親は心配そうに娘を見たが、娘もそのあとを追いかけ飛び出していった。
激しい雨は一瞬で圭太を中まで浸食する。
眩暈を伴う空腹が圭太を襲う。十年前の叶わぬ想いが激しい雨に蘇る。
「待って。どうして?」
後ろから杏子の叫び声が頭に木霊する。
どうして、どうして…。
圭太の足が止まる。
杏子は、雨で顔にまとわり付いた髪を手で払い、圭太の腕を後ろから掴む。
「どうして?」
黒い澄んだ瞳が圭太を捉える。
圭太は力尽きたように濡れたアスファルトに膝を落とす。雨は激しく二人を撃ち浸ける。
「君だったんだね…」
低い圭太の声が雨に混じる。雨に濡れた圭太の瞳は、不思議な力を持つ。
十年前、杏子は夜の湖に魅了された母を取り戻したくて必死に母を追った。
「あの時の黒い瞳は君のモノだったんだね」
杏子が母を追った先に見たモノは、底の見えない深い瞳。
そこで、溺れたのは母だったのか。
それとも…。
「好きだったんだ。君の母さんが大好きだったんだ」
両手で顔を覆い、苦痛な告白の響き。
「どんなに好きでも…。忘れられるんだ」
永遠と続く飢え。
何十何万何千何百何十何日目の喰欲。
求める。彷徨う。喰らう。求める。彷徨う。喰らう。求める。
何十何万何千何百何十何回と繰り返される。
永遠に満ちる事などない。
「オレは忘れられる…」
激しく叩きつける雨に消え入りそうな圭太の声。
木津が突然電話で聞いてきた。
どうやって記憶を消したんだ?
記憶を消す?
有り得る筈のない現実。
杏子は、雨の重さに耐え切れないように座り込み、目の前の圭太の瞳を覗き込んだ。
杏子の濡れた瞳から涙とも雨とも判別しかねる滴が次々と零れ落ちる。
それは溢れ出してしまった想い。止める事の出来ない激しい想い。
あの時の、10年も前の、悲しい湖。
湖の瞳を持つ、あの人は、あなただったの?
そんなことありえない。
でも、何故か納得してしまう。
だって、こんなにも惹かれてしまった。
ずっとずっと忘れられなかった。
「私は忘れないよ!絶対、忘れない!」
本当に得たい物は永遠の想い。
細い杏子の指が圭太の両肩を掴む。
雨に重みを持った黒い髪がはらりと、俯いた圭太の視界の隙間に滑り込む。
圭太の指が髪に絡み付く。
「あっ」
深い夜の湖、湖の深淵に眠る淋しい瞳。
杏子の髪を絡ませた指は力を帯び、杏子の顔は圭太に吸い付けられる。
圭太の唇から自分の唇に伝わる底知れない不思議な哀しみ。
そして今、その瞳に漂うのは私自身。
十年前、湖に溺れてしまったのは、
私自身…
夢の中の小さな幻の初恋。
雨はさらに激しさを帯び雨音のみが、唯ひたすら鼓膜に鳴り響いていた。
「杏子!」
耳慣れた声が自分を呼んだ。
「木津?何でここにいるの?」
塗れ細った杏子は自分が濡れている事すら気付かないように、突然現れた友人を見ている。
「杏子。どうしたんだ?鈴木圭太に何かされたのか?」
キョトンとした目は、ユイと同じ目だった。
だから、木津にはわかってしまった。
「誰よ。それ」
整った杏子の顔を涙か雨か区別のつかない雫が幾筋も滴り落ちていく。
木津はそれ以上、何も言わない。
「早く、家に帰れ。風邪ひくから…」
それだけ言うと、木津は杏子をその場に置き去りにして走り出した。
まだ、近くにいるはずだ。
雨は急速に夜を呼ぶ。
その激しさはそのままに、ただひたすらに冷たさを増しつつ雨は降り続く。
どれだけ、探したろうか。
公園が目に入った。
昨日、来た公園。
そして、雨の中、ブランコが揺れていた。
小さい割には多すぎる木々で囲まれた公園は、周りの世界を拒絶するように、
…そこに一人佇む男を孤立させるように存在していた。
激しい雨の中、微かに聞えるブランコの擦れる摩擦音。
どこか、虚ろな男が一人、ブランコに揺られながら泣いている。
涙かどうかは、雨に濡れているから、わからない。
ただ、木津には、泣いて見えた。
切なくなるほど、激しい雨の中でただ一人。
周りを全て拒絶している男が一人。
何も言わずに木津は、その男に近づいた。
地面に落としていた視線がゆっくりと持ち上がり、木津を見上げた。
「やあ…」
微笑む顔は、やはりいつもの鈴木圭太。
ただ、雨に濡れているだけ。
「…杏子に何をしたんだ?」
「何って?」
「杏子にキスしたろ…」
木津を見上げるその顔は、その瞳は、ただ、雨を受け止めるように、全てを受け入れるように深くて…苦しい。
どうしようもなく不安になる。
切ないのは、何故?
「見てたのか?」
見てないけど、木津は頷いた。
「そっか。木津の彼女だもんな。でも、安心しなよ。すっかり、嫌われて・・・・思い出すのも嫌なほど…」
「誤魔化すな。違うだろう」
「何を…言って…」
「アンタのキスは違うだろう?そうだろう?鈴木真治!」
グワァ〜〜ン
圭太の中で、激しい耳鳴りがした。
赤い空が目の前に広がり、焼夷弾が雨のように降り注ぐ。
炎が熱さを持って脳内を駆け巡る。
何故だ。
何故その名が木津の口から出てくるんだ。
何故、オレに向かって…
不自然なほどに圭太は首を横に激しく振り、唸った。
「違う…」
「オレのばあちゃんの名前は、柏木雪子。旧姓は、鈴木雪子なんだ」
雪ちゃん…
彼女の微笑がついさっき見た杏子の母親微笑みと重なり、フワリと浮かんだ。
違うと言い張れば、この男は信じるだろうか?
バカじゃないのか?と笑えば、この男も笑うのか?
そんな事、在り得ないだろうと…
木津は、自分の考えがいかに現実離れしているかを知っていた。
だけども、それ以外に、今見下ろしている男を説明するものが何もないように思えた。
「それから、曾じいさんは、鈴木圭吾郎。…鈴木圭太。その名前は、単なる偶然なのか?」
いや。これは日常の終焉だ。
圭太は目を瞑り、顔にかかる激しい雨を感じた。
木津は話を続けた。
「オレの下の名前、知らないだろ?真治って言うんだ。お前から取ったんだよ。」
ゆっくりと圭太の瞼が開いた。
木津はぎくりとした。
その瞳。
引きづり込まれる。
この男の目を見るとき、いつも得たいの知れない恐怖を感じた。
今は恐怖は感じない。
ただ瞳から溢れ出してくる感情に引きづり込まれそうだった。
狂気に近い悲しみと切なさと苦しさが渦を巻いて、深い深い闇が広がる湖底に沈み込まれる錯覚。
杏子が幼い頃、溺れた湖にオレも溺れさせようとするのか?
木津は、そうさせまいと目を細めた。
「…だから?」
雨よりも冷たい声が男の口から漏れる。
全てを認めて、それでも訊く。
「だから、何?誰かに迷惑かけたか?」
「違う!オレが訊きたいのは、記憶を消す必要がどこにあるんだって事だ。キスしたら記憶が消えるんだろう?でも、わからないんだ。何故記憶を消すんだ?お前の秘密を知られたからって訳でもなさそうだし、なんで、そんなこと…」
そんな事して、寂しくないのか?
悲しくないのか?
すっと圭太が立ち上がった。
目線は木津より少し下だ。
上目遣いで木津の目を覗き込む。
「喰うんだよ。想いをさ」
口元に弧を描き、圭太は木津の目に視線を据えたまま、指を木津の頬に滑らした。
「なっ!」
電気が走ったように木津が飛び退いた瞬間、雨にぬかるんだ地面に足が滑り、激しく背を打った。
素早く圭太が木津の上に乗り、その両手を首に回した。少しづつ力を込める。
「うっっ…」
苦しそうな呻き声が木津の口から漏れた。それでも、木津は目を開いて圭太の瞳を睨みつけた。
「…オレが、秘密知って…邪魔…になっ…たのか」
「煩いな」
冷たい声で言われ、冷たい瞳で見下ろされている。
それでも、木津はその目から視線を外さない。
「…どういう……意味………………………想い、を………食べるって…」
首を絞められたまま、目の前に、圭太の顔が突き出し、その瞳が漂っている。
木津の頬に雫が滴り落ちる。
湖から溢れ出したように、雨と共に幾つも幾つも落ちてくるのは、熱い雫だ。
「教えてやるよ。その意味を」
そう言って近づく顔。
その意味は。
「やめろ!!」
渾身の力で圭太を突き飛ばした。
息を切らしながら、飛ばされたまま座り込んでいる男を泣きそうな顔で睨んだ。
「何でだよ!」
「お前は、一体、オレの何を知りたい?」
静かに問われれば、木津自身がわからなくなる。
いや、聞きたいことは在りすぎる。
鈴木真治は、何故年を取らない。
何故、記憶を消す。
何故・・・・
「寂しくないのか?」
悲しくないのか?辛くないのか?その心は痛まないのか?
「何十年も年を取らずに、誰にもその存在を知られる事なく一人で生きて…」
「何十年だと?」
雨の中、圭太は笑った。
「千四百年だ。それに、オレには腐るほど、名があった。鈴木真治なんて、その中のひとつに過ぎない」
「千…そんな…」
言葉を失った。小さな公園で雨に濡れる高校生が、酷く遠くに見えた。
「…想いを食べるって?記憶を消す為なのか」
「違う。腹が減るからだ。飢えてるんだ。ただひたすら餓えているんだ。想いは、餓えを満たしてくれる」
「千年近くも、そうやって生きてきたっていうのか?それじゃあ、誰もお前の事、想ってくれる人間は残らないじゃないか?そんな残酷な事…」
濡れた瞳を木津は見つめ続けた。
だから、湖なんだ。
流れる事のない。果てしなく棲んだ底の見えない湖に、その瞳が重なるんだ。沈殿されていく想いは、決して満たされる事なく、さらに、想いを求める。
「これで、いいか?満足したか?」
立ち上がり圭太は、木津の傍にしゃがみ込む。そして、木津の瞳を覗き込む。
その奥知れない暗い瞳で。
「オレの記憶を無くす意味は、オレの気持ちを喰う意味はないだろう?」
しかし、圭太は微笑みながら、その手で木津の首を掴む。
「痛っ」
顔を歪め、それでも圭太の手を払おうとした。しかし、逆に腕を掴まれる。
それでも、立ち上がり、逃げようとした。
しかし、力づくで握りこまれた腕は離れない。
体つきに似合わず、圭太の腕力は並ではない。掴まれた腕がジンジンと痛んだ。
「オレを覚えておく必要はない。大人しくキスさせろよ。それとも、殺されたいか」
子供のように木津は首を振り続けた。
「イヤだ!オレは生きて、お前を覚えておく。お前にとったら、たった何十年かもしれない。でも、お前が生きて苦しんで悲しんでいること知っているやつが一人ぐらいいてもいいだろう?じゃないと、お前が可哀想じゃないか」
木津は怒鳴った。
『私は忘れないよ!絶対、忘れない!』
それは、杏子の台詞。
でも、忘れた。自分を忘れた。自分が忘れさせた。
それでいい。
同情は、とても塩辛くて、苦い。
でも、その中に込められた気持ちが本物なら自分を満たしてくれる。
目の前にある気持ちを味わってみたい。
「さよなら…」
喉が渇く…
永遠と続く飢え。何億何万何千何百何十何日目へとさらに続く喰欲。
喰欲に支配された中枢神経には逆らえない。求め、彷徨い、喰らい、そして、また、求めて、彷徨って、喰らって、求め続ける。
何億何万何千何百何十何回と繰り返される愛の囁きと別れの言葉。
永遠の終わりを待ち焦がれる。
「杏子。起きろよ」
木津の声。
「珍しいな。授業中に眠るなんて。もう、昼休みだ。弁当食おう」
今朝飲んだ風邪薬で眠ったのだろうか。
「私、どうして風邪なんか引いたのかな?」
「大丈夫か?」
杏子の視界に窓際の空席が入る。耳に松原と岸の会話が聞こえる。
「圭太も酷いよな。急に転校するなんてさ」
「昨日もそんな事一言も聞いてなかったよ。友達だと思っていたのに」
二人は本当に怒っているようだった。
「携帯も繋がらないし」
ぼんやりと杏子は二人の会話に小首を傾げる。
「あの席に誰かいたかしら?」
「おい。おい。杏子。お前のクラスメートだろ。誰だか知んねぇけど、可哀想なヤツ」
梅雨の明けた空は透き通るように天に伸びている。
窓からは眩しい光が降り注ぎ、その眩しさに杏子は目を細める。
青い空に薄い雲が流れ、優しい風が夏の到来を知らせる。
あれから、何年目の夏だろうか。
「どうした?杏子」
杏子を覗き込む見慣れた顔。白いタキシードが今一似合わない。
「シロが…。何でもない。木津には関係ないでしょ」
「傷つくなぁ。知ってる?今日、結婚式なんだけど。ちなみに僕と君のね」
杏子はクスッと笑い木津の腕に手を絡ませる。
暖かい日差しがウエディングドレスを華やかに照らす。
「新婚旅行、まだ決めてなかったね。私ね、湖を見たいな…」
『久しぶり。相変わらずだな』
圭太は白い猫を見下ろす。
6年前と変わらない圭太の微笑みが、太陽の逆光で翳る。
「シロは老けたな。6年ぶりか?」
白い猫は緑の林の中僅かに見える教会に目を向けた。
一組のカップルが結婚式を挙げ終わったのだろう。
人々の祝福を受けつつ出てくる。
圭太の瞳が幸せの形を写し出す。
カップルを祝福する数人の顔に見覚えがある。
だが、誰一人自分を覚えている人間はいない。
「不思議な味だったな」
突然、頭上から響いた意味不明の言葉に白い猫が見上げると、既に圭太の姿は消えていた。
生暖かい風だけが白い猫を撫でる。
「どこの湖?」
木津は、優しく杏子に問いかけた。
「どこ、かなぁ。わからないわ…」
「…そうだな。湖か」
自分は杏子が見たがる湖を知っている。
何故か知っている。
その湖は確かに日本のどこかにあるはずなのに、どこにあるのかは、知らない。
教会の鐘が鳴る中、風が遠く昔から知る湖の匂いを幸せな二人に運ぶ。
「杏子?」
木津の驚いた顔に今度は杏子が驚いた。
次々と溢れる涙が、無意識に杏子の頬を流れている。
そして、杏子の涙に反応したように木津の瞳からも涙が溢れ出した。
零れる涙は、あまりにも悲しくて美しい湖に魅せられたせい。
あまりにも美しくて手が届かなかった。
ただ、湖に惹かれるこの想いだけは永遠に消えることはないだろう。