第六章 LEON(下)
その少年の名は、レオン(LEON)と言った。
父親はおらず、美しい母親と祖父母の3人で暮らしていた。
- 母親の家は代々、ガラス職人をしていました…。そこは村全員がクリスタルガラスの職人で、祖父母もそうでした…働いていなかったのは母くらいだったんじゃないかな…。
- 母は若い頃オペラ歌手をしていたそうで、それは美しい声でした…今もあの声は耳に残っています。
しかしその村での平穏な日々は6歳で、突如奪われることとなる。
1963年1月23日。一家が寝静まった頃だった。少年は突然母親に叩き起された。直後に銃声が3発、家に轟いた。母はかまわず幼い息子に上着を着せ、2階の寝室から外へ飛び出した。
- 逃げたぞ!!という声がしました。私は腰が抜けそうでしたが何とか走って、走って…。母は隣の家に駆け込もうとしましたが、おかしいんです。明りは点いているのに誰も出てこないんです。どの家もですよ?おかしいでしょう。
この番組制作者はここの部分は放送していなかった。が、この事実についてかなり突っ込んだ取材をしていて、実はこの時、この村…もういいだろう。この村はモレロ村だ…モレロ村の人間は全員、大金でもって脅されていたのである。内容はこうだったそうだ、"この日の深夜0時に一家全員を皆殺しにする。見て見ぬふりをしろ、助けを求められても絶対に扉を開けるな。さもなくば…"。
助けが見込めないと悟った母、マリアはレオンを連れて山へと逃げ込んだ。実はこの山には村の人間しか知らない道があって、その道をまっすぐ行くと大きな幹線道路に出るのだ。そこでトラックでも拾えられれば、西ドイツに入れる。
母は幼子を連れ走った。
しかし、降り積もった雪が残酷にも足取りを重くする。
そして次の瞬間、耳をつんざくような銃声が轟いて、一発の銃弾が母の腹を貫いた。
「死んだか?」
「ここを落ちた。どうせ助からん。行くぞ」
- という声がしました。母はとっさに、崖を落ちたふりをして真下の洞穴に隠れたんです。しかし物凄い出血でした…母は死を悟ったのでしょう、私に父親のこと、そしてなぜこのような事になったのかを話してくれました…
「レオン…貴方のお父様はソビエトで大きな会社を経営している人でね、ウラジーミル・ズミエフスカヤという人よ…。とても大きくてね、あの方の持ってるお金で国が動いちゃうくらいなのよ…私はモスクワの歌劇団で歌っているところを見初められて、あなたが生まれた…けれど、彼の奥様は許してくれなかった…」
レオンは賢い少年だった。そういえば一カ月ほど前に、それは物々しい黒塗りの車が家の前に停まり、一人の男性が自分を認めるなり何か言いながら思いっきり抱きしめられ痛い思いをしたのを思い出した。
(あれでぼくらの居場所がバレたんだ…!)
- ともかく、貴方だけは幸せになってほしい、と言われました…それが母親を見た最後でした。そして直後、私は凄い力で突き飛ばされたのです。逃げろ、と。私は雪の中を転げ落ちました…
- 今ならまだ助かるかもしれない、と思い、無我夢中で雪の中を下って行きました…でも駄目でした。雪崩が起きて…。上から雪がどっと崩れてきたのです。私は気を失い…気がついたときには私の周り数mを残して、あとはもう崩れてきた雪でした…今思えば奇跡なのですが、あの頃そんな余裕は…(首を横に振った)。
あの時、幼いレオンは心に決めた。ともかく今は生きなければならない。そしていつか、僕とママをこんな目に遭わせた父親とその家族、あの惨状を冷酷にも無視したモレロ村の人間全員に復讐するのだ、と。
たまらず、雪乃はテレビを消した。
「ちょお、キツかったか…やめるか?」
畑野が顔を覗き込んだ。
雪乃は首を横に振って、「…疲れたわ。お茶煎れて来る。要る?」
「おぅ、ありがとな。」
畑野は立ち上がった雪乃を振り返り、「まだ先は長いんやから、今日は無理せんでええぞ。」
雪乃は後ろ姿のまま右手をふりふりと振った。ドアが閉まった。
畑野は、そのテープの束から一本を手に取りまじまじと眺めた。
120分のテープが10本。もしフルに入っていたら、20時間。その内、放映されたのは2時間。
二人は先に放映された2時間を見たのだが、この幼少期については全く含まれていなかった。アメリカで歌手としてデビューしてから引退するまでの部分だけで、出生についてはほとんどふれていなかったのである。しかも、(もう一つ、編集しようとしとった…)形跡があった…つまり、元々は二夜連続で放送するところを、急きょ一回で打ち切っていたのである。
(何か、圧力があったか…?)
おそらく、そうだ。
ウラジーミル・ズミエフスカヤ(Vladimir Zmievskaya)は1940年代に当時のソビエト連邦で暗躍していた財閥の、事実上トップである。名前を出すのは差し控えるが、あの時の権力者ですら頭が上がらなかったと言われている。本人はすでに死亡しているが、ロシアとなった今も影響は残していると聞いている。そして何よりこの名前を出した時の、上層部佐藤弘毅の顔が全てを物語っていたではないか。
(ああいうのを、苦虫をかみつぶした顔、って言うんや…)
…やっぱり、このテープの中身ダビングしといて正解やったかも。
思い立った時の畑野の判断は早い。
煎茶を持ってやってきた雪乃に、畑野はこう言った。
「ユキノ。やっぱこのテープ返そ。原本持ってたら俺らが危ないかも…明後日や。先準備しよ。見るの飽きたやろ」
雪乃の顔がぱあぁっ、と輝いた。
もういいだろう。
ここからは、例の映像の中身から、今後にかかわる事だけをかいつまんでお話することにする。彼の過去についてはまた別の機会とさせていただきたい。
その後レオン少年はたった一人で、フランスの国境を越えた。
ここでもまたレオンは幸運だった。たまたま国境の検査を終えた貨物列車がそこに停まっていて、6歳の小さな身体は鉄条網をくぐり抜け、コンテナの中に上手く潜り込めたのである。これで一気に西ドイツ国内へと入ることができた。
しかし追っ手も馬鹿ではなかった。
逃げたときに落した帽子やボタン、幹線道路を歩いていた目撃情報まで入手して、レオンが生きていることをつきとめ、まさに死に物狂いでレオンの行方を追っていたのである。
レオンとその母マリア・クリスティーヌ、そしてモレロ村でガラス職人をしていた彼の祖父母、一家全員を殺害するための殺し屋を差し向けたのは、レオンの実の父、ウラジーミル・ズミエフスカヤの妻、ジョセフィーヌである。モレロ村の人間に大金でもって脅したのも彼女だ…ウラジーミルとの間に子が無かったことによる逆恨みと、"妾腹の子が居る"というスキャンダルを恐れての犯行だった。
ズミエフスカヤ周辺の人間はこう語っている。
「彼女はフランス人なのにまるでゲルマン民族のように激しい性格でした。彼女はフランスの名家、ポズナー家から嫁いできたのですが、才色兼備、ロシア語の他4ヶ国語くらい堪能で、非の打ち所がない女性だったのです…表向きは、ね。けれど裏の顔は全く違いました…酷いかんしゃく持ちで、執念深く、少しでも気に入らない人間がいると精神、肉体両面から徹底的に痛めつけようとするところがありました…あのウラジーミルも何も手が出せなかったようですよ。」
何ということだろう。
レオン(アルフォンス・ラバーバラ)とその母、マリアを殺したのはマーク・ポズナーの義母、テレーズ=フランソワ=デュ=ポズナーの妹、ジョセフィーヌだったのだ。
…そういえばマーク・ポズナー親子もテレーズにいじめ抜かれていた。
しかしその妹ジョセフィーヌはこの性格がテレーズよりも極端で、自らの欲求を満たすためには手段を選ばない女だったようだ。
それは、その後のレオンの足取りを見てもよく分かる。
西ドイツに入ったレオンはその後、ミュンヘンまで逃げ延び、町のはずれにあったとある教会の前で行き倒れた。
幸い、ここの教会の神父は良心的だった…レオンを引き取り、併設していた孤児院へと入れてくれ、10人ほどいた似たような境遇の子供達と共に生活の面倒を見てくれた。こうしてレオンはようやく、ここで温かい食べ物と布団のある場所を得たのである。
2年が過ぎた。
レオンはドイツ語をすっかりと覚え、活発な少年に成長していた。
その孤児院は国からと、近隣住民からの寄付でなんとか運営している状態だったので質素な暮らしではあったが、広い教会は10人前後の子供達にとっては格好の遊び場だった。また日曜日のミサではみんなで聖歌を歌うことがあったのだが、やはりこれは血は争えなかったのだろう。レオンのソプラノはそれは一等美しかったという。年下の子供達にせがまれ童謡を歌ってあげようものなら近所の大人たちが『あの綺麗な声のそばかすの子は何者だ』と大騒ぎされる始末だった。ともあれ彼は近所でも評判の人気者だったのである。
こうして、あの恐ろしい事件も復しゅうの事も忘れかけていた、ある日のことだった。
「変な男が教会の周りをうろついてる」
「うすよごれたスーツを着た男に教会の子供たちのことを聞かれた」
レオンの心臓は飛び上がった。
うすよごれたスーツを着た男。聞くと首すじに傷跡があったと言う…あいつだ。母さんを撃った奴だ。
(これは身を隠すしかない…!)
それからというもの、レオンは外出を控えた。というより、出来なかった…神父夫婦や近隣住民、はては警察までが乗り出し、この男達の事を把握していて、警戒を強めていたのである。
しかし、遅かった。
追っ手はレオンの想像をはるかに超えて、残忍で冷血だったのである。
それはレオンが10歳になった夏の日だった。
トン、トン。
夕食も済ませ、広間でトランプに興じたり本を読み聞かせたりと皆思い思いにくつろいでいたそんな時間に、何者かが扉を叩いた。
「おや?ベンかな」
ここ一週間、警察が協力を惜しまず寝ずで見張りをしてくれていたおかげですっかり顔なじみになっていた青年警官だと思いこんだ神父は、疑いもなく扉を開けた。
これが悲劇の幕開けだった。
確かにそこに居たのはその若い警官…の、死体、だった。
男がその警官の死体のえり首を片手で軽々とつかみ、盾にして突入してきたのである。あっと声を上げる間もなかった、その男は躊躇なくもう片方の手にあった銃の引き金を引いた。かわいた音がして、神父の大きな体がぐらりと後ろへ倒れた。
エルザおばさん(神父の妻)と子供達の悲鳴。中には目の前の惨状が信じられず、呆然とする子供も居た。広間は一瞬にしてパニックに陥った。
そしてレオンはその目ではっきりと見た。
(あいつだ―…!!!)
左の首すじから頬にかけて刻まれた傷跡。
間違いない。母を撃ったのはあいつだ。
惨劇はここで終わらなかった。
男が扉に向かって合図をした次の瞬間、マシンガンを背負った男が5人なだれ込んできて、間髪入れず銃を乱射してきたのである。
ひとたまりもなかった。
しかしここでも皮肉なことに、運はレオン一人に味方した。
レオンはたまたまソファの影で友人の一人、アルフォンスとトランプをしていたため男達からは死角になっていたのである。
しかしその少年は無事では済まなかった。次の瞬間、またすさまじい銃の連射音が耳をつんざき、穴だらけになった彼の体がレオンのすぐ傍らに吹っ飛ばされてきた。レオン自身も無事では済まなかった。彼の大量の返り血と、流れ弾が右太ももに命中し、その場に倒れこみ意識を失ったのである。
レオンが病院で意識を取り戻したのは、それから3日後の事だった。
-あの時見逃してくれていれば、僕は復讐の鬼になることはなかったんです。
-後に歌手になった僕はソビエトへツアーをする機会に恵まれ、そこでロシア語を憶えたのですが、その時ようやくあの殺し屋が教会で何を叫んでいたのか理解しましたよ。"皆殺しだ、この教会と近くのくそじじいもろとも"…甘かった。ここまでやるとは…。あいつらは教会の隣に住んでいた老夫婦と教師家族まで手にかけていたんです。
-そうまでして僕を殺したいのか。僕は平穏な生活があれば充分だったというのに。しまいには全く関係のない教会と近所の人達まで巻き込んで。もう限界でした。僕は再び決意をするに至りました…実の父、ウラジーミルと(親指を1本立てた)、ジョセフィーヌ(さらに人差指も立てた)、そして一家を見殺しにしたモレロ村の人間全員(中指を立てた)。これに復讐するのだ、と。
3日後。
雪乃はまたもや高層ビルの屋上にいた。
もろ手は空。
今しがた、例のマスターテープを無断で返してきたのである。
この二日間はめまぐるしいものだった。このインタビューの裏付けのため、上層部佐藤へ調べの依頼と、ここまでの報告もしなくてはいけなかったし、ダビングしたビデオを調査班に送りつけなければならなかった(畑野はとにかく、この映像を手元に残しておきたくなかったようだ)。そしてさらに、その合間をぬってテープ返却作戦の段取りも進めなくてはならなかったのである。しかし全ては終わった…あとは雪乃が、このテレビ局の屋上から脱出すれば全ては終わりだ。
―もはや、疑う余地はない。
畑野は断言した。
モレロ工房に強い恨みを持っていたのはアルフォンス・ラバーバラ…本名、レオン=ウラジーミロヴィチ=ズミエフスカヤだ。ここからはこれから出るであろう佐藤の調査結果と、森山文書、そしてこれまでに班長の伊藤貴志と畑野でかき集めた膨大な量の情報を整理していかないといけないだろうが…彼がモレロ・パシフィック社会長、マーク・ポズナーを操り、13年もの長きにわたりモレロ工房の芸と伝統を踏みにじっていたのだ。母への復讐を胸に。
いつしか、雪乃は以前抱いていた、"モレログラスという芸を踏みにじり。ガラス職人の心を踏みにじった奴"に対する怒りが心の中から消えていたことを感じていた。
しかし代わりにやってきたのは"哀しみ"だった。
あの後、アルフォンス…もとい、レオン(以降は混乱を避けるためアルフォンスに統一させていただく)は、病院を抜け出し逃亡。トラックと貨物を乗り継ぎ、その先でたまたま行き合ったジプシーの一団に混ざり、共に旅をすることとなる。そこからヨーロッパ中を転々とした。追っ手は彼の行方を完全に見失ったのである。
そして転機は5年後に訪れる。
ある日いつものように、歌わせてもらっていたオランダのバルでレオンはある男に声をかけられた。その男こそがアメリカ、Wレコードのプロデューサーだったのである。あとは瞬く間だった。鍵盤の端から端まで音が出ると評された彼の歌声は音楽界で話題をかっさらった。デビューレコードはあっという間にミリオンを突破した。翌年にはワールドツアーもこなし、テレビ、ミュージカルに映画出演…彼は一気にスターダムへとのし上がったのである。
…歌は、心を癒してはくれんかったんやろか…。
くれなかったのだろう。
それほどまでに彼の心の闇は深く、復讐の鬼が彼の心から居なくなることはなかったのだろう。
雪乃は涙をぬぐった。そしてビルの外へと足を踏み出し…東京の夜空を滑空し、代々木公園の闇へと姿を消した。
翌日。畑野と雪乃は神戸へと戻ってきた。
電車からJR須磨駅のホームへと降り立って、雪乃がまずしたのは深呼吸だった。畑野は思わず笑ってしまった。
めずらしく海が見たいと言い出した雪乃に付き合って、畑野は須磨駅の改札から右へ折れ、海岸へと降り立った。
適当な所に荷物をどっと置いて、ぶらぶらと波打ち際へと歩く雪乃の後ろ姿は夕日に照らされ、まるで何かの絵画のようだ。
「…カズさん、あたしな?」
この日は若干、波が高かったらしい。雪乃の声が波の向こうから聞こえてくる。
「…」
「最近、気ぃついてん」
畑野は何も言わず、荷物のそばに立って雪乃を見ている。
「"哀しい"って、青いんやな。」
お前もまだ充分青いけどな、と言いそうになったが畑野はやめた。
「…目の前の海ですら夕日に染まって紅いのに」
雪乃はくるりと振り向いた。畑野ははっとした顔になった。
「あたしの心は悲しみで真っ青やわ」
雪乃は泣いていたのである。
ぐらり。
畑野の中で"何か"が傾く音がした。
全く、今の今まで気がついていなかったのである。
3歳の幼な子が、もうとっくに大人の女になっていた、ということを。
それほどまでに、彼女の顔は美しかったのである。
「…カズさん?」
「…!!!」
はっと息を飲んだ。
怪訝な顔で雪乃が畑野の顔を見ている。ふと手を見ると雪乃の右腕をしっかりつかんでいた。
「あ…いや」
畑野はとっさに「ちょっと焦った。すまん」
「?」
「お前が海ん中消えてまう気がしてな。」
畑野はとっさに、ウソをついた。
「!…あははは!あたしが?死んでまうって?」
雪乃はぽかんとした顔になったと思ったら、はじけたように笑い出した。
「だってお前の最近言うたらやなぁ」
畑野はあきれたように言った。
「言うたって死にはせえへんよ。安心して?」
雪乃はカラリと言った。
「…。」
何とか理性は持ちこたえた。畑野は心の底で安堵した。
一方の雪乃は心臓がバクバクしていた。
(何や、今の…?!)
二の腕をつかまれたくらいでこんな事にはならない。彼女は小さいころなぞそれは危なっかしい子供で、腕といわず畑野にだっこされることが日常茶飯事だったのだ。だからこんな事なぞ慣れているはずなのだ。それが今はどうだ。
(腕と一緒にタマシイまで…)
持ってかれそうだった。そうだ。それだ。
「どないした雪乃。そろそろ行くぞ」
畑野の声に雪乃ははっと我に返った。
「あ、うん」
雪乃は返事をして、かばんを肩にかけると海岸をあとにした。
扇キ山の廃別荘(もとい、黒ウサギの本部)に着いた頃には、日はもうとっぷりと暮れ、あたりは夜へと向かうくらい青色に染まっていた。
いつものように地下の重い扉を開ける。二ヶ月ほどしか東京に居なかったのに、まるでもっと長い間ここへ帰っていなかったかのようだ。
畑野の行く先に待っていたのは、やはり上層部の佐藤だった。
「帰ってきたところにすまんな。」
「いえ。」
「雪乃は」
「休ませました。流石に疲れが見えてたんで…それにあの事実はキツかったやろうと…」
「うん。そやろな。俺も長いことこの世界におるけど…復讐のために芸術を踏みにじる奴なんて…現実世界では聞いたことないわ」
「いつもは大抵、金が目当て。」
「そうや」
「でも、止めなあかん」
「…そうや」
佐藤は少し間を置いて言った。
「ターゲットはあのシャンデリアにせえ、と?」
「…いいや。まぁそう急かすなや。」
佐藤は思わず笑って、立ちっぱなしの畑野にソファをすすめた。
吊り下げられたランタンの灯が5つ、ごつごつした岩の壁を照らしている。
中央にはシャンデリアがあって、畑野と佐藤の姿をこうこうと照らしていた。
「シャンデリア、か…。」
畑野がうんざりした顔でそれを見上げた。と思ったら、「そういや俺、こうやってまじまじと見たことないわ。」
「単語はうんざりするほど見てるんやけどな。」
「そう。」
と、そこへノックの音がした。
「おぅ。」
「ご無沙汰してます。東京にいらしたんですね、お疲れ様です。」
私はにこやかに言って、頼まれた通りにラフロイグのロックとジョニーウォーカーのショットをテーブルに置いた。そして「これはザキシマさんからです。」とグラスに盛ったナッツを置いた。
「お、サンキュ。」
「あいつ、来たんか。」
ザキシマ、とは売却班の通訳で、普段はハーバーランドで店を経営している島崎正規のことである。
「えぇ。いいのが入った、とか言って。これだけ置いてフェラーリかっ飛ばして行っちゃいましたよ」
私は失笑して、「失礼します」ととっとと部屋をあとにした。
畑野はショットに手を伸ばした。
「…とりあえず、こっちで分かったことから話そか」
佐藤の手の中で、カラカラとグラスが鳴っている。
「すでに知ってるやろうが、モレロの社長、アルフォンス・ラバーバラの実名はレオン=ウラジーミロヴィチ=ズミエフスカヤ。フランス人オペラ歌手、マリア・クリスティーヌを母、当時ソビエト連邦の財閥の事実上トップに君臨しとった男、ウラジーミル=アレクサンドロヴィチ=ズミエフスカヤを父に持つ。が、ウラジーミルには妻が別におって、それがモレロの会長、マーク・ポズナーの義母の妹、ジョセフィーヌ・ポズナーやった」
「うん」
「ジョセフィーヌとウラジーミルはすでに亡くなっとるんやけどな…」
「うん」
「どうも殺されたらしい」
畑野は危うくジョニーウォーカーを噴出しそうになった。
「鋭利なナイフで心臓を一突きやったそうや。当時ソビエトやから報道管制はばっちりで、公式なアレやないんやけどな。ある筋からの情報や、間違いない」
「…!」
畑野は思わず首を横に振った。そこまでやるか…といった顔だったが「いや…そこまでやるか…やる、な…あいつなら…」
「場所はモスクワにあった自宅の寝室。二人はベッドの上に並べられてあったそうや。お互いの右手には血のついたペーパーナイフが握られとってな…」
「…下手な偽装や…」
「現地警察は心中事故として処理した。上からの強い圧力があったそうや」
「…事の真相よりスキャンダルを恐れたんやろ。もみ消しは財閥の人間の親族か、いずれにしても側近…」
「まぁ、そんなとこやろな。」それ以上は俺の身が保たんかったから、手ぇ引いた。」
「賢い」
「…やろ?モスクワでは大変やったんやぞ。尾行撒くん」
「どうも、ありがとうございます。」
畑野は敬語になって、ちょいと頭を下げた。
「…まぁそんなワケでやな。犯人は分かってない。が、おもろい事実が一つ。この日の死亡推定時刻、アルフォンス…当時彼はレオン・サティという名前やったんやけどな…アリバイがあってな。ポーランドで公演中やったわ。1985年1月23日、午前2時17分。」
「1月23日やと…?!」
畑野は目をむいた。「あいつの母親が殺された日やんけ…!!」
それも時間帯までほぼ一致している。
「…そうや。たぶん、偶然やないと思う。」
「…見事な復讐劇やな…」
畑野は身震いした。「アカン、全然酔えへんわ」
「な。」
佐藤の顔も全く赤みがさしていない。「ちなみに奴が歌手引退を表明したんわその一ヵ月後。歌手としては絶頂期やったそうやけど本人の意思は固かったそうや。なんで、そのポーランド公演が最後やった、ってことになる。」
「…。」
畑野は絶句していたが、しばらくすると自分を納得させるように何度も頷いて、「うん、うん…。分かりました。危ない橋渡してもて…。ありがとうございます。」
「…えーよ。ヒマやったし。」
何を今さら、と佐藤は失笑して、「あぁ、そうや、あとこれは別の筋からもろた話なんやけど。あのー、モレロ工房って、2つに分裂して、片方は貧しくて、もう片方は金の代わりにアルフォンスの言いなり、ってなってるやろ。」
「ああ、ラバーバラ派と…オーテュイユ派やったっけ。」
「そう、それ。そのオーテュイユ派の筆頭、ジャメル・オーテュイユってじいさんな、一度有楽町の本社に殴りこみに来たことがあるらしいで」
「?!」
「ちょうど、本社のエントランスホールでうちの組織と取引してる人がそのじいさんと居合わせたそうでな。それで聞いたんやけど…」
「で?じゃあエントランスでもめたんちゃうん?」
「それがそうでもなかったらしい。最初はひと悶着みたいな雰囲気やったらしいんやけどきれいな秘書のネエさんがつかつかとやってきて、社長がお会いになるそうです、どうぞ。って丁重に扱われて、エレベーターに乗り込んでったそうや。じいさんも呆気に取られとったらしい。でや。」
「うん、うん。」
こういう話は大歓迎だ。畑野は興味津々だ。
「その、ウチと取引のある方はその後担当者が来て、商談で別の階に行ったから社長室のアレまでは分からんかったらしいんやけどな。で、話が全部済んで…2時間ぐらい経っとったらしいんやけど、エレベーターで1階に降りたらエントランスがわや(大変なこと)になっとってやな。人だかりはすごいし、救急車は来とるし…。で、搬送されてく人見たら何とさっきのじいさんやった、と」
「うわぁ…それ、ひょっとして、アレやないん?社長室行ったら、十数年前自分の村で見殺しにした少年とまさかの再会とかいうアレでショックで…」
「多分、な。」
佐藤は頷いた。「で、調べてみたらジャメル・オーテュイユが自分らの一派の組合を解散したんはその事があった数週間後やったわ。」
「ああもうそれは間違いないやろ。」
「な」
佐藤はここでまたグラスに口をつけた。
畑野もいったん置いていたショットを手に取り、多めに一口含んだ。40度のアルコールがモルトの香りと一緒に口の中一杯に刺激する。
何となく、沈黙が訪れた。
「14年、か…」
畑野が三分の一ほど残ったバーボンを見つつ、つぶやいた。
「14年?」
佐藤が怪訝な目をこちらへ向けた。
「ちょっとふいっと気がついてな。レオンがモレロ村で家族を皆殺しにされて放浪の身となってから、アメリカのレコードでデビューするまで14年あるねん。だからこの14年間、こいつは一人でヨーロッパを転々とした、てことになる…」
「6歳から20歳か…想像を絶したやろな」
「で、あいつがモレロの社長になったんは1986年。今は2000年。…今年で、ちょうど14年。」
「…!!」
佐藤のグラスを持った手がビタッ、と止まった。
「これは偶然なんやろかな。俺、やっぱりあのシャンデリアに何かあるとしか思えんわ…」
畑野の言に佐藤はふ、と笑った。
「…そこはまぁ、な。タカシの報告を待って…。」
「あいつから何か報告があったんか?」
「うん。正式なアレやないんやけどな。明日、2人はモレロ村にあるシャンデリアの現物を見に潜入するそうや、そこで判明するやろ…」
佐藤はここで言葉を切った。そしてこう続けた。
「どうもあのシャンデリア、そもそもタダのガラス製やないみたいやぞ」
「…何、やと…?」
畑野は思わずうめくようにつぶやいた。
「言うとくが、これはまだはっきり分かったワケやないで。ただ…ほぼクロやろ、とのことや。今日お前に来てもろたんは、この件を伝えといてくれとタカシに頼まれたんと、レオン…アルフォンス…どっちでもええわ…の義両親の件。それを言うときたかったからやねん」
佐藤はすっかり薄くなってしまったロックをぐいっと飲み干した。
第二班班長伊藤貴志、そして同行していた塚本恵がフランスから帰国したのは、その4日後のことだった。
畑野と雪乃が再び扇キ山に呼び出されたのはそのまた二日後のことである。
2班の部屋を開けると、そこには伊藤と恵、とそして。
「おっ。」
畑野が少しびっくりした顔になっている。
「おーーーーっ!!!」
雪乃の顔に思わず笑顔がはじけた。そしてまっすぐその大柄な女性の元へ握手を求めた。
「久しぶり。」
女性はソファから立ち上がり、雪乃につられたように笑顔になった。
「あ?やっぱり知ってるんや。」
恵が言った。恵はつい数週間前に紹介されたばかりだったのである。
「なんか、悪名ばかり一人歩きしててね。」
髪をばっちり固め低めのお団子にまとめたその女性は、苦笑いを後ろの恵に向けた。
と思ったら雪乃はぱっとその手を離した。そして…。
「ちょ!びっくりするやん!!」
恵も思わず笑顔になった。雪乃が思いっきり抱きついてきたのである。
「ごめん、このおばちゃんがデカ過ぎて気がつかんかった。おかえりメグ。さびしかったわ」
「…ただいま。あんた、ど直球すぎて鼻血が出そうやわ…てかぐるじ~~~~」
恵の顔が真っ赤になっている。
「仲いいんですね。」
女性が伊藤に言った。
「同い年ですからね。」
伊藤は言った。
その後ろでは畑野がお茶を淹れている。