第五章 空白の18年間
Marc Posner。1946年6月20日生まれ。現在54歳。
ポズナー家先代、Benjamin De Posner(ベンジャミン = デュ = ポズナー)とAnne Mayerの間に生まれる。
アンヌは当時ポズナー家の使用人だったのだが、好色家だったベンジャミンが手を付けたものらしい。
その後18年間、マークに関する公式なデータは存在しない。
1964年9月。ベンジャミンは突如、マークの存在を公式に認めた。当時ベンジャミンと妻、テレーズの間に子がなくポズナー家中で騒動となっていただけに、この情報は晴天の霹靂と言ってもいいものだった。おまけに当時彼はアメリカに渡ってハーバード大学に入学をしたばかり。申し分のない学歴である。
ここから彼の公式なデータが出て来始める。
8年後の1972年8月、マークは同大学、大学院へと進み卒業。同年9月、彼はフランスに戻り某大手コンサルタント会社に入社する。
この会社、実名では支障が出るので仮にCR社、としておこう。
彼はその後の数年、数々の現場を渡り歩き企業再編のノウハウを学んだようだ。
そして1979年より彼の取締役人生がスタートする。
まず彼が最初に経験した現場は慢性的な赤字に転落していた某製造業会社の経営再建だった。
彼の行った再建方法の詳細はここでは割愛させていただくが、やり方は堅実そのものだった。まず社長に会社建て直しを宣言させ、経費の見直し、サービス内容の見直し、取引先の見直し。コンサルタントの基本そのものである。
公式の資料のみなので何とも言えないが、彼は2年で、この会社を黒字に転換させた。そしてこの直後に彼は自身を解任させて同社を去った。
CR社の評価はまずまずだったようである。
その後も彼は銀行、小売業等数社の取締役に就いては経営再建、ないし利益の倍増をさせていく。中には多少のミス、現場との衝突もあったようだが、しかるべきフォローはきっちりこなしていて、特に現場の人間の意見は積極的に取り入れていたようだ。時にはわざと自身のポストを隠し、現場の人間の隣に席を置いて一緒に作業にあたったりするなど、茶目っ気のある人だという声も聞かれるほどだった。
そして1985年、マーク・ポズナーはMorello社の取締役に就任する。
ここも、これまでの現場と依頼内容はそう変わりはなかった。
当時、Morelloは質の高いクリスタルガラスと職人を排出していたものの売れ行きは不調そのもので、欧州のいくつかのテナントを閉店せざるをえない状況にあった。このままでは職人への給料も支払えなくなってしまう…Morello工房からの依頼内容は「職人への給料が支払える程度までの利益回復」というものだった。
マークはこれまでの現場と同じように、検討に取り掛かった。そして目を付けたのが、「アジアへの進出」。具体的には高度経済成長を経て世界第2位の経済大国へとのし上がり、当時まさにバブルを迎えようとしていた日本への進出である。
これが大当たりした。
当時の日本のことである。とんでもない金額につり上げても、商品は飛ぶように売れた。そして10数年分たまって埃をかぶっていた作品も瞬く間に売れ…気が付くとマークが就任する前の6倍以上の利益を上げていたのである。
マークはこれまでと同様、自身を解任させてMorello社を去ろうとした。
しかし、当時の社長や他の取締役がそれを許さなかった。というよりもこの数年の彼の働きによる社内での人望の厚さは凄まじいものになっていて、社員から辞職を取りやめて残ってもらいたい旨の署名が社員全体の9割近くにのぼって、集まっていたのである。
まんざらでもなかったマークはやむを得ず、CR社に相談した上で同社を退職。彼は晴れてMorello社の一員として、改めて取締役の座に就き直したのである。
その後もMorello社は事業の拡大を続けていく。日本のバブルはその後ほどなくしてはじけてしまったものの、アニメキャラクターとのタイアップやジュエリー業界への進出、そして次なるバブルを迎えようとしていた中国(上海、北京)への進出など、思い切った戦略を続々と打ち出していったため業績は緩やかになったものの拡大の一途をたどった。
彼は今、5年前より分社化したMorello Pacific社の会長、兼チェアマンである。社名の変更と同時に現在のポストに収まっている。が、座席は平社員のとなり、営業戦略の部署の一角にあって、意見を広く取り入れて精力的に動いているのだそうだ。
とまあ、ここまでが昨年出版されたマーク・ポズナーの著書から得た表向きの情報である。
それではここに、黒ウサギ内で通称"森山文書"と呼ばれている、Morello Pacific本社社員、森山信義の内部告発文書から得た情報を付け加えていくとしよう。
まずマークがMorello社の取締役に就いてから6倍以上の利益を上げるのに成功したまでの約5年。この間に何と、彼は社長を除く全ての社員をリストラし、自分の息のかかった人間に入れ替えていたのである。
これでは事実上のワンマン経営と変わらない。自分のイエスマンしかいないのだから、署名を集めるなどそれこそ、赤子の手をひねるようなものである。
ただし唯一クビにできなかったのが、お察しの通り商品生産者…ガラス職人達だった。それもそのはずである。もし彼らをクビにして他の人間を職人に据え置いたら…さすがに質の低下は顧客の目をごまかせないものとなってしまうだろう。それに彼らの中にはフランス大統領より与えられる最優秀職人の称号を持っている者もいる(それものっぴきならない人数で)。もしそんな者をクビにしたとしたら、彼らは国に訴えるだろう…事と次第によっては国から監査がかかる。そのようなことをされたら、現在は血縁と金でマスメディアを黙らせているさすがのマーク・ポズナーでも限界が見えようというものだ…信頼とブランドの失墜は避けられない。
こうしてマーク(およびその側近のMorello社の人間)はやむを得ず、職人達を据え置いた。
しかし、社員の職人達への扱いはそれは酷いものとなっていったようだ。
やり方はおおよそ、こうだ。
まず、職人を一人ずつ呼び出し賃金アップを引き換えにある誓約書を突きつける。
詳細は割愛させていただくが、ざっくり言うと、"今後はMorello社代表、Alphonse La Barberaの指示に従い作品の制作に当たって参ります"というものだったようだ。
これのどこに問題があるのか?とお思いの読者諸君。失礼した。このアルフォンスという男はマークの息のかかった人間、の一人である。つまりこの誓約書、"今後はどのようなことがあろうとも、マーク・ポズナー様の言いなりになります"という事とほぼ同意なのだ。
職人らも馬鹿ではなかった。彼らは約200年にもわたり、先祖代々受け継がれた技術と、モレログラスへの誇りを持っている。マーク・ポズナーのここ数年の"モレログラスの伝統に対する冒涜"ともとれる経営手腕を良く思っていない職人も多かった。結果、この誓約書にサインをしない者が続出した。
しかし、一部にはサインをした職人も存在したのである。
ここ数年の、ガラス職人に対する賃金カットは、相当なものだった。彼らのプライバシーの為、その実際の額は差し控えるが、その額はパリの日雇い労働者とそう変わらないものだったという。彼らは貧しさにあえいでいた、そして疲弊していた…結果、金に目がくらんでサインをした職人は3割にも上った。
こうして、職人たちは完全に2つの派閥に分裂してしまった。サインをした職人…[ラバーバラ派]と、サインをしなかった職人組合長、Djamel Auteuilを筆頭とする[オーテュイユ派]に、である。
ここから、モレロ村の内実(ガラス職人達は、モレロ工房創立時より一つの村落に暮らしている)はぎすぎすしたものとなっていく。
まずラバーバラ派は村の北部、丘の上の地区へ、それ以外の職人は丘の下の地区へそれぞれ転居させられた。
ラバーバラ派は度重なるMorello社からの注文をすべて受け入れさせられた。廃棄予定の作品の提出。やりたくもないキャラクターとのコラボレーション。その代わり、賃金は3倍以上に上がった。それだけではなく、福祉制度も特別なものが保障され、一流の教育制度が導入された学校と、最新鋭の機器が導入された総合病院、その他娯楽施設がいずれも安価で利用することができた。これらは全て丘の上の地区に建てられていて、南の地区の人間は使えない事は言うまでもない。
一方、オーテュイユ派の職人達はこれまでの伝統的な作品の制作に当たった。しかし賃金はさらに数%引き下げられ、生活は厳しくなっていった。
またオーテュイユ派は、ラバーバラ派の監視にも耐えなければならなかった。ストやクーデターでもたくらもうものなら即刻Morello社へ急報が飛ぶ。するとどこからかマフィアがやってきて、殺されはしないものの家族もろともとんでもない目に遭うのだ。ラバーバラ派も必死である。何故なら、もしこれでストやクーデターが実行されようものなら、その私刑は自分達に飛び火してくるのだ。そこに最早、かつての仲間への思いやりなど、消えてなくなったも同然だったのである。
こうして、あの誓約書が突きつけられてから4年が経ったある日。
オーテュイユ派筆頭、Djamelはついに職員組合の解散を発表、当人も引退を表明した。事実上の白旗である。
「軸」を失ってしまったオーテュイユ派がどうなってしまったかは想像に難くない。大半はラバーバラ派へと流れたようだ…そして11年経った今に至っている。一昨年よりDjamelの息子、Pabro Auteuilが水面下で動いてストも行っているそうだが、Djamelほどの求心力はないようだ。
以上が、現時点黒ウサギが持っている、マーク・ポズナー、およびMorello社とガラス職人達に関する情報である。
空が白んできた。
雪乃はそんな空を背に書類から眼を離すと、かけていた眼鏡を外し眉間に手をやって大きなため息をついた。
「そんな大した量でもないやろに」
畑野が思わず苦笑した。その手元では淹れたばかりと見えるコーヒーカップが2つ、湯気を上げている。
「量はそやけど内容がなぁ…」
雪乃は持っていた報告書をぽーんとテーブルに投げた。「ぐっちゃぐちゃやん、この会社!まるで…」
「まるで道頓堀のへどろみたい、やろ?」
畑野に先を越され、雪乃は口をへの字に曲げてしまった。
「森山は明言は避けてたけど、おそらくオーテュイユ派の人間…下手すると本人とつながってると思う。一時は社内でも戦ってた男やからな。」
「なるほど…それでMorello村の事情をここまで知ってるんか…」
雪乃は頷いた。
「ここまでが、俺らが持ってる情報の全てや、な。」
畑野は雪乃を見た。
「うん。」
「雪乃はどう見てる?」
「うん?」
雪乃は不意を突かれ、目を白黒させた。
「この報告書見て。どう思う」
畑野は最近、よくこういう聞き方をしてくる。
雪乃はへどもどしつつも、改めて報告書を手に取りぱらぱらとめくった。そして口を開いた。
「んー…まず気になったんは、Morelloに入る前と後、よなぁ。」
「…」
畑野はコーヒーを口に付けた。
「前が公式の情報しかないから何とも、やけど、もしこれがホンマに"堅実そのもの"な仕事ぶりやったんやとしたら、ちょっと…。まるで人が変わった見たいな感じがする。この、森山文書の情報を除いてみてもその印象はぬぐえん。」
「ほう。」
「だって、85年がMorelloの入りやろ?で、日本の出店がそのわづか1年後やん。私、コンサルとかよう分からんけど…これはちょっと…堅実なやり方からはほど遠い気がする。どちらかと言うと大胆、言うかばくち打ち、言うか…。」
「うん。なるほど。」
畑野はカップを置いて、「…他には?」
「…うーん…」
「森山文書の方はどう思った?」
「そっちなぁ…」
雪乃は苦虫をかみつぶしたような顔になって、はき捨てるようにこう言った。
「…見てられんかったわ。」
「…。」
畑野は何も言わず、まぶしそうな顔で雪乃の顔を見ている。
「あたしらは確かにこそ泥や。でも芸を愛する人間や。守銭奴共から芸術品を奪い取って。正しいと信じる人間の下に返して。浮いた金は私らのギャラと寄付…うちらはそうやって怪盗業をやってきた。黒ウサギ(うちら)は人の心を踏みにじる社会を許さへん。芸を踏みにじる社会も、や。少なくともあたしには、その自負がある。」
「うん。」
「マークのやり方は、この2つの逆鱗にベタ触りしとる。モレログラスという芸を踏みにじり。ガラス職人の心を踏みにじり…奴隷もええとこや。だから客観的なものの見方は無理や、今のあたしには」
雪乃は感情を押し殺すようにして言っているが、それでもその怒りは充分に伝わるものだった。
畑野はゆっくりとコーヒーに口を付け、一口飲んでカップを置いた。そしてこう切り出した。
「お前、今いくつや。」
「…16」
「もうそんな歳になったか…早いもんや」
畑野は誰にともなく言った後、「その歳でそれだけ整理された意見が言えるんは大したもんや。俺の同じ歳の頃よりはよっぽど大人や、な。そこはお前の周りに怪盗業に手ぇ染めた大人しかおらんかった、てのと女性というんもあるんかもしれん…が、まだ青いのも確かや。」
雪乃は黙して畑野の声に耳を傾けていた。そしてここでようやくコーヒーに手を付けた。
「ま、焦ることはないよ。まだその歳やし。むしろもう少し高校生らしく子供っぽいこともやったらどうやと思う時もあるくらいやわ…まぁとどのつまりがやな。この森山文書の内容もしっかり見る必要がある、っちゅうことや。冷静な眼で、な」
「…。」
だから無理や、言うたやん。と雪乃の伏せた眼が言っている。
「…俺の見立ては、こうや」
畑野はそんな雪乃に、こう言い切った。
「マークはモレロ工房そのものに強い恨みを持っとる。」
その一言に雪乃がぱっ、と目を上げ、畑野を見た。驚いたのである。
「まぁ正確には本人ではないんかも知れん…ただ少なくとも、マーク(当の)本人か、その周囲にモレロ工房を強く恨んどる人間がおって、マークはそれに突き動かされてるようにしてこの行動に出とる。どっちかや。」
畑野の口調は強く、きっぱりとしたものだった。
「…マークが単に業績を急ぎ過ぎた、という可能性は?」
雪乃が畑野を見たまま言った。
「限りなく低いな…それやったらあんな誓約書書かしたり、工房の職人達をわざわざ二分化させる必要はない、それこそ時間の無駄や」
「確かに…。」
雪乃が言った。「下手すりゃ製品の生産がストップするかもやもんなぁ」
「やろ?」
畑野はぴっ、と人差指でどこぞを指し、「森山文書の内容からは"マーク・ポズナーはモレロ工房の人間を恨んでます"ということしか伝わってこんのや。」
「…。」
雪乃はぐうっと目を閉じ、顔を傾け、その眉間に手をやった。そこには深いしわが刻まれている。
陽は、完全に地平線を離れていた。
2人の前にはトーストが二枚ずつ。部屋もパンの焼けた匂いがたちこめ、こちらの腹が鳴りそうだ。
「…で?」
そのトーストを飲み込み雪乃が、「これからマーク・ポズナーさんの過去を洗ってみましょと。こういうワケやな」
「そうや。…コショウいるか?」
畑野が目玉焼きを持ってやってきた。
「うん。ありがと。」
雪乃が皿とコショウのびんを受け取り、「とっかかりの目星はついてんの?」
「…うん。でなきゃあ夜中の訓練明けにわざわざ呼び出したりせえへんよ。」
畑野は笑って、一枚のモノクロ写真と、何やら沢山英数字が羅列された紙をすっと皿の隣に差し出した。
「ナニこれ」
雪乃がその二枚を覗き込みながらパンをもう一枚ほおばる。
写真の方は何かの集合写真のようだった。全員マントのようなものを羽織り、頭には帽子をかぶっている。大学の卒業写真か何かだろうか。
もう一つは名簿のようだった。左側にフルネームらしきアルファベット、右側はどうやら住所らしい。
よく見るとそのどちらにも、赤い丸印と青い丸印が入っている。
「その赤いのが、マーク・ポズナーや」
「?!」
雪乃は思わず写真の方をさらに覗き込んだ。それはブロンドの髪をした若い青年のようだったが、小さくて表情までは読み取れない。
「この時代の学生は同窓生同士の交流が今も盛んでな。今も定期的に集まりがあるらしい…とは言っても全員ではないけどな。で、都合よく大学のデータベースに名簿が住所付きで保管されとってん」
ということは調査班の田中直人の手を借りたということやな…と雪乃は思いながら、
「…全部が全部現住所やないけど、これはデカいな。」
「しかもや。これ」
と言って畑野は名簿の下の方の、今度は青い丸がされている一行を指さして、「この人。マークと寮が同室。しかも日本人や。」
「…すごいな。たまたま?」
確かに、その人物の住所は世田谷になっている。名前は、「Masamichi Saito」…。
「斎藤政道。今は東京で大学教授をしとる。専攻は哲学やと」
「…ふーん…」
雪乃はパンを食べきるとややあって写真に手を伸ばし、「何か手がかり、つかめるとええけどな。」
畑野は頷く代わりに、その雪乃の手元にある写真を見やっていた。
(中)
3日後。
畑野と雪乃は東京、世田谷の高級住宅街にいた。
畑野はすすけたスーツにネクタイなしのスーツ姿。雪乃はコンタクトは外し、あえて眼鏡にしてこちらも薄いグレーのパンツスーツ上下。髪も黒髪に戻して…というかウイッグを付けている(彼女は普段は茶髪の肩上ほどの髪型だ)。
歩いて数分もすると賑やかな商店街に出た。狭い通りに食べ物や雑貨の店が立ち並び、人でごった返している。そういや今日は土曜日だ。
東京はせせこましいな…。
雪乃は一人、心の中でつぶやいた。
某私立大学教授、斎藤政道から得た情報は、今後の調査の方向性を変えるに充分なものだった。
結論から言うと、マーク・ポズナー自身の過去とモレロ工房とは、何一つ関わりがないことがはっきりしたのである。
「この度はお忙しいところお時間いただきまして、ありがとうございます。」
数時間前。畑野は黒ウサギ上層部、佐藤弘毅にも見せたことがないようなそれはそれはにこやかな顔で、初老の紳士と顔を合わせていた。
歳は60を超えているだろうか。が、細身ですらっとした体格にやや小さめの顔が乗っていて、今でこそ白髪になってしまっているが、これも若い頃は相当モテたのではないだろうか。と、これは隣にいた雪乃の予想である。
この老紳士こそが、斎藤政道その人だった。
「いえいえ、おかまいも出来ませんで…」
老紳士、斎藤はゆったりと言って、「まぁ、おかけ下さい。なんでも、マークの学生時代が知りたいとか」
「ええ。実は今年ですね、マークさんは"2000年話題の人物10人"に選ばれまして…。」
と言って、畑野は某大手経済誌のA(実名は伏せさせていただく)をおもむろに取り出し、ふせんがされたページを斎藤に見せた。
「まぁこれは僕の担当紙ではないんですが、折角なので是非うちでも特集をやってもらえないかという声を読者様から多くいただきまして…。ご本人にもアポを取って、記事の件については快諾いただいたんですが、如何せん…まぁお忙しくてですね。インタビューは早くても2カ月は先になるだろうとのことでして、では先に周りの方々のインタビューからさせていただこうと、まぁこういうことになりまして。」
…よくもまぁここまですらすらと出てくるもんやわ。雪乃は顔に出さないようにしながらも心の中であきれていた。
しかし、実はこの畑野の話には結構綿密な計算が働いていたのである。
今、三人の目の前に広げられている雑誌は確かに本物のA紙だ。よって今年、2000年の10人にマーク・ポズナーが選ばれた、というのも本当である。これによってマークは今、各経済誌(特に日本の)からひっぱりだこであるというのもウソではない。…つまり、畑野のこの話が怪しまれる恐れはほとんどない、と言って良かった。
「ここ数年のモレロ社の快進撃は目を見張るものがあります。すでにご存じだとは思うのですが…。」
畑野はややあって、そのA紙に目を通す斎藤を見ながら、「さぞや優秀な学生さんだったのでしょうね。」
その時だった。
それまで表情の乏しかった老紳士、斎藤の顔から、何とも表現しがたい、微妙な空気が漂い始めたのである。
二人を乗せた小田急線、急行新宿行きは東北沢を通過していた。間もなく代々木上原だ。
一面の屋根瓦。洋風の洒落たものも目立つ。
今の雪乃なら、この車窓に映る邸宅のどこにでも盗みに入れるだろう。
「彼と初めて会うたのは入学のセレモニーでしたか…。向こうから声をかけてきたんですわ、寮を同室にせぇへんか、って」
斎藤の口から、低めのトーンと京都弁が飛び出した。
「…まぁお互い、あの大学ですからね。勉強に手一杯で、そんな腹割って話す、いうこともなかったんですがね。彼と同部屋やったのは1年。その後は彼が問題起こして、寮出たんですわ」
畑野と雪乃は思わず顔を見合わせた(というか、畑野の演技に雪乃が合わせた)。
「…と、おっしゃいますと。」
「…ケンカ、ですわ。」
「…は?」
「真夜中に電話で口論を始めよるんですわ」
「…!」
雪乃が今度は動いた。「先輩、これはオフレコにした方が…」
「…そうだな。この話はマークさんが話したらその裏付け、ということにしよう…」
畑野は言うと斎藤に向き直り、「それは…大変でしたね。当時電話といったら…今みたいにはいかなかったでしょうから…寮の?」
「えぇ、そうです。ロビーに一つしか無うてね…夜中になるとかかってきて、で口論が始まるんです。毎晩ですよ?それが…。で、当然ですが騒ぎになりましてね。当たり前ですやん、毎晩ロビー中に彼の怒鳴り声が響いてるんです、たまらんですよ。僕が大学の方に通報したんです」
「…。」
畑野の方を見ると、どう見ても演技ではない表情で聞き入っている。本当に知らなかったらしい。
「あの大学は向こうでトップですけど、生徒のバックアップ体制も充実してましてなぁ。当時からしたら…考えてみたら凄いですよ。教授、スタッフ合わせたら生徒とそんな変わらん人数、働いてはったんと違うかな…まぁそんなんで、とある講義でお世話になってた先生に相談したら、すぐ動いてくれはりました…。」
「ではマークさんはそれで寮を…?」
「ええ、出ましたよ。」
斎藤は手をひらひらと振って、「それで大学にも来んようなりました。退学したんやろか思てたんですけど、どうも休学してはったようですなぁ」
「…ではマークさんとはそれきりで?」
畑野はひとまず、先をうながすことにしたようだ。
「いえ、それが却ってあったんですよ。」
斎藤はあの頃を思い出したかのようにびっくりした顔になって、「2年ほど後のことでしたやろか…突然これまた電話がかかってきましてな。あの時はスマンかった、是非一度会って話がしたい、て。声の調子も変わっててびっくりしました。」
「ほぉ…。」
「会って開口一発、あの時は本当にありがとう、とこうですよ。は?ってなりましたけど、話一通り聞いて納得しましたわ…見当はついとったんですけど、やはり彼の家庭に問題があったんです」
「…では電話の相手はご実家だったのですね?」
「どうもそのようです。あと弁護士、やったかな。」
「弁護士、ですか…」
「…ご存じやとは思うんですが、彼は18の時突然、実の父親が息子の存在を公表しとるんです。」
「あ…」
雪乃はようやく、報告書の冒頭を思い出した。
「でも本人は全く知らんかったらしいんですわ…つまりポズナーの家の方、特に実の父親が独断で公表に踏み切ったらしいんです。で、その…父親の奥さん…つまり彼からすると継母ですな…がこれまた怒り心頭になって、彼をポズナー家に入れまいと弁護士まで立てて動き回ったらしいんです。彼からすればいい迷惑ですよ、向こうの内紛に巻き込まれたようなもんや…そらまぁ…怒りますわな」
「なるほど…。」
畑野は頷いて、「お話伺ってると、マークさんはこれまで、ポズナー家とは関わりなく生活されていたようですね?」
「ええ、そのようです。実の父親とも10年近う、会うてない言うてましたから」
「そうだったのですか…。それで18歳までのマークさんが公にされていないのですね…。何かあったのだろうとは思っていたのですが、やっぱりいわゆる、妾腹の子だったと…。」
「あの…」
ここで斎藤は急に言いよどんだ。
「何でしょう?」
畑野はぱっと顔を上げた。
「この話、ちょっと…」
斎藤は迂闊だったと思ったらしい。余計な話を出してしまったという顔だ。
「ええ、大丈夫ですよ。レコーダーは止めてあります。それに…おそらくですが、この辺りの話はご本人から伺えそうな気がします。」
畑野は、えっ、という表情になった斎藤に向かってきっぱりと言った。そしてこう続けた。
「…実はですね。今回のインタビュー、僕らもどんなお話を伺えるのか、全く知らないんです。ただ…」
畑野はここでいったん言葉を切って、「ご本人はこう仰ってました。『今こそ機は熟した。洗いざらいお話したいので、記事にしてもらえないか』と。」
「…。」
斎藤は腕組みをして考え込んでしまった。マークがそのような事を言った意図が分かりかねているようだ。
「まぁ結局のところはご本人から聞かないかぎり分かりませんけどね。」
畑野はそう言うと苦笑いを引っ込めて、「いずれにしろ、今伺ったご実家の話はご本人が話をしないかぎり記事にはいたしません。ご安心ください。」
「…そうですか。それは安心しました。何せ彼とはもう40年近い付き合いでして。折角の縁をぶち壊したないんです。」
ようやく斎藤は安堵したようだった。
二人を乗せた小田急線急行列車は代々木上原を出て、雑多な街並みをひた走っていた。間もなく終点、新宿だ。
その後のやり取りについてはわざわざこちらに書き述べるまでもなかったので、ざっくりこちらにまとめることにする。
あの電話の口論騒動からうら若き斎藤の大学への通報があってすぐ、マーク・ポズナー(当時はマーク・メイヤー)はハーバード大学を休学した。
ただ、休学中も大学側から手厚いサポートがあったようだ。どうもマーク本人にも弁護士を付けて、どういった内容かは分からないが何らかの係争の末、和解をしたとのことである。これは異例のことだ。おそらく大学側に相当、彼個人に肩入れしている人間がいた、と見るべきだろう(と、これは畑野の推測である)。
この係争の内容については調べてみないと何とも言えないが(畑野もこの辺りは興味がないようだった)、少なくともマークはこの和解によって、残り7年の学費、生活費に充分足る金を手にしたようだ。その代わり、本人が嫌悪していた"ポズナー"という姓も付いてきた、とマークは斎藤に笑ってみせた、とのことである。
またマークは生い立ちについても話してくれたと言う。
彼は幼少の頃、フランスは南部のニースにいた。
しかし良い思い出はほとんど無かったという。それもそのはず、彼とその実母、アンヌ・メイヤーがいたそこはポズナー家の別荘で、実質、継母であるテレーズ=フランソワ=デュ=ポズナーの持ち物だったのである。そこからしても、マーク親子がどのような扱いを受けていたか、想像に難くないというものだ。
またその別荘の使用人、そして2人ほどいた召使いからも、それは酷いいじめを受けていたようだ。
階段を降りようとすると十中八九後ろから蹴り落とされる。
床にホコリでも落ちていようものなら即刻親子のせいにされ、酷い折檻を使用人たちから受けた。
食事は一日一回。それも使用人たちの食べ残し。それも使用人たちのいる食堂の床に直置きされ、犬のような食べ方をしなければならなかった。冬の寒い日にはよく頭から冷たいスープをぶっかけられたと言う。
そして父、ベンジャミンは全く助けてくれなかった。後になって分かったことだが、あの頃は第二次世界大戦の直後だったこともあってポズナー家の資金繰りは悪化、金策に走り回っていたらしい。また彼は婿養子である。ポズナー家はテレーズのやりたい放題だった。そんな中よくも、パリの本家屋敷で下働きをしていたアンヌに手を付けていたものだが…。
しかし、そんな地獄のような状況にも転機が訪れる。
それはマークが8歳の頃だった。
空家だった別荘の隣に、一人の老婆が越してきたのである。
この老婆こそが、後にマーク親子をあの別荘から秘密裏に連れ出しカナダへと亡命させた、モーリス公爵夫人だった。
(…モーリス公爵夫人やと…?!)
畑野は目をむいた。
モーリス家はポズナー家とは比べ物にならないほどの名門である。歴代で外交官を務め、当代のモーリス公爵もフランス政治への発言力が強い人物と聞いている。そしてたしか、人道支援でも有名だ。
(いずれにしても…)
マーク親子はその後、カナダにあったモーリス邸の別邸の使用人となり、ようやく安息の日々を過ごしている。その間にモレロ工房と何らかの接触があった可能性はなくもないだろうが、そのような…モレロへの憎しみを抱くに至ったような事件がカナダで起きうるだろうか。
ちょっと、イメージがつかない。
そして8歳までのマークと言えばあの酷い環境である。モレログラスどころではない。
(…マークは、違うわ…)
班長の伊藤、そして別ルートで探りを入れてもらっている上層部の佐藤にも相談する必要があるだろうが(というか、正直、畑野は今日、斎藤から入手した情報が思った以上に膨大で少々頭がパンクしかかっていた)、少なくとも20までのマーク・ポズナーはモレロ工房とは無関係だ…おそらく。だが。
しかしこの"おそらく"は相当可能性が高いものだ。と畑野は見ている。
「…畑野さん?」
見ると、雪乃が顔を覗き込んでいる。
「…おお。」
見ると、東京だ。山手線に乗り換えていたのをすっかり忘れていた。
畑野と雪乃は人込みをかき分け、電車を降りた。
今の東京駅は工事も終わり、丸ビルも新しくなって休日ともなると女性やカップルでにぎわう街に生まれ変わっているが、当時はその工事の真っ最中。華やかさはカケラも無く、灰色の工事用の幕にスーツとアスファルト、そして排気ガスがもうもうと跋扈していた、そんな時代だ。
二人はそんな光景をしり目に、新幹線の乗り換え口へと向かった。
しかし、畑野の脳裏には、全く別の光景が焼きついていた。
Morello ETERNAL LIGHTS -喜びのかたち- 特別招待状。
期日、2000年11月3日(金)。
会場、恵比寿ガーデンプレイス・センター広場。
主催、恵比寿ガーデンプレイス、モレロパシフィック株式会社。
後援、在日フランス大使館。
特別協賛、S株式会社。
それは二人が斎藤の自宅を辞そうとした際、彼の書斎の机の上に置いてあったパンフレットだった。
あぁ、それですか…丁度彼から贈られてきたものです…来賓として出席して欲しいそうです…僕ら二人の結婚祝いにうちのも是非言うてねぇ…日本の生活長なったせいかえらい気ぃ、使うようなって…。
それは、今年11月3日に予定されている、Morello ETERNAL LIGHTSの点灯式の特別招待状だった。
その一週間後。
畑野は例によって伊藤に呼び出され、神戸市須磨区、高倉台の扇キ山にある河上商事の別荘の地下にいた。
重い扉を開けると、久しぶりな顔が2つ。1つは班長、伊藤貴志。そしてもう1つ。
「よう。久しぶりやな。」
それは上層部の佐藤だった。
「…どうも。」
畑野はへこりと頭を下げた。
その姿を見て、ようやく伊藤は(畑野さんは佐藤さんのことが苦手だったのか…)という事実を知った。
「報告書は見さしてもろた。おつかれさん。こんな短期間でようこんだけ調べたな。」
佐藤は言った。
「何とか斎藤センセのインタビューで引き出せるだけ引き出してきました。それよか、礼ならおたくの裏秘書に言うてください」
畑野は言った。
「…やっぱりな。このレポ書いたんは利佳か」
佐藤の言に畑野は黙って頷いた。
「うん…、分かった。」
と言いながらも、佐藤の顔には(あいつ、余計な気ぃ回しよって…)と書いてある。
伊藤は失笑した。
「…そちらはどうでした?」
失礼します、と畑野は手前のソファに座った。
「コレに比べたら大したコトは分からなんだわ」
佐藤はまるで外国人のように方をすくめた。
実は畑野、佐藤に別方面からのマークの探りをお願いしていた。今日はその辺りの話を"お伺いに"来たのである。
「パーティーの方は上手いこと潜り込めたんやけどな…参ったわ。」
佐藤は頭をかいて、「行ったらものの見事に男性しかおらんのやもん。ウェイターも美系の男ばっかりで…」
「あぁ…なるほど。そういうアレだったのですね。」
伊藤は納得した。
「俺、その辺何も知らんと行ったもんでなぁ。まぁ久しぶりに潜入調査っぽいことしたから結構楽しくてそれは良かったんやけど…最初はギョってなったわ。」
佐藤は言った。二人はまた失笑した。(楽しかった、やて…)と思ったに違いない。
「…で、その男性同士のカップルだらけのパーティーの中に、マークも居た、という事ですね?」
伊藤は先を促した。
「あぁ、間違いない。あいつは男色や…で、驚くなや?」
佐藤は言って、「マーク(あいつ)のコレな、アルフォンス・ラバーバラやぞ」
「?!」「何やて」
アルフォンス・ラバーバラ。
モレロ・パシフィック社の社長だ。
「公然と連れて来とったわ。腰に手ぇ回してな…いやぁ…」
「それは…いやぁ…ってなりますわ」
それは絶句だったろう。畑野は同意した。
「やろ?」
佐藤は身を乗り出し畑野を見上げるようにすると人差指でピッと畑野の方を指した。そしてこう続けた。
「でもまぁ…確かにスキャンダラスなネタやけど、上流階級で男色なんて珍しくもなんともないしやな。個人の事やし。だからコレに比べたら大したことは分からなんだ、て、そういう意味や」
「なるほど…」
「しかし、これではっきりしましたよ」
伊藤は言った。「マーク・ポズナーはこの18年間、モレロ工房とは全く関わりがない」
「…うーん…。」
上層部、佐藤弘毅はソファの背もたれにふんぞりかえって、動物のようにうなってしまった。
「せやけど、今の奴はまるで復讐の鬼のようにモレロ工房の伝統と芸に泥を塗りよるぞ」
畑野は伊藤を見た。
「そうなんですよね…。」
「…しかもやり方が陰湿や」
佐藤が口を開いた。「そして何故か、状況が例のシャンデリアに向かいよる」
「…。」
「…。」
その間は1分もあったかのように長かった。
「これは調べる先を間違ったかもな…。」
佐藤はその間を切り破るように口を開いた。
「…。」
「ラバーバラ、行きますか…。」
畑野が佐藤を見た。
佐藤は二度、三度と頷いて、「すまんな。俺の見当、外れとって…。」
「何言うてるんですか、アンタらしくもない」
畑野は思わず笑ってしまった。
「…。」
「そうですよ。ここまで調べんとラバーバラには行き着かんかったやろし。この流れは必然やったでしょう。」
伊藤も言った。
「うん、まぁ、そうか…。でもまぁ、な…それもあるんやけどな…。」
佐藤は少し言いよどんだが、ややあってこう続けた。
「これはつらい調べになるような気がしてな…。」
畑野は思わず、伊藤と顔を見合わせた。
しかし、この佐藤のカンは正しかった。
これより後、第二班メンバー、畑野和宏と森雪乃はさらなる、"人間の心の闇"へと足を踏み入れることとなる。