07 箱庭の憧憬
「すごいね、マジで」
ゴールデンウィークも過ぎ、クラスの雰囲気にも馴染み始めていた五月中旬。
ご満悦な浜島の様子を不思議に思って見ていると、横から柳瀬が注釈を加えてくれた。
「新入部員の数が、僕らの学年の倍以上なんだ」
しかも半分以上が未経験者という前代未聞の状態らしく、未経験で入部した浜島も本当の意味で“先輩”になれると上機嫌なのだ。
「それにしても、……なぁ」
突然苦々しく表情を歪める浜島。
四月に講堂で新入生を対象に部活動紹介があり、剣道部は平岡さんと永田さんと柳瀬が出たらしい。
らしい、と言うのはロングホームルームの時間で新入生と各部の代表が講堂へ行き、あとの生徒は除草作業だったから。除草中の雑談の中で浜島は、本来なら3年生がプレゼンするのに「上段者を差し置いて実演披露なんて恐れ多いわ」と嫌味まがいの逃げ口上で、柳瀬たちに押し付けたのだと憤慨していた。
新入部員たちの中で平岡さんと永田さんの二人に人気が二分していて、その熱狂ぶりはファンクラブでも結成しそうな勢いなんだとか。部活動紹介を丸投げした3年生たちが顰め面している様は、最初こそ痛快であったものの、妬みの矛先は彼女たちへの反感という形で一層風当たりが強くなっているらしい。
「女子の嫉妬は怖いよ」
柳瀬が嘆息すると、浜島が反論する。
「男の嫉妬だって充分ややこしいと思うけど?」
女子ばかりでなく男子の中に堂々と平岡さんファンを公言する子がいて、富樫の虫の居所がも悪いようだ。
そういえば五月に入ってから富樫の姿を殆ど見ていない。
四月中は放課後に教室の前で柳瀬たちを待っているのを見かけた。
富樫が来たタイミングで永田さんが柳瀬にノートを見せてと呼び止める。浜島も一緒に足止めになり「繭子、富樫くんと先に行ってて」となる。こんな光景が常だった。
柳瀬も浜島も、永田さんが気を利かせていることは分かっていた。
仲睦まじく並んで歩く後ろ姿は、本当に二人はカップルなんだなと再認識するにはお釣りがくるくらいだった。
平岡さんと同じクラスになり、今まで知らなかった面がたくさん見えてきた。座った背筋がとても綺麗なこと。授業中、黒板を見ながら眉を顰めたり頷いたり、本人に自覚はないのだろうが感情が顔に出やすいこと。時折睡魔と戦っている姿は、盗み見したまま目が釘付けになってしまいそうなほど愛くるしい。カクンと落ちかけて慌てた姿はもっと可愛い。
誰にでも分け隔てない態度の彼女は、僕みたいにクラス内で“その他大勢”に分類される男子や女子にも気さくに接して、たちまち皆と打ち解けていた。
最初は人気者の女子から用事以外を話し掛けられる状況に警戒して戸惑って彼らも、いつの間にか平岡さんとは普通に話すようになっている。彼女みたいな人を“人たらし”と言うのだろうか?
僕も例に漏れず彼女と言葉を交わしている。まだ僕からは挨拶くらいしか声を掛けたことはない。挨拶だけでも大出世だと思っている。あんな人気者で可愛い女の子と挨拶することが日常になるなんて、小学校入学からついこの間までの自分からは想像すらし得ない超常現象だ。
彼女と同じ新桜ノ宮中出身の杉野の話しでは、彼女の家は桜ノ宮の古くからの高級住宅地にある大きな日本家屋のお屋敷だとか。
新桜ノ宮中学は桜ノ宮の中心部が校区で生徒数も多く、杉野と彼女は同じクラスになったこともなく接点もなかったけど、中学の時から彼女は人気者だったと言っていた。
派手な性格でもないし派手なグループの子というわけでもなかったから、表立ってチヤホヤ騒がれていなかったせいで、平岡さん本人はおそらく自分が人気者だということに無自覚だろうと杉野は言った。
同じクラスになって「杉野くん、同じ中学だったよね?」と話しかけられて吃驚したと言った杉野は、嬉しさを隠すように頑張っているみたいだったけど、心の中がダダ漏れなくらい顔がほころんでいた。
ひ弱で気弱で貧弱で、友達も口数少なくて、ゴワゴワの癖っ毛で見た目も性格もパッとしない地味男の僕。かたや容姿端麗で文武両道で誰にでも優しい気さくなお嬢様。
分かってる、同じ空間に居られるだけでも畏れ多いってこと。彼女にとって僕もクラスメイトの一人だってこと。クラスメイトとして認識してもらえて毎朝声を掛けてもらえるだけで僕なんかには充分に幸せだってこと。
毎日言葉を交わすようになったら、もっと話せるようになりたいとか友達だと思ってもらえる間柄になりたいなんて欲も湧いてきてしまうかと思ったけど、僕もそこまで身の程知らずというわけではなさそうだった。
近くなった気がしてもやっぱり遠い存在だってことを毎分毎秒刻まれるように思い知らせる日々の中で、憧れに近い着地点に落ち着いていた。
平岡さんには彼氏がいて、相手は放課後にいつも迎えに来ている6組の富樫だということは、すぐにクラス中で認識されることとなった。クラスの男子の殆どが、他の女子とはまったく別次元の親しみやそれ以上の感情を抱いているの彼女を見ているのだから、特別な立ち位置にいる男子の存在を感じ取れないわけがなかった。
もっとも学校内で二人が一緒にいる姿は放課後くらいだけと、特に付き合っていることを隠している気配はなかった。手を繋いだりじゃれ合ったりする糖度の高いカップルではないけれど、目を細めて穏やかに笑いながら彼女の隣を歩く富樫の横顔は、僕たちには見せないような柔らかさがあった。
その富樫が最近顔を見せない。
「富樫、最近だいぶこじらせちゃってるからね」
恋人でも浜島や僕たちでさえ、平岡さんが誰からも好かれているこの状況を目の当たりにしたら複雑な気持ちになるのだから、富樫の立場では尚更かもしれない。ましてや部活に行けば、平岡さんファンの後輩たち──
「で、他の女子とイチャイチャと」
浜島が吐き捨てると、永田さんが近づいて来て浜島の隣の席に乱暴に座った。
「同感。なんかムカつくよね」
「誤解だよ」
柳瀬が笑って否定する。
「カップルにしか見えないけどな」
「そうよ、誤解なわけないじゃない。どうかしてるわよ、加納さんも富樫くんも」
浜島と永田さんが文句を分かち合っている横で、柳瀬が僕に事の概要を説明してくれた。
話しに参加してたわけじゃないんだけどな。席が浜島の前だからたまたま居合わせただけなんだけどな。
加納 祐美さんという富樫の幼馴染みの子がいて、二人は今同じクラス。
苦手なのに物理を取ってしまった富樫にノートを見せたり、他の教科も居眠りしたり横着しようとするのを見兼ねて世話を焼いているとのことだった。
「幼馴染みだからって、同じ学校に彼女がいる男に甲斐甲斐しく世話を焼くのって、どうなの? ママじゃあるまいし。普通、彼女に頼りなよとか言うもんでしょ?」
それに対して柳瀬は、富樫の性格上格好悪い部分を彼女に見せたり頼ったりは出来ないよと言った。
「じゃあ自分で何とかすれば良いだろ。だいたい俺たちだってよりによって一番苦手な物理を富樫の誘いで選択したのによ」
「確かにそれに関しては僕たち富樫に巻き込まれた感はあるけど、こっちは身近に永田さんや畠中ちゃんみたいに物理が得意な心強い友達もいるし」
「私の得意科目より柳瀬くんの苦手科目の方が優秀よ。役に立てるレベルじゃないわ」
「6組にだって好きで物理を選択した連中が集まってるだろ?」
「二人とも、熱くなるなって。ヤナちゃんが困ってるじゃん」
僕の隣の席で音楽を聞いていた風に見えた、ガクちゃんこと東堂 学がイヤホンを外して大きく伸びをした。
ガクちゃんは明るくて真面目で爽やかな見た目そのままの、好青年を絵に描いたような人。身長も高いし、誠実だし、男らしいし、顔も整ってるし──僕から見たら、彼女がいないのが不思議なレベルで非の打ち所がないくらい格好良い。
ラグビー部のなかった東高に同好会を申請して部活動として立ち上げた発起人がこのガクちゃんであると、聞いたことがある。最近では人数が集まらなくてラグビー部は近隣の高校と合同という形が多いらしいのに、男子生徒の少ない東高で部員を二十ニ名集めてしまったというから、人徳も行動力もかなりのものだ。
そんなガクちゃんに彼女がいないなんて東高の黒魔術としか言いようがないと浜島も言う。
インドア派で地味な僕なんかとはあまり話す機会がないようなタイプなのに、席が隣りになって早々に「俺、 “まなぶ” って名前なんで友達には“ガク”とか呼ばれてるんだけど、そんな感じでよろしく」と気さくに声を掛けてきてくれた。それ以来、僕も“ガクちゃん”と呼んでいる。
「なに、東堂くん、聞いてたの?」
永田さんが眉を顰めると、ガクちゃんは破顔して「だって永田さんの声、大きいからさ」と永田さんを赤面させた。
「俺は富樫くんも幼馴染みの女子もよく知らないけど、逆に言ったら富樫くんだって浜ちゃんやヤナちゃん以外の2組の男子をよく知らないと思うんだよ。自分のよく知らない男子だらけの2組で平岡さんが普通に楽しそうに過ごしてるように見えると思うよ? 特定の誰かとじゃなくてもさ」
「富樫くんが好きなのは相手次第で態度を変えたりしない繭子でしょ? 繭子は何も変わってないわ!」
「最初は誰からも好かれる所に惹かれても、自分だけを見て欲しいって思うようになっていくもんじゃないかなぁ?」
ガクちゃんの言葉に永田さんが押し黙った。
「俺なら妬くな。こんな風に言えるのは、今好きな子がいないからだけどさ。実際に好きな子が出来たら、妬いてるなんて恥ずかしくて認められない。余裕のある男ぶるけどね」
「理解できるっていうことと、だから許せるっていうのは別だと思う」
永田さんの放った言葉は、それまでと打って変わって低く静かなトーンだった。
「富樫くんと加納さんがジャレてると、繭子は富樫くんに声かけずに戻ってくるのよ。何で彼女が遠慮しなきゃいけないわけ? 繭子本人は気にしてないって言ってるけど、どう考えたって気分の良いもんじゃないわ」
永田さんは乱暴に前髪を掻き上げて溜め息をついた。きっちりと一つに結んだ長い髪の束がハラリと揺れる。
「そのくせ放課後になると繭子と道場まで幸せオーラ全開で歩いてて。富樫くんなんか出来損ないのインド人みたいな顔してモテ男とか勘違いも良いところよ!」
永田さん、それはインド人にも富樫にもかなり失礼だと思います。
チャイムが鳴り先生が入って来て、ガクちゃんも柳瀬も何か言いたそうな顔のまま、それぞれが席へ戻った。
「ガクちゃんみたいなヤツと付き合えば良かったのにな」
浜島が時々言うそれを、ガクちゃんは知らない。
“自分だけを見て欲しいって思うようになっていくもんじゃないかなぁ?”
ガクちゃんが言ったこの言葉が、後々長きに渡って悩む課題になるとはこの時は思いもしなかった。
永田さんの話し──ジャレ合う富樫たちを見て気づかれないように踵を返す平岡さんが、本当にそれを気にしていないのか──そればかりが頭を支配していたから。
チョークが黒板を擦る乾いた音に、ヘリコプターの歪んだプロペラ音が重なる。
夏はもうそこまで来ている。