06 春フィルター
「なんで休み明けってこんなに怠いんだろうねぇ」
サラサラした前髪を風に靡かせて隣を歩くまいちゃんの不安定に掠れた声がクラクションの音に流された。前髪を長い指で掬って戻す。色白のまいちゃんは白い額に広がる赤いニキビを気にしている。
「大悟くん、もう東京? 連絡くれたら積荷くらい手伝ったのに」
「気持ちだけでもありがとう」
四月になって一週間くらいだというのに、月が変わるだけで、あたりの空気まで明るく色づいた気がする。そこになかったはずの草があり、当たり前のように花をつけ、ずっとそうだったかのように風景として溶け込んでいる。
冬場には空気まで凍って匂いを閉じ込めていたものが、春になり溶け始める。学校のそばの街道沿いのガソリンスタンドからはガソリンの匂いがひときわ漂ってきた。
兄さんは大学に通うため三月の最後の週に家を出て東京で一人暮らしを始めた。本人曰く第二希望にどうにか引っかかった、とのこと。元々私物が少ない兄さんだけど、引っ越しの荷物は予想していたよりもずっと少なかった。
内見に行った母さんは「今の賃貸って家具や家電なんかも一揃え付いてるのねぇ」と感心していた。
それにより僕と進悟の相部屋生活にも終止符が打たれ、僕は兄さんの使っていた一人部屋へと栄転になった。
進悟も部屋を一人で使うようになって僕が使っていたベッドや机や本棚が邪魔になるだろうと思ったが、「大悟兄が帰ってきたら俺の方に泊まってもらうし」と進悟が言い出し、僕は兄さんの部屋に家具類は据え置きで、“居抜き物件”に入居した。
僕にとっては、まだまだ肌寒い四月の上旬。外の空気は溶け始めたのに、家族が一人抜けた家の中はどこか寂しく硬質な気配が漂っていた───
一目で真新しいと分かる制服に身を包んだ人、春らしい淡い色のスーツを着た同伴者たちが前を行く。それぞれの背中には、この道を歩くことに馴染んでいないそわそわした高揚感が見て取れた。
僕も一年前はこんな感じだったのだろうかと、こそばゆい気持ちになる。中身は何一つ変わった気はしないけど。
「なんか一年って、過ぎてみるとあっという間だよね」
言葉の後半はアクビでグダグダになっていたから、思わず笑うとまいちゃん本人もつられて笑った。
まいちゃんこと、米原 薫。名前もあだ名も女の子みたいな彼は同じ東高に通う中学の同級生で、僕に年賀状をくれる数少ない友人の一人。
家が近いこともあり、ほぼ幼馴染みという感じ。年のうち半分くらいは、こうして一緒に登校している。と、言っても約束や待ち合わせなどしているわけでもない。まいちゃんの方が学校から近いため徒歩が多く、僕は気分で自転車だったり徒歩だったりだが、遭遇率も高いから自然と一緒になる。
僕より身長が高い彼だが変声期が遅く、元々おとなしい性格だったけどからかわれることを厭んで思春期になる頃にはますます無口になっていた。変声期が終わりかけの今は不安定な声をイヤがっている。
お互いに口数が少ないものの、そんなところも含めて昔から知っている同士、一緒に登校していても居心地が良い。
選択科目の希望調査用紙が配られた翌朝、当然のようにその話題になった。お互いが思った通り、二人とも似たような選択だった。
「あくまで聞き囓った話なんだけどさ、物理少ないらしいね」
まいちゃんが1年の時の担任の先生は、理科は実験室への移動教室が多いから選択した理科の科目でクラス単位にまとまる可能性が高いだろうと言っていた。富樫の言っていたことはあながち間違っていなかったみたいだ。
富樫たちがどんな選択希望を出したのかは分からない。
選択希望を揃えることである程度の話はまとまったらしいのだが、実際にどの科目を選択するかで揉めに揉めたらしい。最初は多数決で履修したい科目を調べたところ、剣道部にも数式が嫌いだったり看護や医療方面へ進学したい女子たちが生物を希望したという。ところが富樫が「生物が圧倒的すぎてクラスがたくさん出来る可能性や、生物以外の第二希望以外に回される人が出てくる可能性が高すぎる」と物理選択を主張したらしい。生物以外なら化学をと考えていた受験科目に必要組が反対し、更には理数嫌いの浜島も「物理だけは絶対に嫌だ」と猛反発。オールマイティとはいえ文系の柳瀬も難色を示したらしい。
そんなわけで富樫の画策の顛末がどうなったのかは知らないけれど、物理希望者が少ないとなるとまいちゃんと同じクラスになる可能性は高そうだ。
新しいクラスの新しい人間関係が不安だったけど、気心知れた人が一人でもいそうなことが緊張感を和らげる。
正門から昇降口までの新入生たちの雑踏を抜けると、すぐに在校生たちの人の波が現れた。
既に階段の途中から、人の声や足音などのざわめきがコンクリート壁に反響する。休み中に人の出入りが少なくなっいたせいか、それとも雑踏のせいか、埃っぽい空気が喉の手前でざらつく。
1年の時の三階から一つ下がって2年の教室は二階になるので毎日の昇り降りが少し楽になる。二階まで階段を上がりきると、人混みの中にひょろっと身長の高い猫背の姿を見つけた。
「あ、畠中ちゃん」
柳瀬はこちらに気づくと、人懐こい笑み浮かべた。
「今年もまた同じクラス! よろしくね」
あれ? 理科括りのクラス編成じゃなかったのかな?
柳瀬が物理を第一希望にすると思えないし───、それとも推定一番人気の生物を第一希望にして第二希望以下に回されたとか。
「そ、そうなの? 何組?」
「2組。浜島もまた一緒」
階段を上がって右側二つ目の教室、2年2組の壁に貼られた名簿に僕の名前があった。
同じように2組のクラス名簿を見渡して名前がなかったまいちゃんは「クラス一緒じゃなかったんだね。とりあえず俺も自分のクラス探すよ」と軽く手を上げて雑踏に消えた。
同じクラスになるだろうと思っていたまいちゃんが去っていき、別のクラスになると思っていた気心知れた柳瀬が同じクラス。突然失った安堵と埋めらた安堵で頭が混乱する。クラス編成に法則はなかったのだろうか。
しかし目の前の名簿は東高なのかと目を疑うくらい男子の名前が多く、赤字で書かれている女子の名前はざっと見ただけで十人前後のようだった。
そして──
「繭子さんも同じ組になったね」
僅かな赤い字の中に“平岡 繭子”の文字に心臓がドクンと鳴り、息を呑む。息でも呑まなきゃ「えっ?!」なんて言ってしまいそうだったから。きっと僕は夢でも見ているんだろう。
何度まばたきしても彼女の名前はそこにあり、ますます混乱し動揺した。一体どうなってるんだろう。富樫と同じクラスになるんじゃなかったの? いや、そんなことは決まってなかったけど。とにかく何が何だかさっぱり分からない。
「富樫は6組だって。あっちがもう一つの物理クラスだろうな。さっき畠中ちゃんと一緒にいた米原くんもね」
浜島の第二声で我に返る。振り向く前に浜島が小気味良く僕の肩を叩いた。
「なんだよ、畠中ちゃん。物理選択してたのか。言ってくれよな。隣の席だったのに水くさいよ。畠中ちゃんが物理だって分かってたら、もっとすんなり決めてたのに」
「えっ、どうして?」
「畠中ちゃん頭良いし教われるから心強いじゃん? それに仲が良い友達がもう一人また一緒かもって思ったら楽しみだろ」
浜島の言葉に胸が詰まった。
浜島や柳瀬とは、僕だって親しくしているつもりでいた。けれど、浜島や柳瀬にとって学校生活全般はもちろんのことクラス内に限っても剣道部の仲間との繋がりが強固でそれと肩を並べるものは存在しないのだと思っていた。だから自分は彼らにとってオードブルの中の一アイテムだと。そんな風にどこかで卑屈になって、そしてまた僕にとっても彼らとは相互的な位置付けなのだと思おうとしていた。特別に親しい間柄ではないのだと合理化していた。ごめん、そしてありがとう。本当に。
三人で教室に入り、とりあえず空いている席に腰を下ろした。1年の時と同じように柳瀬の後ろに浜島、その隣に僕。
「男子多いなー。東高じゃないみたい」
浜島の言うとおり、まばらに埋まり始めた席は男子ばかりだった。それぞれの同じ中学だった男子や1年の時に同じクラスだった男子と顔を合わせ、そのたびに軽く挨拶を交わす。
「2年は女クラが三つだってよ」
1組と2組、6組と7組が共学クラスで合同、真ん中の3、4、5組が女子クラスだと浜島の友達が言っていた。6組はまいちゃんや富樫たちのいるもう一つの物理クラスということだろう。やはり同じように男子の方が多いらしい。
極端に女子が少ないことを残念がっているような声も聞こえたが、それが建前のように聞こえるのは気のせいではなさそうだった。女子ばかりで肩身が狭い空間よりも気が楽に感じたし、残念そうな声をあげていた男子たちも満更でもなさそうに見えた。
「あ、まゆちゃん!」
窓際の前の方の席に固まっていた三人の女子のうちの二人が立ち上がり、後ろの扉の方に向かって大きく手を振った。
少し前に浜島と柳瀬に挨拶していた二人は剣道部の子で、小柄で眼鏡を掛けている方が久保 明日香さん、色白で髪の長い人が斉藤 文乃さんだと浜島が教えてくれた。二人とも1年の時は隣の4組だったらしく、合同の授業もあったはずだけど見たことない顔だった。
彼女たちに手を振っていた平岡さんが僕たちの視線に気づいて近づいてきた。
「1年3組で見た景色そのままなんですけど」
彼女は可笑しそうに笑った。
「知ってる子がたくさんいて嬉しい。楽しくなりそう」
彼女は大きな目を細めて子供のような笑顔を浮かべた。
「物理苦手なのでお世話になります」
おどけた口調のまま、ゆっくり頭を下げる彼女の髪がはらりと揺れ、いつかの髪の匂いが鼻腔を擽った。
春の匂い──
咄嗟に思った。今朝、登校中に感じた春の匂いと種類は違うかもしれないけど、ここにもあった…と。
浜島が彼女に調子を合わせて丁寧に「ヤナちゃんはもちろんのこと、畠中ちゃんも相当優秀ですから」と指を揃えて手のひらで僕を示した。
「心強いクラスだね」
彼女は笑顔でそう言い残し、呼んでいた女子の所に駆け寄って行った。
楽しそうに笑い合っている彼女の横顔が僕の目の奥で、まるで切り取られた絵画みたいに写った。ふわっと薄桃色の霞ででも掛かって、花びらなんか舞ったりして春の匂いがしそう。なんて。こんな風に僕の日常と彼女の日常が同じ場所になった幸運が僕の気持ちに“春フィルター”を掛けたんだろうけど。
予鈴が鳴り、廊下にいた生徒たちがバタバタと教室に駆け込んでくる。
担任は江坂先生。1年の時に物理の授業を受けていた。研究職の人みたいに白衣姿が馴染んだ江坂先生の独特の雰囲気は嫌いじゃないけれど、声を荒げることもなく抑揚もなくボソボソ喋るので授業中は眠くなってしまうのが玉に瑕なんだよな。
先生の指示で、各々が好きな席に座っていたのを名簿順に移動して座り直し、簡単な自己紹介が始まった。
僕の後ろの席に着いた浜島がシャープペンで僕の背中を突つく。
「嬉しいって、あれ。どう考えても俺たちに気を使ったよなぁ」
さっきも自分の口で物理が苦手だと彼女は言った。富樫や永田さんに説得されたのかもしれないけど、苦手な科目を選択までして同じクラスになるよう揃えたのに富樫とクラスが別れてしまった。
「俺さ、なんかすげぇ嫌な奴なんだよ。2組の名簿の中に繭子さんの名前見つけた時、無意識に富樫の名前を探してたんだよ」
なくて──正直、心のどこかで富樫を蹴落とした気分になった気がする、と浜島は苦笑いした。
「繭子さんにしてみたら、なんで富樫じゃなくて……同じクラスなのが俺やヤナちゃんなんだ? って話しだよな」
久保さんや斉藤さんと楽しそうに笑い合ったり、後から入ってきた永田さんと両手でハイタッチをしていた平岡さんの笑顔は偽物には見えなかった。
それとこれとは違うのだろうか。やっぱり本当はがっかりしているのかもしれない。
富樫はどんな気持ちでこのクラス替えを受け止めたのだろうか。
ふと彼女を見た。前の席の女子と変わらぬ笑顔で談笑していた。
けど、浜島にあんなこと言われた後では、僕の能天気な“春フィルター”はどこかに消えて、このクラスにいるのが富樫じゃなくて僕で申し訳ないと密かに心の中で詫びた。