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 朱雀公園前駅に着くと繋いでいた手を唐突に離される。

「ちょっとごめんね」

 もしかして知り合いでもいたのだろうか。朱雀公園には彼女の思い出が詰まった武道館もあるし、駅前でばったり知り合いに会ってもおかしくはない。そんなことを考え始めた矢先に、彼女が走り出した前方に幼い男の子の手を引きながらもう片方の手でベビーカーを押している女性の姿があった。

 ようやく状況を呑み込んで僕も後を追う。

 近付いてみるとベビーカーは空っぽで、女性の胸元からケープのような物で乳児が包まれていた。

 彼女が小さな男の子の手を取り、僕がベビーカーを畳んで運んだ。

「ありがとうございます。この子、抱き癖がついてしまったのか、おとなしくベビーカーに乗ってくれないんです。今日は特にひどくて」

 きっと道中もたくさんの視線を浴びて恐縮し続けたのだろう。女性は少し疲弊した様子だった。

「風が強かったから怖かったのかもしれませんね」

 彼女が女性にそう言って、「ね?」と男の子に微笑み掛ける。男の子はモジモジしながらもコクっと頷いた。

「お名前なんていうの?」

「リョウ。三歳だよ」

「リョウくんていうんだ。さすがお兄ちゃん、しっかりしてるね」

 リョウくんは、はにかんで笑う。

 この年頃の男の子って可愛いな。


「リョウ、お姉ちゃんにお礼言って」

 改札の前で女性がリョウくんに手を伸ばすと、男の子は平岡さんと手を繋いだまま女性にイヤイヤ言って平岡さんの手を離さない。微笑ましいやり取りに割って入っていいのか躊躇ったけど彼女に進み寄った。

「ほら、リョウ。お姉ちゃん、デートなのよ。リョウが邪魔したらダメでしょう」

 リョウくんと呼ばれたその男の子は、名残惜しそうに平岡さんを見上げて、それからチラリと僕を睨みつけた。

 おお、…っと。そういうことか。ははは、お見それしました。

 それからリョウくんは僕と平岡さんを交互に見上げる。向ける表情が全然違うんですけど。

「こら、リョウったら! ごめんなさいね」

 リョウくんのお母さんは申し訳なさそうに僕に頭を下げる。

「あ、いいんです」

 同性からの敵視は高校時代に嫌という程経験したが、まさかこんな小さな男の子にまで敵視されるとは予想外だった。男の子はこの歳から既に男なんだな。

「ホームは手前ですか? 向こう側ですか? お荷物大変ですし、ホームまでご一緒します」

 彼女がそう言うと、リョウくんが花が咲いたように明るい表情になった。

「いい?」

 彼女が僕に確認を取ってくる。

「もちろん」

 短く答えると、「ありがとう」と彼女が笑む。

 その笑顔だけで瞬殺される。立ち眩みしそうなくらい。

「すみません、ありがとうございます。向こう側なんで助かります」

 揃って改札を抜けて階段を上る。

「リョウはとても人見知りなんです。私の姉夫婦にも懐いてくれないのに、すっかりお姉ちゃんのこと好きになっちゃったのね」

 お母さんにからかわれるとリョウくんは真っ赤になって平岡さんの後ろに隠れてしまった。

 お姉さん夫婦にも懐かないのに、初めて会う女の人と手を繋ぐことを拒まなかったんだから、一目惚れってやつじゃないか? きっとリョウくんは、目の前に平岡さんが現れた時からハートを射抜かれていたに違いない。

 リョウくんたちが電車に乗り込んで手を振ると、僕たちはホームに残された。



「ずっと訊いてみたかったことがあるんだけど」

 首を傾げる彼女に、昔話を切り出した。高校入試二日目の終わり、松葉杖をついた僕の前方を歩いていた彼女が、滑らないようにと昇降口をモップ掛けして行ってくれたということを。


 彼女からの返答は“そんなことあったんだ”というものだった。誰に対しても常に優しい彼女には特別なことではなかったのだろう。彼女らしいといえば彼女らしい。そして今の僕にとって、彼女があの日の出来事を覚えていたかどうかはどうでも良いことだったということが、彼女の答えを聞いて気付かされた。

 高校時代の僕にとって、初めて好きになった女の子との出会いの場面は、少女趣味的な“運命の伏線”としてかけがえのない一縷だった。もしその頃、彼女の記憶にないと分かっていたら、その事実のみが僕にとっての諦観的な口実として残り、無気力で退屈な自分を容認し続けたかもしれない。

 運命という言葉の響きは、思春期の僕たちの恋愛を後押しするには極上のスパイスだ。


 やって来る毎日を受動的に過ごして来ただけの僕は、抗いようのない劇的な何かが降って来ない限り、変化なんて訪れないと思っていた。だから彼女の存在こそが僕にとっての抗いようのない劇的な何か──運命のような何か──だと思いたかった。そうでも思わない限り、僕は自分から変化や刺激の中に身を置くことはできなかった。

 少女趣味的な運命ではないにしろ、彼女に出会ったことは間違いなく運命だった。運命なんて大袈裟なものではないのは百も承知だ。

 彼女に出会ったことで、自分の運命を動かす転機が訪れたと言った方が適切かもしれない。彼女に出会い、彼女のことを知って惹かれていった。それは受動的に過ごす平坦な日々の終わりの幕開けだった。変化を好まない僕そのものがいつの間にか変化していたのだ。

 同時に僕を変えたのは、ガクちゃんや富樫といった友人たちであり、美帆の叱咤であり、東高での時間だった。


 人はドラマチックな運命なんかなくても恋をする。

 運命の序章なんかなくても叶う想いがある。


 彼女は僕なんかよりずっと大人で、いつも僕の前を歩いていた。進路についての考え方も然り、いっぱいいっぱいになって前が見えなくなっていた僕のことも根気よく待っていてくれた。

 彼女は、僕が彼女に歩調を合わせていたと言う。違う。本当は背中が見えなくなりそうなくらい遠い人なのに、いつだって僕を見守ってくれた。

 あの高校入試の日のように、僕を振り返って優しく微笑む位置関係がこれからも続いて行くのかもしれない。

 半歩でいい。いつか彼女の歩く道を見守りながら支えられる男になりたい。

 とりあえず今は胸を張って横に並べる男になることが一番の目標。


 電車が見えなくなる頃、彼女が言った。

「リョウくん可愛かったね」

 彼女がモテることは高校時代にイヤという程この目で見てきた。美人多しと県下に名高い東高内で、群を抜いてモテていたのは、紛れもなく僕の目の前のこの人だから。

 しかし身内にも人見知りするような三歳児まで虜にしてしまうとは。目の前でそんなものを実証されて、なんというか前途多難な船出となったもんだ。


 胸を張ってこんな“高嶺の花”の隣に並べる日が来るのかと、気が遠くなる。

 僕は大人げなくも、三歳の男の子に少しだけヤキモチ妬きました。……なんてさ、内緒けどね。



「私もずっと言いたかったことがあるの」

 今度は僕が首を傾げる番になった。

「高2の時に……、前夜祭の日のこと。私のせいで畠中くんにイヤな思いをさせてしまったんだよね?」

「ああ、そのこと」

 ガールズトークの中で富樫を除いてクラスの中でのお気に入りの男子を訊かれ、苦し紛れに彼女が僕の名前を挙げたあの件だ。

 前夜祭で殆どの生徒が講堂に行っていたと思いきや、サボって教室棟に居残りしていた男子もいて聞いていたもんだから、後日僕は散々な目に遭うことになった。

 彼女がそのことを知ってひどく責任を感じていたことも、更に後になって阪井から聞いた。そして、そんなことを謝られては男として立場がないと、彼らが彼女を諌めたことも。

「本当はもっと早く切り出すべきだった」

「止められたんでしょ?」

「どうしてそのことを?!」

「3年の時に、阪井から聞いた」

 あの時も今も謝る必要なんかないんだ。そういうことを捨て置けない人だということはよく分かってる。それなのに僕の男としての立場を重んじて、ずっと今まで胸にとどめ続けていてくれたその気持ちが何より嬉しい。

「他に聞こえているとも考えないで、軽率なことをしたと思ってる」

 ごめんなさいと言って彼女はバサリと頭を下げた。

「いいんだ。…、ありがとう」

「ありがとう、って。随分ひどいバッシングを受けたって聞いたよ」

「ホント、数日だけのことだから」

「でもっ」

「いいんだ、本当に」

 制する僕に不満と戸惑いが入り混じった表情を見せる彼女。本当に全て表情が物語るから、可愛くて仕方ない。


「私ね、軽はずみな気持ちで適当なことを言ったつもりもないの。だからと言って、あの頃から今みたいに意識してたかと言えば、そういうわけでもないんだけど……」

 彼女は富樫と付き合っていたし、二心を抱く人ではない。

 あの当時、彼女が僕を特別に思ってなどいなかったことは分かっている。

「だけど、気に入ってる男の子の名前を挙げるなら畠中くんしかいないって、思ったのは事実なの」

「柳瀬や徳山先生だっていたのに」

 徳山先生はクラスの男子とは言わないけど。

「柳瀬くん? 徳山先生? どうして??」

「どうして、って……」

「そういうこと、他の子にも訊かれたことあったけど、なんでその人たちの名前が出て来るのか全然分からない。意識したことない人のことを、どうして意識しないのか訊かれても、分からないとしか言い様がなかったよ」

 彼女曰く、柳瀬は気心知れた幼馴染みのような存在で、徳山先生は先生としか思ったことがないとのこと。

 彼女が徳山先生に熱い視線を送っていたと思ったのは、やはり亡きお父さんの話が出たからだったのだろう。


 どこまでも正直で嘘がつけない人。そんな彼女が、“実はあの頃から意識してました”なんて見え透いた後付けの理由なんか作らずに、あの時彼女が真っ先に僕を思い浮かべて僕の名前を口にしてくれたことだけで充分だ。たとえこうして彼女と一緒にいられる今がなかったとしても。

 東高の女子の中で、僕を思い浮かべてくれるのも僕の名前を口にしてくれるのも彼女くらいだから。ましてやそれが自分の恋い焦がれる女の子なら僕にとってこれ以上幸せなことなどあるはずがない。



 反対ホームに電車がやってくるアナウンスが流れ、僕たちは来た階段を引き返す。

 さり気なく寄り添って来た彼女の左手をもう一度握る。しつこいと思われるかな。だけど、決死の覚悟で彼女と繋いだ手を十分と経たずに離す形になってしまって、挙げ句の果てにはリョウくんにまで軽くヤキモチを妬いてしまう始末。やっぱりもう一度、彼女と手を繋ぎ直したかった。

 彼女は少し俯いて恥ずかしそうに頬を赤らめた。


「今さらだけど、私、東高に入って良かった」

 彼女が眩しいものでも見るように目を細めて呟いた。

「桜ノ宮西に入っていたら畠中くんと出会えなかった」

 それは僕も同じだ。もし桜ノ宮高を受験していたら、彼女には出会えなかった。

 東高にいても地味なばかりの僕に気づいてくれてありがとう。

 僕を見つけて、そして僕を選んでくれて、本当にありがとう。出会ってくれて、本当に───

「ありがとう」


「いつか大学の友達に紹介してもいい?」

「友達?」

 男友達だったりして。さすがにそれはちょっと御免だ。敵意を向けられる気しかしないから。偶然に出合ってしまう分には仕方ないけど、わざわざ紹介されてまで会いたいとは思わない。それは相手も同じだろう。

「京浜で目撃された友達ともう一人。大学で仲良くしてる女の子たち」

 ああ、紹介してよとか言われたって話に出てきた友達か。女子だったのか。

「会ってくれる?」

 彼氏いない子に彼女いない子を紹介するとかの、あの“紹介”じゃないよね?

「会うのはいいけど…」

「彼氏、って紹介しても……いい?」

 怖々と覗き込んで来る顔が反則的に可愛くて、一瞬意識が飛びそうになった。

 お願いだから、他の男にそんな顔を簡単に見せないで。簡単じゃなければ見せてもいいとか、そういう問題でもないけどさ。そんな顔されたら草食系だろうが離乳食系だろうが絶食系だろうが、条件反射で捕食したくなるから。

 ああ、今すぐ抱き締めたい。腕の中にギュギュッと押し込めて、どこにも行かせたくない。

 ……そんな勇気があればの話ですが。

「なんだか恥ずかしいね」

 頬を丸くして幸せそうに笑んだ彼女の横顔に、僕はやっぱり敵わないなと心の中で白旗をあげる。


 きっと彼女は、自分の友達の前に立ったらたちまち動揺し出すのだろう。アヅサさんに突っ込まれた時のように。

 その時は、僕が堂々としていよう。

 少しでも彼女の友達のおメガネに適うように。隣でアタフタと百面相を始めるであろう、僕にとってただ一人の愛しい女の子を支えるために。

終わりの後のオマケの一話です。

最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました!

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