55 ハッピーエンドロール
電車の車内アナウンスが告げる駅名に、僕はコートのポケットからスマホを取り出して時刻を確認する。
減速した電車がやがて止まり、冷えびえした外気の中にふくよかな春の香りを感じた。
ホームの中央にある階段を上り改札へと向かう。歩く度に左手の紙袋がガサガサと音を立てる。これを置き忘れることだけはように、電車の中ではずっと立っていた。
「合格おめでとう。メールもらった時、すごく嬉しかった」
「ありがとう」
◇
合否については、郵送されて来た合格通知で知った。
真っ先に彼女に報告しないと、そう思ってスマホを手に取ったのだけど、メールで知らせるべきかマフラーを返す時に直接顔を見て伝えるべきかでスマホを握ったまま小一時間ほど悩んでいた。そうこうしているうちに、まいちゃんからメッセージが来たり兄さんから電話がかかってきたりで、結局彼女への報告が一番最初ではなくなってしまったという安定の要領の悪さであった。
そんなわけで、会うより前にメールに合格したことを書いた。悩んだ小一時間は無駄だったというわけだ。
“おめでとう。おめでとう。おめでとう。あと百回くらい言いたい。だけど過ぎるとかえって変になるので、残りは心の中で言います”
彼女からの返事は可愛らしく温かいものだった。
一年前に彼女と約束した通り、合格祈願のお守りの奉納とお礼参りを済ませる。神様に手を合わせてお礼の意を述べる彼女の心の声は今日もダダ漏れ絶好調だった。
だけど今日は笑えなかった。
神様にも彼女にもバチ当たりかもしれないけど、目を閉じて手を合わせる彼女の横顔を盗み見した。何度見ても、溜め息が漏れそうなくらい美しく愛らしい。
できるものなら、ずっと見ていたかった。いや、独り占めしたかった。だけど僕には高嶺の花だった。彼女の横に並ぶには、僕は全てが劣り過ぎた。受験のプレッシャーと自信のなさに負けて、彼女が築こうとしてくれた新しい間柄を築き上げることができなかった。
“待っていてほしい”なんて頼むこともできなかった僕は、ここにいる。僕と彼女とを繋ぐ残り一つの口実は、元日に借りたマフラー。神社での予定を済ませ、最後の口実を失うことになる。彼女からもらったお守りも奉納してしまった今、このまま彼女のマフラーを所有していたい未練もある。彼女が貸してくれたマフラーは僕と彼女を繋ぐ最後の絆だから。これを持っている限り、返す理由で彼女に連絡をすることができる。こんな考え自体が浅ましいけど。
これからも会いたいなんて、都合の良いことを言っていいのだろうか。彼女と最後になりたくない本音とは裏腹に、そんな都合の良いことを言う資格があると思ってるのかと、頭の中のもう一人の自分が叱責してくる。
檜川神社から朱雀公園への僅かな距離を歩く僕と彼女の間に重い沈黙が漂う。
「昨夜は眠れた?」
沈黙を破ったのは彼女だった。
「うん、まあまあかな」
嘘だ。本当はあまり眠れなかった。マフラーを返せば彼女に会える理由がなくなるということと、最後にしたくないと思う自分勝手な気持ちが、僕の中にある常識とせめぎ合いを繰り返していたから。
「私はなかなか寝付けなかった。何よりも畠中くんが希望を叶えたことが嬉しくて」
彼女の言葉に胸がいっぱいになる。いつだって彼女の笑顔や言葉には他のどこにもない力があって、それが向けられる度に胸の中が甘苦しい気持ちで満たされていた。
「今までも畠中くんと会えるんだと思うと、前の晩はドキドキしてなかなか寝付けなかったけどね」
照れ臭そうに、ヘヘッと笑って彼女は視線をはぐらかす。
「夏休みにね、京浜で……。一緒にいるところを大学の友達に目撃されてしまって、メールが来たの。“一緒にいるの彼氏? 紹介してよ”って」
ああ、あの時か。どの状況かが呑み込めた。
「でもどう紹介して良いか分からなかったの。私にとって“高校の同級生”って言い切るには無理があったから。どんな紹介の仕方しても友達に突っ込まれそうな気がして、そんなフライング気味な感情を押し付けらたら畠中くんが困るだけだって思ったの」
“高校の同級生”って言い切るには無理があった?
「畠中くん優しいから、そんな風に外濠を埋めるようなマネされたら、やっぱり友達以上に見られなかったと思っても言い出せなくなっちゃうでしょう?」
……ますます言ってる意味が分からない。
「だって私、自分でもイヤになるくらい面白味のない人間だもの。一緒に過ごす時間ができたことで、畠中くんもそのことに気付くだろうなぁって薄々感じてた。私はただ一緒に同じものを見てるだけでも楽しくて、畠中くんを退屈させない努力をできていなかった」
ちょっと待って。それは平岡さんのセリフじゃないだろ。それを言うのは僕の方だろう?
「それから“会えない”って言われて、やっぱりなぁって」
「違う。それ全然違う」
「畠中くん?」
殆どの場合、彼女は正しい。だけど自分のことになると、どうしてこうも的外れな見解が弾き出されるのか頭の中を見てみたいくらいだ。
「まず平岡さんは退屈なんかじゃない。面白味がなくなくなくな……」
あれ?
「とっ、とにかく面白い」
彼女が僕の言葉にプッと笑った。
「面白いって言葉は変かもだけど、全然つまらなくない」
「ありがとう」
「会えなかったのも元日に言った通り余裕がなかったからで、もともと自分に自信はないけど、せめて無職で平岡さんと並びたくなかった」
決して口に出せないと思っていた負い目だったが、口に出してみると不思議と肩の力が抜けた。
「どうして“待っててもいいよ”って、言ってくれなかったの?」
「平岡さんは大学で新しい出会いもたくさんあるし、東京で良い人いるだろうって思った」
地元の冴えない浪人生なんかより、ずっと。
彼女の出会いを足止めする権利なんて僕にあるはずがない。
「自分の都合で会えないって言い出して、自分の都合で会いたいなんて身勝手だし」
選り取り見取りで主導権も決定権も手中にある立場ならともかく、地べたに額を擦り付けて“付き合って下さい!”とお願いしなければ、……しても女の子とは一生付き合えないような身分なのに。どのツラ下げて東高屈指のモテ女子だった彼女にそんなこと言えるというんだ。
面白味がないのも退屈なのも僕の方だ。ついでに言うと、ただ一緒にいられるだけで幸せだったのも僕の方だ。
彼女との繋がりを手離したくないと思っていた。だけど、それは彼女の優しさに甘んじて、彼女の大切な時間を割いてもらっているだけだった。僕は彼女に幸せをもらうばかりで何一つ返せてはいなかった。挙句に自信のなさと受験のプレッシャーで満載になり自分の首を絞めた。そんなどうしようもない非モテな地味男の身勝手に、彼女のような素敵な人が振り回されて良いはずがない。
「畠中くんらしいね」
「……えっ?」
「学校でも上位の成績だったのに、志望理由がないからって指定校をもらうことを恥じたり、米原くんと競合するのがイヤで指定校に応募しなかったり」
「あれは、まいちゃんには筑海大に行きたい理由があったからで……」
「都工大がダメでも、それ以外の大学にいくらでも行けたのに有言実行に拘っちゃったり、本当に不器用」
お説ごもっともでございます。
「でも、そうやっていつも自分自身に誠実であろうとするマジメで不器用な畠中くんが私は好きです」
「いや、誠実なんて、そんないいもんじゃ、僕は、……って、…………………えっ?? あの……」
「好きです。私は畠中くんが好きです」
本気で腰が抜けた。腰が抜けるって、慣用句とかじゃなく本当にあることなのか。
「大丈夫!?」
慌てた彼女が僕に寄り添うように膝を折り、綺麗なコートの裾を湿る路面に弛ませた。
「だ、大丈夫。汚れるから、立って」
ヨロヨロと立ち上がる。たったこれだけのことで息が上がるのは運動不足で軟弱さに磨きがかかってしまったのだろうか。
「畠中くんは大学で新しい出会いがたくさんあるだろうって言ったよね。友達はたくさんできたよ。でも好きとかそんなんじゃない。畠中くん以外の男の子をそんな風に見たりなんてできないよ」
神様、この白昼夢は酷すぎませんか?
確かにお礼参り中に、お礼もそこそこに彼女の横顔に見惚れていましたが、こんな天罰って……
「いつも煮え切らない自分の気持ちを、一年かけてちゃんと煮詰めようと思ってた。でも一年前にここで畠中くんに自分の気持ちを打ち明けた時から、答えは出ていたみたい」
言葉の威力ってすごいね、と彼女は目を丸くして他人事のように笑んだ。
「あっと言う間に大好きになってたの。本当に好きになる人のことは、好きかどうか考える時間なんて必要ないんだね。いつも畠中くんのことばかり考えてしまうくらい、私は畠中くんのことが大好きです」
彼女の澄んだ瞳に射抜かれて、僕は目を閉じた。向き合うことから逃れたんじゃない。騒ぐ鼓動と一緒に今の全てが零れてなくなってしまうと思ったから。
「もう会えないなんて辛くて、おみくじの画像を送ってしまったり、畠中くんの優しさに付け込んで強引にマフラーを押しつけるなんて卑怯なことして。そんなことして嫌われても仕方ないとは思うけど……」
神妙な声で切々と語る彼女に、僕はひたすら首を横に振り続けた。彼女は卑怯でもなければ嫌われてもいない。卑怯なのは僕だ。会わないと言ったのに会いに走ったのも、マフラーを口実に彼女に会いたかったのも僕だ。
「迷惑だったら諦めるしかないけど、迷惑じゃないのならもう会えないなんて……言わないで」
ゆっくりと目を開けて、彼女が消えていないことを確認する。それから彼女の目を見つめて右手を伸ばす。
いくら僕が非モテの離乳食系でも、彼女にこれ以上言わせたら僕は本当に男失格だ。
「僕と、付き合ってください」
こんな僕だけど。こんな意気地なしでつまらない男だけど───
なんで手なんか差し出してしまったのか自分でも分からない。今どき手を差し出して告白するヤツなんているの? なんて冷静に考えると、どうしようもなく恥ずかしくなる。
付き合うってどうすればいいのか、いまだによく分からない。離乳食系かもしれないし草食系かもしれないけど、胸を張って隣に並べるよう頑張るから、長い目で僕の成長に付き合ってほしい。
「はい」
目を細めて笑んだ彼女が右手を伸ばして僕の手を取ると、まるで何者かが図ったみたいにゴオッと春一番が吹いて彼女は顔を髪の毛に覆い尽くされた。
繋いだ手はいとも呆気なく離され、彼女が顔の前の髪を払い照れ笑いが現れる。そしてもう一度、今度は左手で僕の右手を取って、はにかんだ顔で横に並ぶ。
女の子と手を繋ぐなんて、あり得ないくらい恥ずかしくて緊張したけど、顔面を髪の毛に覆われた彼女の姿とその後のチャーミングな笑顔が、僕の恥ずかしさと緊張を春一番に乗せて吹き飛ばしてくれた。
彼女の少し骨ばった薄い手のひらは滑らかで温かかった。
まだまだ沸騰しそうだし緊張しまくる日々は続きそうだ。
遠慮がちに添えられるように重なる手のひらをしっかりと握り返して、彼女の笑みに微笑み返す。
そしてどちらともなく歩き始めた。
もう一度強い風が吹いたら、その時は彼女が僕を繋ぎ止めてくれた“幸せの青いマフラー”を彼女の首に巻こう。
―完―
『片想いのエンドロール』完結いたしました。
拙作に最後までお付き合い頂き本当にありがとうございました!
結末にご満足頂けると良いのですが……。
これにて本編は完結ですが、余談のもう一話があります。




