05 モラトリアム
休みが明けて、気忙しい三学期を迎える。
晩秋の頃には、北国にでも行くのかと友達から突っ込まれることが多かった僕の登下校スタイルも、この時期になってやっと周りと足並みが揃う。
剣道部は冬も素足で地獄だと浜島は愚痴を零していたけど、剣道部の話しを聞くと反射的に平岡さんのことが頭に浮かぶ。彼女もまた朝から足先が凍るような中で素足で稽古するのだろう。
永田さんが柳瀬に「高校卒業までに三人全員で三段を目指そう」と言っていたことがあった。三人というのは平岡さんも入るのだろう。その目標に向かって彼らは稽古に打ち込んでいる──
そんなことを考えながら、窓から見える登校風景の中、見つけた彼女の姿。冬の朝日の鈍い光で銅色に染まった髪を耳に掛けながら笑う彼女の横顔は、いつもよりも大人びて見えた。
始業式の翌日、2年で履修する希望選択科目の記入用紙が配られた。
2年からは地学を除いた物理・化学・生物の三科目から一科目と、地理・日本史のどちらかを選択する。配られた記入用紙にそれぞれの科目の希望順位を書いて今週中に日直か担任に提出する、そういうことらしい。
選択した科目ごとにクラス編成されるのかまでは明言されなかったが、時間割や移動教室のことを考えると、恐らくクラス編成に関係があるような気がした。
ホームルームが終わり先生が退室すると喧騒は一気に増し、それぞれが用紙を手に親しい友達と集まっていた。教室内に相談し合う声が溢れる。
近くの席の女子が「看護師になりたいから化学か生物が受験に必要になる」と言っているのが聞こえた。その隣の子は、保育科のある短大に推薦入試で行きたいから少しでも内申点を上げられるように、苦手な物理は外したいと言った。
思った以上に、みんな向かう先を見据えているんだな。
僕は将来の希望や具体的なビジョンは定まっておらず、兄さんと進路の話しをした晩に自分はどう進んで行きたいのか考えてみたりした。
読書が好きだとは言っても、僕の場合は人と話すのが苦手だから、気まずい沈黙やそれを埋めるための手持ち無沙汰対策という要素が大きい。本を読んでいます、という体裁を作っておくことは、会話に巻き込まれ難い。
だからどちらかというと文学好きで常に本を携帯しているわけではないので、ジャンルも軽いタッチのミステリーものが多い。難しい本を読んでいないせいか語学系や文化系があまり得意なわけでもなく、むしろ好きなのは理数系だ。
数式や関数などが得意だから電気系か機械系の学部のある大学へ進学しようかと、漠然と考えた。そこから何を目指して行こうかは現時点では後回しになってるけど。
兄さんは学費半額免除とはいえ私立高で、大学も私大希望だし、下には弟もいる。
親の負担を考えると僕は国公立に行けたらと思っている。あくまで今のところは。そうなるといくら理数系進学希望でも、社会科目の選択も軽視できない。
浜島と柳瀬のところに用紙を片手に富樫がやってきて、何を選択するか話し合っている。
「先生は必ずしも選択科目がクラス編成に影響するとは限らないって言ってるけどさ、しないわけがないだろ」
「なんで?」
「考えてもみろよ。時間割りで理科の度にそれぞれの科目に分かれて教室移動するとか非効率だろ」
「芸術科目だってそれぞれ分かれるじゃん」
「あれは、ほら。そういうもんなんだよ」
「なんだよ。急に説得力ねぇな。富樫さん、意味不明」
「まあ、そう言うなって。主要教科と副教科じゃ立ち位置が違うってことよ」
「……ヤナちゃん、どう思う?」
「たぶんクラス編成に関わると思うけど、念のため放課後2年の先輩に訊いてみたらいいじゃん」
「あ、なるほどね。さっすが、頭イイね」
「ちゅーコトで、永田姐さんも計画に引き入れようと思うわけなんですが」
「繭子さんどうするんだろ。富樫、訊かないの?」
「だから今から永田姐さんに交渉するんだよ。今日の放課後、部室で相談会な」
富樫は悪戯っぽく片眉を上げてニヤッと笑うと永田さんの席の方へと走って行った。
「なるほどね。永田姐さんを先に攻略して難攻不落の繭子さんを釣るとは富樫も考えたね」
永田さんが同じクラスになろうと言えば彼女も断るまいと浜島が苦笑いした。
文化部を含めて幾つかの共部があるけれど、剣道部くらい普通の共学らしい関係を築いている部もないと思う。
吹奏楽部も比較的結束力が良好だというけど、圧倒的に女子部員が多く男女同権とは言えないらしい。
同じクラスになろうと思案する富樫たちを見ていて、つくづく彼らの仲の良さを感じる。あんな風に気の合う仲間同士で同じクラスになって一年過ごしたら楽しいだろうな。
そういう誘いに乗りそうもない真面目な柳瀬までもが楽しそうにそんなことを話すもんだから、剣道部の雰囲気が羨ましく思える。チームワークっていうんだろうな。
羨ましいけど、そうなりたいわけではない。……なんて言ったら、天邪鬼の負け惜しみみたいに思われるかもしれないけど、純粋に自分には相容れない雰囲気だと思っている。
コミュニケーション能力も低い上に、コミュニケーション願望も薄い。僕のようにチームワークなんて言葉とは縁遠い人種だって、世の中にはたくさんいると思う。
人が嫌いなわけではないけど、輪の中にいなければ淋しいという概念もない。チームの中で人付き合いを保てる自信もない。
仲間たちと青春時代を共有して謳歌しているグループを淡く緩く憧れているくらいが僕にはちょうどいい。
富樫が永田さんの席の前で熱弁を奮っている様子がオーバーリアクション過ぎて、遠巻きに見ていた浜島と柳瀬が笑い出す。
富樫の張り切り様も、呆れ顔の永田さんも、遠巻きに笑う浜島と柳瀬も、青春を謳歌しているワンシーンに映る。
僕と彼らの間には見えない境界線があって、色鮮やかな世界の住人である彼らを僕はモノクロの世界から見ている。きっと彼らの目には僕のいる世界がモノクロに見えることはない。色鮮やかな世界の彼らの視界には溢れかえる光が注いでいて、色のないものがすぐ近くにあることすら眩しくて気づかないと思う。
富樫がガッツポーズをして踵を返す。
「とりあえず姐さんは選択科目を合わせるのはOKで、どの科目にするかは放課後に部室で相談しようって言ってくれた」
嬉しそうに富樫は、強引に浜島とハイタッチをした。
上機嫌で教室を出て行く富樫の背中を見送りながら浜島が柳瀬に投げかける。
「富樫って付き合い始めてから繭子さんへの態度変わったよな。付き合う前はゴリゴリ攻めてたのに。さっき永田姐さんを説得してたみたいにさ」
「きっと僕たちが思ってる以上にナイーブなんだよ。一番釣りたい相手から難色を示されるのが怖いんじゃないかな」
「あの富樫がそんなタマかよ? 五ヶ月の間に五回告る男だぞ、同じ相手に。鋼鉄の心臓を持ってなきゃ出来ない芸当だと思うけどね」
解せない表情の浜島に、柳瀬は英語の予習のチェックをしながら最後は流すように笑っていた。柳瀬には敵わないなと思う。自分のやることだけを淡々とこなしているように見えて、ちゃんと周りを見ている。浜島のことも、富樫のことも、ちゃんと。
入学して今のクラスで約一年。女子の数と勢いに圧倒されながらも、自己主張が強いタイプや主張を強いるタイプの男子が殆どいない環境の中で、保護区内の少数部族のように平和に高校生活を過ごしてきた。
東高に男子の大多数が似たようなタイプだと分かっていても、クラス替えによって新しい面々と新しく人間関係を構築するのかと思うと、ほんのり気が滅入る。
中学の時にいたような「あいつ、超キモーい!」なんて地味男を後ろ指さしてゲラゲラ笑うカースト上層のバラモン女子や、オラオラ男子だっているかもしれない。
東高の学区域を考えれば当然のことながら同じ中学出身者は多く、中学時代は賑やかなグループで見たような男子の顔もチラホラ見かける。そのうちの大半がめっきりおとなしい。それはありがたいことではあるけど、反論できない性格のクラスメイトを標的にしては大袈裟に揶揄していた姿を思い出すと、おとなしくなっているからと言って親しく出来そうもない。
僕が知らないだけで、今のクラスで僕が親しく付き合っている友達の中にも中学時代はそういう部類がいたと言われたら身も蓋もないけれど、そこはまあ、自分の目で見たものがすべてと片づけておく。
とにかく、人となかなか馴染めない僕が仲良くなれた柳瀬や浜島とクラスが別れてしまうのはやっぱり少し淋しい。
彼らにとって、学校生活最大かつ最高の居場所は剣道部仲間たちとの空間に他ならず、言うなればメインディシュだろう。気軽に挨拶を交わす間柄のクラスメイトとの空間はオードブル。つまり僕との関わりは“オードブルの中に苦手なアイテムがなくて良かった”的なものだと思う。
僕にとっての学校生活のメインディシュは?
考えた時に浮かぶ答えは、勉強しかない。特別に勉強熱心なわけでもないし勉強が生き甲斐なわけでもない。やや消去法気味だけど、部活動に打ち込むことを選ばず、密に関わる友もない僕の学校生活を円グラフで表したら勉強の他のものが浮かんで来ない。
僕はそんな空虚な自分に諦めの溜め息をついて、サラサラと紙の上にシャープペンを滑らせた。
学校生活に情熱も意義も見い出せず、目指す先さえも定まらない薄っぺらい地味男。そんな自分から脱却したいかと問われたら、脱却する先になりたい像が描けているわけでもなく、意味なく足掻く気概もない。
そんな僕に出来ることと言ったら、常に円グラフの中の一番大きい部分を占めるものを選び続けること。
だから僕は理科の中で得意な順に物理を第一希望に選ぶ。社会もそう、歴史は苦手だから地理を第一希望に選ぶ。今はそれだけ。
いつか僕の目の前に見えるいつもと同じ景色が少し変わって見えたりして、僕の円グラフが変化したり、なんなら円グラフなんて投げ捨ててしまい衝動に駆られたりなんて、一体どんなことが起きたらそんな自分になるのか想像出来ないけど、もしそんな時が来たらまた考えればいい。
今は何の変哲もなければ面白味もない、ただの地味男が等身大の僕。
あっさりと書ききった用紙を二つに折ってそのまま机の中に押し込んだ。




