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54 雪を溶かすギリギリの温度(前編)

 怒濤の一年が終わった。

 十二月後半は、美帆に引っ張られて桜ノ宮の予備校で冬期講習を受けた。

 まだ正月を挟んで後半に数日あるが、今のところ美帆が言うだけの収穫はあった。講義そのものよりも受験に対する心構えだとか、年を明けてどのようなスケジュールで自分を調整していくかなど、分かりきったことだと思っていても他人から言われなければ意識できないというのは意外な発見でもあった。もう一つ言えば、受験間近の受講生の空気はピリピリした緊張感があって、最初は圧倒されたけど日ごとに慣れた。これは受験会場で気を呑まれないための恰好の予行になった気がする。



 予備校が休講の大晦日には、台所の換気扇の掃除を手伝ったり、年明けに出す古新聞やダンボールなどをまとめる作業をして、それはそれで気分転換にもなった。


「秀はどうする?」

 父さんと母さんは有賀の家に年始の挨拶に行くという。飲んで帰るつもりなので兄さんが車を出すらしい。

 中古とはいえ、念願のフォレストを申し分ない状態で手に入れた兄さんは車を出したいらしい。普段なら「遠慮しとく」と言うだろう有賀の家にも二つ返事でお供するのだから。

「僕は遠慮するよ。寒いの嫌いだし」

 そう、あろう事か今日は朝から雪が散らついているのだ。こんな日に予備校へ出掛けなくて済んだというのに、わざわざ外に出ようという気にもならない。

「そんな年寄り臭いこと言うなよ。進悟は友達と初詣に出掛けたぞ?」

 彼は彼、僕は僕だ。

 弟の進悟は一丁前にめかし込んで鼻唄なんか歌いながら「夕飯いらないよ」なんて言って出掛けて行った。


 家族が出て行ってしまうと、急に家の中が静まり返り、観るものもないのにテレビをつけてみた。

「……」

 普段からテレビなんて殆ど観ないけど、正月番組ってどうしてこうもつまらないんだ。しかもどのチャンネルも大差がない。テレビの中で出演者がわざとらしく楽しそうに盛り上がった内輪感ばかりが際立って興醒めする。そもそも、誰もいなくなった居間で観るものではないのだろう。こんな状況で観たら温度差を感じるのも当たり前だ。

 淡々と進行するスポーツ中継を観る気にもならず、結局一分と経たずにテレビを消した。

 はあ、と溜め息をついてコタツに寝転んだまま仰向けなって天井を見た。


 とりあえず、尾崎やガクちゃんたちに新年の挨拶くらいメッセージしとこう。そう思ってコタツに寝転んだまま横着に、ソファのスマホに手を伸ばしてたぐり寄せた。

 メールのアイコンのところに一通のメールが届いている表示があった。十二月の中旬にまいちゃんから、年末に帰るとメールがあったのできっとまいちゃんだろうとアイコンをタップした。

 メールの送信者は平岡さんだった。


 “あけましておめでとうございます。今年は畠中くんにとって良い年になりますよ”

 なりますよ? 変な言い方だ。普通は“良い年になりますように”とかじゃないか?

 そう思いながらスクロールしていくと余白の終わりに画像があった。

 大吉のおみくじだ。


 願望 思いがけぬ人の助にて叶うことあり

 待人 来る 便りあり

 失物 近くにある

 学問 安心して勉学せよ


 そのおみくじの下の方には、見切ていたが“東雲神宮”と書かれていて間違いないと思う。

 僕はコタツから飛び起きた。コタツやホットカーペットやファンヒーターや諸々の電源を切って、階段を駆け上がりコートを掴んでまた階段を降りた。時計を見ると一時を少し過ぎたところだった。


 彼女からのメールの着信は十分ほど前。もしかしたら───今から走れば───間に合うかもしれない。

 僕は掴んだコートを体に引っ掛けて、寒さなんて忘れて走った。人も車も少ない国道を、薄っすら積もった雪が微かな雑音までも吸収している。僕の跳ねる息と足音だけが、耳の中に……いや身体中に響く。

 夢中で走った。


 会いたい。

 彼女に今更どんな顔して会えばいいのかなんて躊躇いも、全部全部吹っ飛んでいた。頭の中は真っ白で、足が、身体が、東雲神宮だけを目指していた。



 石畳みに足を滑らせそうになりながら境内まで辿り着いた。

 例年、大晦日から三が日にかけてそれなりに賑わっているという東雲神宮も雪のせいか参道に露店もなく、静かなものだった。

 辺りを見回しても、それらしい人の姿はない。

 仕方ない。この雪の中、メールが届いてから二十分は経っているのだから。


 諦めかけたその時、社務所の脇の桃の木の下にある絵馬所に紺色のピーコートを着て水色のマフラーをぐるぐる巻きにしている彼女の姿を見つけた。

 近寄って行っても一向に気がつく気配はない。彼女は爪先立ちになって一心不乱に絵馬所の一番上の段に絵馬を括り付けようとしているところだった。

 玉砂利の擦れる音と弾んだ呼吸で、ようやく彼女がこちらに顔を向ける。いつか教室棟の屋上で見たように、彼女は路地を横切る時に人間と目が合った猫のような表情をして驚いたままフリーズしていた。

 境内まで走ってきた熱と彼女を目の前にした興奮から身体中がカッと熱くなった。身体に熱が入ると、自分から会わないことを決めておきながらここに立っている矛盾と恥ずかしさで、曖昧な誤魔化し笑いを顔に貼り付けた。



「どう、して? ここに」

「こっちが聞きたい。どうして東雲に?」

 彼女がもしどこか初詣に行くとすれば、朱雀公園にある檜川神社だと思っていた。雪も降っているから檜川神社まで行かなかったとしても、桜ノ宮市内の神社へ行くのではないだろうか。なのに何故、こんな雪の舞う日に一人で東雲に。

「アヅサちゃ…後輩がここで巫女さんのアルバイトしてて、東雲神宮は自分のことより他人のことをお願いするとご利益あるって聞いたから」

 彼女は両手の指先を合わせて絵馬の表書き面を隠した。

「どこに掛けたらいい?」

 僕の手を差し出すと、彼女は慌てて「あ、ダメ。本人が願ったことになっちゃう」と言った。


 やっぱり僕の受験のことを祈ってくれたんだ。

「大丈夫。絵馬を書いたのは平岡さんだから」

 そう言って彼女から絵馬を受け取り、彼女が掛けようとしていた一番高いところに括り付けた。

「ありがとう」

 彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。白い頬に小さな陰を作る長い睫毛の先に、雪の細かい滴ができている。じっと見ているのも気まずくて視線を彷徨わせれば、彼女が恥ずかしがるから見ないようにして括り付けた絵馬に目が留まってしまった。

 とてもシンプルに“合格祈願”とだけ書かれてあった。

「知ってる人も来るかもしれないし、個人名とか学校名とか書いたら畠中くんに迷惑かかっちゃうから」

 なるほど。周りの絵馬を見渡せば“裕くんと両想いになれますように 亜美”とか“桜ノ宮高校合格 草間和哉”などといった見る人が見れば分かってしまうような名前や願い事が明記されている。個人情報にナーバスな昨今でこの矛盾は一体なんなんだろう。

「ね?」

「そうだね」

 自然に顔を見合わせて笑っていた。



「最初の質問に戻っていい? 畠中くん、どうしてここに来たの?」

「まだいるかと思って」

 理由になってないかな、これ。会わないとか言っておいて、どうして来たのかってことだよな。

「どうして東雲神宮にいるって分かったの? メールに位置情報って出ちゃうの?」

 あ、えーっと、そういうんじゃないんだけどな。とりあえず言葉で説明するより、彼女が送ってくれた画像を見せた方が早そうだ。

 コートにポケットからスマホを出して、彼女が送ってくれたメールの添付画像を見せた。

「このおみくじの紙の下の方に東雲神宮って書いてあるのが分かったから」

 ほとんど見切れていて、それこそ見る人が見れば分かるかも…くらいのレベル。

「こんなちょっとで分かっちゃうの?」

「まあ、一応、地元なんで」

「そっか、」

 彼女は言葉を止めて、もう別のことでも考えてるみたいな深刻な顔して僕のスマホの画面を凝視していた。と、言っても画面なんてとっくに真っ黒になっちゃってるけど、納得のいかない部分でもあったんだろうか。もう一度、おみくじの画面を表示した方が良いんだろうか。

 動かしてはいけないくらい凝視されるものだから、なんとなく手を引っ込めあぐねる。普通に考えたら、全く意味が分からない格好。

 スマホを持ったままの左手が、突然彼女の温かい両手に包まれた。



 えっ!? ちょ、ちょっと待って。待って。待って。待って。待って。ちょっと、これは、いくらなんでも……。

 初めて感じる大好きな子の手の感触に、心臓がフル稼働して一気に身体中の血がめぐる。おかげで頭はクラクラするし、意識が飛んでしまうかと思った。



「これ、どうしたの?」

 包んだ両手を静かに開いて、僕の左手の親指の付け根に赤く残っている低温火傷の痕を彼女が見つめている。

「こっ、これは…、ちょっと前に、お…お茶を零して」

「痛いの?」

「もう全然………」

「良かった。早く消えるといいね」



 これが怪我の功名ってやつだろうか? それで合ってたっけ? ああ、この際そんなことはどうでもいいや。

 殆ど擦り傷レベルの軽傷なのに、むしろ消えてなかったのはラッキーとしか言い様がない。沸騰してしまう。沸騰してしまう。沸騰してしまう。光速で身体中を駆けめぐる血が、歓喜に変換されて暴発しそうなくらい騒いでる。

 スマホが邪魔だ。でも今スマホをどけようとしたら、手を離されてしまう気がする。

 そんな資格ないのは分かっているけど、この手を離したくない。って、僕はどこの乙女なんだ?!



「ちょっと先輩、なにやってるんですか?」

 背後からの声で彼女の体はビクッと震えて、慌てて手を離されてる。

「ひと気のない神社仏閣でイチャイチャとか中学生みたいなこと、やめてくださいよ? 神聖な場所なんですからね!」

 巫女の格好の上にダウンジャケットを羽織ったアヅサさんだった。

 平岡さんは隠し事が下手な人の典型のように、さっきまで握っていた手を離し、その両手を自分の背中に回すというあからさまなリアクションをする。目を泳がせてアタフタしたかと思えば、目撃された事実を受け止めてショボンと肩を落として真っ赤になった。

「イチャイチャなんて、してないよ。だって、畠中くんには彼女がいるんだから」



 えええええええええええ!?

 そんなの聞いてない。僕が。

 どういうことなんだ!?

 正直者の真人間に見えて、こんな誤魔化し方するなんて、キミ一体どうなってるんだ、平岡さん。

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