52 会わない方がいい
考えるべきこともやるべきことも一つ、僕はそのために一年間という猶予をもらった。
私大の受験も間に合う所がないわけでもなかった。それでも来年もう一度都工大を受験すると言って、浪人生活をさせてもらった。自分自身でドロップアウトできない状況を作って、僕は来年の受験への道を選んだ。
もっと器用なら良かった。もっと器用だったら、都工大にこだわらずに今頃どこかの大学で講義を受けていただろう。僕には都工大じゃなきゃダメな理由なんて何一つなかったのに、今こうしてもう一年受験生をやっているのは、僕の不器用さが原因と言ってもいい。
自分が器用になれないことは嫌という程思い知らされた。だからきっちりとしなくてはいけない。
しばらく平岡さんのことを考えるのをやめて、受験に専念するんだ。
彼女は一年待つと言ってくれたし、たとえどちらかが“会うのをやめよう”と言うことがあっても、また都合が良くなった時に会える間柄でいたいとも言ってくれた。
だけど、現実はどうだろうか。
彼女にとって、あの段階で思い描いていた男よりも僕という人間がつまらない人間だったとして、今は自分の見込み違いを悔いているかもしれない。だとしたら、区切りを付けた時点でもう会う理由なんかない。
仮に百歩譲って、彼女がこの先ずっと会わなくなることまでは考えていないとしても、……だ。
“会うのをやめよう”と言ってしまったら、会いたいとは言い出せない。この僕が、そんなムシの良いこと言える身分なわけがない。それこそ「何サマだよ?」って話だ。
ジョーカーのカードを切り出せば、それで終わりになってしまうかもしれない。
だけどダメなんだ。今のままでは全てが中途半端なんだ。
彼女と映画館に行っても学生証を提示することもできない。彼女の大学での友達との日常が気になる気持ちの中に卑屈な感情が入り混じる。ただでさえ、地味で根暗で口下手で無趣味で貧弱で……自信を持てない要素なんて数え上げたらキリがない。その上、何者にもなれない宙ぶらりんの状態で、見る夢といったら彼女に去られる夢ばかり。
自信が持てないから不安になって、不安に囚われるから本分が手につかない。典型的な負のスパイラルだ。美帆が囚われた葛藤とは種類も次元もまるで違う。
もう少し僕が器用だったら、もう少し賢い人間だったら、彼女を原動力に出来ただろう。でも今の僕では───今のままでは───とても無理だ。
“地盤が緩んだ状態で何度立ち上がっても、結局同じことの繰り返し”
ホント、そう。このまま彼女から優しい言葉をもらい続けても、それは僕にとって一過性の安心に過ぎないだろう。僕自身がきちんとしなければ、どんなに彼女から優しい言葉をもらっても、僕はそれを原動力にすることもできず、ただひと時劣等感を紛らわせるだけだ。
もし今年も受からなかったら、彼女は呆れるだろう。いや、それ以前に彼女の性格から言って、自分の存在が悪影響を及ぼしたと自分を責めるだろう。
僕の弱さのせいで、遅かれ早かれ全てがぶち壊しになる。
そんなことになるくらいなら。
“突然なんだけど、今週末は忙しいですか? 少しでも時間が取れそうなら近くまで出ます”
本当は会って切り出すなんて色んな意味で恐怖だけど、メールで済ませるなんてどう考えても不誠実だし、メールでそれっきりになってしまうなんて嫌だった。どうせ最後になるならもう一度、会いたかった。
“近くって東京? 日曜日は朝からバイトだけど、土曜日は午前中に授業でバイトは夕方からなので空き時間はあります。だけど畠中くんは大丈夫なの?”
大丈夫って、大丈夫に決まってるじゃないか。浪人生なんだから。っていうか、子供じゃないんだから、東雲から電車に乗ってれば乗り換えなしで都内に着きますって。乗り換えなければ子供だって着くよ。
“バイト先、四ツ谷だっけ? じゃあ二時くらいに新宿でいいかな?”
“オッケー。大丈夫です。じゃあ土曜日にね”
一連のやり取りを終えて、安堵と疲労の溜め息が漏れた。
◇
私鉄を降りて、改札を出た所に彼女は立っていた。ダークグレーの薄手のニットの上に白いシャツの襟を出して、ベージュ色のパンツスタイルで、髪を後ろで一つに括っていた。
高校を出て知ったことだが、彼女はいつも寒色系の落ち着いた色目の服を着る。今日もまた落ち着いた色目の服装なのだけど、パンツスタイルのせいか一層大人っぽく見えて、それが何故か少し淋しかった。
「どうしよう? ご飯食べて来た? どこかお店に入る?」
彼女から矢継ぎ早に質問が飛んだので、まず昼食を済ませてきたことを告げた。
「じゃあ少し歩く?」
「そうだね」
「お天気もいいし、新宿中央公園まで行こう」
歩き出す彼女に並んで、人で溢れかえる駅の構内を抜けた。
途中、彼女とのいつもの他愛もない会話にもところどころが上の空になってしまい、その度に彼女が車道側にならないように立ち位置を保って誤魔化した。この退屈を彼女が耐えていると思うと、どうにも心苦しい。
中央公園まで来ると、本格的なカメラや三脚などを用意して撮影している人たちの姿が目に入った。
「ここね、昔は小西の工場があった所なんだって。プロアマ問わず撮影する人がたくさん集まるのも、なにか縁があるのかもね」
「じゃあ旭大の学生も来てたりするの?」
「うーん、どうだろう。旭大の話しはあんまり聞かないかも。それに私の知ってる人たちはハコ撮の方に興味がある人ばっかりだから」
「ハコ撮って?」
「スタジオみたいなところでモデルさんとか物とか撮ることなんだけど、私は用意された被写体をいかに綺麗に撮るかっていうのにはあんまり興味が沸かないの」
苦手なことを告白するように彼女は眉尻を下げて小さく笑んだ。
こんな風に自分のことについても話してくれる彼女に対し、僕の憧憬は疎外感と表裏一体になってしまっている。
彼女が何も話さなければ隔たりを感じ、彼女が話してくれることに対しては取り残された気持ちになるのだから、本当に面倒くさいウジウジ野郎だ。
だからこそ、このままじゃダメだと意を決してここまで来たのに、実際に彼女を目の前にしてしまうと、この愛しい人との別れになってしまうかもしれないことが怖くて、ズルズルと告げあぐねている。
「ねえ、なにか特別な用件があって来たんでしょう?」
突然歩みを止めた彼女がキュッと踵を返して身体ごと僕の方に向いた。
「いいよ。なに言われても大丈夫だから」
頬を上げ、口角を上げて笑っているように見える彼女の瞳は───感情のシャッターを閉じていた。
「しばらく……、他のことは考えずに勉強に集中しようと思って……」
「うん」
「だからもう………」
喉の奥の、ずっとずっと奥の胸の底まで苦しくて、一呼吸置かなければならないくらい、ここまで言うのが精一杯だった。
「うん、分かった」
彼女はゆっくりと深く頷き、言葉の続きが分かっていることをその目で告げた。
「メールもしないようにするね。勉強、頑張って」
「どうする? もう少し歩く?」
こんな状況でも僕を気遣って、いつも通りの口調で話し掛けてくれる彼女の優しさに僕は戸惑った。
彼女が繋ぎ止めてくれた新しい間柄を自分から無碍にしてあんなことを言って、それなのにそんな優しい言い方で“もう少し歩く?”なんて訊かれて、僕に決める権利があるわけないじゃないか。
「じゃあ、駅に向かうね。……少しゆっくり歩くけど、時間大丈夫?」
「あ、うん」
「ありがとう」
礼を言われる筋合いなんかないのに。礼を言わなきゃいけないのは僕の方なのに。
何かを避ける空気を間に挟んで僕たちは駅に向かった。
確かに中央公園に来る時よりもゆっくり歩いたはずだった。なのに無情にも帰り道の方が短く感じられた。
券売機で切符を買って改札前の電光掲示板を見上げる。残念だけど、快速や急行を含め本線の本数は多い。改札に入ればほぼ十五分単位で帰る電車に乗れるのだ。
本当は適当な口実をつけて別れの時間を引き延ばしたかったけど、勉強に集中することを理由に会わないことを告げた人間がズルズル留まるのは矛盾にも程があるというものだ。本来なら、一分一秒惜しい立場でなければならないくらいだ。
「今日はありがとう」
「ううん、私の方こそ」
「……」
「ふふ。今日の私たち、こんなやり取りばっかりだよね」
「ごめん」
「ううん」
沈黙を断ち切るためだけの短いやり取りだということは分かっていた。
急行に向かう人波が慌ただしくなり、込み上げてくる名残惜しさで喉元を詰まらせながら、やっとの思いで「それじゃあ」と終止符を打った。
「……ていい?」
改札を入ってすぐに人波の喧噪の中に彼女の声が紛れて来た。
「え? なに?」
聞き返そうとして立ち止まって振り返るけど、改札を抜けて直進する人たちに邪魔そうに顔を顰めらる。彼女を見失わないように視線で繫ぎとめながら一番端の改札まで移動した。
「待っててもいい?」
彼女が叫んだ。その目はしっかりと僕を見つめたまま。
自動改札が並んだその隅にある腰下までの高さの衝立を挟んで僕と彼女は向かい合った。
「待ってたら迷惑? 愛想が尽きてしまった?」
「違う、そんなんじゃない!」
もどかしかった。自分の現状を伝えるのも、彼女に会いたくなくなったわけじゃないと説明するのも。それらを正確に伝えるためには、僕の国語力は絶望的に欠如していた。
「言葉が足りなくてごめん、そういうことじゃないんだ」
押し出される言葉の次がない。それでも伝えたい。伝えなければ彼女に勘違いをさせ、傷つけたままになってしまう。
勉強ができるとか思われてるけど、僕は全然器用じゃないんだ。勉強なんて、所詮は答えの用意されたものを答えられるようになるだけの修錬。人とのコミュニケーションみたいに自分で作らなければいけない答えなんてない。
そんな恋愛という未知の世界と本命一校受験を同時進行なんて、今の僕のスペックでは無理なんだ。僕の分際で“もう会えません”なんて言い出して、合格したら会ってくれなんて調子の良いこと言えないよ。どう言ったら分かってもらえるんだろう。
陽の高いうちに改札を挟んで男女が深刻な顔をしていれば、興味本位の目を向けていく通行人も少なくはない。だけど誰一人足を止めることなく通り過ぎる。人の流れとは違う時間の狭間にいるように。
「私、嫌われたんじゃないの?」
前のめりの気持ちが空回りして、動かし過ぎたマリオネットみたいにブンブンと首を横に振り続けた。
「本当に?」
「本当っ…」
好き過ぎて自制心を見失うくらいなのに。嫌いになれるわけがない。嫌いになる方法なんてこの世界のどこにもないのに。
「畠中くん、ホント不器用すぎるよ」
私もあんまり他人のこと言えないけどね、と付け足して彼女は苦笑した。
「私だって、“待ってて”ってお願いしたんだよ。畠中くんもそう言ってくれたらいいのに」
そんな都合に良いこと、言えるわけないよ。
来年必ず受かる保証もない奴が、新しい出会いの中にいる平岡さんの大切な一年を差し押さえする権利なんてあるはずがない。
誰からも好かれるこんな可愛い女の子が、面白味もない退屈なだけのただの地味男のために一年を徒労に終わらせるなんてあってはならない。
「もし嫌われてないのなら、私は“待ってて”って言ってほしかった。ううん、言ってほしい」
「……」
「もう、頑固なんだから」
淋しそうに笑って彼女は向き合ったままの姿勢で、一歩ずつゆっくりと後ろへ足をずらし衝立から距離を取った。
声が届くギリギリの位置に立って、こちらを見ながら「頑張ってね!」と叫んで大きく手を振ってくれた。
僕なんかより素敵な人は、たくさんいる。いや、僕より魅力のない人を探すことの方が難しいだろう。
もっといい人と、もっといい日々を送って。
僕なら充分すぎるくらい贅沢な夢を見せてもらったから。




