51 同じ穴の狢
十月になった。
七月に初めてA判定が出て以来、それからまたB判定続きだ。一度、指先が触れたと思った都工大だが、地道に勉強を続けていてもA判定を維持できず、掴めそうで掴めない手ごたえのなさが頭の中を巣食っていた。
正直言って、かなり凹んでいる。
中堅進学校から超難関クラスに挑む難しさを今更ながら思い知らされている。やっぱり初期値の限界なのだろうか。高3の頃の暢気な自分に苦言の一つも呈したくなるくらい心から余裕が消えていた。
それに加えて眠りが浅い。
何かを切り出しにくそうな彼女に気付きながら、その暗雲から目を逸らしたのは自分だ。もう少しの間、自分に都合の良い夢をみたいと引き延ばしたつもりが彼女の“ごめんなさい”から逃げられず、彼女から“ごめんなさい”を突き付けられる夢を見る。ここのところ見慣れたいつもの夢だと頭の隅は覚醒しつつも、生々しい焦燥感と喪失感に取り乱して目を覚ます。
状況は電車の中だったり、卒業式だったり高校の図書館だったりその都度違う。
昨夜の夢は卒業式のシーンだった。
たくさんの人たちに囲まれた彼女が二、三回辺りを見回して誰かに手を振る。見知らぬ男性が彼女に近づいてきて、彼女の肩を抱いた。やがて不意に振り向いた彼女が遠巻きに見ている僕に気付き、困ったように微笑した。そして唇の動きだけでゆっくりと“さよなら”を告げ、彼女の肩を抱いた男性に寄り添いながら人波に消えていった。
「待って」が声にならない。
どんなに叫ぼうとしても喉の手前で止まってしまう。
僕はまださよならを言ってない。自分の意思に反して足も動いてくれない。無情にも視界の中で人波がどんどん小さくなっていく。
「待って!」
もう一度叫ぼうとした瞬間に自分の譫言と動悸で目が覚めた。
呼吸が整うと、今度は掛け時計の秒針の音がやけに耳の中に纏わりつく。無意識に浅い笑いが漏れて泣きたい気持ちに襲われる。
こんな風に真綿で首を絞めるように悩み続けるなら、いっそ引導を渡してもらって開き直る方が精神衛生上良いのかもしれない。
できることなら、どんな人間になれば彼女の心を惹きつけられるのかしっかり自分を見つめ直して努力したい。だけど今の僕には悔しいくらい時間的余裕がない。
彼女のことを考える時、同時に成果の上がらない受験勉強に対する焦りが付いて回る。
今考えるべき優先順位くらい分かっているだろう、何者にもなれない分際で。頭の中のもう一人の自分が恋愛沼に足を取られた僕を侮蔑する。
「更に顔色悪いわね。生きてるの?」
図書館の帰りにエントランスで遭遇した美帆に声を掛けられた。
本郷大の法学部を目指す美帆もまた今年は浪人生だった。法学部なら大隈でも中王でもいいじゃないかと先生たちは進学を説得したらしいが、“自分の努力で届く一番上を目指す”という美帆独自のポリシーに従って頑として本郷にこだわっていると聞いた。美帆ほど頑固なつもりはないしポリシーもないけど、同じ穴の狢という気がしないでもない。
「予備校じゃなかったの?」
「春期講習と夏期講習は行ったけど、今ひとつ物足りなかったわ。ま、それなりに収穫はあったわよ」
相変わらず強気だ。現在の身分的には僕と同じ浪人生なのに、どうしてこうも強気でいられるのか理解に苦しむ。
「文科一類なんてハナから現役で受かると思ってなかったわ。桜ノ宮女子って言ったって、この辺じゃ優秀でも所詮は地方の公立高校よ。全国レベルの私立には及ばないわ」
まあ確かに、僕が都工大か浜国を受けると言った時、桜ノ宮高の上位でも落ちるって紺野先生も言ってたもんな。本郷の法学部ともなれば尚のことだろう。
「で、あんたは? 成果上がってんの?」
非常に痛い質問である。
「あのね、私が集中講座だけ予備校に行ったのは、利用できる物を利用しない手はないって思ったからよ。勉強なんて予備校に頼らなくてもできるわ。だけど、モチベーションの維持とかスランプの克服の仕方とかは、毎年そこに陥る受験生を何百人何千人って相手にして商売してるプロが熟知してるのよ」
こんな強気な美帆でもモチベーションの維持やスランプに悩むことがあるのか?
心を読まれたのか、不機嫌な顔をして大袈裟に咳払いをされる。
「ちょっと、私のこと何だと思ってんの? 頑張ったって足りないものがあるから落ちたのよ。でもいつまでも生産性のない悩みに足を取られてるほどバカじゃないつもり。そういう無意味なことは、とっとと片付けるのが鉄則でしょ」
「鉄則、かぁ」
「そうよ、当然でしょ。学生の本分が勉強っていうのと同じくらい鉄則中の鉄則。何のために浪人してるか考えたら、考えることもやることも一つだけでしょ」
そんなこと僕にだって分かってる。ただ、努力してるつもりなのに成果が上がらないから凹んでるんじゃないか。
「一人で勉強してると時々自分の勉強法が正しいのか自信なくなるじゃない? 親は息抜きが必要だとか言うけど、そんな悠長なことしてる間に遅れを取るんじゃないかって不安になるし。結局予備校に行ったって、言われることはひな型通りよ。それでもブレずに頑張ったもん勝ちだとか、先だけ見てなさいとか」
「分かりきったことを言われるだけなら、そのために予備校に行かなくても良いんじゃない?」
「分かりきったことでいいのよ。新発見みたいな必勝法が今更出てくるわけないんだから。ただ、その言葉を受験プロが言うってことに価値があるわけ」
「そういうもんなのかなぁ」
「そういうもんなの。さっきも言ったでしょ、浪人生が考えることもやることも一つだけ、って。私たちは言われるまでもなく分かってるの。分かってるくせに迷走したら、言われる言葉も分かってることしかないじゃない」
「理解できたようなできないような……」
「理解できないのは、あんたの頭の中にある迷いが勉強だけじゃない証拠よ」
ズバッと言われてしまうと露骨に言葉が詰まってしまう。
美帆は呆れ顔で大きな溜め息をついて冷たい視線を送ってくる。
「今は誰にうつつを抜かしてるのか知らないけど、あんたの分際で百年早いっつーの」
「……」
「そもそもあんた、自分がそんなに器用な人間じゃないことくらい分かってるんでしょ? バカじゃないんだから」
いや、改めてそう言われるとバカの部類かもしれない。
「私、前に言ったわよね? 好きな女と肩を並べられる男になりなさいって。今のあんたじゃ、どうやったって一つも自分に自信持てないでしょ。そんな風に地盤が緩んだ状態で何度立ち上がっても、結局同じことの繰り返しなのよ」
正論だ。さっきの美帆の予備校の話しじゃないけど、自分の頭の中でとっくに分かっていたことを突き付けられているだけなんだ。自分で悶々と考えているのと他人からハッキリ言われるのでは、こうも違うものなのか。
「一つずつ片付けていきなさいよ。何から先に片付けるかくらい分かるでしょ? 一見、回り道に見えることも実は正しい道順だったりするから、あんたみたいな不器用な人間がそれを見失ったら取り返しがつかないことになるわよ」
「そうだね、ありがとう」
「まったくガキのお守りはゴメンだわ」
素直に礼を言った時くらい素直に受け取ってくれればいいものを、この女史ときたらますます厭味を言う始末だ。
「あ、ところで」
唐突に僕が切り出すと、美帆が訝しげに片眉を上げる。
「どんなことでモチベーションが下がってたの?」
こんなこと訊いても教えてくれるわけないか。まさか本当はサッコーに憧れの人がいて、その人が本郷の法学部だとかそんなこと───
「来年のセンターまで待たないで、もう本郷を見切ってアイビー・リーグにでも挑戦しようかと迷ったのよ」
…………はい?
「アイビー・リーグって? アメリカのプロバスケ?」
「はぁぁぁ!? 地味男のくせにつまんないボケかまさないでくれる? それはエヌビーエー・リーグでしょ!」
「あ、ああ。そうだった」
「ハーバード受けようか迷ったのよ。高校の時にSATも受けてるから、そこそこのスコア提出できるし。それに人生設計的には本郷を卒業したらハーバードのロースクールに行ってLLMを取得する計画だから、経過が少し変わっても問題ないかなぁって」
次元がエグ過ぎる!!
アイビーだとかエスエーティーだとかエルエルエムだとかエヌビーエーだとか。エヌビーエーは言ってないけどさ。
美帆が本郷大受験に迷いが生じた理由って、いっそのことハーバードを目指してしまえ、ってことだったのか。
なんというか、ははは……。
「でもアイビー・リーグはお金かかるから、一見回り道に見えても、やっぱり“本郷大に行ってからハーバードのロースクール”って順序が私にとっては正しい道順だと思い直したわけよ」
ああ、そうですか、そうですか。
やっぱりこの恐ろしいイトコは、とんでもない人だった。
一瞬でも、同じ穴の狢だとか思ってしまったことが悔やまれる。
「じゃあ私、帰るわ」
駐輪場へ向かい掛けた美帆が断りを入れてきた。
「あ、うん」
ポカンとして、手を上げた僕に美帆の目が鋭く光る。
「くだらない話しに時間を費やしたわ。こんな僅かな時間で遅れを取ったりはしないけど、僅かな時間に覚えられることは山ほどあるもの」
そう言うとギシギシ音を立る自転車に乗って去って行った。
勉強も大切だけど、もう少し自転車の手入れをした方がいいよ。




