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50 R恋人未満

 電車の車内アナウンスが桜ノ宮を告げる時にはやっぱり緊張する。

 減速した電車が三番ホームに滑り込むんで停車するとホームに立つ彼女の姿が見える。膝頭が隠れる丈の紺色のワンピースを着て薄手の白いカーディガンを羽織っている。髪型も高校の頃と変わってなくて、化粧しているわけでもないのに、風で乱れた髪を指先で顔の前から払う仕草が高校の頃より少し大人っぽくなったように感じた。

 車内の僕を見つけると、にこやかに手を振ったその表情は数秒前に大人っぽく見えたことが錯覚だったかのように、高校時代そのままの人懐こくてあどけない笑顔だった。


「暑いね。昨晩よく眠れた?」

「うん、まあまあ」

 なんて笑ってはみたけど、正直言うとあんまり眠れてない。その原因はもちろん暑さなんかではない。久しぶりに平岡さんに会えるからドキドキして寝付けなかったんだけどね。久しぶりって言っても、東雲の花火大会に来てた姿をチラッと見掛けはしたんだけど。

 そのことについては彼女からメールで報告があった。僕が見た時は一緒にいたのは松野さんだけだったけど、あの後栗原さんとも合流したみたいで、二人に協力してもらって学校の課題の写真を撮影したとのことだった。やり取りがメールで良かった。もし面と向かって話している時だったら「ああ、それで黒い荷物下げてたんだ」なんて、うっかり言ってしまったかもしれないから。

 花火大会に一人でいたことを知られるのもなんとなく恥ずかしい。


 真夏の午前中の車内は空いている。僕たちはドア付近の少人数掛けに並んで座った。シートに腰を下ろす瞬間、シート端のポールに掴まった彼女の手首が前よりもほっそりしているように見えた。

 少し痩せた? なんて女性に訊くのはセクハラだよな。痩せたと言われたら女性は喜ぶなんてテレビでは言ってるけど、そんなことは不躾に訊くものではない。

「一人暮らしは慣れた?」

 かわりに彼女の近況を訊く。

「一人暮らしって言っても、隣が大家さん家で果物やお惣菜なんかも分けてくれたりして、下宿みたいな感覚なの」

 以前のメールにも、食べきれないほど炊き込みご飯を頂いたと書いてあったし、痩せたと感じたのはやっぱり僕の気のせいなのかな。丸く可愛らしい笑顔も今まで通りだし。

「畠中くんはどう? お盆に中学の時の友達の集まりに少し顔出したんだけど、帰りに杉野くんが一緒に夏期講習に行きたかったって言ってた」

 杉野め。平岡さんと会ったなんて一言も聞いてないぞ。僕も言ってないから責める筋合いないけどさ。それにしても、「帰りに」って言ったよね、「帰りに」って。何時だか知らないけど、杉野が平岡さんを送ったってことなのか。健全な青少年の健全な発想では、暗くなった時間に二人きりを想像してしまう。

 悔しいけどそれを咎められる立場じゃない。親でも兄弟でも彼氏でもないんだから。

 それに杉野のターンが回ってきているのだとしたら、紳士的に僕のターンを待たなければならない。

「高校卒業してからも杉野くんたちと仲良いんだね」

「仲良いっていうか、ガクちゃんや尾崎たちと卒業式の日にアドレス交換したから」

「そうなんだ」

 気まずい表情。ガクちゃんの名前は地雷だったかな。彼女の笑顔が少しぎこちなくなった。きっと今でも彼女はガクちゃんの気持ちに応えられなかったこと負い目に感じているんだ。その上で、今でも僕とガクちゃんが繋がってるなんて、彼女にとっては気まずさ以外の何物でもないよな。

「ガクちゃんなんだ」

「……えっ?」

「卒業式の日、平岡さんの周りすごい人だかりだったから、帰ろうと思ったんだ」

「……うん」

「行ってこいって背中を押してくれたのガクちゃんなんだ。尾崎や杉野やまいちゃんもだけど」

「そうだったの」

「うん」

 僕たちはしばらく黙った。けれどその沈黙に張り詰めたものはなく、それはガクちゃんとの間に気まずさを感じるようになっていた彼女が色々な物を消化するのに必要な時間なのだと僕は思った。

「東堂くん、本当に良い人だよね」

「うん」

 ガクちゃんは本当に良い奴だ。本人は良い人脱却したいみたいだけどね。栗原さんにもダメ出しされてたし。あれは思い出しただけでも戦慄が走る。

「いつかまた高2の時みたいに話せるかな」

 立ち入り禁止の教室棟の屋上で、三人で地べたに座ってパンを齧った青空が懐かしい。

「ガクちゃんも同じこと考えてると思う」

「うん」

 彼女は過ぎた日を見やるように窓越しに流れる景色を目で追っていた。



 一回乗り換えのち京浜に到着し、僕たちは混んだ改札を出て駅を降りた。

「風があると思ったより涼しいね」

 強い風の中に微かな潮の香りが漂い高い空が視界を広げる独特なこの街は、兄さんのアドバイスにもあった映画も良いし、ただ歩くにも恰好の散策場所だ。

 映画館なら桜ノ宮でも充分だけど、知り合いに会う確率を考えるとなんとなく落ち着かない。彼女ほどの人気者がこんな冴えない地味男と並んで地元を歩いていたら、また彼女が好奇の目に晒されかねない。変な男と街を歩いていたなんてご家族の耳に入って、咎めらたりギクシャクするようなことになってしまったら謝っても謝りきれない。



 そんなわけで、今回は京浜に出ようと彼女に提案してみた。彼女の快諾あって今に至るのだけど「楽しみにしてるね」という彼女からの返信で、もしかして僕はハードルを上げるという墓穴を掘ってしまったのかと項垂れるはめになったことは言うまでもない。もうなんだか、恋愛って高尚過ぎて僕などには百年早い。平安時代なんかに和歌に恋心を詠んで……、なんてやっぱり高貴な身分限定の趣好なんだ。僕のような何処の馬の骨とも分からない身分の低い者が立ち入る領域ではないんだ。……って、解釈が激しく違うような気がするけど、パニクってしまうとこんなもんだ。


 まあ、とにかく料金を払って電車に乗れば僕にでも京浜にまでは辿り着くことはできる。

 できる。それだけだ。問題は着いてから。とりあえず、僕のように話題がない人間でも、他人に楽しんでもらえる場所を知らない人間にも、この街の雰囲気がある程度のカバーを担ってくれる。京浜という街の無限の可能性を借りて、僕は今日一日を乗り切ってみせる。あ、京浜が無限でも僕がゼロなら掛け算したら値はゼロなんだけど。



 シネコンに入りコメディタッチのサクセスストーリーの洋画を観ることにした。受け付けで学生証の提示を求められて、改めて自分が何者でもないことを露呈させてしまいちょっと肩身が狭い気分にもなった。やっぱり浪人生は映画なんか観てるご身分じゃないよな。

 上映中は、確かに会話を意識しなくて良いという面では助かったけれど、洋画の確定要素であるお約束の下ネタで笑いを取るシーンやラブシーンで居心地が悪い気まずさを感じた。気まずく感じるシーンは約二時間の中のほんの一部なのに、そういうシーンの最中はやたらと長く感じたし、笑いどころにしてしまって良いのかも躊躇われた。気まずさと緊張からゴクリと唾を呑み込むことになってしまうのだけど、そんなリアクションがラブシーンを見て興奮しているという印象を女子に与えてしまわないだろうか気になってしまったり、下ネタのスラングが笑いのツボだと思われてしまわないだろうかなんて気が気じゃないのだ。

 場内では結構あちこちで笑いが起きているけど、僕だけが気にし過ぎなんだろうか。異性と映画やドラマを観ていてラブシーンやハードな下ネタは気まずくならないのだろうか。慣れるもんなんだろうか。僕は手のひらがじんわり汗ばむくらいドギマギしたんだけど。


 最終的には、挫折しかけた主人公が彼を信じていた仲間の元へ戻って起死回生の逆転劇で幕を閉じた。映画自体は分かりやすく無理のないストーリー展開に起死回生の逆転劇という爽快な物で申し分ない作品だったけど、ラブシーンとか下ネタとか必要なんだろうか? R指定は年齢制限だけど、過剰なラブシーンや下ネタなどを盛り込まない“R恋人未満”とか設けて欲しいもんだ。滅多に足を運ばないくせに、そんなワガママ言うなら手堅くディズミーでも観てろと言われそうだけど、最近のディズミーを侮ってはいけない。気まずくなるレベルのお熱いラブ要素も盛り込まれていたりするから。


 日本だけでなく世界の恋愛モラルの水準が変わったということなのか。小中学生でもカップルが簡単にくっついたり離れたりしてるっていうのに、十九にもなって気まずいだとか恥ずかしいだとか言ってる僕はやはり“離乳食系”ということなのか。

 映画のエンドロールをぼんやり見ながら悶々と考えているといつの間にか辺りが明るくなっていた。

「面白かったね」

 隣を見ると平岡さんがぎこちない笑顔で笑っていた。カーディガンの袖口を手首まで延ばしたり、髪を耳に掛けたり仕草が微妙にせわしない。やっぱり彼女も少し気まずかったのかもしれない。完全に選択ミスだ。

「ディズミーにすれば良かったかな」

「ううん、楽しかった」

 女の子を楽しませるのも自分が楽しむのも、まだまだ僕には修行が必要そうだ。



 映画館を出ると、窓のない空間から外に出た開放感が幾分空気をくつろがせた。僕たちは少し遅めの昼食を食べながら、映画館内での微妙な気まずさが嘘のように、映画の感想を語り合った。もちろん下ネタやラブシーンは暗黙のスルーで。

 彼女の口から語られる感想は“あのシーンで主人公の顔や表情じゃなくて主人公の目線になって景色が写ったことに感情移入させられた”とか“乗り物に乗ってるみたいな低くてスピーディーな映像にドキドキした”というものが多くて驚いた。僕の感想はストーリーに関することのみだったから。


 彼女と話すのはとても楽しかった。

 よくよく考えると僕自身は全然大したことを喋っていないのに、女の子とスムーズに有意義な会話をしているような気分にさせられる。

 そしてその時間はあっという間に過ぎてしまう。


 三時半くらいになった頃、彼女のスマホが光った。

 画面を確認した彼女がそのまま目を見開いてフリーズした。それから動揺したように二、三回辺りを見回してスマホをバッグにしまった。

「そろそろ駅に向かおう」

 いまだ動揺の色が残る表情で笑顔を作った彼女が立ち上がる。たまたまスマホで見た時間が丁度良い時間だったからなのか、入ってきたメッセージが気になったからなのか分からない。けれどタイミング的に水を差された気分で、誰だか分からぬメッセージの主が少し恨めしかった。


 確かに電車の待ち時間や乗り継ぎ時間など諸々の所要時間を引っ括めたら、桜ノ宮や東雲に五時くらいまでに戻れる時間だ。とはいえまだ充分に明るい。滅多に会えないんだし、あと一時間、いやせめて三十分いても問題ないだろうという、名残惜しさがモヤモヤと胸の奥に立ち込めた。こんな陽の高い時間にスパッと撤収を言い渡す彼女の潔さが淋しくもある。

 僕にとっては楽しくてあっという間の時間でも、彼女にとっては延々と続く退屈な時間だったのかもしれない。ほとほと自分のつまらなさが嫌になる。同じ時間を共有していても感じる時間の長さが違うなんてと、アインシュタインに愚痴垂れても一蹴されるだけだ。



 帰りの電車の中でも、彼女はメッセージが届く前とは明らかに様子が違っていた。明るく振る舞っていても表情が少し固かったし、口数も減っていた。

 何があったのか、誰からのどんなメッセージだったのか訊きたかったけど、彼氏でもない男が干渉まがいの質問をするのも如何なものかと思ってやめた。

 ただ時折、落ち着かない様子で何か言おうとしては、ぎこちなく話題を変えることが気になった。気まずそうに、とても言い難い何かを抱えているのは鈍い僕の目にも確実だった。

 そんな様子が桜ノ宮駅に着くまで続いた。

「受験が終わったら……、ううん。またメールするね」

 浮かない笑顔で電車を降りて行った彼女は、やはり「楽しかった」とは言わなかった。



 申し訳ないことをした。

 女の子と過ごす経験もないのに、京浜に行けば“なんとかなるさ”で連れ回して退屈な時間にしてしまって。

 好きな人と過ごす時間なら、ただ一緒にいるだけで楽しい時間になるのかもしれない。だけど彼女にとって、僕は好きな相手ではない。そうなり得る要素はあったかもしれないが、改めて僕がどれだけつまらない男なのかを実感するだけの期間になってしまったんだろう。まさか、ここまでつまらない男だとは彼女も想像していなかったに違いない。そして彼女には大学での学校生活があり、新たな出会いに溢れている。

 お試し期間は終わったんだ。

 彼女は一年待ってと言った手前や、受験を控えた僕のダメージにならないように「やっぱりごめんなさい」とは言い難いのだろう。今日の帰りの何か言いたそうな雰囲気も、今ならまだ傷は浅いか、それとも受験が終わった後に切り出すべきか悩んでいたに違いない。



 一年経ってなくても答えを出していいよ。

 そう言ってあげるべきだろうか。



 彼女は悪くない。僕を好きになれそうもないことで彼女が自分を責めるなら、言ってあげるべきなんだと思う。

 だけどもう少しだけ、夢を見させて。彼女と僕の時間が続いているって。

 あんな申し訳なさそうな表情を見るのはツライから、会いたいなんて願わずに都合の良い思い出だけ切り貼りして過ごすから。ズルズル引き延ばしたらどんどんツラくなるのは目に見えてるけど、今はまだ夢を見させて。


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