49 浴衣姿がまぶしすぎて
「電車混むから早めに出た方がいいんじゃない?」
言われているのは弟の進悟。
桜ノ宮西高の1年になった進悟は、クラスの友達と桜ノ宮市の花火大会に行くと言っていた。居間のソファでスマホをいじりながらテレビを観て笑っていた進悟に母さんが声を掛ける。
「バスで行くから大丈夫」
相変わらず暢気な弟である。
「大丈夫だよ、こっちから行くバスは今年はそんなに混まないって」
八月の第一週目の土曜日に予定されていた東雲市の花火大会が雨天で順延になって桜ノ宮市の花火大会と日程が重なったのだ。
桜ノ宮市の花火大会は京浜ほどの規模ではないにしても、この辺りでは一番規模が大きくて東雲から観賞に出かける人も多い。けれど、猛暑と例年の混雑を考えると開催日が被るなら地元で観賞しようと客足割れすると進悟は言う。
確かに電車やバスを使わなければ行けない人たちにとって、徒歩や自転車で事足りる場所で観られればその方が良いのかもしれない。
「じゃあ何で進悟は桜ノ宮なんだよ」
兄さんが訊くと、進悟はスマホに目を向けたまま「だって友達が全員桜ノ宮なんだもん」と答えた。
「大悟は行かないの?」
キッキンのカウンター越しに今度は母さんが兄さんに訊く。
「俺? どうしよっかなぁ……」
中等部から京浜籐陽に通っていた兄さんは地元にあまり友達がいない。
「用がないなら行って来てくれると助かるんだけど。そうすればご飯の支度しなくていいし」
……ということは、自動的に僕もか。
「有賀の家の屋上で花火観ながらバーベキューするのよ。お父さんが帰ってきたら出掛けるけど、あなたたちも来る?」
有賀家ということは、即ち美帆の家だ。友達付き合いもなく、浮かれた場所を忌み嫌う美帆が花火大会に出掛けるはずがない。
同じことを推測したのか兄さんと目が合った。
「いや、遠慮しとく。適当にふらっと出掛けるよ」
兄さんが即答し、僕も慌てて同意の返事をした。
「そうしてくれると助かるわ。戸締まりだけはお願いね」
進悟が重い腰を上げて出掛ける支度始めたのを合図に、僕も兄さんも居間を離れた。
「あのさ、ちょっと相談なんだけど……」
こういう時に年上の男兄弟の存在はありがたい。僕は、女子と会う約束をしたらどんな所に連れて行けばいいのか尋ねた。
「へぇ、ついに秀にも春が来たか」
ニヤニヤと身を乗り出されて、途端に訊いたことを後悔する。
「そんなんじゃないってば」
「からかって悪かったよ。で、相手の子とは趣味が同じとか? それともスポーツ好きとか?」
「んー、趣味は分からない。僕に趣味があるわけじゃないし。スポーツは、ずっと剣道をやってた人」
「そっかぁ。じゃあ、テニスするとかサッカー観戦とかちょっと違うかもなぁ。……で、秀はどんなデートがしたいの?」
「デデデデデデート!? ちがっ……」
「そんなにキョドるなって。こっちが焦るじゃん。じゃあデート訂正な。どんな時間にしたい?」
「どんなって……、相手が楽しければ……」
「それだけ?」
「それだけ、って。……それだけだけど」
はあ、と兄さんが溜め息をついて笑う。
「主体性がないなぁ。それじゃ女の子に逃げられるぞ。相手が楽しいって大事なことだけど、秀自身はどうなんだよ。そんな受動的でいいと思う? 相手の子が、秀が楽しければ自分はどうでもいいって思ってたらどう? ちょっと淋しくない?」
「あ……」
「自分ばかり楽しいような独りよがりは論外だけど、秀ならその子とどんな風に過ごしたいか、まずは秀自身のことを考えてみろよ。それをどう共有したら相手も楽しめそうか、できる限りの想像力を働かせてみろよ」
想像力と言われても、女の子と付き合うことも想像したことがないんだ、当然脳内デートを描いたこともない。宝くじを買うつもりのない人間が大金が当たることを想像しないように、発展的な恋愛には生涯無縁だと思っていた僕は小説やドラマの中でデートするシーンがあっても感情移入することなく情報処理していたんだ。どうやら根底から願望概念の構築を始めないとならないようだ。
「分かった、分かった、もういい。絶望的な顔するなって。欲の薄い秀には難しすぎたな。とりあえず、色んな所に行って少しずつ気づいていきなよ。一人で観るより誰かと一緒に観る方が感動する景色とか、そういう経験値を積み重ねていけば、どこかの場所や店を思い浮かべた時に、誰かと共有したいってフィルターを通すようになるんじゃないかな」
だからその経験値を得るためにはまず何処へ行くのが適切なんだろうか知りたいのだが?
「あくまで一般論だけど、最初のデートの定番は映画じゃないかな。会話が苦手でも、どうにかカバーできるしな。ただしチョイスを間違えると結構気まずいぞ」
「だからデートじゃないって」
厳しく訂正しながらも、アドバイスにお礼を言った。
浪人生の分際でと呆れられるかと思ったけど、快く相談に乗ってくれてホッとした。兄さん自身の恋愛の話は一度も聞いたことがないけど、彼女とかいるんだろうか。弟の僕が言うのもナンだけど、頭も良いし他人をバカにしたりしないし綺麗な顔してるから、なかなかの優良物件だと思うんだけどな。
まだ空が薄暗くなる前に花火大会の決行を告げる号砲が轟いた。
そろそろ道が混みそうだと滑り込むように帰宅した父さんが、慌ただしく着替えると母さんと連れ立って家を出て行った。
残された僕たちは、どちらからともなく外に出て家の前で別れた。
出て来てはみたものの、さてどうしたものか。
西陽が沈みかけた土曜日の六時半、いつもより混んだ道路のあちこちでナーバスなクラクションが鳴り響く。
歩いているのは中高生のカップルばかりで、こんな時に一人で出て来るもんじゃないと軽く後悔させられる。
暑さを和らげる適度な風に向かって花火大会の開催場所の方へトボトボと南下した。
進悟は桜ノ宮に着いただろうか。そう言えば平岡さんも友達と花火大会に行くって言ってたな。
そんなことを考えてながら線路を跨ぐ立体交差の下りに差し掛かった時、線路沿いの金網フェンス越しに彼女の姿を見つけた。僕は思わず、目を擦った。ドラマやアニメでありがちだとは思いつつも、目を疑う状況では本当にこんなことをするんだと頭の隅で感心した。
目に留まったのは、彼女の着ていた白地の浴衣が白袴姿の彼女と重なったからだ。そしてもう一点、青紫色の紫陽花のような古典柄の楚々とした浴衣姿には、およそ似つかわしくない大きな黒い荷物を右肩に掛けていたから。むしろそのギャップだけでも充分に目立つくらいだ。
近づきたいという刹那な衝動が脳裏に走ったけど、動くことができなかった。浴衣姿の彼女があまりにもまぶしすぎて。彼女にだけ別の光が当たっているように、彼女はとてもまぶしくて可憐だった。身体中に微弱電流が流れたみたいにジワジワとした小さな刺激が充満して、恍惚の溜め息が脳裏に走った刹那をたっぷりと呑み込んだ。
久しぶりに見る彼女の姿に僕は、痺れた。
現実が夢の世界を凌駕する。
どんな想像よりも美しい彼女。今そこにいる彼女は僕が想像した何よりも美しい。
相変わらず化粧なんかしてなくて、結い上げるには短過ぎる髪を髪と同系色のゴムで後ろに束ねるように括っただけで、浴衣姿にミスマッチなゴツい荷物を掛けてるけど。そんな彼女が誰よりも何よりも美しい。
彼女のすぐ後ろを歩いているのは、よく見ると松野さんのようだった。制服を着ていないからすぐには分からなかったが、濃い臙脂色地の渋めの浴衣はしっとりと大人っぽくて近代美人画のような独特な雰囲気は見間違いようがない。
あんな綺麗な女子が二人で歩いていたら、夏の昂揚感に飢えた肉食動物たちの恰好の餌食じゃないか。東高内とはワケが違うんだぞ? キミたち分かってるの?
ほら、心配したそばからチャラい服着た二人連れが………って、松野さんの一睨みで思いっ切り怯んで遠ざかっ行ってる。平岡さんも、近寄らないでオーラのなんちゃらフィールド全開で綺麗に距離を取ってるし、やっぱりモテる人は防御スキルの経験値も違うのかも。もっとも、空気読まずにグイグイと相手の間合いに飛び込む輩もいるだろうけど。………僕か。
もともと出て来るつもりはなかったから、人混みに入っていく気にもならず、露天商の灯りが囲む無数の黒山を遠目に流した。見上げればすっかり紺色に染まった翳りのない空の上に疎らな星が点在している。
ドン、という地鳴りのような音から数秒遅れて一発目の花火が打ち上ると辺りに拍手喝采が巻き起こった。
やっぱりこんな喧噪に一人で来るもんじゃない。
誰かが誰かと楽しさを共有し合った空気が溶け流れる雰囲気は、蚊帳の外に一人でいる人間をほんの少し孤独にさせる。一人で観ても誰かと観ても広がる景色の面積は変わらないし、他人の助力がないと観られないものでもないのに、観た時に感じる楽しさの質が全然違うのだ。
“一人で観るより誰かと一緒に観る方が”
次々に打ち上がる花火が彩る夏の夜空を見て、兄さんが言ったことが少し分かる気がした。
すぐ近くの何処かで同じ花火を見ている平岡さんが横にいて「綺麗だね」と言ったら、同じ景色が今とは比べものにならないくらい美しく感じられるだろう。
家に帰って、次に彼女と会える日を思い描こう。きっと僕が彼女とどう過ごしたいか
謎が解りかけた満足感を土産に、僕は花火に背を向けた。
それにしてもお腹空いた。
帰る道中にコンビニに寄ろうかな。それとも家の冷蔵庫を漁ろうかな。




