47 偉大なる一歩
まったく人生何が起こるか分からないものだ。
高校生になるまで女子と目を合わせたことも話しをしたことも殆どなくて、入った高校は“草食系男子の巣窟”だとか“男子生徒の青春の墓場”だとか言われるほどのアマゾネス社会。女子たちからは存在すら認識されず、同朋であるはずの草食系男子たちからは「離乳食系」などとバカにされてしまうくらい恋愛スキルがお子ちゃま並みに皆無な男が、憧れの女の子に個人的な時間を分けてもらったのだ。
もしかして、これは世に言うところの“デート”というやつなのだろうか。
いやいや、違う違う。ウィッキーペディアには「恋愛関係にある、もしくは恋愛関係に進みつつある二人が、連れだって外出し、一定の時間を遊行目的で行動を共にすること」と書いてあったぞ。恋愛関係──つまり恋人同士──ではない以上、デートであるはずがない。
……とはいえ、“恋愛関係に進みつつある二人”という部分は如何なるものか。文字を見ているだけでソワソワと落ち着かない気分だ。
恋愛関係に進みつつある二人……
良いのだろうか、本当に。そう解釈しても良いのだろうか。
この「二人」という単語が、僕と平岡さんとを一つとして指すものだなんて、本当にそんなこと畏れ多いことが現実であって良いのだろうか。
僕たちは三時過ぎに朱雀公園を後にして電車に乗った。行きは、目的地を知らされていないままとりあえず新桜ノ宮までの切符を買い、その僕の切符を彼女が自分の物と替えて朱雀公園駅の改札で精算していたので、帰りは僕に払わせてもらった。短い区間の乗り換えの後、桜ノ宮までの区間は行きとは違い座席がガラ空きで、僕たちは隣同士に並んで座った。すぐ横に平岡さんがいるのはやっぱり緊張してしまう。会う機会を重ねていけば少しは慣れるのだろうか。男子たるもの余裕が欲しいと思う反面、この窮屈な甘苦しさが徐々に麻痺してしまうのは惜しい気分でもある。
東京で一人暮らしを始めるにあたって所持を強いられたと、彼女は真新しいスマホをバッグの中から取り出した。
「持ち歩く物だからマナーモードにしてるけど、マナーモードだと外にいない時でも着信に気づかないんだよね。慣れてる人はどうしてるんだろう。外に出る時と家にいる時でコマメに設定を変更してるのかな」
彼女の言い分としては、マナーモードの解除し忘れで家族からの着信に気付かなかったら、リアルタイムに安否の確認を取る手段としては意味がないという。
「マナーモードにしない人とか、常にスマホを触ってる人も多いのかも」
僕の答えに彼女は、私はそのどちらにもなれそうもないと言って肩を落とす。
小さな画面を凝視するのも、小さな画面をタップするのも彼女にとって慣れない作業らしく、永田さんや早坂さんから来たメールに短い返信するのもかなり時間が掛かってしまうと言う。
「私がすごく時間掛かってやっと送ったメールに一瞬で返信して来るの。本当に読んでくれたの? って思っちゃうくらい」
「それ、よく分かる。まいちゃんたちも早いから」
こんなにも他愛ない話しが楽しいなんて、今まで生きてきて初めて知った。
彼女とは受験を口実に進路の話題で繋がっていた。
美帆にも指摘されたことがあるが、無趣味だし話題の引き出しもない退屈な人間だという自覚はある。だから話しをしていても、僕と同じように彼女が楽しいと感じてくれているかは自信がない。僕は彼女の隣にいられるだけで身体中の穴という穴から幸福感が噴出しそうなくらい嬉しいわけで、楽しくないわけがない。正確に言うと楽しいと感じる余裕もないくらい、幸福感で破裂しそうだ。
彼女はバッグから手帳タイプのノートを取り出してスマホの画面を見ながら懸命に何かを書き写す。時々スマホの画面が暗くなってしまって、慌ててスマホにタッチしたりと手こずりながらボールペンのノックを押して、ミシン目に沿って丁寧に紙を切り取った。
「これ、私の連絡先」
手書きで渡さなくても、目の前でスマホを持った同士が簡単に連絡先を登録し合える方法もあるのだろう。けれど、スマホを持って一週間と経たないアナログな僕たちには一番確実な交換方法に間違いない。そして彼女が手渡してくれたこの紙は僕にとって一生の宝物になるだろう。これは秘密だけど。
「登録したら一報してね。文面は名前だけで構わないから」
僕は渡された紙を見ながらその場で登録をやってみた。それから綴りに間違いがないことを願いながら文面に「畠中秀悟です」とだけ打ってメールを送信した。同時に彼女の手の中のスマホの画面が明るくなってメールの着信を知らせていたのでホッとした。
「ありがとう。私もちゃんと登録しておくね」
彼女の嬉しそうな微笑みにやられそうになる。ノーガードのところにそんな無邪気な笑顔を撃ち込まれたら、底なし沼に沈んで行きそうだ。どんなに忘れようとしても好きで、毎日“ついに好きの上限に到達してしまったか”と思いながらも次の瞬間に呆気なく更新されてしまうことを繰り返して来た。今日こうして自分に憚かることなく彼女を好きでいられると思った途端にリミッターが外れたみたいに、抑えていた感情を振り切って彼女のことを好きな気持ちが暴発しそうな自分に焦る。
桜ノ宮駅に近づき、彼女がスマホやノートを手帳にしまい降車支度を始める。
「今日はありがとう。このまま電車の中でバイバイでいい? ホームまで降りてもらっちゃうと、そのまま話し込んでしまいそうだから」
見透かされていたのかと恥ずかしくもあり、彼女も同じ気持ちでいてくれたようで嬉しくもあった。
やっぱりこの人はしっかりしている。リミッターが外れかけて抑制が難しく感じている僕なんかとは違う。悔しいけど、同じ年なのに現段階では僕の方がずっと幼稚だ。
車内アナウンスが桜ノ宮を告げると彼女は「またね」と手を振って電車を降りて行った。ホームで手を振る彼女の姿が見えなくなった頃には、さっきまで彼女が座っていた場所にぼんやり視線を落とし、ここにいない現実がここにいた現実を支配し始めた。
やっぱり夢だったんじゃないか?
手の中のスマホが振動して、さっき別れたばかりの彼女からのメールの着信を告げた。
“コートの中に御守りを入れました。最近まで私が持っていたものです。来年、一緒にお礼参りと奉納に行こうね。今日はありがとう”
スマホを落としそうになりながら、慌ててコートのポケットをまさぐった。彼女が座っていた方の左側のポケットの中から白く長細いそれが出てきた。
彼女からのメールを読み、彼女が受験中に身につけていたという御守りを手にして、じわじわと現実感が確信に変わっていく。
彼女は僕の隣にいた。今日の出来事も全部、夢なんかじゃない。
次にいつ会えるのかは分からない。
だけど、然るべき理由がなくても会おうと言っても良い資格を得られたんだと思うと、たまらなく嬉しかった。高校卒業と同時に接点を失うはずだった。もし次にまた彼女と会えるとしたら偶然しかないと思っていた。あの微妙な男女仲を考えても高2の同窓会が開かれることはなさそうだし、開かれたとしても出席するとは限らない。いつか高校時代を思い出した時に顔と名前が一致する程度に記憶してもらえたらそれで充分だと思っていた。その彼女からたった今メールが届き、僕たちがこれからも繋がりを持てることを告げていた。
込み上げてくる嬉しさに、頭の中は彼女で埋め尽くされる。
どうしてこんなにフライング気味な気持ちになってしまうのだろう。どうして男ってこんなに直情型なんだ。単に僕が恋愛経験がなくてコントロールが出来ていないだけなのかもしれないけど。彼女は待ってほしいと言っていたのに、これじゃ先が思いやられる。
僕と彼女との新しい関係はスタートラインに立ったようで、実際はスタートラインに立つ前のウォーミングアップ段階なのだ。僕の見切り発進は彼女にとってプレッシャー以外の何物でもないだろう。
スタートラインという意味では、まずは僕の受験生活の方だ。彼女との新しい関係よりも、まずそのスタートラインに立っている自覚を持たなければいけない。受験生として一年間頑張って行く覚悟の前に雑念だらけでは、夢に向かって着実に歩みを進めている彼女の隣に並ぶ資格なんか得られるはずがない。そういう負け方は彼女にとって一番望まないことだろう。
きっと受験なんて長い人生の中の小さなハンデの一つに過ぎない。自分を制御できないで、小さなハンデさえまともにクリアできずに雑念に溺れてしまう男なんて、謹んでお断りだろう。
お互いに高め合えるお付き合い、なんて時々聞くけど、今の僕にとっては、そんな関係が築ける人たちは“恋愛の達人”とでもお呼びしたい。そりゃあ僕だって、出来ることなら彼女の存在が励みになったなんて堂々と言いたい。だけど、実際は彼女の愛くるしい笑顔という強大な誘惑を身近に感じて、果たして僕は感情に翻弄されることなく冷静にコントロールしていけるのか不安にもなる。
この均衡が崩壊した時に、彼女が朱雀公園で言っていたようにどちらが“もう会うのをやめよう”というジョーカーのカードを切り出す瞬間が訪れるのだろう。
そして僕と彼女はそれきり会えなくなってしまうんだ。彼女は僕なんかよりもずっと冷静にそこを危惧している。だからスタートラインを現段階に設定しないでいてくれているんだ。都合の良い解釈かもしれないが、それだけ彼女がこれからのことを慎重に大切に考えてくれているということなのかもしれない。それならば、僕にできることは溺れるくらいに頭の中を彼女で埋め尽くすことではなく、きちんとした結果を掲げて彼女が見据えてくれているスタートラインに到達することなんだろう。
……と、頭で考えるのは簡単なことなんだけど、彼女のことを考えれば考えるほどズブズブの恋愛沼にのめり込んで行きそうで、好きという気持ちの強さをモチベーションに昇華させる難しさに行き詰まる。
皆、どうやってモチベーションに変えているんだろう。
訊ける相手がいるなら訊いてみたいけど、こんなこと悩んでるなんて「贅沢だ」と一蹴されそうで訊けない。
それに、彼女との詳細はあまり口外しないつもりだから。僕も自分のことを話すのは得意ではないが、彼女も自分のことを話すのは苦手なようなので、知らないところで詳細をあれこれ話されて気分が良いとは思えない。しかも詳細を共有している相手が彼女もよく知っている人たちだとしたら、きっと居心地の悪い気持ちになるだろう。逆の立場なら僕でも、僕のことを知っている人に彼女と僕の間のやり取りを細かく知られていたとしたら、顔から火が出そうなくらい恥ずかしい気持ちになると思うから。
経過を心配してくれているガクちゃんたちには、また会ってもらえることになりそうだと概要だけは報告しないといけない。だけど、彼女のプライバシーに関わることは避けよう。したがって、残念ながら内情がバレる可能性があるわけで、恋愛と勉強の両立方法については尋ねることが出来ない。
やっぱり一人で解決して行くしかなさそうだ。
とはいえ、今日くらいは喜びを噛み締めていたい。
ずっと好きだったたった一人が、僕だけのために微笑んでくれたのだから。




