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04 アイデンティティ

 頭の上で掃除機をかける音が聞こえる。モーター音なのに苛立っているように聞こえるから不思議だ。最近の掃除機って徹底的にハウスダストを除去するだけじゃなくて、使ってる人の気分に合わせた音を出すのかな。なんだっけ、ストレスの度合いで部分的に色が変わるサーモグラフィっぽいやつ。そんな機能がつく意味があるのか謎だけど。それ以前に、うちの掃除機は結構古かったよな。

「こんな所で暇潰しなんて、どうかと思うけど?」

 宿題を終わらせろと進悟を部屋に追いやったのは母さんなのに。とっくに宿題を済ませてる僕は進悟に部屋を追い出され、所在なく居間のソファで本を読んでいれば今度は母さんから邪魔者扱いを受ける。

「昼間からソファでごろごろしてるなら、大悟と一緒に図書館に行けば良かったのよ」

 十八歳の兄と連れ立って図書館に行く十六歳の男が、この治安の良い法治国家にどれだけいるのだろう? 心なしか、ソファの周りだけゴツゴツと荒っぽい音を立てて掃除機をかけられている気がする。時折、振動が痛い。これは本気で “邪魔だ” のサインに違いない。

 軽いタッチの推理小説も、山場を過ぎて犯人の目星もついたところでページに栞を挟み体を起こす。体をずらし床に足を降ろす勢いで少し前屈するように一旦体を折った。さっきまで母さんが掃除機をかけていた飴色のフローリングは、光に反射して浮かび上がった無数の擦り傷だらけで、ところどころ艶が剥げ落ちている。こんな所に注視してしまうのも、暇人が畳の目を数えるという例えを体現しているのだろう。

 宿題も終わってしまっているし、外で遊ぶような友達もいない身としては暇つぶしも楽じゃないんだ。淋しい男子の現状を母さんは分かってない。残念ながらあなたの愚息殿はリア充から一番遠い位置にいるんです。


 冬休み中は、大掃除の手伝ったり宿題を片付けたりして過ごした。届いた年賀状は、中学からの友達で同じ東高に来てる友達二人と、桜ノ宮高に行った友達の計三枚。返事なんてあっという間に終わった。

 その他には、叔父の家に年始の挨拶に行ったくらいで、例年通り「相変わらず覇気がないな」とからかわれた。可愛がられているのは分かってるけど、毎年新年の話題がこれだと正直言って滅入る。

 幸いだったのは、“怖いイトコ”が不在だったこと。大手予備校の公開模試を受けに行ったそうだ。「お正月くらい」と叔母さんはボヤいたけど、僕には好都合だった……、なんて口にも顔にも出せない。暢気な受験生の兄さんも「さすがサクジョ生。まだ1年なのにすごいね」と感心していた。


 美帆の通う桜ノ宮女子高校、通称“サクジョ”は男子校の桜ノ宮高校(サッコー)(つい)のような位置付けの県下有数の公立進学校だ。

 この辺りでは昔から、有名私大の付属校よりもサッコーやサクジョに通っている方が世間体が良い。叔父や叔母や僕の両親などは昔から子供に勉強を強いる人たちではないので、学校のレベルなどの虚栄心に関心がないようだったけど、何より美帆本人が人一倍負けず嫌いで世間体に固執していた。

 美帆からすれば、東高レベルの進学校なんてこれっぽっちも価値がないのだろう。僕が東高を受験すると叔母づてに知った時は声のない嘲笑を贈られた。

 彼女自身の価値観なのだから否定するつもりは毛頭ないけど、時折顔を合わせればあれこれと干渉して価値観を強要するような言い方をされるから堪ったもんじゃない。

  “僕” というこの一人称もそうだ。

 物心ついた頃に“俺”と口にして、美帆に「あんた似合わない。下品な言い方やめなさいよ」と頬を(つね)られて以来やめた。

 彼女は覚えてないだろうけど、僕にとっては一種のトラウマみたいなもんだと思う。あの時泣かなかっただけでも自分を褒めたい。

 兄さんや進悟は恐怖のお咎めに遭わなかったのか、一人称は“俺”だ。僕はきっと間が悪かったのだろう。

 本当のところ“僕”と言うのは気恥ずかしいけど、“俺”と言うのは気後れするし、どっちにしても柄じゃないと思ったこともある。今となっては大した問題ではない。問題なのは、美帆が毎年バージョンアップしてるってこと。会う機会が減ったとはいえ、一回のダメージは大きい。あんなに難しい言葉を知っていて勉強も良く出来て、どうして大人の所作が備わらないのだろう。いつもナーバスで、烈火のような感情をむき出して、そんなに肩に力が入った生き方して疲れないのかと思ったりもする。

 だけど最近、ふと思う。自分を何かに向かわせる強い意志を持っているのって羨ましいなぁ、なんて。



 正月の出来事をぼんやり考えていたら気付いた時には掃除機の音は止み、母さんの姿はキッチンだった。

 結構な邪魔扱いをされて、途中から聞きもせず母さんの掃除機がけが終わるまでぼんやりとソファの上に居座っていたともなると、さすがに申し訳なかった。

「何か手伝おうか?」

 母さんのそばまで歩いて行って、一応声を掛けてみる。

「ただいま」

 玄関から兄さんの声がして、母さんと僕は同時に「おかえり」だけ言った。

「特に手伝ってもらうことないから大丈夫よ。大悟の部屋にでも行っててちょうだい」

 機嫌は悪くなさそうだけど、居間で暇を持て余していてはやっぱり目障りなのか。

 部屋に戻る兄さんも聞こえていたようで「入りなよ」と僕を促した。

「ごめん、お邪魔します」

「ベッドでも座っとけよ」

 扉の横でコートを脱いで壁のハンガーに掛けている兄の横をすり抜ける瞬間、冬の空気特有の匂いと残っているはずのない外の冷気に撫でられた気がした。

 同じ家の中だけど、兄さんの部屋は兄さんが持つ匂いがする。

「どうかした?」

「あ、うん。他人の部屋だなぁって思って」

「なんだよ。自分の家だろ?」

 軽く眉を顰めて笑ってから、首を捻るとそのまま左右させてポキポキと鳴らした。

 兄さんは関東圏の語学系をいくつか受験するらしい。

「あのさ、語学系に進んで何やりたいか考えてる?」

「なりたいものか…。専門職は考えてないよ。でも学部とか学科を決めないで受験するわけにいかないだろ?」

 兄さんは理系に進むものだと思っていた。

 僕たちが中学生の頃、兄さんも理数系の成績が良かったはずで、文系を志望しているのは意外だった。

「授業やテストなんかでは理数系が得意だよ。公式覚えてれば簡単に答え出るし。でも理数系を活かせる仕事に魅力を感じるかって言ったら、どうもしっくり来なかったんだよなぁ」

「それでどうして外国語学科?」

「結局、中学高校と英語に振り回されちゃったからさ、違う言語を一から学んで英語に振り回された六年間のリベンジを果たしたい、ってトコかな」

 何それ、と突っ込んで笑うと、何だろうなと兄さんも笑った。

「そう言えば、美帆ちゃんも文系に転向するらしいな。判事になりたいんだって。前は研究医になりたいって言ってたのに…って叔母さんが呆れてた。秀、知ってた?」

 ベッドに浅く腰掛けた僕と向かい合ってフローリングに胡坐をかいた兄さんは、両手を後ろに着いて背中を伸ばした。

「知らなかった」

 てっきりノーベル化学賞を目指して研究の道に進むのかと思っていたけど、判事か。

 幼い頃から高圧的に僕を弾劾してきた怖いイトコは、本格的に裁く人になろうとしているのか。似合うような気もするけど、独善的な性格で務まるだろうか。彼女の頭脳で名門大学に合格することや司法試験にパスすることは約束された未来かもしれないが、司法修習生の期間に人間的に一皮向けてくれることを願うばかりだ。

「秀はあるの? やりたいこと」

「……やっぱり、ないとマズいかなぁ」

 ないのが良いことなのか悪いことなのか分からない。

「やりたいことを見つけるのって簡単なことじゃないよな。まあしっかり考えろよ、のんびりしてたら二年後なんて本当にあっという間だからな」

 二年先があっという間だというのは、分かるようで実感が伴わない。今から二年前を振り返ると、二年という月日の流れはあっという間なのだが、今から二年後と思うと長い時間の先に感じてしまうのだ。

「前から訊きたかったんだけどさ、秀って何で桜ノ宮高を受けなかったの? 中3の二学期まで桜ノ宮高志望だったよな? 土壇場になって志望校を変えたくらいだし、東高でなきゃダメな理由でもあったのかと思ったんだけど」

「それは───」

 ダメな理由なんかなかった。もっと言えば桜ノ宮高に行きたい理由もなかった。

 ただ受験学区域の中で桜ノ宮高が一番偏差値の高い公立高校だったから担任に勧められた。それだけ。

 そして願書を取りに行った帰りの電車───満員電車の中で急カーブに差し掛かった時に、将棋倒しの下敷きになり足の骨を折った。

 人生初の慣れない松葉杖で、電車やバスで桜ノ宮市まで受験に行く気力がなかった。道中も不安だったし、いちいち人目を引くのも嫌だった。もともと戦意なんかなかったけど、完全に戦意喪失していた。

 だから歩いて行ける東高にした。ただそれだけだった。

 僕が東高を受験すると知った美帆は「暇そうだし勉強くらいしかすることないように見えたけど、あんたの成績ってそんなもんだったの?」と侮蔑の言葉を吐き捨てた。


「まあ目と鼻の先だし、レベルだってそこそこの進学校だし悪いとは思わないけどな。ただ、少しでも偏差値の高いトコに行きたいって思うのが一般的だし、秀もそう思って桜ノ宮高を希望してたと思ってたから」

 やっぱり変だよな。県外ならまだしも隣の市で、私立で学費がバカ高いわけでもないのに寸前で志望校変更って。ひょっとして桜ノ宮高を受験する他の人からイジメに遭ってたとか心配されてるのかな。

「東高が近いから」

 近いから松葉杖でも試験を受けに行きやすかった。そう補足するべきなのか───

「そっか。秀なりに理由があったならいいんだ。桜ノ宮高じゃなく、敢えて東高を選んだことに秀なりの理由があったなら───秀なら見つけられるよ、やりたいこととか、行きたい大学とか」

 確固たる理由も自分の意思もどこにもないことが、安心したように笑った兄に申し訳ない気持ちになった。

 僕は、人間でありながら、畠中秀悟という名と形を持ちながら実は名も形もないのかもしれない。


 見えないものはいつだって、漠然としていて不確かで、実体感や距離感を狂わせる。

 たとえ見えているつもりでも、実体感や距離感が感じられていなければ、見えていないのと同じかもしれない。

 進学についての未来よりももっと、二年後の自分の姿さえ見えないことに気づき、心の中で焦燥感が粟立つのを感じた。


 冬休みの宿題もとっくに終わったなんて、手持ち無沙汰になってる場合じゃなかった。僕は本当に目の前のことしか見ていないんだな。

 これじゃ真面目に勉強してるつもりでも、美帆に馬鹿にされても仕方ないな。

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