44 散る花の向こう側 (後編)
挙動不審に動揺していると汗ばんだ手のひらが震えて、浜島に渡された富樫からの封筒が滑り落ちた。
慌てて拾い上げると何重にも折り返してあったはずの折り口が広がってネガフィルムの紙箱と一緒に小さい紙切れが顔を出した。
“畑中秀吾殿 アイツの大事な物です。返してやらないとアイツは心に傷をかかえたまま一生過ごすことになるでしょう。くれぐれも謝っておいて下さい。ヨロシク!”
富樫のヤツ、滅茶苦茶だ。畠が違うし、悟も違う。
帰ってから開けろって、帰ったら平岡さんとはもう会えないのに。
しかもいつか富樫と中庭で話した時に、思わせぶりに言い残した“アイツの大事なもん奪っちゃったから”という置き土産は、これのことだったのか!!
僕はてっきり、あの、その……、女の子が一生に一度、好きな相手に捧げるアレかと……くそう、やられた。
いや、やられたのは僕じゃない。こんな下品な言い方は不適切だ。だが、全ては否定できない。なにしろ、あの捻くれ者の富樫のことだから。あの件は、当時学校中の噂になっていたし、彼女本人も噂の内容を把握しながらも明言を避けたのだから。
……と、危うく富樫に躍らされるところだった。
彼女がどうであろうと僕は彼女のことが好きで、別件で彼女への想いを断ち切ろうとしても断ち切ることができなかったのに、今さら富樫のトラップに引っ掛かって昔のことを蒸し返すなんて、まさに富樫の思う壺だ。
返してやらないと彼女が心に傷をかかえたまま一生過ごすなんて書かれたら渡しに行かざるを得ない。
きっと富樫は今頃、何も知らずに封筒ごと家に持ち帰ってしまうであろう僕がこのメモからあんなことやこんなことを邪推して一人部屋の中で悶々と一喜一憂する姿を思い浮かべて笑っているだろう。悪趣味だ。本当に富樫は悪趣味だ。悪趣味にも程がある。
「お、いたか」
この寒い中、季節外れの汗をかきながら走ってきたガクちゃんが僕たちの前で足を止めた。
「ごめん、ラグビー部の連中に足留め喰らった。で、どんな状況?」
「どうもこうも、見ての通りっスよ。この離乳食系男子くんは、なかなか一歩が踏み出せないみたいですわ」
尾崎は大袈裟に溜め息をついて肩を竦める。
今度は杉野が走ってきて、僕たちに向かってにんまりと笑いVサインを示す。
「浜ちゃんたちに粗方片付けてもらった。下級生の殆どは浜ちゃんや永田さんたちが武道体育館の方へ連れて行くってさ。ヤナちゃんには平岡さんが移動しないように時間稼ぎしてもらってる」
「よっしゃ、杉野ナイス!」
ガクちゃんと尾崎が杉野とハイタッチを交わす乾いた音が響く。
「平岡さんを一人にするのはさすがに無理だけど、もうだいぶ人減ったから、周りに遠慮しないで声掛けておいでよ」
杉野が僕の肩に手をおいてにっこりと笑った。
「す、杉野は?」
「ん? 俺はいい。割と家も近いし中学の友達も共通の友達多いから、会おうと思えばいつでも会える。それに今は俺のターンじゃないからね。俺のターンが回ってきたら手加減しないよ」
おまえ、余裕だな。なんて尾崎やガクちゃんに冷やかされて笑う杉野につられてまいちゃんも笑っている。
「さ、できるお膳立てはこれで全部だ。胸張って行って来い」
「なんでそこまで……」
尾崎もガクちゃんも杉野も、なんで僕なんかのためにそこまでしてくれるんだ?
「スマホのアドレスを教えてくれだろ」
そんなことで……。連絡先を教えてもらったのは僕の方だ。皆がケータイやスマホで連絡取り合っていたその仲間に───学校という繋がりがなくなるのに───加えてくれたのはガクちゃんたちの方だ。
「そんなシケた顔するなよ。これまで成長してきた集大成だろ? 逃げるなよ。どんなに格好悪くても、前に踏み出せよ。卒業の日が来たから押し出されるんじゃなくて、自分からゴールのテープを切ってみろよ」
ガクちゃんに思い切り背中を押された。
これじゃ押し出される気がするけど、平岡さんがいる所までの距離はだいたい30m。
彼女の前に立って何をどう言えばいいか分からないけど、最初の一歩を皆がくれたから、僕はもう進むしかない。
数人の後輩に囲まれて、その人は木の下に立っていた。両手に抱えきれないほどの花束を抱えて。
彼女よりも先に、山本という後輩が気づいて敵意丸出しの視線を浴びせてきた。目だけで射殺されそうな鋭さで気圧されたけど、高校生活の半分くらいからそんな目で見られことは慣れっこだ。
なるべく気にしないようにして、勇気を出して彼女に近づく。
楽しそうに女子の後輩──浜島に告白していた子──と話していた平岡さんが、こちらに気づき一瞬目を丸くしてから明るく微笑んだ。
このまま時間と一緒に全てが止まってしまえばいいと本気で思えるくらい、僕の心臓の鼓動は騒ぎ出していた。
「畠中くん、一緒に写真を撮ろうよ」
彼女の笑顔を鮮明に焼き付けたい。
僕の目がカメラのシャッターだったら、どんなに良いか。
彼女が好きだ。目の前のこの人のことが、どうしようもなく好きだ。
何十回と頭の中で繰り返したさよならの練習なんて吹き飛んでしまうくらい。「さ」の文字を唇が作ろうとすると裂けそうに心臓が痛んでそのまま止まってしまいそうになる。
「アヅサちゃん、シャッター押してくれる? 大丈夫だよね?」
平岡さんが浜島に告白していた女の子に指示を出す。
「はいはい、なんとかイケます。先輩のこのカメラ、叩き込まれましたからね」
投げやりだけど愛情のある返答をしたアヅサさんは、平岡さんの旧式のフィルムカメラの装置を手の中で確認しながら撮影の間合いを取った。
「あ、これ。今日、富樫から渡すように頼まれてたんだ」
彼女のカメラを見て、預かったネガフィルムの存在を思い出した。
「富樫くんから? ……でも、ごめん、今持てそうもない」
腕いっぱいの花束を持て余した彼女が可愛らしく困った声を出す。
「そうだ、畠中くん、半分持って。一緒に撮るのに私だけこんなに持ってたら変でしょう?」
「僕のじゃないのに持つ方が変だよ」
「細かいこと気にしないの。貸し衣裳屋さんのアイテムだと思えばいいじゃない」
僕の意見を完全スルーして平岡さんは強引に花束の半分を僕に押し付けた。
お、重い。長年続いたお昼の番組の人気ゲスト以外でこんな量の花をもらう人がいるのか。半分でこの重さなのに、笑顔で全部持っていたって、どれだけタフなんだ。
「そんな能天気な。平岡さんに贈った人の気持ちに失礼だよ」
「私が能天気くらいじゃないと、その世界が終わりそうな形相をなんとかしてくれないでしょ。普段の畠中くんが台無しだよ」
「そんなに酷い顔してる?」
「うん。高校最後くらい自然な顔して」
最後くらい……、そうだよ、最後くらい笑わなきゃ。笑ってさよならしなきゃ。
「ちょっとー、先輩、撮りますよー? 深刻な顔で見つめ合ってないで、ちゃんとカメラの方を向いてくれますー?」
「あ、うん。アヅサちゃん、ごめん」
平岡さんはアヅサさんに返事をしてから素早く僕を見て「いい?」と小さく、優しい声で確認した。
僕は頷いて、カメラの方を向く。笑顔でもないし、いつも通りの顔してる自信は全然ないけど。
「じゃあ撮りまーす」
アヅサさんの声の後に微かな音が続き、僕たちの“高校最後”は完了した。
平岡さんは僕の手から花束を回収して、アヅサさんの所に走り寄りドサッと彼女に託して戻って来た。
手元から花束がなくなった平岡さんは、制服のリボンもブレザーのボタンも完売した状態で、片手でブレザーの前を合わせて恥ずかしそうに笑った。
「これ。富樫から預かったやつ」
彼女の手のひらの中にそっとネガフィルムを落とした。
「……」
彼女は十秒くらい無言でそれを見つめていた。
「ちょっと、先輩、あり得ないくらい重い!」
「すぐ済むから少し持ってて」
そう言った後、平岡さんは身体ごと僕の方を向いて口を噤んだ。そのまま黙って、瞳をあちこちに彷徨わせて何かを逡巡している。表情の扉を閉ざすわけでもなく、眉根を寄せたり口の中で何かを呟いたりしながら目まぐるしく表情を変える。まるで頭の中で難しい計算でもしているようで、下手に声を掛けるのは邪魔をするように思えた。
彼女が何かを考えているのか分からず、自分が彼女に最後の挨拶をしに来たことも忘れて、ただ彼女の逡巡にピリオドが打たれるのをじっと待った。
「先輩、重いよ。もういい?」
痺れを切らしたアヅサさんが平岡さんに声を掛ける。
「ちょっと待って」
相変わらず僕の方を向いたまま、手だけでアヅサさんを制して逡巡を続ける。
「もぉぉぉ、先輩っっ!」
アヅサさんの声と同時に平岡さんが僕に向かってこう言った。
「畠中くん、明日って何か予定ある?」
言ってる意味が分からない。さっきまで彼女が一人で考えごとを巡らせていた時より、出た結論の方がよっぽど分からない。
平岡さんを急かしていたアヅサさんから声にならない歓声が上がる。後輩の男子たちが息を呑むのもピリピリと雰囲気で伝わってくる。
けれど平岡さんはそんな周囲を一切気にも留めずに、マジマジとした顔で僕を見つめて返答を待っている様子だった。
「あ、明日……。と、特にない、け、ど」
「じゃあ、もし迷惑じゃなかったら付き合って欲しい所があるんだけどいいかな?」
「え……」
「心配しないで。変な所には連れて行かないから。私の好きな場所だから」
彼女は踵を上げて、僕の耳元に「桜ノ宮駅の三番ホームに十時ね」と囁いた。耳に彼女の息が掛かるほどの秘密の囁きで、一瞬のうちに蒸発しそうなくらい身体中が沸騰した。
「約束だよ、待ってるから」
もう一度ハッキリと笑い掛けてから、アヅサさんの元に走り寄って全ての花束を受け取った。
それから最後に僕の方を振り返って「またね、バイバイ」と言って後輩たちと去って行った。
見届けていた柳瀬が、いつものクールな彼らしくもなく興奮気味に「良かったな」と、僕の肩口に軽く拳を当てて行った。心なしか少し痛い。
何が起こったのか分からないまま放心していた僕の周りに尾崎やガクちゃん、杉野やまいちゃんがバタバタと走って来て、口々に何かを言ってたちまち揉みクチャにされた。
僕が用意してきた“さよなら”は、彼女の“バイバイ”に消されてしまった。
もしここでエンドロールが流れるならば、“その他大勢”という一括りではなく僕の名前も載ったかもしれない。
別れの季節の花は桜じゃなくて、梅だったんだ。
高校最後の瞬間にそんなことを思いながら、ハラハラと舞い泳ぐ花びらを目で追い、学び舎を後にした。
卒業式の“東高名物”は地元テレビの取材が来るくらい校舎前を賑わしていた。




