43 さよならの練習
冬が終わりを告げる三月。
まだ暖かさは感じられないものの、あまり雪が降らない僕たちの地域に何度か降った雪も雨に変わり桜の木の枝咲きも徐々に赤みを帯びてきた。春の気配は確実にこの街にも近づいている。
久々の学校は同窓会のような雰囲気で、今までそれぞれの席に収まっていた人たちも既に新しい環境に足を踏み入れていて、まるで違う居場所から集まってきたみたいに見えた。
本当にここでの三年間が終わるのだと実感する。
結論から言えば、僕は都工大に受からなかった。
まいちゃんやガクちゃんは、浜国なら受かっただろうとか私大も視野に入れれば良かったのにと言ったけど、僕に後悔はなかった。全然なかったと言えば嘘になるが、やれることは精一杯やり切って、本当にあと一歩、都工大に指先が掠るくらいまでは行けたんじゃないかと思う。
できたという手ごたえはあった。だけど、できたと思った時は他の人もまた同じ手ごたえを感じているのが受験というもの。受験までに学力だけは着実に伸ばせたが、一つの大学に標準を絞って受験するには僕の心構えは準備不足だった。
結果は結果で真摯に受けとめて、とにかく自分の努力を初めて自分で認められるくらい清々しい充実感があった。
両親も、お金のことは心配しなくていいから私大の二次募集を受験したらどうかと提案してくれた。
けれど僕は、一年頑張ってもう一度都工大に挑戦したいと申し出た。一年間も穀潰しをさせてもらうのは心苦しかったが、意外にも二人ともあっさりと承諾してくれた。
「秀悟がそうしたいなら、そうしなさい」
二人の顔もどことなく朗らかだった。
僕が自分から意欲や向上心を見せるのは珍しい、そう言われて改めて、見守ってくれる家族の偉大さや支持してくれる心強さを感じた。
悔しいけど、全て美帆の言う通りだ。
きっと、先に進むにあたって僕自身が意識を変えないといけない時期に来ていたんだ。
約一ヶ月ぶりに顔を合わせた平岡さんも、また既にこの学校の人ではないように感じた。いつもと同じ制服姿で、いつもと同じ髪型のままなのに、違うステージに身をおいている人のようで、これまでとは別種類の手の届かなさを感じた。
廊下で彼女の姿を見つけた時、彼女はいつものクラスメイトたちに「写真に進むなんて意外だった」と驚かれていた。僕から言わせてもらえば、合格者名簿が貼り出されるまで身近な友達に打ち明けていなかったことが意外だ。
まあ得てして身近なほど言いづらいものなのかもしれない。僕のように毒にも薬にもならないような利害関係のない立場には差し支えなかったに違いない。
彼女にとって、そういう“ただの友達”になれたことが嬉しかった。
平岡さんに「おめでとう」と言い、都工大を受けたけど受からなかったことを告げた。そして精一杯やるだけのことはやったという気持ちや、来年もう一度都工大に挑戦するという決意を話した。
話す前は気遣わしげだった彼女の表情も、僕が落ち込んでいないことを分かってくれたようで安心したように和らいだ。
「私、応援してるから」
そう言って、友達に呼ばれて教室へと戻って行った。進路の話を口実に繋ぎとめていた彼女との友達関係もおしまいだ。もう卒業までに挨拶くらいしか交わすことはないのかもしれないけど、最後に自分の口から進路のことを平岡さんに話せて良かった。
去って行く後ろ姿がいつも以上に遠くに見えた。
教室ではしばらく話していなかった神崎さんに声を掛けられた。もう彼女が声を掛けてくることはないと思っていたので少し驚いた。
「浪人するんだって?」
憚られることを訊くみたいに切り出してきたから、作り笑いなんて苦手だけど出来るだけ明るく笑って神崎さんの問いに応じた。
「うん、まあ、落ちたから。もう一年頑張ってみるけど」
作り笑いになるかと思ったけど、正直な気持ちを話すと自然に表情も伴うものだ。
「うん」
神崎さんは短く言うと、一瞬口を開き掛けてから言葉を呑み込むようにして穏やかに笑んだ。それから何も言わずその場を離れた。
彼女が何を言い掛けたのかは分からない。ダメ出しだったのかエールだったのか、それとも別のことだったのか。だけど、去り際に見せた微笑みは今まで見せていた彼女の笑顔とは全くの別物だった。今まですごく大人びて見えたり幼く見えたりしていた美しい表情は意図的に作られたものではないかと思えるほどにさっきの笑みは年相応で、これまで彼女のどんな仕草や表情よりも綺麗に見えた。
まさか自分の高校生活の年表の中に学校一の美人と会話するなんて記述が加わるとは思いもしなかった。
◇
形式上の学年末テストを終えて、卒業式の予定表が配られた。
中学校までの卒業式とは違い、予行演習しなければならないような項目もなく、予定表に書かれていたのは卒業生や在校生の大まかな席割りと進行の時間くらいだった。
卒業生代表の答辞は2年の時に生徒会長をやっていた女子で、一度も同じクラスになっていないため名前を見ても顔が浮かばなかった。
「もう住む所は決まったの?」
十年以上当たり前に近くにいたまいちゃんも、これからは顔を合わせることが当たり前ではなくなるだろう。
「学生寮に入るから、荷造りは本とか衣類くらい」
まいちゃんの進学する筑海大の辺りは学園都市で、周辺環境は研究所を除けばショッピングモールがあるくらいであとは閑散としているという。
都市部は苦手だから丁度いいよ、まいちゃんは笑う。
次に会う時は夏休みか年末年始の頃か。約束して会うような間柄じゃないから、もしかしたらもっとずっと先かもしれない。
「入試でここに来た頃が懐かしいよね」
後ろから聞こえる女子たちの声。
「そういえば、二日目の面接の日、松葉杖の男の子いたよね?」
「ああ、たぶんいた。入試の時期に災難だなぁって思った記憶あるわ」
彼女たちが話しているのが自分のことだと分かり、居心地の悪い気恥ずかしさが最近のことのように蘇る。
「そうそう。しかも一日目から雨で私たちでさえ滑りそうだったじゃない? 縁起悪いねー、って笑ったよね」
「あの時、マユがここを拭いて行ったんだよね。あの辺から乾いたモップを持って来て。拭いた後に自分がコケて、大笑いしたよね」
「あー、そうだった。後の人が転ばないようにって、やたら丁寧に拭いてたっけ。拭き終わってすぐに濡れてもないフツーの所でコケてるんだもん、マユやってくれるわー」
「あれは笑ったよね」
「コケた私が合格できたら、きっとあの男の子には良い高校生活が待ってるはず、なんて意味不明の確信を感じてたよね」
「そうそう。この高校で男子に“良い高校生活”があるとは、あんまり思えないけどね」
在りし日の思い出を語る彼女たちが過ぎて行く。
「松葉杖って、畠中ちゃんのことじゃない?」
まいちゃんが小さく呟いた。
やっぱり彼女だったんだ。あの時の女の子は平岡さんだったんだ。
骨折して、交通機関を使って桜ノ宮高校を受験しに行く気が失せて、近いから東高でいいやという投げやりな気持ちで受験して、そんな安易な気持ちにバチが当たったみたいに雨が降った。
そんなどうしようもない僕を振り向いてくれたのは彼女だった。
あの時、少し先を歩いていた彼女は、僕が転ばないようにと雨で濡れた昇降口を拭いて行ってくれた。
彼女はいつも僕の前を歩いていて、無気力で生気がなくどうしようもなかった僕に温かい優しさをくれた。最初から最後まで、いつも。
平岡さんがいることが当たり前だった景色が輪郭を滲ませて行く。
僕たちは剥がれ掛けたタンポポの綿毛のように、次の風に乗ってここを巣立つ。それぞれの場所へ。
彼女は僕の知らないずっとずっと遠くへと。
そしてきっと、どんどん僕の知らない人になってゆくのだろう。
元々僕のような無味無臭の人生を歩んでいた人間が彼女と接点を持てたこと自体が奇跡だった。淋しいけど、これからも目指す道を頑張る彼女の幸せを祈りながら、彼女と出会えたことを誇りに、そして僕自身も頑張っていると誇れるように生きていこう。
彼女に出会って僕は確実に成長した。
今は先は見えないけど、それでも自分は前を向いて生きていると言い切れる。
最後に晴れやかにさよならが言えるように、僕は頭の中ですり切れるほどレクチャーを繰り返す。
頭の中の笑顔の自分とは裏腹に状況を思い浮かべる度に胸の痛みが強くなる。
本番はたった一瞬だ。
たった一瞬、胸の痛みに耐えれば終わる。
自分に繰り返し言い聞かせ、さよならの練習を頭の中で続けた。




