42 二月のネコヤナギ
三学期が始まり、重い足取りの制服たちが灰色の空の下に散らばっている。
始業式からあっという間にセンター試験なので、授業らしい授業はないが久々に平岡さんに会えると思うと、それだけで僕の足取りは軽くなる。
冬休み中に図書館で見た写真集のことや、美帆から聞いた平岡さんの境遇をあれから随分考えていた。
彼女が辛い幼少期を過ごしてきたことを、きっと富樫や永田さんは知らない。いや、柳瀬でさえ知らないかもしれない。
富樫は彼女のことを家族の愛情に充ちた家庭で育ってきていると思っている。彼女は笑顔が似合う。その笑顔からは、同じように笑い合う優しい家族の存在さえも想像できるほどに。
けれど幼い頃に両親をいっぺんに亡くした彼女は、お祖父さんや叔母さんに気を使いながら生きてきた。彼女は今でも他人との間に一線を引き、自分を晒け出すことをしないのかもしれない。
時々、自分のことを言葉で伝えられずに、自動的に心が表情を閉ざしているように感じる。あれはご両親を亡くされた頃から、感情を押し殺すために彼女が無意識に培ってきた処世術なんだろう。そうでもしないと彼女は現実に耐えられなかったのかもしれない。
許してくれたり叶えてくれる環境。美帆の言葉だ。
間違いなく僕には充分ある。
どんなに大きな家に住んでいても、平岡さんにとっては決してそうではなかった。許されるもの、叶えられるものも殆どなかった。それは彼女の家族が厳しく制限しているのかもしれないし、彼女自身の遠慮がそうさせたのかもしれない。
彼女が写真の道に進みたいと願い、それを打ち明ける時、どんなに勇気が要っただろう。娘さんと写真家の矢野さんが結婚することに反対だった上に、幼い平岡さんを遺して亡くなる形になってしまったのだ、きっと猛反対を受けたに違いない。
それでも叶えたい情熱が彼女にはあるんだ。ずっと気兼ねしてきた家族を説き伏せてでも叶えたい思いが。
美帆の厳しいダメ出しと平岡さんの強い決意は、何事においても受動的で無気力だった僕に少なからず影響を与えてくれた。
そして受験間際になってやっと、志望校を持った気分になった。
学ぶ目的や将来の希望なんて、一朝一夕には見えて来ない。だけど、手に届きそうなもので満足するのではなく精一杯やり切ったと胸を張れるように、自分の成績で届くかどうか微妙だけど都工大を受けると心を決めた。
都工大生という肩書きが欲しいわけではない。
確実な傍道に甘んじるのではなく、目の前の壁に挑みたいんだ。挑む勇気こそ、これまでの僕に一番欠けているものだったから。
最大限の努力で立ち向かうことができたならば、どんな結果でも受け入れられるだろう。
そしてきっと、少なくとも今までよりも“僕なんか”という劣等感から解放される。
これは自分との闘いだ。
誰のためでもなく自分のために。目を覚まさせてくれたのは、好きな女の子と、皮肉にも苦手なイトコだった。
学校では彼女の姿を見つけ、話し掛ける日々。
安斉という人は露骨に顰め面をしたし、早坂さんという人はニヤニヤと含み笑いをして平岡さんを冷やかした。阪井はちょっと苦笑気味だ。
仲の良いクラスメイトたちにそんなリアクションばかりされて、平岡さんは僕が話し掛けることに迷惑しているのかもしれない。それでも目が合えば遠くからでも笑顔で手を振ってくれる彼女の優しさに付け込んで、僕は遠慮なく走り寄る。いつの間にこんなに厚かましい男になったのだろうと自分でも呆れるけれど、キングオブ・ジャストフレンドの立場としてはなりふり構っていられないのだ。
“仲の良い友達”や“大切な友達”にカテゴライズされる人たちとは違う。“ただの友達”なんて卒業したら会う理由もなければ、彼女にとって思い出す理由さえもないのだから。
できれば思い出して欲しい。2年のクラスを思い出した時のついででもいい。3年の後半によく中庭で呼び止められたな、なんて程度でもいい。彼女の記憶の一片に残りたい。柳瀬や浜島と同じくらいなんて贅沢は言わない。彼女の高校絵巻のエンドロールの片隅に僕の名前が載せてもらえたら、それで充分だ。
残された時間は短い。
二月になれば自由登校になるから3年は殆ど学校に来ない。3月に入ればあっと言う間に卒業式。
彼女に会える必然は、学校というこの箱庭の中だけ。しかもタイムリミットはあとわずか。
時間は急に少なくなったわけでもないのに、二学期まではタイムリミットが迫っていることを意識すらしなかったのだから不思議だ。学校の中での同じ生活の繰り返しは、まるで同じ日々が永遠に続くかのような錯覚を起こさせる。頭では受験までの期間や卒業までのタイムリミットが数字で把握できていても、それはあくまでも数字であって実感を伴うものではなかった。
高3の三学期という変則的な学校生活が始まってみて、改めて高校生活が終わりを迎える気配を実感する。
学校に来ることが当たり前で、学校に来れば彼女に会えることが当たり前だった日々がもうすぐ終わる。
全てが当たり前ではなくなり、僕は彼女に会えなくなる。
当たり前だったものがどんなに大切だったかを痛感するのは、いつも失くすと分かった時。
せめてあともう少し、彼女の声を鼓膜に刻み、彼女の笑顔を網膜に焼き付けたかった。
◇
苦手な文系科目が心配ではあったものの、無事にセンター試験を終えた。
自己採点ではまずまずの結果だったが、都工大はセンター試験の点数は試験を受ける水準──つまり足切りに使うくらいで──事実上、センター試験の成績は合否に加味されないという。
だからセンター試験で高得点を取ったからといって二次試験が有利になるというわけではない。この段階では都工大を受験する権力を獲得したというだけのことだ。
担任の紺野先生は、都工大よりもやや二次試験のウェイトが軽い京浜国立大を勧めて、センター試験の成績を活かしてはどうかと提案してくれたけど、志望校は都工大のままで行く意思を伝えた。
「畠中なら余裕で学年一位の成績を取れるはずなのにとずっと思ってたけど、やっと取ったな」
紺野先生は、自己採点したセンター試験の点数のことを言っているのだろう。
学年一位をキープしていた久保さんは指定校で大学を決めていたし、柳瀬やまいちゃんも決定している。僕の一位なんて、彼ら上位組がいなかったから不戦勝のようなものだ。
「言っとくけど、久保や米原にも後日真剣にやってもらっての畠中の一位だぞ。しかし何でだったんだろうな、真面目だし決して手を抜いてるわけでもないのに畠中が今まで一位じゃなかったのは」
きっと向上心の差なんだろう。今ならなんとなく分かる気がする。僕には目標がなかったから。成績だって良いに越したことはないけど、誰かに負けたくないだとか学年のトップに立ちたいなんて思ったこともなかったから。
最後の面談を終えて教科棟の階段に差し掛かると、三階から降りてきた平岡さんに出合った。きっと進路資料室か指導室の中野先生のところへ行っていたのだろう。彼女も試験が迫っているはずだ。
「畠中くん、センター試験の点数すごく良かったんだってね! 柳瀬くんから聞いたよ」
彼女は踊り場までの数段を跳ねるように降りてきて、僕の横に立って丸い目を柔らかく細める。彼女が並んだ形になり、自然と僕たちはゆっくり階段を降り始めた。
「平岡さんも、もうすぐ入試だよね」
「うん、2月に入ってすぐ」
緊張を感じているように彼女は胸の真ん中に手のひらをあてて軽く目を閉じてから深い呼吸をした。
「緊張する?」
「するよー。推薦で落ちてることを引きずってるから悪い流れを呼び込みそう」
「その割には笑ってるように見えるけど」
「だって、矛盾してるから。ついこの前まで推薦に落ちて吹っ切れたと思ってたのに、結局引きずってて。私って口ばっかりだなぁって思って」
開き直りの笑いとは。そんな風にして笑わなければやってられないほど、彼女には旭ヶ丘以外の選択肢は考えられないということなのだろう。
「あのさ、都工大ってね、センター試験の点数は殆ど加点されないんだ。だから事実上、二次試験が一発勝負みたいなもんなんだ」
僕の状況も似たようなものだと、彼女の緊張を和らげたくて言ったつもりが彼女の表情は驚愕に固まってしまった。
「そうなの? じゃあ、センターですごく良い点数取っても意味ないってことなの?!」
「あ、いやっ……、意味ないっていうか、足切り程度には意味があるけど」
「そんなぁ……」
自分のことのように落胆する彼女が可愛い。
「畠中くん、頑張ってね。……もちろん頑張ってるとは思うけど、私も頑張るから。畠中くんも頑張ってるって思って、精一杯頑張るから」
ありがとう。そんな風に言ってもらえるだけで、どこまでも頑張れそうな気がするよ。
ねえ平岡さん、知ってる?
男ってそれくらい単純な生き物なんだよ。
3年が自由登校に入り、僕は自分が受験する前期日程の少し前に学校に顔を出した。自由登校とは名ばかりの休校状態で、進路が決まった人たちもバイトや自動車教習所通いで、登校する者は成績証明書を取りに来る人くらいしかいない。
職員室の前には合格者の名前と学校名が誇らしげに貼られている。その数もだいぶ増えていた。
その中に平岡さんの名前もあった。もちろん旭ヶ丘大の写真学科だ。
胸の中で潮が満ちているみたいに嬉しさが込み上げた。
直接彼女にお祝いを言いたかったけど、それは次に会う時になりそうだ。次に会うのは形式だけの学年末テストの時か卒業式だけど。
進路指導室に寄り、中野先生に挨拶をする。
「畠中くん、二次試験頑張ってね。東高から都工大合格者が出るなんて快挙よ!」
なんて。合格するかも分からないのに。……というか、まだ試験さえ受けてないんだけどね。
資料室では2年の校章をつけた女子が三人、専門学校のデータブックを閲覧していた。きっと将来やりたい職業が具体的に決まっているのだろう。たった一歳の差と言われればそれまでだけど、一心不乱に資料を読み耽る彼女たちが僕よりもずっとしっかりして見えた。
校舎から外に出ると冷たい風が頬を擦る。
すっかり丸裸になってしまった落葉樹たちに混じって、銀色の小さなネコヤナギが真っ青な空を背にキラキラと揺れている。
重いダッフルコートに体を包むと家までの路を急いだ。




