37 本音の置き場所
「なんか畠中ちゃん、変わったよね」
登校途中、まいちゃんが唐突に言いだした。
イチョウ並木が黄色く色づき、歩道にも積もり始めている。
変わったとは、この万全な防寒対策に衣替えしたことを指しているのだろうか。こういう的外れな考え、また天然だとバカにされかねないので言わないでおこう。
いつだったか、まいちゃんが加納さんのことを好きだと打ち明けてくれた日、僕のことを「変わらない」って言ったじゃないか。それから変わってしまったってことか?
なんだか良い意味には聞こえないんですが。
「あはっ、ディスったと思ってる? 成長したなぁって意味だよ」
同じ年の幼なじみの成長を身近で感じられるなんてねえ、なんてわざと年寄りみたいな言い方して何度も頷いている。
「そんなに嫌そうな顔しないでよ。ホントにさ、女子となんか話せなかったじゃん。ましてや自分から話し掛けに行くとか、すごい成長したよなぁって、父さん感心してるんだよ」
誰が父さんなんだよ。自分だっていまだに女子と殆ど話せないくせに。
僕はまいちゃんが好きな人の話をした時にまいちゃんの成長を感じたよ。まいちゃんが遠い人になったみたいで少しだけ淋しかったけどね。だけどもちろん嬉しくもあった。相手が相手だけに切なくもなったけど。
富樫は加納さんとはただの幼なじみだと言い切っていたけど、加納さんの方はそう思ってるようには見えない。彼女は今でも富樫の近くで甲斐甲斐しく世話を焼いている。
余計なお世話だけど、気付いてあげればいいのにって思う。富樫のことだから本当は気付いててとぼけているのかもしれない。自分の環境に加納さんを巻き込まないように、鈍感を貫いているということも考えられる。
平岡さんと進路資料室で待ち合わせた日の翌朝、登校中に思い切ってまいちゃんに僕の気持ちを打ち明けた。平岡さんのことが好きなんだ、と。
まいちゃんは「そっか。頑張れ、っていうのも変だよな」と言ったきり、前日のようにからかうこともなく、かわりに優しい沈黙をくれた。
ガクちゃんには話せてないままになっていた。何度も話そうとはしたのだが、近くに尾崎がいたり神崎さんがやってきたりで、良いタイミングがないのだ。
「俺は畠中ちゃんの健気さがいじらしくて応援したくなるけど、こればっかりは叶うとか叶わないの次元じゃないんだよな」
片想いなんて苦しいばっかりなのに、どうして不毛と知りながらそこから動けないんだろう。しなきゃいけない法律もなければ、道徳的に強制されてるわけでもないのに。
それなのに、「ツライ」「ツライ」と心の中で泣き言を言いながらも、どうしてこの道から逸れることができないのだろう。
そんなことを思って溜め息をつくと、まいちゃんは慌てて話題を変えた。
「畠中ちゃん、指定校枠に申し込む? そろそろ校内選考だったよね。畠中ちゃんならどこに希望出しても通るだろうけど」
「筑海大の理工学に申し込もうかと思ってはいるけど」
「あー、やっぱそう来たかぁ。畠中ちゃんも筑海大希望かぁ」
希望って言われると、どうしてもピンと来ないんだけど───って、ええ!?
「もしかしてまいちゃん、筑海大希望?」
「うん、その“もしかして”」
肩を竦めて笑う。
「畠中ちゃんが相手じゃ勝てないよ。私立だけど邦成大の理工に申し込もうかなぁ。邦成大ならどうにか自宅通学できそうだし」
独り言のようにあれこれ思案し始めるまいちゃんを横目に思う。勝てないなんて、そんなことない。理科や数学はいつも僅差だし、英語や国語はまいちゃんの方が点数が良かったりするのだから。
「まいちゃんは、将来やりたいこととかあるの?」
「俺、ヒューマン・ロボットとか人工知能の研究とか、そっちの道に進みたいんだ。筑海大ってロボット研究が盛んだから、ロボット関係だけでもたくさん研究室あって、資料見てるだけでもワクワクするんだよね」
思わぬ熱意に、僕は言葉を失ってしまった。
まいちゃんも平岡さんと同じく明確な目標を持っている。僕なんか筑海大がロボット研究が盛んだなど知りもしなかった。
特別に裕福なわけでもないごく普通の家の三人兄弟で、兄は私立大で下には弟もいるから、学費の負担が少ない国公立大に入れてたらいいと思っていた。僕にとってはそれだけだった。理数系は勉強しただけ飲み込めるけど、文系科目はなかなか頭に入れられない。理系を選んだのだってそんな理由だ。
ちょっと成績が指定校の条件を満たしているからって、僕なんかが推薦をもらうべきではない。まいちゃんのように、成績も申し分なくて熱意のある志望動機を持った人が推薦を受けるべきだ。
安易に目先の船に乗り込もうとしただけの自分が恥ずかしい。
「まいちゃん、筑海大申し込みなよ。きっと推薦取れるから」
「なんで? 畠中ちゃんは?」
「うん、まぁ、僕も申し込むけど、決めるのは先生たちだから。僕は2年の時に何日か欠席したけど、まいちゃんは皆勤だから選ばれるかもしれないよ」
「俺は筑海大の選考に落ちたら邦成大の指定校に申し込むけど、畠中ちゃんはどうするの?」
「僕は、その時はセンター入試かな」
「どこか行きたい大学あるの?」
「んー、幾つか」
行きたいと言われると、やっぱりそうじゃない気がして曖昧に誤魔化して笑った。
「小学校も中学校も一緒だったのに、ついに畠中ちゃんとも別々になるんだな」
学校前の横断歩道を渡る僕たちをバスが追い抜いて行く。
バス停付近の側道には、早めの“東高名物”が始まっている。この光景は僕たちが卒業した後も変わらずに続くんだろうな。
発車するバスにクラクションを鳴らされて、すぐ前に止まっていた黒のカブリオレが移動して行く。
◇
「畠中ちゃん、ちょっといい?」
指定校の話をしながら登校した日の三日後。朝のホームルームの後、担任の紺野先生から進路指導室に来るようにと言われたまいちゃんは、戻ってくるなり僕に詰め寄った。
僕の机の前にいた神崎さんが膝立ちの姿勢のまま、まいちゃんの剣幕に驚いていた。
「なんで申し込まなかったの?」
「あ、それは…」
「畠中ちゃん、申し込むって言ってたよね。紺野先生が筑海大の指定校に申し込んだのは俺だけだって言ってたけど、どういうこと? まさか評定平均が基準に満たなかったなんてバレバレの嘘言わないよね」
筑海大の指定校推薦の条件は、主要科目の評定平均が4.2以上で理数科目4.5以上と、かなりのハードルの高さだった。こんな厳し条件をクリアできる生徒なんて限られてる。
久保さんは薬学部志望で、既に京葉大の薬学部の指定校推薦の試験に合格している。彼女が一番乗りで四大合格を決めていた。
ガクちゃんは港芝工業大の一般推薦を受けるつもりだと言っていた。
「俺に分かるようにちゃんと説明してよ。なんで申し込まなかったんだよ」
僕とまいちゃんの顔を交互に見ながらオロオロしていた神崎さんが、まいちゃんの昂りに合わせて僕を庇うように間に割って入った。僕は神崎さんに「大丈夫。ちゃんと話すつもりだから」と、なるべく不安を与えないように笑い、彼女に退いてもらった。
「筑海大は指定校だから決まれば受験が終わるし楽だなぁって思ってただけで、本当は他に行きたい所が前からあったんだ」
半分は本当で半分は嘘。いや、全部本当かもしれないし、全部嘘かもしれない。ただ、筑海大じゃなきゃダメな理由は一つもなかった。
「遠慮したんじゃなくて、本来の志望校の方に後ろ髪引かれただけだよ」
我ながら、よくまぁこれだけのことを言ってのけたもんだ。僕よりまいちゃんの志望動機の方が正当だから、なんて偉そうなことを言えるはずもなかった。第一、決めるのは先生たちだ。たとえ僕の方がまいちゃんより成績が良かったとしても、エントリーシートに記入する志望動機で圧倒的にまいちゃんに劣っただろう。変な気遣いなんかしなくても。
半信半疑で聞いていたまいちゃんも少しは納得したように見える。それでも一度湧いた怒りは収まりきらないようで、不服な色を残しながら「それならそうと言ってくれれば良かったのに」とボヤいた。
「いつもの薫くんらしくなくてビックリしたわ。薫くんと秀悟くんは仲良しなんだから、冷静に話せば分かり合えるでしょ」
神崎さんが小さい女の子が大人ぶっているような言い方をして、まいちゃんはいきなり僕に詰め寄ったことを照れ臭そうに詫びる。揉め事にならなくてよかったとは思うものの、後味は悪い。
横でまいちゃんに懇々と説教を続ける神崎さんの声を遠くに感じながら、果たして自分の取った行動は正しかったのか悶々と考え続けていた。
一つ確かなのは、自分自身のために筑海大の指定校を選ばなかったことへの後悔はないということだった。
そうなってくると年明けのセンター入試に持ち越しということになる。結局まだまだ受験勉強からは解放されない。いずれにしても他にすることがあるわけでもないから、もうしばらく受験勉強を頑張るのみだ。
「それで秀悟くんはどこ受けるの?」
「この人はねぇ、俺たちにもハッキリ明かさないんだよ」
攻め所とばかりに、まいちゃんが皮肉めいた笑い方で僕を指差した。
「どうして? 行きたい大学があるから筑海の指定校に申し込まなかったのよね? なら薫くんには聞く権利があると思わない?」
「いちいち小姑みてぇにうるせーな、おまえ」
斜め前の席で漫画を読んでいた尾崎が振り向いた。
「まいちゃんの権利とやらを口実に、自分が畠中ちゃんの受験校を知りたいだけなんじゃねーの?」
「私はそんな、ただ……」
「おまえさぁ、五十嵐 凪沙って知ってるよなぁ?」
唐突に尾崎の口から出た知らない名前に、僕たちが入っていける話題ではないことが窺える。
尾崎を睨み返す神崎さんの瞳が一層見開かれたところを見ると、五十嵐という人物を知っているようだった。
「おまえ、五十嵐凪沙と中学の時同じ塾だったんだよなぁ? アイツ中学時代の元カノなんだけど」
目を細めて意味深に笑う尾崎。みるみる表情を硬くする神崎さん。ただならぬ雰囲気だった。
「……脅してるの?」
「別に。静かに読書させてくれねーかな、って思っただけ。これからも」
神崎さんは今まで見たこともないほどひどく怒った顔をして自分の席の方へと走り去って行った。残された形になった僕とまいちゃんは呆気に取られるよりほかなかった。
「畠中ちゃんもまいちゃんも、あの女にはマジで気を付けろよ。俺が釘刺したから、もう近づいて来ないとは思うけど」
五十嵐さんという人物と神崎さんの間で何かあるのだろう。特別に興味はないが、名前を出しただけであの神崎さんの動揺ぶりは、ただごととは思えない。
「気にするほどのことでもないけどな。元カノがあの女の“数少ない”女友達だって最近知っただけ」
尾崎はそれだけ言うと前に向き直り、再びマンガを開いた。
僕とまいちゃんはますます分からなくなり首を捻ったお互いを向き合わせることしかできなかった。




