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35 弱虫の意地

 六時限目が終わり、掃除の時間もソワソワと落ち着かない心地で過ごした。

 待ち合わせの気分だ。

 どうしよう、何を話そう。

 阪井が話してくれた件は、あくまでも知らないように振る舞おう。

 あ、そうだ。進路のことだったよな。そもそも平岡さんと話したくて7組まで乗り込もうとしていたくせに、一呼吸置いたら浮き足立つなんてどうかしてる。そうは言っても、同じ緊張を一日のうちに二度も繰り返さなきゃならないのは、精神的な疲弊がキツ過ぎる。

 でも、わざわざ時間を取り直してくれた平岡さんの気持ちを無碍できるはずなんてない。

 なにより、僕のために放課後の時間を割いてくれるなんて、少なくとも嫌われてはいなかったと自惚れても良いんだよね。


 神崎さんは僕に用事があった雰囲気だったけど、昼休みの写真撮影の時間が押したとかで生徒会室に行ったようだった。

「どうせ気に入るのが撮れるまで撮り直せとか駄々コネてるんだろ。自分大好きちゃんだからな」

 尾崎は悪態をついたけど、本選に出場する人の多くは同じような要望を出すんじゃないかな。

 わざわざ人前にポートレイトを晒さなきゃいけないんだ、見栄えの悪いのを貼り出されたい人がいるわけがない。まるで指名手配写真でも指差されるように「これで本選に残ったとかあり得なくない?」なんて笑われたら、まさに公開処刑だ。



「待ってようか?」

 からかうまいちゃんに先に帰っていてと念押しして教室を出る。昇降口に続く渡り廊下から、ちらりと後半クラス側の渡り廊下の方に目をやる。教科棟へ向かう平岡さんに遭遇するかな、なんて思ったりして。隣でまいちゃんが笑いを噛み殺している。見透かされてるみたいで、ちょっと悔しい。

「じゃあな、頑張れよ」

 渡り廊下を真っ直ぐに教科棟へ向かう僕に、まいちゃんはニヤニヤしながら別れの挨拶をして昇降口へと曲がった。


 頑張れよ、って…告白でもするみたいじゃないか。

 もちろんそんな気さらさらないけど、意識してしまう。

 階段を上がるたびに心臓が暴れ、顔が熱くなる。情けないが、この歳にして運動不足のようだ。受験生だからなんて理由にもならない。やっぱり尾崎やガクちゃんたちの昼休みフットサルに混ぜてもらおうかな。


 進路資料室の扉の前に立った瞬間、扉を開けるのが怖くなるくらいの緊張で手が震えた。

 目を瞑り、深呼吸を一度してノブを回す。

 見違えるほど整頓された資料室の手前の机に平岡さんと中野先生が向かい合って座り、湯呑みでお茶を啜っていた。

 少し気が抜けた。

 緊張マックスだったから、正直に言うと中野先生がいてくれたことはありがたかった。

「お連れさんの登場ね。私は隣に戻ってるから用があったら声掛けて」

 中野先生はそう言って進路指導室に引っ込んで行った。

 続いて立ち上がった平岡さんが「焙じ茶なんだけど、いい?」と壁際に設えてある合板製のシェルフの上の茶筒を手にして湯沸かしポットのボタンを押した。

「お茶まで飲めるようにしたの?」

「英語科準備室の湯沸かしポットが古くなったっていうから、譲ってもらったの」

 7組の担任の先生は英語の先生だという。


 見渡すと部屋の中は以前のような雑然とした感じはなく、整然としてすっかり機能的になっている。

 パンフレットや本などもジャンルや大きさによって見やすく整頓されていて、壁には“読み終わったら元の場所へ戻しましょう”と書いて貼ってある。おそらく平岡さんの字だ。

 合板製のシェルフなんて前はなかった。しかも表面にはマスキングテープが貼られていて、湯呑みや急須や茶筒まである。壁側の大半を占めていたスチール製のグレーのシェルフは、一部がドアの横の死角になる位置に移動して圧迫感を軽減している。残りは英語科準備室へ湯沸かしポットや合板製のシェルフとの交換トレードだという。

 こざっぱりとしていながら、随所にアクセントが加えられて、落ち着きのある雰囲気になっていた。

「殆どは元々あった物ともらい物で、あとは中野先生から予算が出て百均なの」

 ガクちゃんと平岡さんが頑張ったのだろう。

 今ここで平岡さんと二人で会っていることが、ガクちゃんに申し訳なく思えた。


「前に進路のこと具体的になったら話すって言ったの覚えてる?」

 淹れてくれたお茶の湯呑みを対の茶托に乗せて僕の前に置いてくれた。

 立ち昇る湯気と一緒に覚えのある香ばしさが鼻腔をくすぐる。一口啜ると一気に高2の夏の日に引き戻されるような恋焦がれた懐かしさに脳がグラグラ揺れた。

 覚えてますとも。彼女が言ったことも、焙じ茶の味も。

 平岡さんと話したことなら、どんな些細なことでも記憶に残ってる。平岡さんが覚えてなくても。ストーカーみたいで引かれるだろうけど。


「笑わないでね」

 彼女は言いながら綺麗な所作で椅子に座る。

「私、写真を撮る道に進みたいの」

 え───、あ──────そうなんだ。

「笑わない、よ。ちょっと意外だったけど」

「ビックリするよね? 凡人なのにって思うよね」

「いや、ううん、違う。違うんだ」

 どう言ったら分かってくれるだろう。まったく想定外だったから。それはひとえに僕の視野が狭いせいで、思い浮かべられる職種が片手ほどしかないからなんだ。

 それに彼女は凡人なんかじゃない。

 彼女の剣道がどんなに美しかったことか。素人の僕だけじゃない、会場中が魅了されていた。しかし、その時の非凡さと彼女が目指す世界の非凡さとが結びつかなかっただけだ。

「世の中の職業が片手くらいしか思いつかないから」

「私もね、あんまり知らないの。看護士さんとか警察官とか学校の先生とか。小さい子が一番初めに“なりたい”って言い出す職業くらいしか知らないの」

「どうして写真なの?」

「それは追々ね。話すと長くなるかもしれないから」

 彼女はお茶を啜って照れ笑いした。

 追々。また話していいってこと?

 些細な言葉や反応を拾い上げて、小さな可能性をたぐり寄せようとする自分が旧式の少女趣味に思えてくる。

「旭ヶ丘大か小西工芸大を受験しようと思ってるんだけど、色々調べたら旭大に教わりたい先生がいるから、第一希望って感じかな。小西の神奈川校舎だったら家から通えるけど写真学科は都内なんだよね」

 す、すごい。教わりたい先生がいるとか、そんなことまで調べてるんだ。僕なんて、名前見ても専門見てもきっと全然分からないし、調べようと考えたことすらない。

「もし大学に入れたら、空き時間に頑張って外国語を勉強して卒業したら外国に学びに行きたいって思ってる」

「ちゃんと先のことまで考えてるんだね」

「無知な子供の頭で考えた青写真だから、この通りに進めるとは限らないよ。まずは目の前の受験だし」

 僕とは比べ物にならないくらい明確な人生設計だ。


「それより畠中くんは?」

「あ、うん。なんていうか…」

 平岡さんは明確に決めているのに、それを聞いた後で言うのは尚更恥ずかしい。

 機械工学の方面で受験するつもりだなんて言っておきながら、機械工学と関係ないのに指定校推薦で行ける条件にフラフラ揺れているなんて。あ、機械工学も希望してたわけじゃないと言えばそうなんだけど。

「迷ってる、…かな」

「前に話してくれた機械工学以外にも進みたい道が見つかったの?」

「いや、そうじゃなくて、別に機械工学じゃなくても指定校推薦で行ける国立の理系でいいかなぁ……って」


 呆れられるかな。進路の話をしたいなんて言っておいて、人に相談する必要もない結論。僕の言ってることは、目標も目的もなくて、ただ行ける所ならどこでもいいって言ってるようなもんだ。

「そっか。畠中くんなら指定校きっと取れるよ。勉強もできるし、きちんとしてるもん」

 彼女は目を輝かせて嬉しそうに微笑んだ。

「呆れないの?」

「どうして?」

「だって、指定校が取れそうだからって理由で大学を決めて…」

「呆れるわけないじゃない。なりたい職業があって、そのためにどうしても学ばなきゃいけないことがあるなら必然的に学校も学部も定まるけど、私たちの年で将来のことを具体的に考えられてる人の方が少ないんじゃない?」

「…そうかなぁ」

「うん、そうだよ。他の人たちだって、世の中の職業の一握りも知らないよ。今、何かなりたいと思ってるものがあっても、これから変わることもあるし。だから、今の時点で決められないのは全然恥ずかしいことじゃないよ。ここに行けたらいいかなって思う学校に行って、そこから得意や適性を考えてもいいんじゃない?」

 優しく諭すように彼女は言う。自分は目指す道がしっかり決まっているのに、決められていない僕なんかを尊重してくれて。

 彼女は同級生なのに、僕よりずっと大人で、考え方も将来に対する指針も僕の遥か前方を見据えてる。明確なビジョンで見据えてる。


「受験のプレッシャーと色んな不安とを混同しちゃうけど、先々のことは今から気負いしなくていいんじゃないかな。焦って決めたら、結果的に行き止まりになっちゃうかもしれないし」

 うっ…、図星。

「理恵ちゃんなんてね、大企業に就職したいって言うんだよ。一応、理系で考えてるらしいけど職種は二の次で、とにかく大企業、って」

 楽しそうに笑う彼女の顔は久々だ。小さく肩を揺らし、丸い大きな目を細めて笑う。

 この笑った時の目と、一層丸くなる頬が大好きだ。

 大好きだと叫びたくなるくらい、大好きだ。

 火照る頬を自覚しながら、慌てて彼女に合わせて笑っておく。

「だから畠中くんも、具体的に決まってないことを引け目に感じないで。だから、なんて理恵ちゃんを事例に使ったら失礼だよね。ふふっ」

 永田さん、絶対クシャミしてるだろうな。


「あー、なんか話せて良かった!」

 平岡さんは椅子の背もたれに背中を押しつけて、机の下でいっぱいに足を伸ばした。

「私ね、昼休みに畠中くんが深刻な顔して現れた時、なにか怒られるんじゃないかと思ったの」

 怒られる? ガクちゃんの、こと?

 ああ、そうか。阪井が言ってたな。

 ガクちゃんをフった件でラグビー部連中が平岡さんを問い詰めに来てたって。

 困惑したような身構えた感じは、そのこともあったのか。

 とにかく、僕と距離を置きたい理由はこの数ヶ月の間に山ほどあったわけだ。


「私はいつも周りの変化について行けなくて、余裕がなくて……、私だけ何も分かってなくて。だから周りに迷惑掛けっぱなしで…」

 机の上に置いた湯呑みを両手で包んだ彼女は、その指先に視線を落とす。



「畠中くんはいつも変わらなくて…、あ、変わらないっていうか、本当はたくさん成長してると思うけど、変われないし余裕がない私に目線を合わせてくれて。いつもその優しさに救われた。畠中くんが変わらず友達でいてくれて、本当に良かった」


 ズキンと胸が痛んだ。

 彼女の屈託のない笑顔に。彼女の心からの言葉に。

 それは彼女の言葉の持つ意味に対してでもあり、彼女の笑顔を裏切って恋愛感情を抱いていることへの罪悪感に対してでもあった。



 永田さんや富樫でさえ、平岡さんの弱音は聞いたことがないと言っていた。

 僕は、偶然にしろ彼女が胸の内を吐露する場に何度か居合わせている。もし僕が、彼女にとってそれ以上でもそれ以下でもない“気を許せる相手”なのであれば───、僕は喜んで甘んじよう。

 僕は彼女の友達でい続けよう。

 それが彼女の心を欺いているとしても、友達の顔をしてい続けよう。

 好意を露わにして、知っているのに不可視な存在になってしまうくらいなら、僕は迷いなく今のままを選ぶ。

 彼女にとって僕だけはずっと友達のままだと安心してもらえるのなら、僕は───喜んでこのまま。



「でもわざわざこんな風に会うのは、ほどほどにしなくちゃね。きっと誤解して気にしてる子がいるもの」

 意味深な言い方をして彼女は茶目っ気たっぷりに笑う。

 何のことを言っているのかさっぱり分からない。

「昼休みも可愛い子に睨みつけられちゃったもんね」

 可愛らしく笑って冷やかされて茫然とすることしかできない。



 どうしようもなく苦しい。

 意味のない言葉を叫びたいくらい、胸の奥が痛くて狭くてたまらない。

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