34 零れ落ちる
五時限目の終わりのチャイムが鳴ると同時に、神崎さんが走ってくる。
胸の前に抱えている数三の問題集は、これまでの基礎編ではなく中級編だ。すごい、ちゃんと勉強を頑張ってるじゃないか。きっとそのことを報告したくて、化学実習室で呼び止めようとしたり、昼休みにじっと僕たちを見ていたのだろう。
昼休みの時はちょっと視線が怖い感じがしたから、何か気を悪くしていることがあるのかと内心ビクビクしていたけど、僕の取り越し苦労だったようだ。今は笑っているし。次に話す時が怖いな、なんて思ったりして神崎さんに申し訳ない。
ちゃんと頑張っているんだ、力になってあげなくちゃ。
「畠中ちゃん、お客さん」
まるで僕と神崎さんの間にシャッターをおろすような尾崎の声。その声の先を見ると、阪井が手招きして僕を呼んでいる。
ちらりと神崎さんの方を見ると、唇を尖らせてプイと顔をそむける。僕は溜め息をついて、竹村くんたちが神崎さんの先生になってくれることを願った。
「ミス東高って畠中ちゃんのクラスだったんだな。やっぱスゲェ美人だな」
阪井は声をひそめながらも少し興奮した様子だ。
阪井に着いて、そのまま突き当たりの非常口から外に出るとコンクリートのポーチの部分に座った。
「畠中ちゃん、昼休み、平岡さんと話してたろ?」
ああ、阪井も見てたのか。中庭だったもんな。
「俺さ、畠中ちゃんに言っておかなければならないことがある」
阪井の話はこうだった。
昨年、僕が1組の男子たちから体育の時間にボールをぶつけられたり足を引っ掛けられたり肘打ちされたりしたこと。他のクラスの男子たちからも似たような嫌がらせを受けて、その場でガクちゃんたちが殴り掛かった一件や、その後もしばらく続いた嫌がらせ。それについて平岡さんには知られずに済んでいた。2年の時は。
だけど、学年中の男子たちで知らない者はいなかった。そして彼らは渦中の平岡さんがその事情を知らないとは夢にも思っていなかったのだ。阪井も然り。
阪井は今の7組で、2年のクラスから仲が良かった友達が平岡さんと親しかったため、その流れで平岡さんとも友達になったという。その友達というのが、今日渡り廊下で見掛けた安斉という人と小野原という人だ。早坂さんという女の子も2年で同じクラスで、彼女と安斉という人は平岡さんと同じ中学だったらしい。ちなみに小野原という人は1年の時に平岡さんと同じクラスだったとのこと。
ことの始まりは安斉という人の一言。杉野が“アイツ、まだ平岡さんのこと好きなのかな”と言ってその相手だ。
「平岡、おまえ高校に入ってから良い噂ないな」
富樫とのことを言われたと思ったのだろう、平岡さんは黙ってしまったという。
すると早坂さんが「知らない間柄じゃないのに噂を鵜呑みにするって安斉、あんたバカなの?! 見損なったわ。どうせあんたも、噂の男の子にエゲツない嫌がらせしたんでしょ?」と援護射撃を飛ばした。
「そこから平岡さんが“それ何のこと? 噂の男の子って誰? 嫌がらせって何?”ってなったわけだ」
1年で僕と同じクラスだった阪井は、噂になった“間男”が僕だと知っていた。
「それは多分、畠中ちゃんのことだよ。平岡さん、心当たりない? 前夜祭の時に空いてる教室で女子会して恋バナついでに、畠中ちゃんのこと好きだとか言わなかった?」
阪井の言葉に平岡さんはひどく驚いて、そう取られてもおかしくないかもしれないけど、だいぶニュアンスは違うと否定したという。
「男にとったら当然の勘違いだよ。男に女のニュアンスなんて通用しない。男なんて曖昧なこと言われても勝手に両極端に振り分けるもんなんだよ」
安斉という人が言うと、小野原いう人も「畠中ってヤツが聴いてなかったのが不幸中の幸いだな。きっと平岡さんが軽い気持ちで言った言葉を真に受けただろうし、違うと知ったら相当傷ついたと思うよ」と続けたらしい。
ははは、聴いてましたけどね。真に受けなかったから傷つかなかったけどさ。真に受けられる身分じゃないから。…でも動揺はしたし、本当はちょっと真に受けたかった。そのことで傷つきはしなかったけど、片想いの苦しさはだいぶ煽られたかな。
平岡さんは、自分の不用意な言動のせいで僕に不当なとばっちりを受けさせてしまったと取り乱し、謝らなきゃと言い出したという。
「けど、安斉と小野原が止めたんだよ。“そんなこと謝られたら、男は惨めになるだけだ”って。彼女が自分のせいだと思う気持ちは分からないでもないけど、“私が軽はずみなこと言ったから”…なんて言われてみろ、傷つかない男なんかいないぞ、ってね」
確かに謝られたらキツかったと思う。平岡さんには申し訳ないけど。傷口に塩を塗られるようなものだから。
「安斉も平岡さんに、誤解を生むような行動はするなって言ったし、俺も……その、」
阪井は少し言いづらそうに作り笑いをする。
「畠中ちゃんを傷つけないでって言ったんだよな。畠中ちゃんは富樫とも友達だし、友達を裏切るようなことするヤツじゃないのに、ひどい言われ方して辛かったと思う。嫌がらせを受けたことも辛かっただろうけど、富樫と付き合ってるの知ってて平岡さんを寝取ったみたいな言われ方も辛かったと思う。昨年の噂のぶり返しで、また畠中ちゃんが変な邪推されるくらいなら、畠中ちゃんと距離を置いてあげて…って」
余計なことしたな、と言って阪井は頭を下げた。
彼女がガクちゃんと付き合っていて、恋人に気兼ねして他の男子と仲良くするのを避けていたのかと、ずっと思っていた。しかし、僕が彼女にとって知り合い以上友達未満になったと感じたのは、阪井の言った経緯があったからだったのかもしれない。
「畠中ちゃんも知っての通り、平岡さんって恐ろしくモテるだろ。俺らが把握してる限りでもガンガン告られてるわけ。俺らからしたら、眼中にないヤツなんか容赦なく切り捨てたらいいじゃんって思うけどさ、平岡さんマジメだからフってる側なのにいちいち傷ついちゃって、もう見てる方が痛々しくなるくらいなんだよ」
「どういうこと?」
「本人はそういう類の話は絶対に口にしないから真意は分からない。だけどすごく辛そうなんだよ。呼び出されても、教室に戻ってきても。早坂さんが言うには、告られてその気持ちに応えられなかった瞬間から友達だった相手が“知ってるのに声を掛け合えない人”に変わるのが辛くて悲しいんだろう、って。そんなこと聞いたら安斉も立ち往生だよ」
杉野が言っていたけど、安斉って人もやっぱり平岡さんのことが好きなのか。
「同じクラスになるまでは、出来すぎてて二次元っぽいって思ってたけど、知れば知るほど良い子でさ、リアクションとか可愛くてかなり面白いし。畠中ちゃんも去年同じクラスだったからよく知ってるだろうけど。告ってくるヤツの大半は、フラれたらすぐにまた別の好きな子ができるようなヤツらだろうに、罪悪感で思いつめやしないかと心配になるくらいに相手の気持ちを背負うから、なるべくそんな思いして欲しくないんだよ」
阪井だけじゃなく、小野原という人も、中学の頃から平岡さんのことを好きな安斉という人も同じ気持ちなのだろう。
「ラグビー部のヤツらにも東堂の件で、“なんでガクちゃんじゃダメなんだ”とか、“ガクちゃんの気持ちを汲んでやれよ”なんて、よく責められてたからな。平岡さんだって、東堂の気持ちに応えられない自分を責めただろうよ」
彼女とあまり接点のない人からの好意に心を傷めるのだから、ガクちゃんの気持ちに応えられないと答えを出した時の彼女の苦悶はどれほどだったことか。
「たぶん平岡さんは高校にいる間に誰かを好きになることはない気がするんだよな。なんとなくだけど」
彼女がモテることは周知の事実だが、富樫と別れたという噂が拡まった後の告られ方は尋常じゃなかった。彼女は告白を受けるたびに受け入れることができないジレンマと罪悪感に苦しんでいたのだろう。
誰かに好かれた経験のない僕にとって、“モテる”ということは羨ましい以外の何物でもなく、一度でいいから味わってみたいとさえ思ったこともある。モテる人の悩みなんて、“幸せ過ぎて困る”レベルの第三者が耳を傾けること自体論外の幸せ自慢に等しいと思っていた。
相手の気持ちに応えられないことに苛まれる彼女にとって好意を告げられることは、何かを得ることではなく何かを失うことだったのだ。
手のひらの隙間から零れ落ちるそれらを、抗いようもなく見送ることしかできなかったのだろう。
「俺としては平岡さんに傷ついて欲しくないけど、畠中ちゃんにも傷ついて欲しくないんだよ。余計なお世話なんだろうけど、畠中ちゃんには妬みとか嫌がらせとかそういう汚れた傷を受けて欲しくないんだ」
そういえば1年の時に、僕のこと天使だとかふざけたこと言ってたっけ。
何度も繰り返すが、僕たち年頃の男に天使なんているわけがない。僕だってエロくらい見る。最近は兄さんのパソコンじゃないぞ。進悟の持ってるグラビアだってこっそり───
「富樫も畠中ちゃんには、くだらない嫌がらせするヤツらに毒されて欲しくないって言ってる。畠中ちゃんには純粋で優しいままでいて欲しいって」
富樫が?
富樫も阪井と一緒になって僕を天使呼ばわりしてたな。富樫ほどのリアリストが買い被りするとは由々しき事態だ。
僕だってエロの一つや二つや三つや四つ…
「なあ、聞いてる?」
「あ、あ、うん」
「まったく、勉強できるくせにぼんやりしてるよな。そういう抜けてるところが可愛いんだけどさ。あ、俺、そっちの気はないよ?」
「分かってるよ」
分かってるますとも。阪井が女の子大好きなことくらい。
僕の知ってる限りでは小池と阪井のツートップだからね。
「色々と気遣い、ありがとう。でも大丈夫だから」
傷つかないわけじゃない。だけど傷ついたって大丈夫だよ。
平岡さんに、前夜祭の件を謝られても。私の不用意な言動のせいだった、と傷口に塩を塗られても。
平岡さんを前にして友達の仮面を被り続けることも。
あらぬ邪推が再燃してバッシングの矢おもてに立たされても。
彼女と関われないまま学校生活を終えるくらいなら、そんなこといくらだって耐えられる。
「畠中ちゃんが大丈夫っていうなら、これ以上俺からは言うことないよ。きっと畠中ちゃんは俺が思ってるよりずっと強いヤツだからな」
強くなんかない。臆病だし弱虫だし優柔不断だ。
痛ければうずくまるし、立ち直りだって遅い。
だけど我慢ならできる。人より痛がりでも、人より臆病でも、我慢ならできるつもりだ。
阪井と、そしていつも天邪鬼な富樫の優しさに胸打たれる。
二年前に同じクラスだったというだけの地味男のことをこんなにも考えていてくれたことに。




