33 肝胆相照らす
「なんだよ、もう戻って来たのかよ」
平岡さんと別れて教室に戻ると、ガクちゃんがつまらなそうに舌打ちをした。
その横では、まいちゃんがニヤニヤと意味ありげに笑っている。
教室の中はいつもと変わらない昼休みの風景。
尾崎や杉野は学食に行ってしまっているようだ。
見渡せば神崎さんの姿もない。あれだけ分かりやすく僕たちを見ていた神崎さんがここにいないのが少し不思議な気がした。何か僕に話しがあるように見えなくもなかったから。
ガクちゃんに出くわして用事は済んだのかな。
化学の授業で分からない所でもあったのかもしれない。
「神崎さんなら、文化祭の余興の“アレ”の件で生徒会に呼ばれて行ったよ」
ガクちゃんの言う“アレ”とは、Mr.&Miss東高の本選出場者の写真撮影のことだろう。
神崎さんは僕が化学実習室を出る時にも、呼んでいた。余裕がなくて彼女の呼びかけに応えることができなかったけど、渡り廊下からジッと僕たちを見ていたのは気のせいではなかったと思う。何か用事があったのだろうか。
あの時の神崎さんの表情は、あまり愉快な気分には見えなかった。あんな風に立ち止まって凝視されるほど、僕は神崎さんに対して気に障ることをしてしまったのだろうか。
ペンケースを持ってきてくれた時、ちゃんとお礼言ったっけ? 言ったよなぁ。
じゃあ、分からない所を教える約束して忘れてるとか? ダメだ、記憶にない。
一人で悶々と考えていると、ガクちゃんとまいちゃんが「草食天使もついにモテ期到来か?」なんてワケの分からないこと言ってクスクス笑っている。
そうだ、そんなことより───
「あのさ、ガクちゃん…」
「俺と平岡さんが付き合ってないって話しだろ?」
小さい子のイタズラでも咎めるようにガクちゃんが一語一語噛み砕く。
「もうさ、本当は気になって仕方なかったんだろ? 逆の立場だったら分からなくもないけど、悩み続けるくらいなら聞きたくない態度取るなよ」
呆れたような溜め息には彼の優しさも滲む。
とりあえず座るように促され、ガクちゃんの前の席に腰を下ろして椅子をガクちゃんの方に向ける。
「畠中ちゃんに宣言した通り、俺は2年の修了式の日に平岡さんに告った。平岡さんは、俺のことをそういう対象として見たことないって言って戸惑ってた」
やはり信じられない話だった。本人の口から聞いても疑いたくなるくらいだが、ガクちゃんが嘘をつくとは到底思えない。
ガクちゃんが告ったら絶対にうまくいくと思ったのに…。
「覚悟してたつもりでも、実際にフラれると想像以上にこたえるもんだよな…。俺、潔く引きさがれなくて、“まだ答え出さないで、今まで通りにしてゆっくり考えていって欲しい”って頼んだんだよ」
始業式の朝の風景も、その後のガクちゃんの行動もすべて平岡さんへのアプローチだったわけだ。
想像以上にこたえると笑っているが、笑える気持ちじゃなかっただろう。
僕が彼女への想いを消そうと一人で感傷的になっている間も、ガクちゃんは失恋に傷つきながらもなお自分の気持ちに目をそむけなかったんだ。そう考えると自分の情けなさが恥ずかしい。
「俺、案外チキンで、平岡さんの口から“やっぱりごめんなさい”って言葉を聞くのが怖くて、言い出せない状況を常に作ってた。失恋してるのは分かってたけど、保留の状況に甘んじていたかった」
まいちゃんが労わるような視線をガクちゃんに向ける。ガクちゃんはまいちゃんの視線を受けて少し恥ずかしそうに苦笑いの笑みを返した。
東高の男子ならきっと誰でも分かる。
好きな女の子に行動を起こすのがどれだけ勇気の要ることなのか。好きな女の子に告白することがどれだけ大変なことなのか。ただ見ているだけがどれだけ心地よいことなのか。
返事を引き延ばしてでも、悪い知らせから逃げ続けたいって気持ちを。僕たちの誰もが分かるだろう。
僕は忘れていた。ガクちゃんがあまりにも僕たちとは違うから。ガクちゃんは東高の男子の大多数とは違って、地味男でもなければ女子と話せない人でもない。快活で聡明で男らしいから。
ガクちゃんだって東高に入って今まで、誰とも付き合って来なかったことを──忘れていた。
「彼女、ケータイ持ってないだろ。だから放課後になってしまえばメールや電話でお断りの言葉を告げられることもないって……考えれば卑怯なんだけど、そういう逃げ方もしてた。彼女と話しても空気が変わりそうなタイミングで無理に別の話題を振ったり、用事を思い出したふりして教室に戻ったり。そうしているうちに、平岡さんからどんどん本来の明るさを奪ってたんだよな」
僕は非モテ男だけど、言い出そうとして言い出せない平岡さんの気持ちも、その気配を察知しながらも気づかないふりをし続けるガクちゃんの気持ちも両方分かる気がした。
ガクちゃんは自分のせいで平岡さんが本来の明るさを失っていったように思っているようだけど、きっと違う。平岡さんはガクちゃんの気持ちに応えられないことや、ガクちゃんがわざと彼女の“ごめんなさい”を遮っていることを分かっていながら自分もズルズルとそんな状況を続けていることがやるせなかったんじゃないだろうか。
「ガクちゃんのせいじゃないと思う、平岡さんはきっと自分自身にジレンマがあったんじゃないかな」
「俺も、そうだと思う。…平岡さんのことよく知らないけど、きっとそうじゃないかな」
2年の時には加納さんと富樫のことで、平岡さんを悪女みたいに思ったこともあるまいちゃんが恐々と口を挟む。
まいちゃんも修学旅行の最終日に平岡さんが6組女子たちに難癖つけられていた様子を見たようで、「どう見ても僕たちのクラスの女子たちが最悪だった」と後で言っていた。それから平岡さんに対する見方が変わったようで、そのことを詫びられたこともあった。いや、僕に謝られても…という感じだけど。
「ありがとうな、畠中ちゃんもまいちゃんも。でもそうさせたのは俺のせいだから。俺は自分のことばかり考えて平岡さんの気持ちを無視し続けてた」
「せっかく畠中ちゃんのこと冷やかしてやろうと思ったのに、暗い話しになってゴメンな。一学期の終業の日にキッパリとフラれて、今度はちゃんとそれを受け入れた。平岡さんは罪悪感を感じまくってたから、“その罪悪感で卒業まで友達を続けてくれ”って脅迫してやったけどな」
俺もタダではフラれないよ、ガクちゃんはカラカラと笑った。
相変わらずの気遣いに、返す言葉もなく沈黙していると、また空気を変えようと話題を僕に戻してきた。
「で…、俺がせっかく神崎さんを退去させてやったのに、ノコノコと帰って来たわけか」
「だから、そんなんじゃないって」
「そんなん、ってどんなんだよ?」
まいちゃんまでニヤニヤと横槍を入れてくる。
「だ、だから、えっ…と、進路。進路の話、してて」
「進路?! それがどうしたんだよ」
「にっ…2年の時から、進路の相談というか、話しを聞いてもらってて」
「ほう、そう言えば俺には話してくれたことないなぁ。昨年ほぼずっと隣同士だったのになぁ」
「俺も聞いてないや。それこそ小学校から一緒で、登下校もほぼ一緒なのになぁ。へぇぇぇ」
わざとらしい二人のからかいに心が折れそうになる。
ここに尾崎と杉野がいなくて良かった。あの二人は現役バリバリの平岡さん派だから、心どころか身体中の骨をへし折られかねない。
いや、別に僕と平岡さんがどうだという話しでもないし、聞き流されるだけだろう。
「で、こんな俺たちより平岡さんには話せちゃうわけね」
なんか淋しいよな、男の友情って。そんなことを白々しく言い合っているガクちゃんとまいちゃん。
君たち、昼食というものを食べる気はないのか。
十七、八の男子が昼食を食べずに五時間目を迎えるってどんなことだか、彼らは理解していないのだろうか。
「おー、あと十分もないな。今ならガラ空きだろう、滑り込みますか」
「いいねぇ。男の友情より女子を取る薄情者は放置して、行きますか」
二人は僕に向かって意地悪な笑みを浴びせると、そのまま回れ右して走り出した。
まさかの残り十分を切って学食とは酔狂な。
「カレーは飲み物です」
大きな声で笑いながら去ってしまった二人の余韻に溜め息をつく。
ちょっとからかわれてムキになってしまったけど、あの二人にはきちんと自分の気持ちを打ち明けた方がいいよな。
そもそも、まいちゃんにはいつか打ち明けようって思ってたし。
ガクちゃんにも──言うまでもないとはいえ、きちんと話そう。
考えただけでも立ち眩みがしそうなほど緊張してくる。
またからかわれるのかな。そう思った途端に打ち明けようと思った決意が揺らぐ。
こういうところが僕の悪いところだ。




