32 青春ごっこ
前にもこんなことあったな。
平岡さんを避けてしまったことを悔いて武道場に引き返したっけ。浮かんで来た記憶に今この瞬間の自分の愚行が重なって、皮肉めいた笑いが込み上げてくる。
まったく、何やってんだろう。
気付いていることに目を逸らして、後悔して───まるで一人青春ごっこだな。恥かしいし、腹立たしい。こんな茶番劇に付き合わされる相手が気の毒だ。
そう思いながらも、平岡さんがほんの一瞬見せた表情を確かめたかった。確かに彼女はあの時、感情を意識の奥に押し込めるような表情をした。本人は気付いていないかもしれないけど、昨年何度もあんな顔を見てきてずっと気になっていたことだから間違いはない。
教科棟の階段を降りて渡り廊下に差し掛かると、昼休みのいつもの喧騒が僕を平常心に戻す。たくさんの色の氾濫が満ち潮みたいに視界に押し寄せて、暴走しかけたアドレナリンを覆い鎮めた。
軽く呼吸を整えてから、中庭を抜けて7組の教室を目指す。
よそのクラスに女子を訪ねて行くなんて初めてだ。
誰に呼んでもらおう? やっぱり阪井かなぁ。
そんなことを逡巡していると後半クラス側の渡り廊下から平岡さんが出て来た。四時間目の前に一緒に歩いていた早坂さんという女の子と一緒だ。
二人はジュースの自販機に向かっているようだった。
「あ…」
目が合った瞬間、平岡さんは小さく声を上げた。
僕はそのタイミングを逃さないように、すかさず軽く片手をあげた。
慣れないことをするもんじゃない、抱えていた教科書やらノートやらペンケースが一気に足元に散らかった。
恥ずかしくてアワアワしながら、しゃがみ込んで掻き集め出すと、すうっと懐かしい香りがして俯いた目の前に制服のスカートが映る。
「慌てないで。そんなに慌てて集めたら土や芝生まで入っちゃう」
泣きたくなるくらい懐かしい香り、懐かしい声。懐かしいというほどの期間じゃないことなんて分かってる。だけど痛いくらい胸を満たすこの甘苦しさは、自分がどれほど彼女に恋い焦がれていたのか嫌というほど思い知らされる。
恐々と顔をあげると、地面に散らばったペンケースの中身を拾い集める平岡さんの俯いた顔があった。
肩までの長さの髪が、少し丸い輪郭の両側にハラハラとおりて動く。伏せられた目を覆う長い睫毛が頬の上に小さな影を作っている。
「あ、ありがとう」
何か言わないと心臓が止まってしまいそうだった。
「ううん、どういたしまして」
ペンケースを僕に手渡してくれた彼女の笑顔は──やっぱりどこかぎこちなかった。
「あのっ…、友達……いいの?」
「凛ちゃんのこと? 大丈夫。先に教室に戻ってもらったから」
なんか申し訳ない。というか、平岡さんはジュースを買いに出て来たんじゃなかった? いつも持参してる水筒じゃないのか。
「色々、ごめん」
「ううん」
え……、あ。なんか違う。
やっぱり迷惑なんだろう。平岡さんはガクちゃんの彼女なんだ。いくら昨年のクラスメイトとはいえ、ガクちゃんの友達とはいえ、平岡さんにとっては“友達”にも相当しないような男と一対一になるなんて。
杉野も言っていたように、彼女は配慮の人だ。
ガクちゃんに対しても嫌だろうし、僕に対しても“ごめんなさい、こういうの困るの”なんて…思っていても言えないのだろう。
やっぱり四時間目の前に一瞬感じたことは僕の勘違いで、彼女が今ここで少し困った様子なのは、ひとえに僕という場違いなミスキャストのせいなのだろう。
この場から消えて失くなってしまいたいくらい絶望的な気持ちになった。
「あの、一応、ガクちゃんにも断ってから来たんだけど」
ああああ! 一体何を言ってるんだ!? 見苦しいし格好悪いぞ!
「…東堂くんに? どうして?」
─────え?
「えっ…、だって、付き合って……」
「付き合って、ないよ? 東堂くんがそんなこと言ったの?」
…………………………言ってない。
一度も言ってない!!!!
ガクちゃんが平岡さんのことを好きだというのは聞いた。
告るつもりだというのも聞いた。
結果は伝えなくていいと言ったのは僕だ。
そして、ガクちゃんは今まで何回か平岡さんのことを話そうとした。僕がそれを避けた。
尾崎や杉野たちから、“二人が付き合っている”的な話題が出ることもあったが、その場にガクちゃんがいたことはなかったし、皆が一様に本人たちには触れずに思い込んでいたということなのか?
「言って、ません」
僕がそう言うと、平岡さんは少し目を細めて責めるような表情をわざと作って笑んだ。
「それより」
彼女は僕から視線を外し、僕の肩の向こうを見た。
「畠中くんの方こそ、私とこんなふうに話していていいの?」
平岡さんの言っている言葉の意味が分からず、彼女が何か言い足すのを期待したが、彼女はイタズラっ子のような含み笑いを口元に蓄えて、相変わらず僕の肩の向こうを見ていた。
気になって振り向くと、前半クラス側の渡り廊下の真ん中あたりから神崎さんがこちらを見ている。
「すごーく気になってるみたいだから、誤解させたらいけないでしょ」
ちょっと、何を言ってるんですか?
平岡さんだって、神崎さんの存在くらい知ってるだろ。学校一の美少女だって入学当初から話題になってたんだから。二年連続で文化祭のMiss東高だし、知らないはずがないだろう。
1年の頃から僕のことを知っていて、2年で同じクラスになって僕の地味っぷりはお釣りがくるほど分かったはずなのに、どうしてそんな男と神崎さんを同じ相関図上に置いて線を引けるのか?
平岡さんの頭の中を見てみたい気分だ。
「違うと思う、絶対」
「そう? そんなことないと思うけどなぁ」
「そんなことない! …あれ?」
「ちょっと言葉がややこしくなっちゃったね」
彼女が可笑しそうに笑う。
その笑顔を見てムキになってしまったことが恥ずかしくなった。まるで真に受けてるのは僕の方みたいじゃないか。
「あ、うん、そうだね」
「私は、なんか嬉しいけどな」
「……えっ?」
「畠中くんの良さを分かってる人がいること。畠中くんはいつも周りのこと考えて一歩引いちゃうから。私たちの年頃だとアピール上手が勝ちみたいなところ、あるじゃない?」
完全に勘違いしたまま話しが進行しちゃってる。
これ、どの部分を訂正したら軌道修正してくれるんだろう。全部と言えば全部修正したいんだけど。アピール上手が云々という最後の一般論的な部分を除き、僕について彼女が言ってくれたことは全部勘違いなんですけど。
どうしたもんだろう。溜め息をつこうとして、不意に苛立ちに似た落胆が胃の底を重くしているのを感じた。
なんなんだろう、この感じ。
平岡さんに神崎さんとのことを勘違いされたことだけじゃない。僕の中で軽い苛立ちと淋しさが入り混じる。その原因は平岡さんが他意もなさげに僕と神崎さんを祝福していることだ。
じゃあ、どんな反応をして欲しいっていうんだ?
何を期待しているんだ?
平岡さんがガクちゃんと付き合っていなかったからといって、彼女にとって特別な存在になれるわけないじゃないか。しかも少し前まで自分の心の中から彼女を消そうとしていたくせにムシが良すぎるだろう。
とんだ厨二病だ。
自分のムシの良さと厨二病のこじらせっぷりに、だんだんと自棄がさして来た。
いつからだろう、最近の僕はおかしい。壊れてしまったんだろうか。
僕のワガママを押し付けたらきっと彼女を困らせてしまうけど、ちょっとだけ自己主張させて、お願い。
「僕は平岡さんと話したいんだけど、ダメ?」
たぶんきっと、以前の僕なら女の子にこんなこと言わなかった。言いたいような相手もいなかったけど、たとえいたとしても言えなかった。
少し驚いたように目を丸くして平岡さんが息を呑む。捕食寸前の獲物みたいだ。草食系どころか離乳食系だとか絶食系とまで言われてしまった自分が捕食側に立つ日が来るなんて夢にも思わなかった。
「ううん、ダメじゃない」
少し困ったように気圧される彼女の瞳は泳いでいて、時折オロオロと申し訳なさそうな表情で、視線を神崎さんのいる方へと向けている。ごめんね、困らせて。
それにしても神崎さん、まだ渡り廊下に立っているのか。彼女も彼女で、一体どうしたんだろう。
「あっ」
視線を泳がせていた平岡さんの表情が急に変わり、僕の肩の向こうを見たまま安堵の笑みで手を振った。
振り向くと、ガクちゃんが神崎さんの背中を押して教室の方へと誘導している。僕と平岡さんに手を振り、そのまま消えていった。
ガクちゃん、いい奴過ぎるよ。
平岡さんは「付き合ってない」としか言わないけど、ガクちゃんが平岡さんに告ったことは間違いないんだ。そして今でもガクちゃんが平岡さんのことを好きなのも事実。
それなのに、僕のために気を利かせるなんて。
僕はと言えば、ガクちゃんが平岡さんと付き合っていると思い込んでいながら平岡さんへの想いを消すこともできなかったのに。仲の良い二人の姿を見るたびに、卑屈な気持ちに囚われていたのに。
僕はとてつもなく泣きたい気持ちになった。
なんて感情の忙しい日なんだ。
また知恵熱が出そうだ。
複雑に縺れる感情の糸に翻弄されている僕を見かねたのか、平岡さんがわざと深呼吸をしてみせる。
「私、お昼ごはんまだなんだけど」
そうだ。すっかり忘れてた。
結局空回りして彼女に迷惑をかけている。
「あ、それでね、一つ提案なんだけど」
謝ろうとした言葉を遮るように彼女が明るい声で続ける。
「今日の放課後ってすぐに帰らなきゃダメ? 久しぶりに進路資料室に寄って行かない?」
思いもよらない展開に、ただ茫然とすることしかできなかった。心の中では「おい、返事!」と思いながらも。
「進路のこと話そうって言いながらも、あれから全然だったもんね」
覚えていてくれたんだ…!
「塾とか予備校とか行ってたり、予定があるなら仕方ないけど」
「ない。塾にも予備校にも行ってないから」
「じゃあ…」
「行く。放課後」
辿々しい日本語を押し出してやっとそれだけ伝えると、彼女はゆっくり頷いて笑った。




