31 自滅的ツークツワンク
「はい?」
「だから、ガッくん」
「……」
「ダメ? なんて呼んでも構わないって言ってくれたよね?」
「まぁ…、言ったけどさ。普通で良くない?」
「ガッくんね!」
「…はあ」
背中で両手を結んだ神崎さんが楽しそうにくるっと回る。
ガッくんとは、ガクちゃんのことだ。
神崎さん曰く「同じ年の男子に“ちゃん”付けは失礼」だとのこと。女子の方が精神年齢が高いという青少年期の女子の自負から、男子を子ども扱いしている表れのようで抵抗があるという神崎さんの持論による理由だった。
「いや、俺は気にしてないんだけどね。ちゃん付けだから子ども扱いされてるとか思ったこともないし」
「はい、ぶつくさ言うの終わり! なんでもいいって言ったのガッくんだよね」
そう言われるとガクちゃんも返す言葉がないみたいだ。神崎さんの気が変わってくれないものかと、本人を目の前にボヤいてみたものの、あっけなく却下されて終わった。
「米原くんは、カオルくん。畠中くんは秀悟くんね」
は、はいぃぃぃ!? しゅっ、シューゴくんですとぉぉぉ!?
昼休みじゃなくて良かった。昼食中じゃなくて本当に良かった。
もし昼食中だったら、食べ物であろうが飲み物であろうがもれなく喉に詰めていたに違いない。
「あのさ、なんでわざわざそんな風に呼ばなきゃいけないの?」
やっぱり腑に落ちないガクちゃんがダメ元でもう一押し食いさがる。
「ニックネームです。姓の“くん”呼び“さん”呼びは、心の距離を縮めません。私の呼び方は強要しないので姓で呼んでくれて構わないけど、私は皆さんをニックネームで呼びます」
少し得意気に胸を張っておどける神崎さんに、僕たちは圧倒されつつ言葉を失っていた。
秀悟くんなんて呼ばれたことない。
美帆はどうだったかな。今は「あんた」だけど、小さい頃は「秀ちゃん」だったような…。
同年代の女子に名前で呼ばれる日が来るなんて思いもしなかった。
天変地異だ。
けど、やっぱり馴染まないし、自分が呼ばれているような気が全然しない。
「尾崎くんはヒロくんて…」
「名前で呼んでいいなんて許可してねぇし」
上機嫌のまま次々に話しを進めていく神崎さんを尾崎が遮った。拒絶と見て取れるほどの態度で。
「悪りぃけど、俺、彼女いるんで。他の女子に名前呼びされるとかマジで無理。彼女が他の男に名前呼びされてたら嫌だし」
「そっか、そうだよね。ごめんね。じゃあ尾崎くんのことはザッキーって呼ぶね」
「…勝手にどうぞ」
呼ぶ機会があればね、と尾崎の伏せた瞳が語っていた。
これだけ邪険にされたら、神崎さんだって尾崎には声を掛けにくいだろう。
しかし神崎さんて可憐な見た目に似合わずたくましい。
目の前であんな言い方をされても怯まずに、更には別のニックネームを提示してくるのだから。打ち解ける日が来るのを受け身で待つのは嫌だと言っていた気持ちの現れなのか、彼女は本当にクラスの男子の誰に対しても積極的だ。
こういう所が平岡さんとの共通点だと思われるのかもしれない。
だけどうまく言えないけど、何かが違う。その“何か”をうまく説明できないけど。
「尾崎、彼女いたっけ?」
神崎さんが竹村くんたちの方へ行ってしまうのを見計らってガクちゃんが訊いた。
「いねぇよ。見りゃ分かるだろ」
「いや、出来たのかなぁって思って。さっき彼女いるって言ってたし」
「あの女、ああでも言わなきゃしつこいだろ。自分がこの上ない提案をしてるつもりなんだぜ? いい迷惑だよ」
「慣れない呼び方される違和感はあるけど、別に迷惑とまではいかないだろう。差別的なニックネーム付けられてるわけでもないし」
「ガクちゃんて、なんでそんなにお人好しなんだよ? 嫌なものは嫌。俺はそれだけだから。まいちゃんも畠中ちゃんも嫌ならハッキリ言ってやった方がいいよ」
尾崎はガクちゃんを促して憤然と教室を出て行き、残された僕とまいちゃんは顔を見合わせた。
どちらのいうことも一理ある。
ガクちゃんが言うように、悪意あるニックネームを付けられてるわけでもないし、拒否する理由も特にない。
尾崎のように嫌なものは嫌だとハッキリ断ることも大切だと思う。
だが、果たして嫌なのかと考えると分からない。
ガクちゃんが言った通り、慣れない呼び方への違和感くらいなものじゃないかとも思う。
もし嫌だとして、一体どんな理由が付けられだろう。
尾崎みたいに彼女がいるという口実を作る?
バレバレの嘘で、それこそ笑い者だ。誰もが「おまえの分際で」と思うに違いない。
好きな子がいるという口実を作る?
思いも通じてない相手に義理立てして名前で呼ばれたくないとか、自意識過剰もいいトコだと引かれるのが目に見えてる。さすがにそんな嘘は恥ずかしい。
やはりイタズラ天使のような神崎さんの起こしたつむじ風におとなしく巻き込まれておくのが一番自然な形なんだろう。
尾崎とガクちゃんが出て行ったあとを追うように、僕とまいちゃんと杉野は化学の授業のため教科棟の化学実習室へと渡り廊下を歩いた。
「いきなりカオルくんとか言われてもさぁ、そんな風に呼ばれたことないし」
歩きながらまいちゃんまで愚痴る。嬉しかったのか恥ずかしかったのか分からないけど、顔が赤い。耳まで真っ赤。
僕だって愚痴りたい気持ちはある。だけど特別に困るわけでもないし、支障がないから言うに言えない。
ふと楽しそうな笑い声に目を向けると、反対側、後半クラス側の渡り廊下に男子三人、女子二人のグループが僕たちと逆の方向に───教科棟から教室棟に向かって───歩いている。二人の女子のうち一人は平岡さん、もう一人は…いつだったか見たことがあるような人だった。
「安斉だ。アイツ、まだ平岡さんのこと好きなのかな」
杉野が言う。男子のうちの一人は安斉という人で、平岡さんじゃない方の女子は早坂 凛さん、二人は平岡さんと同じ新桜ノ宮中の出身らしい。あとは1年の時に同じクラスだった阪井と、もう一人は昨年のMr.東高で準優勝したという小野原というバスケ部の男子だ。
こちらに気づいた阪井が片手を上げて挨拶してきたので、僕も軽く手を上げて阪井に応じた。
気づいた平岡さんと目が合い心臓が痛いくらいに音を立てる。やっぱりこの痛みは、神崎さんのどアップにドキドキしたのとは種類が別物だと思い知らされる。
彼女はいつもしていたみたいに少し驚いた顔をしてから、ほんの一瞬、まばたきするほどの短い瞬間、すっと感情の扉を閉ざした。そしてすぐに笑顔を作って僕たちに軽く会釈をして過ぎて行った。
あれ?
僕、彼女にあんな顔させるようなこと、何かしただろうか。
確かに心密かに彼女に想いを寄せ、心密かにその想いに終止符を打とうと格闘した。
けれどそれは、すべて僕の内側でのこと。彼女には無味無臭無傷無害無影響で、僕の中のみで行なわれていたことだ。
なるべく会わないようにしているとはいえ、昇降口や廊下でばったり会ってしまえば、極力平静を装って会釈や挨拶を交わしているつもりだ。
ほんの一瞬の、あの彼女の表情は何だったのだろう。進路のことで何か行き詰まっているのだろうか。
でも今は彼女のそばにはあんなに楽しそうに笑い合うクラスメイトがいて、その上恋人は優しくて頼りがいのあるガクちゃんなのだ。
……だから僕が何かを気にしても仕方がないことだ。
喚び起された胸の甘苦しさに翻弄されて、彼女の表情の変化を気にするなんて、どうかしてる。
たとえ彼女が一瞬表情の扉を閉ざした理由の一端が自分にあったとしても、それを気にする資格なんてない。
彼女のことは何とも思わないと決めたのだから。
「秀悟くん!」
聞き覚えのある声に振り向く。声の主に覚えがなければ、追いつかれるまで気づかなかっただろう。呼ばれ慣れない呼び方に、自分が呼ばれているなんて思いもしないから。「教室にペンケース忘れてた!」
息を切らして神崎さんが走って来た。
「あ、ありがとう。走らなくても良かったのに」
行き先は皆、化学実習室なのだから。
だけど、僕なんかのために息を切らすくらい走って来てくれたことが申し訳なくて、そして嬉しかった。
「ごめん、先行くね。私、ガッくんに化学のノート借りっぱなしだったの。それ返さなきゃ」
僕にペンケースを渡し、ホッとした顔をしたのも束の間、神崎さんはまた慌てた顔をして忙しく走り去って行った。
尾崎は悪く言うけど、些細なことにも一生懸命で慌てん坊で、真っ直ぐな子なんじゃないだろうか。
「やっぱりスカート短すぎるよ。香水もつけ過ぎ」
杉野が眉を顰めた。
「なぁ畠中ちゃん、神崎さんと平岡さんのキャラが比較されたり被ってるって言われたりしてるけど、あの二人の決定的な違いって何だと思う?」
僕は首を傾げた。隣を見れば当然まいちゃんに分かるはずもなく、俺の方を見ても…という顔をされた。
「配慮だと思うんだよ、俺は。平岡さんは誰とでも仲良く話すけど、強引に相手の領域に踏み込んだりしない」
杉野の言葉にハッとする。
彼女──平岡さんは、いつも考え過ぎるくらいに他人の都合や状況に気を配っていた。
駐輪場で僕に初めて話し掛けてくれた時も、声を掛けて良いものかという戸惑いが見て取れた。彼女は人懐っこそうに見えて、いつでも誰に対してもそうだった。
それが良いのか悪いのかは分からない。彼女自身が気にしていた“優等生”の殻なのかもしれない。
また神崎さんがクラスメイトと打ち解けようとする積極的な姿勢が悪いというわけでもないと思う。神崎さんは神崎さんなりに一生懸命だ。
「畠中ちゃんも神崎さんに傾いた?」
杉野が吐き捨てるように呟く。
チャイムが鳴り、僕たちは小走りに化学実習室へと急いだ。
平岡さんにとって僕は昨年のクラスメイトなんだ。今は3年7組のクラスメイトたちとあんなには仲良くやってる。
そして僕にとっても彼女は昨年のクラスメイト。それ以外の何者でもない。なりようがないのだから。
神崎さんもそうだ。3年1組のクラスメイト。それだけ。
傾くも傾かないもない。
ただちょっと、今はまだ、想い続けた習慣が残ってしまって、忘れるまでに時間が掛かってしまっているだけ。
………なんて。
いつまで自分に苦しい言い訳を続けるつもりなんだろう。
ことあるごとにウジウジと感傷に浸ってるくせに。
どう抗っても平岡さんのことが好きなんだと、とっくに気づいてるくせに。
今だって、一瞬だけど彼女が感情の扉を閉ざしたことが気になって仕方ないくせに。
神崎さんに傾いたかって? 傾くわけないだろ。
そりゃあ女子に免疫ないのにあんな綺麗な子に話し掛けられたらドキドキしてしまうけど、ただそれだけ。それ以上でもそれ以下でもない。
他の子に傾くことができるくらいなら、こんなに苦しくなんかない。
実習室に滑り込むと、先生はまだ来ていなかった。
邦成大の赤本の問題をノートに解いているガクちゃんの前まで近付いて声を掛ける。
「この授業終わったら──昼休み──、平岡さんと話して来てもいい?」
「? いいも悪いも…。いいに決まってるだろ、あんなに仲良かったんだから」
「ありがとう」
「いや、ありがとうって。あのさ、」
ガラガラとドアの音がして先生が入って来た。
急いで席に着き、勇み足な気分でソワソワしながら授業を受けた。
ガクちゃんにああは言ったけど、僕は彼女と何を話すつもりなのか自分でもよく分からなかった。
ただどうしようもなく、堰を切ったように彼女と話しがしたいという気持ちが溢れ出た。
もちろん、どのツラ下げて彼女の前に出られるものかと不安がないと言えば嘘になる。
だけど僕にしては珍しく、そんなことは後で考えれば良いとしか思えなかった。残念ながらやっぱり浅慮だ。
チャイムが鳴ると同時に教科書や筆記用具を掻き集めて立ち上がる。
後ろでガクちゃんや神崎さんが呼ぶ声がしたけれど、急ぐ気持ちに戸惑う体のアンバランスから何度も足を縺れさせながら7組の教室に向かった。




