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30 誘惑の甘い花

 二学期が始まって少し経った頃、僕の身の回りにもわずかな変化が起きていた。


 夏休みが終わり、僕たちは呪われたように急速に臨戦体勢へとシフトしていた。

 そんな中での変化、これは一体どうしたものなのかと我ながらいまだに状況が呑み込めない。



 1組のマドンナ神崎さんは、以前ガクちゃんに教えてもらった数学が余程分かりやすかったようで、それからも時々問題集を抱えてはやってきてガクちゃんに教わるようになっていた。

 元々彼女に数学を教えていた大塚くんや竹村くんは、鞍替えされた形になり、恨めしそうな視線をこちらに向けていて、なんだか気の毒だった。

 もちろん、そんな空気を察しないガクちゃんではない。彼は神崎さんを慕う他の男子たちに気兼ねして、神崎さんが問題集を机の中から取り出そうとするタイミングで教室を出て行くことが多くなった。

 スポーツ万能で周囲に気が利く人なんだけど、どういうわけか割とそういう面は鈍くて逃げ遅れることが多かった。そんなガクちゃんもだいぶ感覚を掴んだようで、最近は間一髪で逃げおおせているが、その時の逼迫した顔ったらない。思わず見ているこっちが笑ってしまいそうなくらい堅い表情をしているのだ。

 神崎さんをうまくかわして教室を脱出したのを見届けた時は、心の中で「セーフ!」と言いたくなる。


 しかし、神崎さん目当てで小池がわざわざ1組まで昼食を食べに来る。小池はガクちゃんがいれば近くに神崎さんが来て話し掛ける口実ができるからと、ガクちゃんが逃げるのを阻止するのだ。

 これにより小池は徐々に神崎さんとの距離を縮め、ガクちゃんもガクちゃんで小池が神崎さんと談笑し始めた隙に逃げるようになっていた。


 今日もガクちゃんはラグビー部の仲間たちと学食に行くと言って教室を抜けていった。

 ガクちゃんが出て行ってしまったところに、タイミング悪く神崎さんが現れた。彼女はお目当てのガクちゃんがいないことに、ひどくガッカリしていた。小池も来ていなかったので、誰に声を掛けようか思案している様子だ。

 その様子を見たまいちゃんが、さすがに何か言ってあげなきゃと思ったらしい。

「畠中ちゃんでも代わりになると思うよ」

 唐突に口添えして、僕に丸投げした。そして旧6組男子たちと売店に行くと言ってそそくさと席を離れてしまった。

 まいちゃんだってガクちゃんと一学期の期末テストの点数競ってたくらいなんだから、まいちゃんこそ教えてあげれば良いのに。

 まいちゃんも女子と話すのが苦手だ。うまい具合に僕に押し付けて逃げて行く。そんなまいちゃんを恨めしく睨んで、後日絶対に文句言ってやると心に誓った。


「じゃあお言葉に甘えて…、畠中くん、教えてもらってもいい?」

 初めてガクちゃんにそうした時のように彼女は遠慮がちに僕に尋ねた。

 僕はこういう時に断る言葉を知らない。というより、こういう状況自体が初めてだ。

 神崎さんも悪い子ではないし───悪い子どころか学校一の美少女にして勉強熱心なわけで───そんなクラスメイトが分からない箇所があると困っているなら力になるのは人として当然のことだ。僕が女子と話すことが苦手だという事情など言い訳にならない。

「えっと……、どれ?」

 僕が言い終わらないうちに神崎さんは花が咲いたように顔を綻ばせた。花びらが舞い踊る背景まで付きそうなくらい。こんな顔されたら、女子と話すのが苦手だという理由で断りたかったことが後ろめたい気分になる。

「右のページの二番目のやつ」

 神崎さんは僕の座っている席を向かい合って挟む感じで机の前に立ち、問題集を僕の方に向けるとそこに屈んで机の縁に両手を組んだ。花のような甘い香りが鼻腔に溢れかえる。


「これ最初どう解こうとしたの? 因数分解できるところまでやってみた?」

 問題集ばかり見ていたので、神崎さんに質問しようと顔をあげて、僕は椅子から転げ落ちそうになった。

 一緒に問題集に集中しているはずだと思っていた神崎さんが、机に添えた手に顎を乗せた姿勢でじっと僕の顔を覗き込んでいたのだ。僕たちは見つめ合った形になっていた。

 学校一の美少女と言われた神崎さんの顔が目の前にあって、しかも見上げるような上目遣いでまったく目を逸らそうともしないから、僕はどうしようもなくパニクった。

「あ、あのさ、聞い…てた?」

 恐る恐る声を掛けてみる。一瞬で身体の中が沸騰してしまったみたいな緊張で口の中はカサカサだった。

「あ、ごめん。ちょっと違うこと考えてた」

 悪びれもなく神崎さんは答えたが、真っ直ぐに僕を見続けている。眉一つ、頬一つ動かさない彼女の表情からは何も読み取れない。

 僕は慌てて目を逸らし、咳払いを一つして気持ちを落ち着けた。

「それじゃ、最初からね。神崎さんが始めに解こうとし……」

「畠中くんて綺麗な顔してるなぁって」

 何か考えるより先に顔が火照った。

 僕自身が炭酸泉の温泉になってしまったみたいに身体中が暴発に近い沸騰を感じた。もはや咳払いなんかで冷静になれる域ではない。咳払いしようものなら、身体の中で沸騰しているものがすべて噴出してしまうかもしれない。


「ぼ、僕はそ、そんな全然。ガガガガクちゃんや、おっ尾崎に比べたらっ…」

「ねぇ、どうしてそんな風に言うの? 誰かと比べる必要ってある? そういうのって、なんだか話題を他人に逸らそうとしてるように感じる」

 他人に逸らすもなにも、数学の問題から話しを逸らしてるのは神崎さんじゃないか。そう思っているのに身体中が沸騰して痺れて言葉にならない。

 故意的に小首を傾げて、綺麗な顔で僕の目を覗き込んでくる。

 ひいっっっ、美しさに瞬殺される!

 助けを請うようにまいちゃんを目で探す。まだ戻ってきてくれないのか。杉野は? 尾崎は?

 窓の外、少し遠くにボールを蹴って遊んでいる小池、尾崎、杉野たちの姿が見えた。


「ごめんなさい。生意気な言い方して。でも、打ち解ける日が来るのをただ待ってたって、何もしなければそんな日は絶対に来ないでしょ。だから私はせっかく縁あって同じクラスになった人と、仲良くなれる日をあてもなく待つだけで終わらせたくない。東堂くんや畠中くんや米原くんたちとも仲良くなりたいの」

 女子に理詰めで出られて勝てる男なんてそうそういない。喋っていることを情報処理するのでいっぱいいっぱいだよ。まして理系男子ともなれば尚更だ。

 こんな分が悪い状況で、問題集の説明に話しを戻そうとしたって、そんなことに何の意味もない。

 言葉は出なくても、それくらいの判断能力はある。


「私って思ってることをすぐ口に出しちゃうの。クラスの皆と仲良くなりたいのも本当。勉強について行けるように頑張りたいのも本当。間近で見た畠中くんの顔が綺麗だと思ったのも本当」

 この人は……、神崎さんは、綺麗だと言われ慣れていて、そういう言葉に麻痺しているに違いない。そうでなければ、いくら彼女が思ったことを何でも口に出してしまうからといって、簡単に他人に言える言葉ではない。

 神崎さんにとっては、息をするのと同じくらいどうってことない言葉かもしれないけど、言われるほうは息ができないのと同じくらいどうってことあり過ぎるのだ。

 ましてや非モテ男子の東高の中の更に非モテ層なんですけど。


「きっと、こんなだから警戒されちゃうのよね。皆と仲良くなりたいだけなんだけど。後先考えずに思ったことを言っちゃうの直せなくて」


 ―良い子ぶってるってダメ出しされても、直せなくて。

 不意に降りてくる。違う声、違う口調。


「どうしたの? 具合でも悪くなったの?」

 声を目を開くと、神崎さんが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。おろしていた腰を上げて、さっきまでよりも近い目線で。

「いや、あ、ううん。大丈夫。ちょっとクラッとしただけ」

 目の前にこんな美人がいるのに、ジッと見つめられたらパニクってしまうくらい超絶美少女なのに。何か考える余裕なんかないくらい緊張してたはずなのに。

 どうかしてる。まるで悪い冗談だ。


「そう…? 大丈夫なら、いいんだけど」

 なおも心配そうに、眉毛を下げて見つめる彼女。

 あ、そうだ。こんな時こそ彼女が分からなかったと言って持ってきた問題の説明に戻れば、この流れも変えられる。

「えっと、問二だったよね」

「いいの」

「えっ?」

 気分を悪くさせてしまったのだろうか。具合が悪いのかと心配されているのに、平然と問題の説明に戻りましょうなんて、やっぱり失礼だったのかな。

「いいの、今度で。今日は畠中くんと話せたから、それだけで」

 神崎さんは右眼の少し上で分かれている前髪を流すように細い指先で払って微笑んだ。

 彼女の言っていることがさっぱり分からない。日本語だってことは分かるけど、言っている意味が全然理解できない。

「じゃあね」

 神崎さんは僕の机の上に置かれた彼女の問題集を手の中に収め、どことなく満足そうな含みのある笑みを残したまま自分の席へと戻って行った。

 残された僕が呆気にとられたのは言うまでもない。


 彼女が背を向けた瞬間、緩くカールされた毛先が舞い、甘い残り香が彼女が残した甘い笑みと重なってメロウな気分にさせられた。お酒なんて飲んだことないけど、ほろ酔いってきっとこんな感じなんだろう。

 だけど、こんな時でさえ僕は平岡さんの髪の香りを思い出す。一年も前の、ほんのわずかな記憶なのに。


 この先どこに行っても誰と出会っても、思い出してしまうのだろうか。

 あんな些細な一言から平岡さんとの記憶を引っ張り上げてしまうなんて、ここまで来たらまったく関係ないものを見聞きしても強引に平岡さんを連想するんじゃないかと怖くなる。

 好きでいてもツライ。忘れることも苦しい。


 なんなんだよ。どうして皆、恋なんてこんな──好き(この)んでこんな苦行の道に飛び込むんだよ。

 どうしてみんな“恋がしたい”なんて簡単に言うんだよ。

 恋なんて苦行でしかないじゃないか。

 この苦行の道は、いつドロップアウトできるんだ。

 時が経てば解決するの? あとどれくらい? いつから痛みを感じなくなり、いつから思い出さなくなるの?

 出口なんか見つからない。

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