29 木に縁りて魚を求む
富樫に無理矢理付き合わされて平岡さんの試合を観た日、会場の歓声と試合の興奮でなかなか寝付けなかった。
次の日が日曜で良かったと思うくらい。
あの後、東高女子は決勝も勝って県大会で優勝したらしい。関東大会は勝ち抜き戦ではなく勝者数方式で、準々決勝で優勝候補の栃木の強豪校と当たり、平岡さんと永田さんは勝ったものの、東高としては惜敗に終わったと浜島が言っていた。
こうして彼らの高校での部活は終わった。
ちょうど引き継ぎのミーティングが行なわれたという日、自転車で来ていたこともあり剣道部の部室の近くを通りかかった。
永田さんと共に防具の一式を肩に提げた平岡さんが下級生たちに囲まれていた。
その中に富樫の姿はなかった。
一年の頃は彼らの輪の中にいつも富樫がいて、それこそ男女で和気藹々と過ごす高校生活を夢見ていた男子たちの憧れの光景だったのに。
近くでは久保さんや柳瀬が色紙に寄せ書きをせがまれていたり、下級生の竹刀の持ち手の部分にまで何かを書かされているようだった。心の中で皆に「お疲れ様」と言って、僕は帰途についた。
儀式のようなその日、きっと平岡さんに想いを伝える下級生もいたのではないかと思う。なんとなく。
平岡さんのことを好きであろう2年生の男子たちが何かのタイミングを伺っている様子が遠巻きに感じ取れたから。
◇
期末テストが終わり、面談が回ってきた。
一学期から解放されて夏休みを迎えるというのに、昨年までとは空気が違う。
周囲の話題はどこの予備校の夏期講習に行くかとか、公開模試やオープンキャンパスのことばかり。
「畠中ちゃんはどこの夏期講習を受けるの?」
まいちゃんや杉野たちからそんなことも訊かれたけど、正直なところ何も考えていなかった。
見えない何かにせっつかれて、押し出されるところてんのように仕方なく進路だけは定めてはみたけど、希望や意思というには希薄すぎて羅針盤が働かない。
目指しているのは国立大だしA判定が出ているわけでもないのだから、モチベーションを持って受験に備えなければいけないとは思いつつ、日々の予習復習で完結してしまっている。
本当にこんなんで受験するのだろうか。
周囲の雰囲気を見れば時期は刻々と迫ってきている実感はあるのだけど、僕自身が頭の奥でピンと来ないのだ。
面談は教室ではなく、教科棟の数学準備室だった。
教室棟から昇降口に抜ける渡り廊下は部活支度の下級生たちで賑やかだったが、夏でも少し冷んやりとする教科棟の階段には数メートル前までの雑踏はない。表面が摩耗して鈍い光沢を帯びたコンクリートの階段を上り、二階まで上りきったところで足を止めて、手すりの隙間から無意識に上階を見上げた。
3年になってからは全然足を運んでいないけど、平岡さんは今も進路資料室によく行っているのかな。ガクちゃんと資料室の模様替えするって言ってたっけ。どんな風になってるんだろう。まだ二人で模様替えが続いてるのかな。
そんなことを考えてしまった自分の女々しさを追い出そうと頭を振った。
元々男らしくはないけど、いつまでもウジウジと情けない。
彼女のことを思い出す時、好きだという気持ちが剥がせないラベルのように付いて回る。五月くらいには順調に気持ちが風化に向かっていると思っていたのに、全然ダメだ。そもそも、何かにつけて平岡さんを思い出すのは、風化できてないからなんだ。好きじゃなきゃ思い出したりしない。思い出に変わるには時間が短過ぎる。
観念してこのままウジウジと高校生活を過ごし切れば、望む望まぬに関係なくいつか思い出に変わる日がやってくるだろう。
面談の内容は当たり障りなく、模試のクラス順位は変わらぬものの点数や偏差値は上がったことが告げられた。
また指定校推薦についての話も出てきて、理系は国公立の理工学部が二枠と薬学部が一枠、国立二部の工学部が二枠、私大の建築系と農学系がそれぞれ二枠ずつだということだった。
2年の時の江坂先生は、理系の指定校推薦枠は少ないと言っていたけど、思っていたより多い気がした。
「畠中の成績なら指定校推薦の校内選考にも充分クリアできると思うけどな」
僕の成績がプリントされたデータを見ながら紺野先生が独りごちる。
学校も学部も自分が志望校に定めている所ではなく、やりたいことも行きたい学校も特になくて無理矢理に志望校や志望学部を定めたこと自体が無意味だったように感じた。別に何でも良かったのなら、無理して考えずに良い成績をキープして、指定校推薦枠の中から選べば良かったじゃないか。
なんだか今日は色々と虚しい。
「やっぱり東都工業大か京浜国立大にこだわるか?」
僕は頷けずに曖昧な苦笑を返すのが精一杯だった。
それこそまさに、仕方なく定めた進路だから。
ならば「特に都工や浜国にこだわっているわけじゃありません」と言い切って、指定校枠の国公立の工学部のどちらかを狙えばいいじゃないか。そんな風に自分の心に訴えかけてはみても、何故か反響がない。
どうして?
都工か浜国の機械工学にしようと決めてからも、そこに自分の願望はなくフワフワしていたじゃないか。
いつか平岡さんに、機械工学が格好良いって言われたから?
それとも彼女に機械工学を目指すと公言しておいて、今更「指定校で行けそうな所があったから適当な所で手を打ちました」なんて恥ずかしいから?
僕はバカだ。どうしようもないバカだ。
何故こんな時にこんなことで融通がきかなくなっているか自分でもさっぱり分からなかった。
「都工や浜国希望ならセンター試験になるし、桜ノ宮高の上位でも落ちるくらいの難関校だから安心はできないが、畠中の意思がそこまで固まってるなら最後まで頑張れるだろう。指定校推薦の選考は九月以降だから、またその頃受けてみようと思ったら申し出ればいい」
紺野先生の力強い励ましと裏腹に、僕は終始虚しい気持ちのまま数学準備室を退室した。
支離滅裂だ。
僕は何かにつけ考えが甘いと思い知らされた。
大切な友達の恋人になる彼女のことを好きでいることをやめようと決めて、そうなると思ったのにこのザマだ。
進路にしてもそうだ。明確に決めないと、まるで高校を卒業させてもらえないかのように気持ちばかり切迫させて、希望でもないのに“希望”扱いに据えたばかりに身動きが取りづらくなっている。下手な考え休むに似たりというが、休んでいた方がよっぽどマシだったと思えるくらいだ。
自分の浅はかさに嫌気がさして、唐突に屋上に上りたい気分になった。腐った気分もろとも、浅はかさも情けない溜め息も屋上の風に流してしまいたくなった。
階段まで辿り着くと階下には下りず、そのまま上へと足を向ける。こんな些細なことでも、決まり切った行動しかしない僕にとってはちょっとした冒険気分なのだ。
躊躇いの中に濃密な高揚感が媚薬のように流れ込んで軽いめまいを感じる。
ノブを廻すとギシッという硬質な音がして重い扉が動く。
風圧で本来の重さ以上の重量を感じるのも悪くなかった。
風圧に抗ってドアを押す手に力を込めると、小さなご褒美のように心地良い風が出迎えてくれて、僕はそれを享受する。
「怒ってますよね」
貯水タンクの網越しに女子の声が聞こえた。
先客がいたとは思いもしなかったのでその声に驚き、誰かが来たと気づかれないうちに退散しようと静かに踵を返しかけた。
「別に怒ってねぇし」
男子の声に聞き覚えがあり、反射的に足を止めてしまった。
「マユ先輩を使って呼び出したこと、ごめんなさい。そうでもしないと、先輩は来てくれないでしょう?」
「こんな所に呼び出さなくても、用があるなら道場にいる時に言ってくれればよかったのに」
「…道場で、他の人もいる所で、言っても良かったんですか? 薄々感づいてるくせに意地悪言うんですね。そうされて困るのは浜島先輩の方じゃないですか? だって浜島先輩、ずっとマユ先輩のこと好きですよね?」
泣きそうな感情を封じ込めるように強い口調で女の子が詰る。
「そんなんじゃねぇから」
浜島、そりゃあないって。
顔を見なくても声だけで渾身の勇気を振り絞ってるのが分かるくらいなんだ。真摯に向き合ってあげるのが先輩というものじゃないのか?
女の子は剣道部の後輩なのだろう。浜島のことが好きで想いを伝えようとして、平岡さんに頼んでここに浜島を呼び出したという状況のようだ。
彼女にとっては、これ以上ない大事な局面のはず。傍聴者がいて良いはずがない。できるだけそっと足を進め、音を立てないようにドアノブに手をかけた。
「それでも好きって、おかしなことですか?」
退室しかけた時に彼女の放った言葉の衝撃に息が止まった。
「好きな人がいるのに私の想いを汲んで下さいとは言いません。でも意識して欲しかったんです。私が浜島先輩を好きだと思ってること。浜島先輩をそういう風に見てるって、浜島先輩に知っていて欲しかったんです」
潔ささえ感じるくらい、彼女の告白は清々しかった。
その後、二人の間でどんな会話がなされたのか、浜島がどんな反応を示したのかは分からない。ただ、僕が一階の渡り廊下に差し掛かった時に、後ろからパタパタと疾走する足音が聞こえて、2年生の校章をつけた女の子が長めの髪を振り乱しながら中庭を突っ切って行くのを見た。
その女の子は手の甲で頬のあたりを拭っていたので泣いていたのかもしれないが、その横顔は不思議と悲しそうにも嬉しそうにも見えなかった。
想いを伝えること自体が彼女の望みだったのかな。自分の好きな人が別の人を好きだと分かっていても、想いを伝えたいものなんだろうか?
彼女は言っていた。自分が浜島のことを好きだと思っていることを知って欲しかった、と。それはどういう意味なんだろうか。
例えば浜島が彼女の想いを知って、その想いに応えられないことを申し訳なく思ってよそよそしい態度になってしまっても後悔はないと言えるのだろうか。
僕なら無理だ。僕が平岡さんのことを好きだと平岡さんが知れば、きっと困惑するに違いない。
優しい彼女のことだ、“私なんかを好きになってくれてありがとう”なんて社交辞令を言うだろう。だけど頭の中にはガクちゃんがよぎるだろうし、僕との接し方も悩むに違いない。それならばいっそ、僕の気持ちも僕のことも全部忘れて欲しい。
彼女を困惑させるくらいなら、彼女の記憶に残らなくていい。
なのに何故、あの女の子の言葉が頭の中をグルグル回るんだ?
“それでも好きって、おかしなことですか?”
僕は一体どうしたいっていうんだ?




