28 強く美しい人
小雨がぱらつく土曜日の放課後、風で吹き込まれた雨に濡れたサドルを見て、僕は自転車で登校してきたことに後悔していた。
朝の天気予報でも午後からの降水確率は80%だと言っていたし、少し考えれば充分に避けられる事態だった。だけど、午後からと言ったからってお昼過ぎてすぐに降り出すわけじゃないだろうと甘く見ていたのがいけなかった。
雨足が弱いうちに家に帰ろうと、サドルに散らばった小さな水玉たちを拭いハンドルに手を掛けた。
「おうおう、ちょい待ち」
いつの間に背後にいたのか知らないが、富樫が慌てて駐輪場の屋根下に駆け込んで来て、僕の自転車の前籠に自分の鞄を放り込んだ。
東高は最寄りの駅からかなり歩く。駅まで送ってということなのだろうか。
「あ、俺が前に乗るわ。畠中ちゃん後ろな」
二人乗りは交通違反だ。ここ大事だから。
しかし何がなんだか分からないまま富樫の勢いに圧倒され、気付けば富樫が運転する自転車の後ろに乗っていた。
「ねえ、どこに向かってるの?」
向かい風で流されて、声を張らないと富樫に聞こえない。
「あ? 東雲総合体育館だよ」
東雲総合体育館?
「今からなら第三試合くらいには間に合うからな。まぁ、おそらく残ってるだろ」
富樫が告げた行き先は、東高から自転車で北西に十五分ほどの総合体育館。
今日は高校剣道女子の部の県大会で、会場が東雲総合体育館なのだろう。
ということは、富樫は平岡さんや永田さんたちの試合を観に行こうとしているということだ。あんなに平岡さんと他人同士のような振る舞いをしていたのに、急にどうしたのだろう。
三年になって、友達として再スタートしたのだろうか。とにかく状況が呑み込めない。分かるのは、僕が平岡さんたちのいる場に連れて行かれようとしているということだ。
何故こうも巻き込まれるんだ。一人で行けばいいじゃないか。剣道部員なんだから。
小雨にじっとりと濡れて重くなった制服が肌に貼り付いて気持ちが悪い。
自転車で十五分の距離を富樫は十分かからず疾走した。途中、先生や警察の人に見つからなくて本当に良かった。
帰りはこんな危険は冒したくない。
建物の外にも歓声や打ち合う音が聞こえてきた。
屋内に入ると、富樫は目についた違う高校の生徒に何試合目かなどと簡単に状況を訊いていた。
富樫に促されて、ひんやりする通路の突き当たりにある階段を上り二階のバルコニー席の端から会場内を一望した。
ぐるりと見回すと僕たちの位置からは遠い、一番奥の左側に白袴の女子たちの姿があった。
「あれ東高だ」
富樫が指差し、バルコニー席の下段へ降りずに東高女子チームが見やすい位置まで移動して他校の生徒たちの後ろに座った。
「男子の部は明日だから、柳瀬も浜島も今日は多分は稽古してる。ついでに言うとアイツのファンクラブどももな」
“アイツのファンクラブども”とは、剣道部の後輩男子たちのことだろう。彼らは今日ここに足を運ぶ可能性が低いと富樫は言っているのだ。
大会の開催は毎回違う体育館や武道場で、今回会場になったのが東高からほど近い東雲総合体育館なのだ。そして女子の部の日程が土曜日に当たり、引退の年である3年の最後の大会を観ることができるということらしい。
「畠中ちゃん、目悪かったっけ?」
どうやら、富樫は観に来たことを気づかれたくはないようだ。それなら僕も少し都合が良い。
「両目1.5だけど」
距離はあるけど、平岡さんの顔までバッチリ見えている。
白袴姿の彼女は、やっぱり美しい。
富樫が横目で僕の顔を見てニヤニヤ笑う。
「今どき小学生でも両目1.5は稀少だろ」
富樫が笑った理由が僕の視力のことじゃないような気がしたけど、思い過ごしだったようだ。
入り口付近で知らない学校の生徒から訊いた話しによれば、これから準決勝が始まるところで、白袴の高校──つまり東高は勝ち残っているという。
騒めきと静寂が交互にやってきて、審判の人が動き出すと再び静寂が訪れる。
前に座っている女の子たちの防具入れにオレンジ色の刺繍糸で須賀浜高と書かれてあり、その横にそれぞれの姓が入っていた。
「東雲東は副将の人が部長なんでしょ?」
「私、名前覚えたよ。平岡さん」
「先輩なのに失礼だけど、可愛いよね」
「東雲東は大将の人もかっこいい」
「永田さんだっけ?」
「いいなぁ、東雲東。私もあの人たちの後輩になりたかったなぁ」
「学区、遠いもんね。こっちに友達もいないし」
「あー、せめて一度くらい対戦当たったりして話せる間柄になりたかったなぁ」
彼女たちの会話を聞きながら富樫は僕に耳打ちした。
「なんなら紹介してあげましょうか? なんて言ってやりたいもんだよな」
タチの悪さは健在だ。少し窘めたい気分にもなったけど、富樫は富樫らしくて、なんとなくホッとした。
会場内の空気が変わり、いよいよ試合が始まることが雰囲気で分かる。
「畠中ちゃん、剣道の経験は?」
「中3の体育でほんのちょっとだけ」
「じゃあ見たことは? 柳瀬とか。あ、永田姐さんと同じ中学だっけ。姐さん強かったろ。一度くらい見た?」
「ううん、観るのは初めて」
「そっか」
富樫はまたニヤニヤと含み笑いをする。
それが気になって富樫を見ると、彼は白々しくも慌てて口元を引き締める。目が泳いでることを指摘した方が良いのだろうか。
「おっ、始まった始まった」
誤魔化すように顔をニヤつかせながら、富樫は前方に視線を移した。
面で顔が見えないけど、垂れには「斉藤」と書かれている。昨年のクラスメイトの斉藤さんだ。俄然、頑張れという気持ちに力がこもる。
準決勝ともなると相手チームも強敵のようで、先鋒の斉藤さんは相手の先鋒の人に弾き飛ばされるように胴を決められてあっという間に敗退した。
「斉藤さん普段はもっと自分のペースに持ち込めるんだけどな。完全に呑まれてたな」
富樫が真面目な寸評を入れた。
次鋒も中堅も食い下がったものの惜しいところで敗退し、相手チームの先鋒を倒せないまま東高は副将の平岡さんの登場となった。
手拭いの中にきっちりと髪をしまい込み、面を被り、小手を留める。その一つ一つの動作がとても綺麗に見える。息を呑むほどに。ひいき目でなくても。
「アイツの所作って綺麗だろ」
まるで僕の考えていることを見透かしたかのように富樫が小声で言う。
驚いた僕に表情で「前の女の子たちの話を聞いてみろ」と語りかける。
「東雲東の平岡さん、やっぱ綺麗ねー」
「絵になるわぁ」
彼女たちも溜め息を漏らす。
平岡さんの試合は、とても美しくとても格好良かった。
僕は剣道のことはよく分からないが、女子の剣道の発声って「ギャー!」という奇声に近い雄叫びのイメージがあり、実際会場内の他の試合で聞こえてきた声もイメージ通りだった。
けれど平岡さんの発声は、声割れも濁りもない澄んだものだったのにも驚いた。
彼女の動きは素早くて、相手の力量を推し測るように軽く鍔迫り合いを交わしたと思ったら、瞬く間に胴と小手を奪った。
審判の判定旗が上がるのと同時にドッと歓声が起こる。
僕たちの前に座っている須賀浜高校の女の子たちだけでなく、会場内のあちこちで平岡さんの試合は観戦されていたのだ。
「ああ〜、格好良い!」
「前の顧問が東雲東の副将は鶴の舞いのようだって言ってたよね」
当然、須賀浜高校の女の子たちも興奮していた。
「どう? アイツ格好良いだろ。俺みたいに卑怯な手を使わないしな。アイツの剣道の格好良さは、まだまだ序の口だけどな」
富樫の言った通りだった。
先鋒で苦戦していたのが嘘みたいに、電光石火の如く平岡さんが相手チームの大将まで倒してしまった。
相手チームの大将は大柄で、試合開始すぐは体格差で優勢したが、平岡さんの軽い身のこなしに翻弄されて呆気なく一本負けをした。
綺麗に一本が決まった瞬間、会場内が割れんばかりの拍手と歓声に包まれ、前の女の子たちも立ち上がった。
僕も身体中が痺れそうなくらい鳥肌が立ち、彼女の神々しいほどの美しさに動くことも出来なかった。
浜島や柳瀬から彼女が上手くて綺麗だとは聞いていたが、こんなに強く美しいとは思いもしなかった。
「剣道部の後輩たちはアイツのルックスだけじゃなくて、ああいう剣道に対する姿勢とか格好良さに心酔してるんだよ」
あの丸顔ベビーフェイスの彼女が。あの感情が顔にダダ漏れで、ちょっとうっかり者の彼女が。こんなにも強く凛々しく格好良いなんて。
蹲踞をして一礼を済ませた平岡さんが面を外す。
以前、柳瀬が好きだと言っていた仕草だ。
湯気が上がりそうなくらい上気した肌、こめかみに貼りつく濡れ髪、伏せられた瞳、少し笑んだ口元…。
彼女の全てが美しかった。
彼女のことを忘れようと誓った理性なんか、大気圏を超えて吹き飛んで行ってしまいそうなくらい…、吹き飛んで粉々に砕け散ってしまいそうなくらい、身体中の血が「彼女が好きだ」と暴れ出す。会場内の歓声のように大きく騒がしく、彼女が好きだと僕の本能が沸騰した。
「じゃあ俺、帰るわ」
立ち上がって膝を伸ばした富樫があくびをして背中を向ける。
「え? だって、富樫」
片手をズボンのポケットに入れてもう一方の手を振り、富樫は僕の制止も聞かず歩き出す。僕も席を立って富樫を追いかける。
富樫は大袈裟にガッカリした顔を作ると「観ていけばいいのに」とおどけた。
「富樫が観ないなら僕もいいよ」
実際、僕は部外者だし。
二人で階段を降り、雑踏の中を掻き分けて出口へと進む。富樫はその間、一言も喋らない。
平岡さんのこと、まだ好きなのかな。それともまた、彼女の光に自分の影を感じてしまったのだろうか。
「心配しなくていいから」
出口で立ち止まった富樫が唐突に口を開いた。
空はすっかり明るくなっていて、雨は上がっていた。
足元のアスファルトはたっぷりと濡れていて、会場内にいる間に雨足が強くなっていたようだった。
「別にアイツに未練があって観に来たわけでもねぇし、格好良いアイツ観て自虐に浸りたかったわけでもねぇから」
ならば、どうしてわざわざ駅と逆方向の体育館に来たのだろう。強引に僕を捕まえてまで。
本当は観たかったに違いない。彼女の高校最後の試合を。
一人じゃ見つかった時にバツが悪かっただろうし、たまたま自転車という便利アイテム付きの友を見つけて、渡りに船だったのだろう。まったく素直じゃない男だ。
東雲総合体育館前のバス停に停まっていた東雲駅行きのバスが発車の音を鳴らす。
富樫は簡単な挨拶だけを押し付けて、バスに乗り込んでしまった。
走り出すバスの窓から、体育館の中で見せたようなニヤニヤとした笑みで富樫は残された僕に手を振っていた。




