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02 名前と台詞がついた脇役

 秋も終わりに近づき、ついこの間まで黄色い葉で覆われていた枝を露わにした銀杏の幹が、高くなった空をより高く突き上げている。

 寒さが苦手な僕にとって、冷たく長い季節の到来を肌身に感じるこの時期は憂鬱以外の何物でもない。空模様とは裏腹にゆっくりと…そして低く、グレーの靄が喉の奥に流れ込んでくる。


 キャメル色のダッフルコートを着てクリーム色のマフラーを幾重にも巻き自転車に乗っての通学。それでも風に晒される部分は寒い。自転車に乗る時は手袋はしないので当然指先も寒さを受ける。耳よりも頬よりも、指先が冷えるのが一番つらい。

 いつものように体育館の裏手にある駐輪場に自転車を止める。始業時間には三十分以上早い。登校して来る生徒も殆どなく、第一体育館からはバスケ部の朝練だろう、ドリブルの音とシューズが床を摩擦する高い音が聞こえる。

 自転車の鍵を外していると、銀杏の落ち葉を踏む滑るような乾いた音と自転車のブレーキの鈍い音がした。


「おはよう。すっかり冬支度だね」

 僕が振り向く動作に重ねるように、小さく息を弾ませた優しい響きの声──

 肩にかかる長さのこげ茶色の艶やかな髪。丸めな卵型の輪郭。控えめな二重まぶたで少し垂れ目の丸い大きな瞳。真っ直ぐ気味な眉。化粧なんかしていない陶磁器みたいに白い肌に桜色の薄い唇。

 なるほど、かなりの二次元感。冬の澄んだ空気から降りて来た精霊みたい。

 冷たい風の中どれだけ自転車を飛ばしてきたのだろう、上気した薄紅色の頬。潤んだ瞳。頬の色よりやや赤みが差した指先で、自転車で風に煽られて乱れた髪を二〜三度指で梳くように撫でつけていた。


 高校に入学して八ヶ月近く、女子に「おはよう」なんて言われたことはなかったし、言ったこともない。だからその声は自分に向けられたものだなんて思いもしなかった。

 高校で僕に「おはよう」と声を掛けてくれた初めての女子は──、平岡さんだった。

 僕は固まったように何も言えないでいた。

 彼女は、その瞳にほんの少しに困惑の色を宿し僕を覗き込むと「三組の畠中くんだよね? 浜島くんの隣の席の…」と訊いた。

 彼女が僕の姓を知っていてくれた。

 もしかしてあの日のことも覚えてくれているだろうか? そんな儚い期待が一瞬頭の中をよぎった。


「そうだよね? あー、良かった。人間違いしちゃったかと思った。浜島くんの隣の!」

 彼女にとっては、どこまでいっても “浜島くんの隣の” なのだ。期待した自分が恥ずかしい。というか、東高に入って初めて挨拶の声をかけてくれた女の子に感謝より落胆なんて地味男の分際で贅沢すぎる。これは末代までバチが当たる。まあ、こんな冴えない地味男が伴侶を得られるとも思えないので必然的に僕自身が末代ということになりそうだけど。


「…ああ、うん」

 焦りと緊張で、発したはずの声は呑み込まれてしまった。首を縦に振れば良いのか横に振れば良いのか分からなかったし、地に足が着いているのか俯いて確認したいほどくらくらして喉が渇いた。寒くて仕方なかったはずなのに暑い、いや熱い。どういうわけか特に顔が。

 間違ってないと安堵したのか、彼女も息を飲み込むように小さく頷いて、もう一度「おはよう」と笑んだ。

 この笑みを前にして、覚えていてもらえなかったなんてどうでもいい。今はこうして名前を覚えてくれているじゃないか。浜島や富樫のエキストラなのに。そして彼女の口から出た「おはよう」は、今僕に向けられている。浜島や柳瀬はいない。これ僕になんだ。お裾分けじゃないんだよね? ……そもそも富樫の彼女なんだけど。

「おはよう」

 朝も母さんや兄さんに言ってきた言葉なのに声は裏返るわ掠れるわ。情けないことに、絞り出すみたいにしか声が出なかった。


 パステルブルーのトートバッグを体の前で抱えて歩く平岡さんが話し出す。

「畠中くん、いつもこんなに早いの?」

「だいたい…これくらい、です」

「そうなんだ」

 彼女が笑う。

「お家、学校から近いの?」

「自転車で五分かからない、と思う」

「もしかして東雲三中?」

「あ、うん」

「じゃあ理恵ちゃん…、永田さんと同じ中学だね。そっかー」

「えっと、…その、…遠いの?」

 質問なんかしてしまった。女子との会話初心者のくせに、いきなり質問なんて難易度高過ぎるだろう。とにかく、してしまったものは仕方ない。けど、いくら二人しかいないとはいえ、主語を明確にしない質問は宜しくない。失礼だろうとドキドキしつつも恥ずかしくて名前で呼べない。一度も話したことないのに名前を知ってるなんて気持ち悪い、って思われないかと気にしてしまう気弱さも情けない。彼女が僕の名前を知っていてくれたことは僕にとっては嬉しいことだけど、逆も同じだなんて到底思えない。

「私は新桜ノ宮中だから普段は電車なの」

 彼女の住む新桜ノ宮の地区は隣の市で、東高までは電車で三駅ほど。距離にしたら十四〜五kmはあるはずだ。

「いつもはもっと遅いんだけど、来週から期末テストでしょ? 部活もないし運動不足になるから自転車で学校に来てみたの」

「あ…、ああ、それで」

「うん。どれくらい時間かかるのか分からなくて、とりあえず早く出たら早く着き過ちゃった」

 顔を下げて鼻先をトートバッグに押し当てた彼女は、恥ずかしそうに笑った。

 笑うと頬の真ん中より少し口元に近い位置に笑窪ができて、一層輪郭が丸くなり幼い印象になる。童顔のせいもあり、小柄なイメージだったけど、こうして近い距離で並んて歩いてみると、どうにか170cmギリギリの身長の僕と視線の高さが大きくは変わらない。その差10cm以内といったところだろうか。160cm以上ありそうだ。

 揺れた艶やかな髪や少し伏せられた長い睫毛に見惚れていた。彼女がこちらを向かないよう願いながら横顔をそっと盗み見ていた。やっぱり可愛い。


 駐輪場から校舎までがこんなに長いと感じたのは後にも先にもこの時だけだったと思う。

 時刻も早く、校舎に向かって歩く制服姿は昇降口のガラス戸を曲がって行った見知らぬ女子生徒の他は、僕たちくらいだった。みんな結構ギリギリに滑り込むんだなぁ…なんて、ふとそんなことも考えてみたりした。思考に余裕なんかないはずなのに、何故かそういうことを考えたりするもんなんだな。


「一限目、物理なの。嫌だなぁ。3組は?」

「現国、です。えっと、あの、物理、嫌いなの?」

「うん、苦手。理数は全般的にね。畠中くんは得意?」

「文系よりは、っていう程度」

「そっか、いいな」

「なんで?」

「なんとなく。憧れるの、理系脳って」

 無邪気にそんなことを言う彼女を見つめていたら、慌てたように「可笑しい?」と訊かれた。

 そんなことないと訂正したけど、うまく伝えることが出来ないまま、教室の前に着いた。

「じゃあね」と軽い会釈をして彼女は2組の教室に入って行った。

 可笑しかったわけじゃないんだ。可愛かったんだ。言えるわけないけど。


 がらんとした教室に入り自分の席に座ると、緊張からの疲労感と余韻の充足感が複雑に入り混じり、感じたことのない気分になった。

 いつもなら静かな教室で本を読んで予鈴までを過ごすのに、本を開いてもちっとも内容が頭に入って来なかった。文字をいくら目で追っても、文字は頭の中で何の音にも変換されず、模様のように並んでいるだけに見えた。

 十分後くらいには柳瀬が登校してきて軽い挨拶を交わした。

 真面目な柳瀬は登校が早い。本人は混雑した電車が苦手だからと言うが、学校まで自転車で五〜六分の僕より早く来ていることもある。

 静かな柳瀬は必要以上に声を掛けて来ない。男同士、その距離感も心地良い。

 彼女と駐輪場で出合ったことを話そうかと思ったが、彼女を何と呼んで良いのか分からなくて、結局やめた。

 少し猫背の柳瀬の後ろ姿を眺め、僕の頭の中に響いていたのは「畠中くん」と言った平岡さんの声だった。


 何なんだろう、この気持ち。フワフワと浮ついた落ち着きのないこの気持ち。

 姿を見れば意識してしまうくらいだから、この気持ちが好意なんだというくらいは、自覚している。

 今、僕の心の中に小さな箱があって、その箱の中には一枚の紙が入っている。宝の地図なんじゃなく、ただ正解が書いてあるだけの紙きれ。僕はその紙にどんな単語が書かれているか、たぶん知っている。

 彼女を見た時、思った時に湧き上がる好意の正体。好意の種類を的確に表現した単語。

 確かめるまでもないと分かりながら、正解を確認したい気持ちと知らないままでいたい気持ちがせめぎ合う。

 知ってしまったら、きっと後には戻れない。抗いようのない感情に翻弄され、あっという間に呑み込まれてこれまでの僕の全部が、僕の内側にあるものに支配されてしまいそうだから。

 気持ちの正体は想像がついても、自分で制御できない自分が想像つかなくて、僕はそれを恐れていた。




 あの日───少し早い春一番が吹いた雨上がりの日。

 普段なら女子の視界に入らない自信がある地味男な僕だが、少し前に足を怪我して松葉杖だったせいで、悪目立ちしてしまうというかつて経験したことのない肩身の狭さを味わっていた。

 前を歩いている女子たちだって笑ってるよ、そう思って溜め息をついた直後にその中の一人が不意に振り返った。その女の子の視線は間違いなく僕を捕らえた。確かに笑ってはいたが、その女の子の優しい視線に嘲笑の色はなかった。

 あの時の女の子は平岡さんだった。

 浜島たちと話す彼女を目に止めるようになってそう気づいた。

 可愛い子だなと思った。あの時松葉杖の男がいたことを覚えているかと訊いてみたかった。だけど覚えていたらそれがどうなんだという話しだし、女子と会話するすべなど持ち合わせていなかった。

 そして彼女が富樫の恋人だと知り、ますますどう切り出して良いか分からなくなった。

 だって「以前お会いしてますよね?」とか「僕のこと覚えてますか?」なんて時代遅れのナンパ文句みたいじゃないか。

 そんな煮え切らない気後ればかりで、話したのも今日が初めてで、それまで何も変わらない同じ毎日で───何故気持ちだけが変わってきていたんだろう。大きく膨らんでいたんだろう。

 異性に免疫も接点もなく、「そんな人いたっけ?」なんて言われてしまう僕みたいな人間は、たった一度でも気さくに話しかけられたり笑顔と目が合っただけで、あらぬ思い込みをエスカレートさせて意識してしまうんだ、と言われるかもしれない。


 引力だよ、平岡さん。

 あなたの苦手な物理で、僕は苦手じゃないはずなんだけどさ。着地点も見えないし、何処に行き着くのか想像もつかない。僕の気持ちが吸い寄せられているのか、それとも僕自身が吸い寄せられているのか分からない。なのに抗えそうもないんだ。何だか、そんな気がしてならないのは気のせいだろうか。

 とりあえず気のせいということにしておこう。

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