26 ステイルメイト
肌寒い空気に青い匂いが混じり始める季節が回ってきた。
三度目の桜を仰ぎながら、僕は高校生活の最高学年の年を迎える。
一昨日の雨ですっかり葉桜になっていたものの、春休み中で生徒が少なかったせいもあり校内のあちこちに踏まれていないままの薄桃色の絨毯が残っていた。
冬休み中は写真の中で微笑む彼女を幾度となく眺めたのに、この春休み中にはほとんど見なかった。
時々うっかり心構えなしに机の引き出しを開けてしまい、写真の中の彼女と目が合っては胸が締め付けられた。
それで結局、読まなくなった数独の本に挟んで本ごと本棚の隅に追いやってしまった。それで大丈夫なはずだった。
見えない所に写真を追いやって心の安息は保たれるはずなのに、今度は頭の中に彼女の笑顔が貼り付いてくる。
気がつけば溜め息ばかり。
恋だなんて自認するんじゃなかった。無理矢理にでも自分の気持ちから目を逸らし続ければ良かった。
次に会ったらどんな顔しよう。
もうクラスメイトじゃないんだ。
いきなりガクちゃんとどうなったか訊くのも不躾だ。
もし彼女が報告してきたら?
それこそ幸せそうにはにかみながら。
その時僕は何と言う?
そこはやっぱり「おめでとう」なのかな。
いや、結婚じゃないんだから「おめでとう」は仰々しいだろう。いやいや、「おめでとう」でいいんじゃないか。
言うのはともかく、どんな顔するんだ?
もう避けるような態度を取って彼女と向き合うことから逃げないと決めたのは僕自身じゃないか。
そうだ、笑って祝福しないと。笑って、……笑って。
愚にもつかないことばかりが悶々と頭を巡る。
他に考えることはないのかと自問したくなるくらい、思春期の男はバカだ。
考えるべきことなら山ほどあることくらい分かっている。受験生なのだから。だから情けないのだ。
晴れない気分のまま、増え始めた人の流れに沿ってクラス替え表を確認に向かう。
3年の教室は一階のため、最後の一年は登下校に階段の上り下りが要らなくなる。
昇降口からの渡り廊下を曲がってすぐの2組の教室の壁に貼られたクラス名簿をチラ見したが、赤い文字で書かれた女子の名前が多かったので、そのまま1組の教室の前まで歩いた。
黒い字で書かれた名前が圧倒的に多い。理数クラスだろう。探すと僕の名前があり、尾崎やガクちゃんやまいちゃんの名前もあった。平岡さんと同じ中学出身の杉野や、修学旅行で彼女たちと班行動していた久住くんや谷口くんの名前もあった。
2年の時に物理を選択していた2組と6組の男子が多いようだ。3月に年にもなって、履修の必要がない人や苦手な人がわざわざ入るクラスではないのだろう。
女子の名前は、サラッと見流しただけだけど知っている名前はなさそうだった。
第一、知っている女子の存在自体が少ない。
最初のクラスで自分の名前が見つかった以上、ウロウロと他のクラスの名簿を見て歩く必要もない。
僕は廊下の喧騒を背にして1組の教室の中に入った。
教室の中は廊下とは対照的に静かだった。
とりあえず窓際の一番後ろの席を仮住まいにさせてもらうことにして腰を下ろす。少し経てば、ガクちゃんやまいちゃんも登校してきてこの教室に入ってくるだろう。彼らは予鈴ギリギリに登校してくるタイプではない。
ガクちゃんに───久しぶりに会ってどんな顔しよう。
平岡さんにどんな顔しようかと考えるばかりで、ガクちゃんと会う時のことを考えていなかった。同じクラスになることは、ほぼ予想できていたのに。
あんなに時間はあったのに、まさに無意味な使い方をしただけだった。
思春期が僕をバカにさせてるのか、それとも僕がデフォルトでこんなもんなのか。いずれにしても、心の準備ができているのとそうでないのとでは状況がだいぶ変わってくる。そんなに器用ではないのだから。
今から間に合うか分からないけど、自然に、ごく自然に、おはようと言う準備だ。
……やっぱり付け焼きなんて都合のいいことを考えると、裏目に出るもんだ。
まいちゃんが教室に入ってきた。入るなり僕を見つけて近付いてくる。
ああもう、どうにでもなれ。
ヤケクソの気持ちのまま、まいちゃんに挨拶を返すと「どうしたの? 変な顔して」と怪しまれる始末。
ははは、いい調子。このままガクちゃんにも同じことを言われればいい。
今日の僕が変なんだとオチを付けてよ。
チラホラと入ってくる男子の何人かとまいちゃんが会話を始めた。2年6組で一緒だったのだろう。
僕は、彼らの横で会話を耳に流しながら窓の外に目をやった。
永田さんと歩く平岡さんを見つけて息を詰める。
こちらに気づきそうもなくてホッとするも束の間、後ろからガクちゃんが近付き平岡さんの肩を叩いた。
いきなり後ろから肩を叩かれて驚く平岡さんの顔は、相変わらず“顔芸”健在の見事な表情だった。
そのリアクションを見て、ガクちゃんと永田さんがどっと笑う。
顔を赤らめながら、恨めしそうにふくれっ面をする彼女に二人が一層笑う。彼女はそれを見て諦めたかのように照れ臭そうな表情をガクちゃんに向ける…。
気持ちは切ないのに、状況の全てを表情の一つ一つで物語る彼女に頬が緩む。
ホント、なんて可愛い人なんだろう。
最後の照れた微笑み。あんな顔で見つめられるガクちゃんは幸せ者だ。
あんな顔にさせられてる彼女もきっと幸せなんだ。
ごちそうさま、ってこういう時に使う言葉なんだなぁ。そう体現させられる瞬間だった。
それでようやく春休みの間、悶々と頭の中を回り続けた愚問が喉を通ってストンと落ちた。諦めがつくというのはこういうことなんだ、と。
程なくしてガクちゃんが教室に入ってきた。
尾崎や杉野も入ってきて「メンツに変わり映えしないな」と笑い合った。
まいちゃんやその近くにいた人たちとも話してみると、やはり彼らは2年6組の面々だった。
女子同士は確執があったけど、男子同士はまったくと言っていいくらい、そんなものはなかった。
少し接してみれば、僕やまいちゃんと変わりない理数系にいがちな内向的気味でインドアな雰囲気の男子たちだった。6組の女性陣の印象が恐烈、もとい強烈だっただけに、ちょっと気遅れしていたが、取り越し苦労だったようだ。
このクラスなら仲良くやっていけそうだ。仲良くっていうのは語弊があるな。僕の方から社交的に行かない限り、たぶん友達と呼べるのはガクちゃんとまいちゃんだけのまま終わりそうだから。
「そうそう、神崎 絵菜がいるな。名簿見たか?」
尾崎の言葉に杉野が何度も頷く。
僕だって名前くらいは聞いたことがある。1年の頃、クラスの男子たちの間で話題になっていた名前だ。女クラにとんでもなく可愛い子がいて、その人の名前が神崎絵菜ということ。
文化祭のMiss東高で二位以下に大差をつけて二年連続優勝しているこの学校では知らない人がいないくらいの有名人だ。東京のモデル事務所にスカウトされてレッスンに通っているとか誰か言ってたっけ。
阪井たちが騒ぐのですれ違った時に何度か見たことがあるけど、女子の可愛さが県下一と噂される東高にあって芸能人じゃないかと思うくらいの可憐さと輝きを放っていた。
噂をすれば何とやらで、神崎さんが教室に入ってきた。
毛先が綺麗にカールされた胸の位置くらいまである艶やかな髪、丈を短くしたスカートから惜しげもなく晒け出された細い脚、濡れるような長い睫毛に潤んだ唇。
女子とは正反対で垢抜けないと評判の東高男子の中でも選りすぐりな理数系男子たちの巣窟の中に、場違いな異彩を放ちまくる。こんな子が本当に実在するとは。掃き溜めに鶴とはまさにこのこと。
「小池あたりが好きそうだよな」
尾崎は皮肉っぽく笑い、それきり神崎さんの話しは終わった。
実際、2年2組にいた男子の大半は神崎さんにあまり興味がなかった。彼らのアイドルは平岡さんだったせいかもしれないが、神崎さんの完璧すぎる美貌に近寄り難さを感じるという意見もあった。
田舎者が東京のど真ん中では萎縮するけど地方都市なら大丈夫というのと似ている感覚かもしれない。
もちろん平岡ならハードルが低いという意味ではない。平岡さんの丸い輪郭や丸い目、化粧もネイルもしていなくて制服も規定通りの飾らない素のままなところ、くるくる変わる表情に癒されたり親しみを感じる男子は多い。
僕たちはモテないだけであって、ちゃっかり選り好みしているのだ。
そんなわけで、壁のクラス名簿を見流した時には神崎さんの存在を気にも留めなかった。
そしてもう一つ、気がつかなかったのだけど、座席の大半が埋まる頃には剣道部の久保さんの姿もあった。
たった五人しかいない女子の名前の中から知っているはずの久保さんの名前を見落とすって、僕はどれだけ注意力が足りないんだ。
知っていると言っても話したこともないし、話す予定もないわけなんだけど。岩崎さんたちみたいに僕のことは認識してないだろうし。
担任は1年の時の紺野先生だった。
新入生に声をかけるように弾んだ調子で名簿通りの席順に座り変えるよう指示する。入学したての頃のデジャブのような光景。でもそこに富樫や浜島や柳瀬の姿はない。
「そうそう、畠中ちゃん、平岡さん7組だってよ」
椅子から立ち上がり際に僕の方を振り向いたガクちゃんが言う。
「7組っていったら端と端じゃん。っていうか7組って何系クラス?」
ガクちゃんの隣りにいた尾崎が話しに食いつく。
「さあ」
ガクちゃんは肩を竦めて、分からないというポーズを取って笑った。
そのまま彼らは、小池が何組になっただとか栗原さんが隣りのクラスだとか話しながら各々の席について行った。
平岡さん7組なのか。離れちゃったな。
売店は二階の渡り廊下だし昇降口は2組の前だし、7組の前ってあんまり行く機会ないよな。
進路資料室や図書室に行けば会えるかもしれないけど、そんな風に友達の彼女に対して下心を抱くのはいけない。
また間男と言われかねないし、ガクちゃんにとっても気分のいいものではないはず。
彼女の顔が見たいだなんて思うことさえ、ガクちゃんに対する裏切りに等しい。彼氏の友達として笑顔のお裾分けをもらっても、心の中でそれ以上の感情を抱いていたら、それは立派な裏切りだよな。
応援してる顔して、祝福してる顔して、僕はとんだ偽善者だ。
僕はずっと、いてもいなくても同じ空気のような存在だったはずだ。なのに、ここへ来て非常に中途半端な存在になってしまっている。
いてもいなくても良かったが、今はいないほうが良い存在なのかもしれない。
きっといないほうがいい。
だけど、学校という箱庭からまだ今は去ることができない。
平岡さんがガクちゃんの彼女になったのなら、そうそう片想いを続けるのも難しくなった。
たとえ心の中でひっそりと想っていることに変わりなくても、ガクちゃんを応援し平岡さんの幸せを願う立場としては本音と建て前が違うことになる。
片想いは廃業しなきゃ。どのみち、向かうあてのない想いだったのだから。
だからこれまでよりももっと、ずっとずっと深くに彼女への想いを押し込めよう。本に挟んで追いやった写真のように。
しばらくは押し込めていることが、彼女の存在と結びついて彼女への想いと錯覚するかもしれない。だけど習慣になれば、そこから風化へと向かうはずだ。
そうしていつか、あったことすら忘れてしまおう。
好都合なことに、僕は受験生なのだ。
本来なら、不毛な想いに心を囚われている場合ではないのだ。




