24 救世主
冬休みを目前にした期末テストが終わる頃には、富樫と平岡さんが別れていたという話が学校中に拡がっていた。
相変わらず女子たちは校内のゴシップネタには無関心で、クリスマスの過ごし方について盛り上がっていたけれど、休み時間の度に見ない顔の男子に呼び出されては退室する平岡さんを同情の目で見送っていた。
かたや男子たちは次々に現れる恋敵に品定めの視線を注ぎ、固唾を呑んで平岡さんが教室に戻ってくるのを待っているという構図ができあがっていた。
関心なさそうなのはガクちゃんと柳瀬で、反対にソワソワしているのが小池と浜島だった。
「ほっといてやれよ」
ガクちゃんが小池を窘める。
「そんなこと言ったってさぁ、強引に迫られてないか心配になるだろ?」
「強引に迫れるメンタルの持ち主が東高男子にいると思うか? そんなに心配なら付いていってやれよ」
「……やだよ。第一、平岡さんにウザがられる」
「当たり前だ。だからほっといてやれって」
再三同じやり取りをしているが、小池は納得できない顔をする。呆れたガクちゃんに最後は「じゃあコイちゃんが告ればいいだろう」とトドメを刺されて収束するのだけど、この一連のやり取りを何度聞いたことか分からない。
もうこういう古典演目があるんじゃないかと思えてくるくらい。
富樫と話したことについて、ガクちゃんは訊いて来なかったし僕からも特に話してはいない。
あの日、中庭のベンチに座り昼休みの時間いっぱい話していたわけで、当然僕たちの姿は教室の窓からも確認できた。
五時限目の終わりには尾崎や浜島から、富樫と何を話していたのかと質問攻めにあった。
ただでさえ会話や説明が苦手な僕としては何をどう話して良いのか難しかった。まして、平岡さんがいる教室の中で「富樫と平岡さんが別れたって聞いた」なんて口に出して、本人に聞こえてしまったら良い気分はしないだろう。
もし彼女たちの耳に届かないとしても、別れたと富樫の口から聞いたと言えば、尾崎や浜島は細かい原因についても聞きたがるに違いない。でも第三者の口から軽々しく語られるべきではないと思った。そこには当事者にしか理解できない、それぞれの心情というものがある。とてもデリケートな類なのだ。それを当事者でもない僕が語って良いものであるはずがない。
さてと困った。富樫の家庭環境などは口外するつもりもなかったし、なにか適当に誤魔化そうにも僕は機転の利く方ではないので嘘も思い付かない。
しどろもどろしているうちに尾崎が「2組内での平岡さんの様子をあれこれ訊かれたんだろ? どうせ気になってるだろうし」と言い出したので「そんなところかな」と曖昧に便乗してしまった。
席に戻るとガクちゃんがこう言った。
「気にならないはずがないよな。でも実際、自分で確かめられる立場じゃないし、ってトコかな。心配ないように俺たちでフォローしていかないとな」
なんでこの人には分かっちゃうんだろう。天晴れな機転の利きっぷりに同性ながら惚れそうになる。
この人は東高一のお買い得物件なのに、本当に女子たちは見る目ない。いや、ガクちゃんに告ってる女子もいるみたいだし、ちゃんと見る目あるか。
◇
二学期最後の日を迎え、帰りの挨拶とともにそれぞれが散って行く。
テスト明けには3年次の選択科目の調査表と進路調査表が配られ、個別面談の際の提出となった。
僕は理数系クラスに進むことを希望し、進路希望も第一希望と第二希望のみではあるが、東京の工業系の国立大学の名前と県内の国立大学とを一校ずつ書いた。ようやく具体的な学校名や学部名を志望校欄に書けるまでに至ったのに、調べに調べた末に苦し紛れに見つけたせいもあってか、果たして本当に自分の希望なのか釈然としない気持ちだった。
まるで誰か別の人の進路希望を代筆した紙を手にしているような不思議な感覚だった。
理数系が苦手だと言っていた平岡さんとは来年は別のクラスになるのだろう。
淋しいような、それでいて本来ならそれが当たり前だったと納得している自分がいた。
夏のせいだった。
ふとそんなことを思う。
気持ちが昂ったのも、フワフワと揺れ動いたのも夏の暑さのせいで、僕自身が軟化していたんだ。
経験したことのない感情に翻弄された目まぐるしい季節は過ぎ、寒さとともに掻き乱れた心の中が徐々に沈静化されてきた。
さすがに文化祭の時のあれは熱を出してしまうくらい動揺しまくったけど、なんとか平常を持ち直した。
暑さで溶けて軟化したものは、寒さで沈静化するようだ。
冬将軍サマサマ、寒さ最高。
寒いのは嫌いだったけど、今の僕にとっては救世主以外の何物でもない。
この時期に救世主と呼ばれるキリストが誕生したというのも頷ける。いや、僕が頷いていることには一切関連性はないだろう。
すっかり葉が落ちてしまった銀杏並木の枝の間に灰色の空が塗り込められ、その下をたくさんの明るい足取りが弾けるミスマッチ。緩やかにすべてを呑み込んでしまいそうな気怠い空をもう一度見上げ、僕は寒さに身を縮めた。
「良いお年を!」
おどけた口調でそう言って、後ろから僕の肩を叩いたガクちゃんが走り抜けていく。ジャージ姿で、ガタイのいい男子たちとグラウンドに向かって。
「また来年」
ガクちゃんの後ろ姿に慌てて声をかけると、ガクちゃんは少し振り向いて笑顔で手を上げた。
武道場へ続く通路に視線を送る。いつの間にか自転車で来ない日も、この分岐で反射的に武道場の方向を見てしまう癖がついてしまった。わざわざ武道場の前を通ってまで彼女の姿を探そうとするのは恥ずかしいし、柳瀬や浜島や1年男子たちに怪しまれそうで気が引けた。
それにここのところ、平岡さんは辟易するほど告られまくりで、当分の間は男子からのラブラブ光線そのものに胸焼けするだろう。彼女の周りの女友達たちのいたわりの目を見ていれば伺える。どれほど彼女が困惑しているかということが。
ラブラブ光線に胸焼けするなんて、僕には一生縁のないことだ。
彼女に対する自分の気持ちが恋という種類のものであると自覚して以来、土日を迎えるのが淋しくなった。月曜日の朝が億劫ではなくなった。
そして今、冬休みが長すぎるとさえ僕は感じている。
これから二週間、彼女の顔を見られない。校門に辿り着く前に一目だけでも姿を見ることができないかなぁ、なんて運命を信じる乙女よろしく偶然が降って湧くのを受け身で願う相変わらずのヘタレっぷり。
これが恋愛ドラマか何かなら、あと数秒で校門を出て角を曲がるというタイミングで後ろから息を切らして僕の名前を呼ぶ彼女が現れるんだけど。世の中そんなに都合良くはない。
しかも、ここが重要。
僕はどの物語でも主役になり得ない。脇役どころか、その他の皆さんという一括りであり、個人名さえ載らない。
などと、一人あれこれとくだらないことを考えながら歩いていると本当に校門の前まで来ていた。
そして、あろうことか僕の名前を呼びながら走ってくる足音が近づいてくるではないか。なんてドラマチックなんだ。
「おう、やっと追いついた」
……ガクちゃんである。
ついさっき別れの挨拶を交わしたばかりだというのに一体何事だろう?
「さっき畠中ちゃんと別れた後に思い出して」
ガクちゃんは前屈みに両膝に手を添えて肩で息をする。その手には白い封筒が緩い弧を描いていた。
「これ、修学旅行の時の写真。畠中ちゃんメルアド持ってないだろ? だからプリントアウトして渡そうと思いながら忘れっぱなしになってて。終業式には渡そうと思って持って来たのに、持ってきたことを忘れてたという大失態」
クシャッと笑い封筒を僕に手渡すと、急いで抜けて来たからと言って、僕が何か言う前に部活へと戻って行ってしまった。
「新学期に会ったらお礼を言わなくちゃ」
プリント代も払わなくちゃ。そんなことを思いながら、特に封印がされていない封筒を開く。
紙の淵を少し摘んでずらすと全部で三枚あることが分かった。
プリント面に返して見ると、一番上にあったのはクラス行動の日に三十三間堂でガクちゃんと一緒に撮ったものだった。確か浜島にシャッター押してもらったんだっけ。
二枚目は新幹線の中で、僕は三人掛け席を相向かいにしてある所の一番奥に写っていた。柳瀬や浜島の姿もあり、座席の向こう側から小池が顔を出して一緒に写り込んでいる。撮ったのはガクちゃんのようだ。
徳山先生も写ってる。やっぱりイケメンだ。この人に弱点はないのかと思うくらい爽やかで上品な雰囲気でかっこいい。女子だらけの学校に教育実習に来る男子大学生の大半はモテるとか言うけど、東高の女子みたいに引く手数多で目の肥えた人たちでは、男子大学生なら誰でもというわけにはいかない。事実、徳山先生以外の実習生なんてエア扱いだったから。
三枚目をめくって不覚にも「あっ」と声を上げてしまった。短くても大きな声で恥ずかしすぎる独り言。
車の往来が激しい国道の道中で良かった。
そうだ、新幹線の中で撮ってもらったっけ。
平岡さんと二人で写る写真の僕は、滑稽なくらい硬い表情だった。
滑稽だと思いつつ、笑えない。
だって、彼女と二人で写ってる写真を見ただけで、撮ってもらったこの時のように緊張してしまうのだから。
はにかんだような彼女の笑顔の可愛さといったら───十秒直視したら卒倒しそう。
心臓の音が煩いくらいに騒ぐ。
冬だぞ、寒いんだぞ。融解するなってば。
フワフワと舞い降り始めた微かな雪のように、空気の中に彷徨いそうなほど覚束ない気持ちで、ただ足が記憶するまま家までの道を歩いた。
冬休みに入る前に彼女の姿を一目見て帰ることはできなかったけど、会えない時間も彼女の笑顔を眺めることができるなんて。
新学期に会ったらお礼を言わなくちゃ。
いや新学期に会うまでの間、心の中で毎日ガクちゃんにお礼を言うよ。




